美鈴
電車の中には俺たちと同じように帰ろうとする学生たちや社会人で溢れていた。
丁度帰宅ラッシュの時間のため小規模の混雑は予想していたが……
今日は特に人が多い気がする。いつもなら座れるくらいのスペースがあるはずなのに。
「んーこりゃ座れないかな……誠くん、こっちこっち」
結んだ髪を軽く払い、車両内を一通り見渡した桜庭が俺の手を引く。
そうして俺たちは並んで座席の前に立つ。目の前で座っているのはスーツを着た初老の男性と、俺たちと同じ制服を着た女子高生の二人組。
いずれも耳にはイヤホンを付けている。密談をするには持ってこいと言ったところだろうか。
電車に入ってまだ30秒も経ってない。にも関わらずその場での最適解を瞬時に導き出す。
何という洞察力なんだ……
こんなバトル漫画みたいな感想を幼馴染に抱くことになることは思ってもいなかった。
「で、まず私の方の話から進めてもいいかな?」
改めて、とでも言うように桜庭は口を開く。
拒否する気もないし、しても何だかんだで言いくるめられて終わりだろう。俺は静かに首を縦に振った。
俺の答えを確認した後、桜庭は悲しそうに少し表情を曇らせる。
「……桜庭かぁ。やっぱり何か距離がある感じしちゃうんだよな」
その顔を見て少し俺の胸が痛む。
「いや、それは…すまん、謝る。苗字呼びにしたの確か中2ん時だったよな。その時何も言われなかったから気にしてないのかと……」
「小学校3年の9月19日までが美鈴ちゃん。それから中学2年生の6月4日まで美鈴って呼び捨て」
……ん?
「それ以降は今日までずーーーっと桜庭呼び。先生とかの前で話に出すときは桜庭さん、だよ」
絶句。まさに今の俺の状況を最適に表している言葉だ。
は?いや、え?何?今すげぇ緻密に呼称の変更履歴晒されたんだけど。
日数まで細かく言ってたよな?
確かに記憶力がいいのは百も承知だが、さすがにこれは異常だろう。
俺の額をそっと汗が伝う。桜庭の表情は変わらず曇ったままだ。
具体的な心理は不明だが少なくともプラス方面ではないだろう。
とにかくこのまま沈黙は一番ダメな奴だ。せめて何か言葉を……!
別に今の状況を打開するほどでなくてもいい。繋ぐ一言を……!
脳味噌の隅から隅までを探す。
「……凄いなお前。そんな事まで覚えてるんだ。」
我ながら本当に平凡極まりないクソみたいな一言だと思う。
だが、少なくともこの場における最悪の選択肢ではなかったようだ。
俺の返事に対して桜庭は少し得意げに笑う。
「…んまぁ、誠くんに関する事なら大体分かるよ。そうだな……中2の一学期の期末の各教科の点数でも言おうか?」
「…いや、いいわ」
そんな事俺本人ですら覚えていない。
「まぁ、だから誠くんが呼び方変えた理由も大体察してるつもりだよ」
その言葉に俺の肩が震える。
……もう見透かされているようだ。
「周りからの冷やかしでしょ?酷かったもんね、一時期」
「……ご名答」
寸分違わずピタリと心情を当てられてしまう。
今俺は自分でも予測できなかった、少し意外な感情を抱いている。
怖いという気持ちはなくはないがそれ以上に美鈴が俺のことを見てくれて、理解してくれている事実が素直に嬉しかった。
それ故に俺の胸には、罪悪感が次々に募っていく。