覚醒(中編)
「あら、もみぢ。あなた酷い熱よ……なれない勉強なんかしたせいかしら」
母さんの柔らかくて冷たい手がおでこに振れているのに、母さんの声はなんだか遠い。
体も重い。金縛りにあってるように動かない。まぶたひとつ開かないのである。
まるで私だけ水の底に沈んでるみたいだ。
でも、なんでもいいや……
そして、私は落下するような目眩とともに、再び急激な眠りに落ちる。
***
「ハクアは沢山の字を知っているのね」
台所にあったメモを、私が読める字だけ拾ってカタコトと読み上げていたら、お義姉さんが驚いていた。
お義姉さんは大きめの野菜の皮をかつらむきしてカラカラに干したものをよく紙の代わりに使っている。すぐにボロボロになるのだが、やることリストや、お買い物リスト、それから近所の人から聞いてきたレシピを忘れない様に2、3日保管するぐらいはできると言っていた。
「ああ。一時期、家族の中でサインを憶えるのが流行ったから。――私の名前は長いから、憶えるのは大変だったけど、おかげで沢山の文字を憶えたんだよ」
それまでは自慢できるような話だと思ったことは無かったけれど、お義姉さんに『沢山知っている』なんて言われると、思わずニヤけてしまう。
「なるほど。じゃあ、読めなかったのは名前に使われてない文字なのね。ハクアが将来どんなおうちに嫁ぐのか分からないし、せっかくだから残りの文字も全部憶えてはどうかしら?いずれにしても、役には立つはずよ」
お義姉さんの有り難い申し出をうけ、私は思わず『やったあ!』と叫んで抱きついていた。
***
朝焼け空の下、数人の村人たちが私たちを送り出すため集まってくれていた。
少し肌寒い風が、頬をかすめて通り過ぎていった。
「元気でやれよ、ほい、ほい」
ナブチおじさんが、私と弟にそれぞれずしっとした毛皮を渡してきた。
「おじさん、これ獣臭いよ……これ何に使うの?」
「文句言うなよ、これは服の上から纏う物だ」
おじさんは一度くれた毛皮を私からとりあげて、背中にかけ直しくれた。
私はあまりにずしっとしたその毛皮の重みに思わず顔を顰めた。
「つまり、マントってこと?」
「そうゆうことだ」
おじさんは弟からも毛皮を取り上げて、同じように着せた。
「マントは冒険者専用の毛布だ。野宿の時に絶対あった方がいい。風邪引くと人間は簡単に死ぬからな。安心しろ。獣臭さは、風や煙に晒されてるうちに自然に消えてくハズだ。その頃にゃお前らの汗で臭くなってるかも知れねぇがな、ガハハハハ」
「冒険者専用……ありがとうございます……」
冒険者専用だと考えると、ちょっとかっこいい気がしてきた。
隣の顔を見上げると、弟も嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ、私ら」
「己たち行ってきます」
「いってこい!」
村の人たちがバシバシと順番に一発ずつ私たちの背中を叩いて送り出してくれた。
「ふぇ~えぇんっっ……、大変だったらいつでも帰ってきてねぇ~」
お義姉さんは、涙で目が溶けそうな程、泣いていた。
***
「こちらがギルメン登録の専用シートになります。こちらを読んでサインして下さい。希望があれば私がお読みします」
すまし顔の美人がカウンター越しに、ちょっと癪に障るような微笑みを浮かべていた。
その言葉は丁寧にして粗雑。お上品のように聞こえても、今まで街道で出会った商売人たちとは違って、私たちを下に見た喋り方をしている。
「――お願いします」
差し出された用紙には小さな文字でギッシリとギルドの規約が埋められていた。
字が読めないと思われるのは癪だったけど、この文字数である。流石に相手が悪すぎる。これを解読するのに丸一日かかっては面白くないので、私と弟は素直に受付嬢に代読して貰うことにした。
規約内容は長かったが、要するにギルドは仕事の紹介はするけれど命の保証はしませんよ――とか、ギルドの施設内でケンカすんなよ――的な簡単な話を、わざわざ厳つい言葉に直して長々記されているだけだと分かった。
「――これで以上となります。何かご質問は?」
なんだか彼女の貼り付けたような笑顔が、いちいち私に字が読めないだろ、話の意味もわからないだろ、とバカにしてるように見える。
「いや、ないです」
「では、こちらの空白にサインを……ご自分のお名前は書けますか?」
これ以上見くびられてなるものか。
私はニッコリ微笑むと、カウンターのつけペンを手に取って紙の上で素早く走らせた。
ペンの使い方も練習しておいて良かった。
「これでいいですか?」と、言った時の私は思わずドヤ顔になっていたと思う。
