勅使河原ミクという人
社長室の絨毯の上に、火のついた燭台を挟んで私と黒瀧が向かい合って座っている。
これ、大丈夫なんですよね?――と、背中に冷や汗だらり。
社長は変な人だけれどおモテになりそうなお顔立ちをしてるし、私のような地味主婦に手を出したりはしないだろう。だからといって、またしてもこの距離感の可笑しい男と二人きりになってしまった。仮にもベッドなんぞが置いてあるこの部屋で。
私はまるで何かに呆れてる人がするように、左手を額に当てて、眉を寄せて、その上、フーっとため息を吐いてみせた。だが、決して目の前にいる社長に呆れているのではない。単に自分を落ち着かせているのだ。そして、動揺が顔に出ないように険しい表情をしているだけなのだ。
私は大人なので男女が2人きりだからといってすぐにやらしいことを考えたりしない。それに相手が男性だからと警戒ばかりしていては仕事にも支障が出る。社長とはちょっと話が有ると言われてここに来ただけだ。ただ、男性と2人という状況でも平然としていられるほど、男慣れしているワケでは無い。
さて、
まずは社長の方が話の口を切った。
「わざわざこの部屋まで来て貰って悪いな。どこから話したら良いのか――俺も判断しかねている。まずはお前さんの知ってることを順番に話してくれると助かるんだが、」
知っていること、
それは、夫の居場所のこと?
それとも勅使河原ミクのこと?
「えええ?……私もよく分からないので、ちょっと、要領を得ない話になりますが……」
***
夫とは29歳の時に結婚している。
結婚当初は専業主婦をするつもりだったのだが、あまりにも家事が向いてなかったため、コンビニのアルバイトで兼業主婦になったのが30歳ぐらいの事。
その後は家事を夫にも実家の親にも助けて貰いながら主婦業を続けてきた。
息子が生まれてからも同様、家事と子育ては出来る範囲でやり、残りはその時出来る人に力を貸して貰ってやってきた。
夫が失踪したのは1ヶ月前の9月10日。
最初は仕事上がりに雀荘にでも行ったのかと暢気に考えて居たが、2日たっても3日たっても帰ってこない。4日目には警察に相談し、1ヶ月たった頃には彼がもう当分帰って来ないものだと覚悟を決めた。
今は家事や育児に夫が参加して当たり前の時代だが、それでも夫は残業して疲れて家に帰ってきて、挙げ句の果てに皿洗いをさせられるのが苦痛だったのかも知れない。
それとも、私が醜くなりすぎて、愛想が尽きたのか。
ただ、私の知っている夫は疲れていても文句も言わず毎日お皿を洗ってくれていたし、私にも息子にもいつも優しかったので、彼が何を思って居なくなったのか――それは、わからない。
そして、いなくなった夫らしき人物を目撃した人が現れた。
コンビニの同僚である要ちゃんである。
要ちゃんは、峙阜市にある女子校に通っている可愛い女の子だ。
黒い艶々のショートカット、大きな茶色の虹彩と印象的なつり目、目尻でカールする長い睫毛。そして一度接客を任せれば麗しのアルトボイスを響かせる。仕事中にラブレターを受け取った事は数知れず。ご家族はそんな可愛い要ちゃんをとても心配していたようだ。要ちゃんに変な虫がつかないように、いつもバイト先まで車での送り迎えを徹底していたほどに。
ただ一緒に働いている私のおばちゃん目線では、ちょっと『懐かない猫』のような存在だったりする。仕事はしっかりやるけれど、それ以外の事で話しかけても「うん」「いえ」「興味ないですね」しか答えない。唯一笑顔を見せてくれたのは、差し入れで夫のお土産の「東京ななば」を渡した時だけだった。
そんな彼女が私のバイトの最終日――昨日になって、いきなり自分から私に話しかけてきた。それがアサヅマアキオさんという人物を見たのだが、もしかしてもみぢさんの旦那さんではないか――と、いう話である。
どうも要ちゃんは漫研の部員だとかで先週の日曜、卒業した先輩の誘いで大壁市の漫画家「勅使河原ミク先生」のご自宅まで職場見学に行ってきたらしい。
彼女の言うアサヅマアキオさんはその勅使河原先生の家にいた。
先生の体を気遣いながら付き人のように後ろをついてまわる無精ヒゲの男性。頼りなさそうだがよく見るとちょっと整った顔をしていて、その時いた漫研メンバーの中では、アシスタントなのか、担当編集なのか、それとも恋人なのかと密かに興味の対象になっていた。
先生はその彼を「アキオくん」と親しげに呼んでいた。
先生が漫画家としての心得やらなんやらを一通り語った後、質疑応答の時間が設けられ、だいたいは漫画に関する至極真面目な質問やら意見やらが交わされていたのだが、一人の明け透けな性格の漫研メンバーによってついに彼の正体が暴かれることとなった。
