コンビニ
「……というワケなんです」
「あらー、それは大変だったわよねぇ」
ミニスターの店内で加藤の奥さんが、同情の声を上げる。
ミニスターは私が息子を出産する前から働かせてもらってるコンビニエンスストアだ。
加藤さんはここのオーナーで、奥さんは噂好きだけど世話焼きのおばさん。歳は母とだいたい同じぐらいだと聞いている。
その日私は、新しい就職先も決まったので、バイトを辞めたい旨とこれまでの経緯を簡単にお伝えしたのだ。
「まぁ、……あら、まぁまぁ、」
眉を八の字に寄せながら、加藤の奥さんは私の背中を何度もさすった。
励ましの言葉をかけたいが、かける言葉も浮かばない……と、言った所だろう。噂好きは褒められたことじゃないのだが、基本的に人情あふれる良い人なのだ。
夫が失踪した事は、個人的でデリケートな問題なので公にする気はなかった。もしご近所中で「浮気夫」「モラハラ夫」みたいな噂になってしまったら、夫だって帰るに帰れないだろうと思ったからだ。
でも今はちょっとふっきれてしまった。夫の浮気がプラトニックなものだったとしても、あるいは全くの潔白だったとしても、一ヶ月も妻と息子をほったらかしにしたのは紛れもない事実なのだ。帰ってきたければその程度の十字架は背負って貰おうと思っている。
「本当、大変だったわね……でも、そう。新しいお仕事が見つかって良かったわね……寂しくなるわぁ……」
いつもより語彙力が落ちているが、加藤の奥さんが心底、気遣ってくれているのが伝わってくる。
私としてはトラブルの渦中にいると自分の事を可哀想だなんてとても思えないので、こんなに気の毒がられると大袈裟だと思ってしまうのだが。
「加藤の奥さんにはお世話になったので特別にお話ししました。他の人にはなるべく話さないで下さいね」
無駄だと思うが、一応釘は刺しておく。
「……んん……そうよね。頑張るわ」
そう答える加藤の奥さんは完全に目が泳いでいて、私は思わず声を出して笑ってしまった。
「あはは、頑張ってくれてありがとうございます。そこは『奥さんクオリティ』なので、ちょっとだけなら人に話して大丈夫ですよ。名前を伏せてくれたらよりグッドです。ただ、夫がなんでいなくなったのか分からないので、憶測で夫を悪く言うのはやめてあげて下さいね。夫婦の問題はお互い様なんで」
「そうよね」
――話して大丈夫、の条で加藤の奥さんの顔がパァァって輝いたのを見た気がするが、私は奥さんの良心を信じてるから大丈夫。たぶん。
このコンビニの辞書には、すぐに噂を広めてしまう『奥さんクオリティ』の類語に、昼間にお酒の匂いをさせながら店番をする『旦那さんクオリティ』と、バイトのシフトを間違えてしまう『もみぢクオリティ』が存在している。
加藤さんご夫妻は、いつも私の失敗を怒るよりむしろ笑ってくれた。もちろん遅刻したら給料は引かれてしまうのだが、得意な力仕事さえちゃんとやっておけばむしろ有り難がって貰えるので、ほぼほぼ最低賃金のバイトだったけど大変やりがいがあった。
最初は大らか過ぎて天使かと思ったが、今では加藤さんも私と同じでサラリーマンに向いてないタイプなんだと思っている。
「残り2週間しっかり頑張りますんで、よろしくお願いします」
「よろしくね。長いこと昇給なしで頑張ってくれたから、2週間遅刻と欠勤がなかったら、他の人には内緒で寸志つけちゃうわね」
「寸志ぃ!?」
チロリロリーン♪
私語で少々盛り上がってきた所で、お客さんが入ってきた。
「「いらっしゃいませー」」
私たちは何事もなかったかのように、いつも通りお客様をお迎えした。
***
加藤の奥さんの噂お披露目は火急的?速やかに行われ、私はすぐに同じコンビニのバイト仲間たちから心配される羽目になった。
ただ加藤の奥さんは信用できる人だけに厳選して話をしてくれたらしく、可哀想な目で見られすぎて少し弱った以外には、迷惑に思うことは何もなかった。
どちらかというと自分で調べるのが億劫だった有益な情報とか嬉しい物資がいっきに舞い込む形になった。
「うちは○○保育園だったけど、自由な空気でよかったわよ」
「田舎なんて待機児童、殆どいないんだから早く申請した方がいいわよ」
「たしか、うちの子の時は市役所で書類を貰って、勤務先に就職の証明みたいなのを書いて貰わないといけなかったわね」
「つまり、無認可保育園っていうのはね……」
「離婚はまだ考えてないって言ってたけど、失踪から離婚までの手順、わりと詳しいから必要になったら連絡してね」
「孫の着てたブランドの子ども服、おさがりだけどどう?」
私はいつもバイト仲間に迷惑をかけてばっかりだったけれど、意外と仲間たちから愛されてたのかも、などと自惚れてしまう、実に温かい2週間となった。
最終日には加藤の奥さんが約束の寸志を用意してくれていたが、残念ながら2分の遅刻。
まさか息子がオムツをこっそり脱いでいて、出かける直前になって私の膝の上でおしっこを漏らすなんて想像できるわけ無いじゃないですかと言ったら「普通はギリギリに家を出るなんてリスキーなことしないのよ」と笑われた。
約束だから寸志はあげられないと言いながらも、帰りにはメロンパン1つとジュースを2本恵んでくれた。奥さんは本当に人が良いと思う。
店を出て駐車場に止めていた車に乗り込もうとした時、このミニスターで唯一の女子高生アルバイターが私を呼ぶ声がした。
「もみぢさーん!」
「要ちゃん?」
振り返ると、学校の制服を着た要ちゃんがこちらへと駆け寄ってくる姿が見える。それもお兄さんの運転するバンのドアを開け放したまま、大慌てで。
要ちゃんは私の目の前で立ち止まると、乱れた息で肩を上下させながらしばらく何も言えずにいた。
「どうしたの?……今日、要ちゃんシフトなかったよね?」
要ちゃんは何も言わず、はぁはぁと、そして次第に呼吸を整えていく。
「ちょっと、え、大丈夫?」
私は不思議に思っていた。若い彼女がここに来るまで、息を切らすほどの何があったのかは分からない。ただ少なくとも、わざわざバイトの最終日に別れの挨拶をするためにかけつけてくれるほど、親しくはなかったハズである。
勿論、私はこの時知らなかった。アルバイト仲間たちがこの2週間、有り難い情報、助言、物資をくれた中で、まさか高校生の彼女が私にとって最大のネタを持ち込んで来ることになろうとは。
「はぁ……もみぢさんの旦那……さん、アサヅマアキ……オさんって言いませんか?」
「え?」
私は要ちゃんを見て体をこわばらせた。
要ちゃんは真っ直ぐに私を見つめて、私の表情でそれを肯定だと捉える。
「身長……170cmぐらいで、無精ヒゲのちょっと……若めのおじさん」
要ちゃんの呼吸が落ち着くにつれ、彼女の美しいアルトボイスがはっきりと耳に聞こえるようになっていく。
私の夫はヒゲをほったらかしにするタイプではなかったが、確かに身長は171cmで名を朝妻昭夫と言った。
「もみぢさん。私、アサヅマアキオさんっていう人を大壁市で見たんです」