きらら
「こんにちは」
私が典正サービスに行くと、社長の黒瀧と澤村が応接セットに座っていた。
「よお」黒瀧は軽く右手を上げて、今日も気安い感じの挨拶をしてくる。
「――初出勤は来週の1日からのハズだよな?」
「ええ、そうですが……」
流石の私も初出社の日を間違えたりしない。
私は入社前にここに来た事が迷惑だったのかと思い、口ごもった。
そんな私の様子を見かねたように澤村が口を挟む。
「朝妻さん。心配しなくても我が社はあなたを歓迎しています。ようするに社長が言いたいのは、うちの社員は全員トラック乗りですから、連絡なしでここへ来るとオフィスは無人かも知れませんよ……と、そういう事です。」
そういわれて、私は少しホッとする。
「つまり今日、お二人が事務所におみえになったのはたまたまなんですね」
思わず方言が口をついて出た。
×おみえになる→○いらっしゃる
昔、誰かに訂正されたのを思い出し、私は気まずくなって右手で口を塞いだ。
「あ?ああ」その様子を面白がるように黒瀧はニヤリと笑った。
「――そりゃ、今日はきらら先生がおみえになるからな」
×おみえになる→○お越しになる
社長はどうやら私が慌てるのを見て楽しんでいるようだが、なるほど、敬語や方言の細かい間違いを気にするような社風ではないのだな。と、楽な方に解釈することにする。
とりあえず、きららが年上の男性から先生って呼ばれてるのに違和感を感じたが、同時にすごいとも思った。弁護士がよく先生って呼ばれてるのは知っているけれど、会計士も先生って呼ぶのだろうか。立派な大人になったなぁ、などと懐かしい友に思いを馳せる。
「私もここで待っていれば、きららに会えますか?」
最後に会ったのが、もう10年近く前だった気がする。
「勿論」と、澤村が笑顔で答える。
「――でもその前に、ここには何か用事があって来たのではありませんか」
確かにその通りだ。指摘されなければ危うく忘れる所であった。
私はトートバッグから、書類の挟まれたクリヤホルダーを取り出す。
「要件は2件あります。私。実は今日、息子の保育園の書類を持ってきてまして……」
黒瀧はそれを聞いて、信じられないものを見るような顔で私を見る。
「保育園だって?……会社に連れてきたらいいだろ、そんなの」
「おお!」
つい感嘆の声をあげてしまった。
素直に「この会社って最近話題の子持ち世帯に優しい系の会社なのか」……と、納得しそうになったところで間をおかずに信じられない言葉が続く、
「――ほら、松浦もみぢん所の子どもだったら、俺の孫みたいなもんだろ」
と黒瀧。
「そうですね。もみぢさんの所のお子さんなら私たちの孫と言っても過言ではありませんしね」
と澤村まで同調する。
過言である。
――というか、2人のそれはナニ目線なのか。そして二人は夫婦なのか。
つっこむにつっこめず頭がクラっとしてきたところで、入り口のドアが勢いよく開く。
「こんにちは」
下まつげ長めの色っぽいたれ目に、少し巻いた栗色の髪。そして、ファッション誌で見るような上品なツイードのスーツを身に纏い、颯爽と彼女は現れた――流石は元・傾国の悪女、同級生とは思えない美しさである。
「きらら、ひさしぶり」
私の方からおずおずと呼びかけてみたものの、きららの応答は無し。きららは私の顔を見て数秒間フリーズした。まさか忘れられているのだろうか、少し不安になりながら付け加える。
「私、同中だった……」
その言葉を聞くか聞かないかの内に、きららは私の手を握って興奮したようにしゃべり出した。
「もみっち!あんたもみっちやね!ちょっと草臥れてて誰か分からんかったわ」
と、無遠慮に。しかも10代の頃と変わらぬ方言丸出しの話し方である。
「くたびれて……確かにリコさんやきららに比べたら、+(プラス)10歳はありそうな見た目かもだけど」
ショックが大きすぎて『言ってはいけない事があるだろう』とまでは言えない。
「そうやよ。うちの同級生でそんなに老けてるのもみっちだけやよ」
言うこと辛っ!!
――そして現実、辛っ!!