ところが、私のサインは褒められるどころか、非常に予想外の言葉で虚仮にされることになる。
「キャー!何してるんですか!……登録用紙だってけっこうお高いんですよ!いくらあなたの名前でも好き勝手に書いて良いわけじゃ無いんです。言葉にはつづりってモンがあんです!決まった順番で決まった形の文字を書かなくてはいけないんですから!」
さっきまでのすました様子はどこへやら、受付嬢の突然のヒステリーに面食らい、きょとんとなる私。この人は、一体何を言ってるのだろう。意図せず、どこぞのヒーローのような台詞が口をついて出る。
「あの、私、何かやっちゃいました?」
受付嬢はサインの欄を指で示しながら言う。
「何やっちゃったじゃないですよ!子どもの落書きですか?名前の欄が、ハクア・マイアン・レカレカ・トーラ・クエヒアイ・ホチカになってますよ!あーあ、登録用紙をダメにしちゃって!」
「」
あまりの言われように思考が追いつかず、言葉を失う私。
「えっと……うちの姉ちゃんは生まれた時から、ハクア・マイアン・レカレカ・トーラ・クエヒアイ・ホチカという名前ですけど」
この時、セラのフォローが無ければ、たぶん私は泣いていたと思う。
「」
そしてこちらは、あまりの名前に理解が追いつかず、言葉を失うギルドの受付嬢。
***
「うらぎりものぉ」
生理痛で寝込んでいる私に、薬草茶を出してくれた背の高い男の子。私は恨めし顔でその人を見上げた。
この顔はよく知ってる。今まで、ずっと一番の親友でライバルだった弟のセラである。
昔からチビでやせっぽちだったのに、今は私より背が高くなり、腕も太く逞しくなっている。
「じゃあ姉さんは、己が昇級しなければ満足?」
「……それもヤダなぁ」
そんな言い方をされたら、涙が出てきてしまうではないか。私は布団を深くかぶって自分の顔をかくした。
「じゃあ。どうしたらいいと思う?」
いつの間にか喋り方も穏やかな父さんそっくりになっている。
「……お前の足を引っ張りたいんじゃないんだ、私は」
涙で声が震えてしまう。どうか、私が泣いてることが弟にバレませんように。
「うん」
「……本当はずっとお前より出来る姉ちゃんでいたかっただけなんだよ」
「うん」
「……邪魔したいんじゃなくて、今は悔しくて祝福出来ないだけなんだよ」
「うん」
「……だから、この不肖の姉の事は忘れて、私の前からいなくなってくれ」
弟は相づちを打つのを止めて暫く黙ってそこにいた。
私も布団の中で声を殺しながら泣いているだけで、もう何も言わなかった。
弟はその日のうちに全ての荷物をまとめて部屋から出て行った。
***
「ハーイ。私、ハイディ。あなたがハクア・イカイカなんとかかんとかって人?」
ギルドの低級クエスト掲示板を物色していたら、やたら威勢の良い女に話しかけられた。名前のことは訂正したかったが、経験上面倒くさくなることは分かってたのでグッとこらえる。
「ハクアでいいよ」
「よろしく、ハクア。私もハイディって呼んで。私たちのガールズパーティで、ちょうど新しいメンバーを募集しているの。中級を目指してる真面目なパーティよ。あなたが入ってくれたらとっても嬉しいんだけど」
「いいよ」
二つ返事で承諾すると、ハイディは驚いた声で聞きかえして来る。
「ちょっと、あなた正気?パーティのことよく知りもしないで返事しちゃっても良いわけ?これから毎日、私たちと連れションする事になるのよ?」
?
誘ってきたのはそっちなのに、まさか承諾してはいけなかったんだろうか?こちらとしては、低級ソロでは実入りが悪すぎるので願ってもない話だったのだが。
私がハイディの声のする方に振り返ると、変顔をした爆発パーマの女がこっちを向いていた。
「ブフッ」
私はたまらず吹き出した。
「やっと私の目を見て話す気になったようね」
彼女は、顔を戻すと腕組みをして不敵な笑みを浮かべた。
***
熱にうなされながら、『夢』の中に沈んでいた意識がまた浮上する。
さっき目が覚めた時より、心なしか体が軽い気がする。
セラ、私の憎たらしい弟。
ハイディ、私の親友。
この広い宇宙のどこかに、彼らもまた転生しているのだろうか。
苦しくて乱れていた息を整えながら、ぼんやりとそんなことを考える。
ふいに、部屋のドアが開く音がしたかと思うとトントンと静かな足音が近づいてきた。
続いて「はい、水分取って」と遠慮の無い母親の声。
ぷすっ
突然、口にストローを突っ込まれジュースのようなものを流し込まれた。
半分ぐらい飲み込めなくて口からこぼれたが、すかさずタオルを頬に押しつけられて枕は汚れずに済んだようだ。
私はどれぐらい、眠っていたのだろうか?
前世は、なぜ私に夢を見せているのだろうか?