「そちらのアキオクンさんは、アシスタントですか?」
「まぁ、そんなようなものです」
「アシスタント業についてもお聞きしたいのですが?」
「……」
勅使河原先生はアナログで漫画を書いているのだが、アキオくんは消しゴムかけとかベタとか、漫画の基本中の基本的な言葉もよく知らなかい事が露見した。
というのはアキオくんは漫画の質問をすると明らかに困ったような顔をして、個人的な質問をすると、むしろ少しホッとしたような顔をしたと言うのだ。
「アキオクンさんのアキオってもしかして、苗字ですか?」
「いいえ、苗字はアサヅマと言います」
「アキオクンさんは先生の恋人ですか?」
「……それは、お答え出来ません……」
要ちゃんはまさかとは思ったけれど、朝妻という苗字の人物はそれまで私以外に会ったことが無かったので、迷いに迷った末、私に伝えに来たのだと言っていた。
***
「……そんなワケで昨夜、私はかなり悶々とした気持ちで一晩過ごしたんですが、本日は勅使河原ミク先生の所に直接乗り込もうという勇気も出ないままに、グダグダここに来てしまいました」
黒瀧は私のとりとめのない話を頷きながら聞いていた。そして、
「なるほどな。……で?俺たちに『勅使河原ミク』を知っているかどうか聞いたのには別に理由は無いのか?」
と、私に問うてきた。
「まぁ、知ってると説明しやすいかなと思いまして……他意はありません。私、説明下手くそ人間なので、話の要点だけかいつまんで話すのダメなんです。もし、皆さんが勅使河原先生を知らなかったら、あの場で私の知ってる限りの勅使河原ミク先生の公式プロフィール諳んじてましたね」
勅使河原ミク先生は、私が中学の時にはもう商業誌連載をされてる人気漫画家だった。私も彼女の漫画はいくつか愛読している。彼女の作品は、私の厨二心をとてもくすぐるのである。
「確かに、説明下手だな」と、黒瀧、
「……今の話の中で、要ちゃんがどれぐらい可愛いかのあたりは、全く重要じゃ無かったようだし」
頭をかきながら面倒くさそうにぼやく。
自分自身で説明が下手って言うのは平気だけれど、他人に言われるとけっこう傷つく。
「そ、そうですか?……けっこう大事なところじゃないですか?とくにその日はシフトも無かったのに、わざわざ私のために息を切らして駆けつけてくれた所とか、すごい可愛くて感動しませんか?」
要ちゃんが女子高生だと説明した方が漫研の話をスムーズにできるし、要ちゃんが可愛いと説明しておいた方が私の驚きと感動が伝わるかと思ったのだが。……そうか、私の驚きには興味ないか。
「シフトが無いのに、コンビニに駆けつけてくれた下りはさっき触れてもいなかったぞ」
「――あはは。そうでしたっけ?」
「それに……ふん。その割に肝心な旦那の描写はゼロだったじゃないの」
黒瀧が鼻で笑いながら、私を追撃する。
「夫の自慢をはじめたら三日三晩は話し続けることができるので、前に色んな人から夫の話だけはするなと怒られたんですよ。私だって学習しているんです」
ドヤ
「いや、ドヤ顔でそんな事言われてもなぁ……」
「まぁ、それは置いといて……それで私、鑑定眼についてお尋ねしたかったんです。鑑定では何が分かるんですか?夫の事、何か他にわかりませんか?もし……」
自分で喋っているのに、どんどん息が詰まっていく
「……もし直接対面して、キツい事言われたら、エグい現実突きつけられたら、今の私はまだ受け止められません。夫に会う前にできれば情報がもっと欲しいんです」
「おやまぁ、そりゃ随分……」
おどけた調子で言いかけた、黒瀧の言葉が途切れた。
「夫は浮気しているんでしょうか」
諦めたように、私は答えの分かりきった質問を投げかける。
「……俺が見た『サレ』っていう言葉が配偶者に浮気された人っていう意味だとしたら、そうなるな……或いは、今まで全く発見されたことの無い鑑定眼に干渉する能力者がいれば別だが」
「……そうですか」
望みの薄い答えを聞かされて、私は力なく肩を落とした。
鑑定眼については黒瀧自身の方がよく知っている。そして、今さらこの人が自分の鑑定眼の力を疑う事なんて、有り得ないだろう。それでも他の可能性について彼が示唆してきたのは、ただの思いやりに過ぎない。
「だがな」と、黒瀧は、少し苛立ったような声で話を続ける。
「……例えばもし、そんなとんでもスキルを持ってる人間が俺の知ってる人物の中にいるのだとしたら、それは間違いなく勅使川原美香子……漫画家の勅使河原ミクだけだろうよ」
一人称で書きたいのか、三人称で書きたいのか、文体が日和ってて、大変申し訳ございません。