第三話 水運び
青々と茂る森。その中に茶色い固まりが動いていた。
触れたらチクチクしそうな、そのライトブラウンの髪の毛の持ち主は12~13歳くらいの少年だ。
髪と同じ色の瞳は穏やかで、下がった目尻がソフトな印象に拍車をかけていた。
少年は家から30分程歩いて最寄りの街へたどり着いた。静かな森とは反対に、街は賑わってる。
人混みの中に、たくさんのリンゴが入った木箱を抱えた女が見えた。かなり重そうだ。
「おはようございます!」
「あら、おはようミットちゃん」
「その箱、僕が持ちますよ」
「そう言ってくれるかい? あれ」
返事を待たずにミットは女の両手から箱を取った。
「店まで持ってくよ!」
ミットは木箱を軽々と持ち上げ人混みの中に消えていった。
「おやおや、追いつけないね」
一部始終を見ていた男が笑っている。
「『水運び』にとって、あれくらい朝飯前なんだろう」
ミットはあっという間に木箱を女の店の前に置き、仕事場へと向かっていた。
「親方、おはようございます!」
「おう、早速頼むぞ……」
親方と呼ばれたスキンヘッドの男は今日の仕事内容を手早くミットに伝えると、すぐに自分の仕事に戻った。
ミットは山のように並んだ樽から一つを取って、来た道を戻り、街の外へと向かう。仕事を始めたばかりの時はこの樽のだけでも「重い」と感じたもだ。
街のすぐ外には小川がある、夏場はこの小川で水を調達していた。
小川の段差になっている部分は、小さな滝のようになっている。ここに樽を設置すれば、楽に水が汲めるのだ。
鳥の鳴き声と水の流れる音が心地よい。ミットはこの時間が好きだった。
この仕事を始めてから一年以上になるが、始めのうちは、今とは比べ物にならないくらい、一樽運びだす度にかなりの時間をかけていた。それから体は徐々に鍛えられ、ミットはひ弱な体つきではなくなった。少しは成長できているだろうか?今なら、あの子に話しかけられるだろうか?
貸本屋に『例のあの子』が来るようになったのは一年ほど前からだ。身なりからして、好きな本など、全て買ってもらえそうだったが、どういうわけか三日と置かずに貸本屋に現れていた。
(もし今日、見かけたら、話しかけよう!)
決して祖父に言われたからではない。ミットはそう思っている。前世の夢から覚めた時に、あの子に声をかけると決意したからだ。
(最初の一言は……う~ん、思いつかない……)
その日、ミットの頭の中はあの子のことでいっぱいだった。
「……やっぱり、じいちゃんのせいだ……!」
仕事を終えたミットは貸本屋に来た。店先には店主ののニールが両手を頭の後ろで組んで、椅子に深く座っていた。
「ニールさん、こんにちは」
「よお、ミット。 お嬢さんならまだ来てないよ」
「……」
(僕ってそんなにわかりやすいかな?)
「ツェレーガー家のお嬢様が、何でまたうちみたいなところへ来るのかね。 本なんて、屋敷にも学校にもあるだろうに」
店主はミットと同じ意見だった。やはり、この店で少女は少し浮いているのだろう。
「あぁそうだ、ミット、聞いたか?」
「何?」
「ウィルスさんとこの息子だよ、……いなくなったらしい」
「いない? 家出ってこと?」
「それがな、部屋の荷物は全部そのままだし、行き先を知っているやつが誰もいないらしいぞ」
「……そのうち戻ってくるんじゃない?」
「三日前からみたいだ。 変なことに巻き込まれてなきゃいいがな」
「……変なことって?」
「隣町で、突然人がいなくなるって噂を聞いてな。 な〜んだか、嫌な感じがする」
(……なんだろう? 神隠し?)
「最近、街でガラの悪いやつがうろつくようになったらしいし、何か事件に巻き込まれてないといいがな。 お前も気をつけろよ」
「わかった、気をつけるよ」
そういう者はどうせ酒場にやってくるのだろうとミットは思っていた。酔っぱらいには会いたくないので普段から行かない場所だ。
「今日もお代はいらないから、そこの帳面に、持って帰る本の題名を書いておいてくれ」
「いつもありがとう!」
店主はいつもミットに「お代はいい」と言ってくれていた。理由は分からないが、どうやら店主はミットの祖父に『借り』があるらしく、それでミットは特別待遇を受けているようだった。『借り』について、祖父は口を噤んでいることが、どうも気になっているのだが。
店の奥は本棚が並んでいた。貸本屋の静かな空間も、ミットの好きなものの一つだ。
(よ~し! 静かに本が読める……!)
なにしろ、前世では図書室で読書しようにも、すぐ女子に囲まれてしまい、本どころではなかった。ちょっと寂しい気もするが、これはこれで至福の時間だ。
しばらくすると、入り口の方から人の気配がした。顔を上げてその人物をみると、黒いワンピース姿の少女である。くすんだ金髪を二つに結んでいる。
(あの子だ……!)
いつも通り、従者を入り口付近で待たせ、一人で店の奥へと進んで来た。その後ろでは店主が従者と世間話をしている様だ。
ミットは少女のジェードグリーンの瞳を盗み見た。それだけで鼓動の音が大きくなり、ミットはため息をついた。
(こんなことで、まともに話せるのか? 俺は……)
少女は本棚から一冊の本を手に取った。『世界』という題名の本は、少女がここに来た時からよく読んでいる本だった。それが気になって、ミットも読み始めた。
本によると、この『世界』にはミットの知らないことがたくさんあり、どうやら、ファンタジー小説に登場しそうな『魔法』まで存在しているらしかった。ミットはこれまで『魔法』にお目にかかったことはなかったが、絶対に見てみたいものの一つになった。本を読めば読むほど、前世と今世は、全くの別世界だと感じる。
その本を手にとり、少女は机に腰かけた。この時、ミットは少女の顔立ちが、どことなく川上に似ていることに気がついた。
(よし! 話しかけるぞ!)
ミットは手の汗をぬぐって、立ち上がった。
「あの……」
少女の動きが止まった。返事はないが聞こえているようだ。
「君の、その……読んでいる本、僕も読んだよ。」
実際には半分程しか読んでいなかった。
「……」
「面白いよね……?」
「……」
ミットは(我ながら面白くないことを言ったな)と強く思った。
少女はゆっくりと顔を上げ、キリッとミットを見据えた。初めて少女と見つめ合う形になり、ミットの胸は高鳴った。
少女は本を置いて、そっと手を組む。ミットは少女に釘付けだ。少女はゆっくりと口を開くとこう告げた。
「あなたのような下賎の者が、よく私に声がかけられたものですね」
少女の両目にグッと力が込められた。
「身の程をわきまえなさい!!」
ミット達の様子をうかがっていた店主が、サっと視線を外した。