第一話 記憶
目が合うと、女は恥ずかしそうにうつ向き、首から下げている社員証がわずかに揺れた。夕陽に照らされ、その肌も髪も瞳も、何もかも輝いているように見えた。
向かいに立つ、女と同じ年頃の若い男は、スーツ姿に同じ社員証を首から下げ、緊張した面持ちだ。
(言わなきゃ……)
男は拳をぎゅっと握りしめた。
「川上さん……俺……!」
「はい……」
ガチャ!
二人は音のする方へ顔を向けた。ビルの屋上へ続いている扉が開いたのだ。扉から屋上へと現れた女は、おかっぱに切り揃えた髪を揺らしながら大股でこちらへ向かってくる、コンクリートにわずかに溜まった雨水をパンプスで弾きながら「ちょっと! 何してるの!?」と叫んだ。
(うっわ、邪魔が入ったよ~)
「あなた、横取りするつもり!?」女は素早く男の側に駆け寄る。
「私たち、付き合ってるのよ!?」
おかっぱの女が男の腕を取り、自分の物だと証明するように体を密着させると、改めて向き直り川上を睨み付けた。
「えっ?……付き合ってる? ちがうよっ……!」
男は慌てて腕を振り払った。
「……何言ってるの? 私たち、付き合っているじゃない!」
おかっぱの女は男を見上げる。
「……なんで?」
男は驚きを越えて惚けたような声を出した。
「私たち、頻繁に電話で話しているわ!」おかっぱの女は笑顔だ。
「それは! 吉田さんが電話してくるから……」
状況を理解した男の声には焦りが混じり始めた。
「電話越しに、お互い夜空を眺めながら、『私たち今、同じ月を見ているのね?』って聞いたら、あなたが『そうだね』って……」
吉田はうっとりと宙を見ている。
「それは……! 月は……一つしかないんだから、 同意するしかないじゃないか!」
男は必死に否定する。
(……何なんだコレ……)
「私たちを引き裂こうなんて……」
吉田は男の言葉を無視して再び川上に向きなおった。吉田と目が合った川上はビクリと肩をすくめた。
「とんでもない女!」
言い終わる前に素早く川上の前へ進み出た、男は吉田に向かって手を伸ばすがわずかに届かない。吉田は右手を振り上げて川上の頬をめがけて勢いよくビンタしたーーものの川上がひょいと一歩下がり当たらなかった。吉田は諦めず左手を川上に伸ばし、首から下げていた社員証を思い切り引っ張った。
「キャッ!」
川上がお辞儀をする格好になり、空を向いた後頭部の髪の毛を吉田が掴んだ。
「私たちの邪魔しないでよね!」
「いたたたっ!」
川上が頭を押さえて抵抗している。
「ちょっと、やめろって……!」
男は二人に駆け寄り、吉田の後方から腕を取ろうとした。それに気づいた吉田はさらに体重を乗せて頭ごと髪を引っ張っぱり始めた。
「やっ!」
不利な姿勢の川上は、耐えきれずに振り回される形なった。どこにそんな力があるのか、吉田はそのまま川上を振り回し、投げるように放り出した。
「わぁっ!」
バランスを崩した川上はよろめいてる、その先は非常階段だ。
「危ない……!」
男は駆け出した。なんとか非常階段手前ギリギリで、川上の体を安全な方へと押し返えす。川上は膝をつく、が、今度は男が足を滑らせた。
「!」
雨水で濡れた地面は踏ん張りがきかず、ずるっとカエルのようにひっくり返った。
(落ちる……!)
男は仰向けのまま階段を落ちていった。
(空……)
強い衝撃の前に、オレンジ色の空が見えた。そして視界は徐々に曇り、やがて真っ暗になった。
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何年も眠っていたような、暗い湖の底に横たわっていた体がゆっくりと浮かび上がっていくような、不思議な感覚だった。
ゆっくりと目を開け、視界が定まると、鼻先にある白っぽいシーツが目に入った。
(夢……?)
シーツから顔を出してみると、見慣れた天井の梁が見える。辺りはまだ暗かった。
(じいちゃん、起きてるかな?)
仕事に行く前にどうしても今朝の夢での出来事を話したい。
シーツから抜け出し、わずかな明かりを頼りに身支度を整えた。
部屋の扉を開けると、夏の朝の心地よい空気を感じた。木製の扉が歪んでいるせいか、なかなか閉まらない。
母家までの小道は獣道のように無造作に草が生えている。段差は四つ。ザ、ザ、と、足音だけが響く、まだ辺りは静かだ。母家は一般的な箱形の家に、不格好な円錐形の部屋が増築してある。その円錐部分の小さな小窓には小さな灯りが灯っていた。
(起きてるな)
玄関を開ければキッチン、入って左があの円錐部分の部屋だ。
「お、早いな」
部屋の中には五十歳前後の男が椅子にゆったりと座っていた。組んだ脚の上に本を乗せている。男は金色の丸眼鏡からこちらを見やり、微笑んだ。
「おはよう、ミット」
「おはよう、じいちゃん」
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