「まぁまぁ、きららちゃん。その辺にしとかないと、そろそろもみぢ氏のライフがゼロよ」
黒瀧がまるで空気の読める人みたいな感じで、私の前に割って入ってきた。
さっきは先生って呼んでたのに、今度はちゃんづけ……この人、人の呼び方適当だな。
「ハッ、ごめん!!もみっち、今の無しで」
きららは悪気はなく、本気でやらかしたのを気にしてる顔をしている。
「あはは、はは、大丈夫だよ……ガクッ」
私はわざと力なく大丈夫じゃなさそうな乾いた笑い声を発してドスッとソファに座り込んだ。
そしてボクサーが燃え尽きたようなポーズを取り、静かに己の間違った考えを改めた。どうやら高校卒業から16年経って、おばはんになったのは私だけだったらしい。30過ぎの女の子は実在したのだ。
「先ほどの保育園の書類、見せて貰えますか?うちの会社、今までそういうの無かったんで」
放心のあまり魂が抜けかけてた私に気を使ってか、澤村さんがうまく話題を切り替えてくれた。
顔だけの社長よりこの人の方がモテそうだな。ただし、長髪は似合ってないけど。――などと、失礼なことを考えてしまう。きららのように口には出さないが。
私は先ほど鞄から出したクリアファイルを無言で澤村に渡した。上司に無言では失礼かもしれないが、正に失礼なことを考えてる最中でもあったので余計なことは言わないように私は口を閉じているしかなかった。
「保育園?――そう言えば、なんでもみっちはここにおるん?」
「えええ?」
「ああ?トラック運転手募集したら、松浦もみぢの方からうちに来たんだよ」
「……あ。そういう意味でしたか。『邪魔だ帰れ』の隠喩かと思いました」
「なんだよ、その発想。女の社会怖すぎないか?」
黒瀧が熱いやかんに触った人のように仰け反って、私ときららから距離をとった。
私は本気で言っていた。典正サービスは転生者のための会社である。10代の頃、同級生たちが勇気を出して『転生者』だと私に告げてくれていたのに、私だけは本当の事を一度も話していなかったのである。よく考えれば『それを今さら何しに来た』『帰れ』と、言われても仕方が無いと思ったのだ。
「いやいや、素朴な疑問やて」
きららは顔の前でうちわのように手をパタパタさせて否定した。
それを見て、私は少し落ち着く。
「……今度、こちらに入社する事になりました。今日は保育園に息子を預けるために就業証明書的なものをお願いしたくてですね」
「保育園って、そんなのがいるんですね」
感心したように澤村。
「だから、子ども会社に連れて来いって」
「そうやよ。もみっちの子どもなら、うちらみんなの子と言っても過言では無いよ」
過言である。
「気をつけろよ。きららちゃんはこうやって、油断した子どもに近づいて、稼いでは貢ぐを繰り返してる、貢ぎ常習犯らしい」
「オホホ!お姉ちゃん大好きって言ってくれるまで、太るまで甘やかすでよ!」
「それは、悪質極まりないですね」
――ははーん。さては、この会社適当だな?
***
「冗談はさておき」と、きららはピンク色の爪をした綺麗な両手を胸の前でパチンと合わせる。
「――本当に連れてきてまうと社外秘のこともあるでよくないて」
そう言いながら、きららは両手の中指と人差し指をたてて顔の前で構え、社外秘という言葉のところで私に向かって2回お辞儀させた。
ダブルコーテーションのサイン。私も日本人で使ってる人は初めて見る。皮肉とかジョークとかに交えてよく使われる仕草だ。おそらく今の社外秘は、一般的な会社で使われている社外秘とは少し別の意味で使われている。それを仲間内に分かりやすく合図を送ったのだろう。
そして、この会社だけの特殊な社外秘と言えば、異世界・異能に関する事項のことだろう。確かに2歳の幼児に触れさせれば火傷では済まない話かもしれない。
「もみっちは社外秘のことは?」
「前回、入社が決まった日にお話ししましたので、大丈夫です」
澤村ときららが仕事の顔で言葉を交わす。
「そうか。……って事は、つまり、そういう事やよね」
ぼやかしながらも、きららは私が転生者で有ることを確認してきた。
「ええ。たぶん」
と、私。
「――私の事、どれぐらい知ってるかわからんけど、イジュコがここを退職してから人手が足りなくて、私がここの事務を任されてるんよ」
「会計士なのに?」
イジュコもここの社員だったとは知らなかった。だとすると、彼女は前世の記憶を消去したのと同時に退職したという事なのだろう。
「そうやよー。……まぁ、普通なら人が足りんけりゃまた新しい人雇ぇやええだけやけど、この会社は誰でも入れるわけやないでね。もみっちなら美実卒やし、今後は事務作業の方を引き受けてくれると助かるわ」
たしかに美実……美乃実業高校では、事務職に役立ちそうな知識を沢山学んでいたハズだが、残念ながらパソコンの使い方以外は全く憶えていない。
「トラック運転手、兼、事務員ですか?……なら、リコさんだって美実卒ですよね。どうしてまだ任せてなかったんですか?」
「最近、ミルフィーユ紙工業のベビーグッズ事業が大当たりしたせいで、リコリコはトラック業の方が忙しかったんよ」
「なるほど……」
それで新入社員に面倒な仕事のお鉢が回ってくるのは仕方ない事だろう。
それより私は製函会社の作るベビーグッズが何なのかの方が気になったのだが。
「逆にイジュコが入社する前はどうされてたんですか?」
「会社の立ち上げの時には、俺と澤村ともう一人別のヤツがいたんだが、失踪した。チコが来る前はそいつが事務作業を担当してくれてたんだ」
黒瀧が苦々しそうに言う。
「うわー大変ですね。峙阜県内で、失踪、流行ってるんでしょうか」
と、私。空気が重くならないようにできるだけ暢気な声で言ったのだが、澤村は眉を寄せ、黒瀧は白い目で私を見ている。お前がそれを言うのか、と言わんばかりである。
そんな2人の顔に気づかないふりをしながら、私は今日自分がここに来た理由の方に話を戻す。
「失踪で思い出しました。保育園以外にもう1件、お話があったんでした。……実は失踪した夫らしき人物を大壁市で目撃した人がいまして、……漫画家の勅使川原ミクってご存じですか?」
この時、私を見る黒瀧の白い目が、突然険しいものに変わったことに気づき、私はヒュッと息をのんだ。