実家
「ママー、かえいー」
実家の玄関で息子がお出迎えしてくれる。
「ただいまー」
ああ、なんて麗しいほっぺなんだろう。あまりの眩しさに畏れてしまいそうである。
私は小さな息子をぎゅっと抱きしめると、頭の匂いを嗅いだ。汗の酸っぱい匂いと、砂埃のような軽いシゲキが鼻に刺さる。
「ハル、今日はばーばと公園に行ったのね」
これはまさしく息子様が滑り台とお砂場で遊んで来た後の匂いである。
「んー」
「あなた、それは止めなさいって……」
少し遅れて、リビングから玄関へと出てきた母は、孫の頭をハスハスしてる娘を見てとても残念そうな顔をした。
「何言ってんの、母さん。これだって大事なコミュニケーションですよ」
私は、ひとしきり堪能すると、息子を左腕に座らせるように抱き上げた。
「はやく上がりなさい、面接はどうだったの?」
「合格。再来週までバイトのシフト組まれてるって言ったら、来月の1日からの出勤にしてもらえた。しばらくは見習いと雑用係になりそうだけど、想像してたよりよっぽど良い会社だったよ」
「そう、よかったわね」
母は複雑そうな表情を浮かべた。
私が高校を卒業して16年、母としては娘の初めてのまともな就職を喜びたいような、不安しか無いような、そして夫に逃げられた娘に対する同情をも孕んでいるように見える。
「夕飯用意してるわよ、食べていくでしょ」
朝、息子を預けていく時は「夕飯はいらない」とハッキリ言ったハズだったが。……隙あらば、娘を甘やかそうとするこの親はなんとかならないものだろうか。
全く、ニートにならなかった自分を褒めてやりたい。
「ありがとう、頂いていくわ」
私は靴を脱いで、家に上がった。
母はあからさまにホッとした顔をする。どうやら私が「夕飯はいらない」と言ってたのをちゃんと憶えてた上で、知らん顔して準備していたようだ。
まぁ今日はいいのだ。疲れているし、気分だから有り難く頂こう。
「そうだ。突然で悪いけど、今日は泊まってくことにするよ。ちょっと、疲れた」
こんな日は、我が家の小さなお風呂より、足を伸ばして入れる実家のお風呂が恋しい。
「あら、ホント?!なら、ハルくんは今日、ばーばとねんねしましょうねー」
「まて、ハルはじーじと寝たいって言ってるぞー」
「……」
息子の春馬は2歳にしてはあんまり喋らない方だ。それを良いことに、両親は自分たちの要求をごり押ししようとしている。まぁ、あれだ、これはたまのことだから、息子の方に我慢して貰おう。息子は絶対に私と一緒に寝たいと思ってるに決まっているが。
***
「――それでね、今よりもっと小さい安いアパートに引っ越そうと思ってるんだ」
夕飯を食べながら、私はポツポツと両親に告げた。
夫が失踪しただけなら無理してでも今のアパートで暮らして待っていたのだが。……浮気してると分かってまで家を守ってやる必要は無いだろう。
正直な所、夫のことは今も情けないほど恋しいと思っている。だから、本当はあんな胡散臭い社長の話なんかより、私は夫の誠実を信じていたいのだ。ただ34年間生きてきた経験が、典正サービスの皆さんが言っている話を嘘ではないと告げている。
そして、夫がいない一ヶ月は私にとって思った以上に長かったのかも知れない。
だから今の現実がなんなのかとか、この先の未来がどうなるかとかはよく分からないけれど、朝妻家はここで一旦解散する事にしようと考えた。そして解散するけど、緑の紙だけは出さず待っていようと思ったのだ。
「うちじゃダメなのか?」息子の食事を世話しながら父が言う。
「……ほら、家賃はかからないし。ここならアキくんが帰ってきた時に、すぐ探しに来れるし」
冗談では無い。この夫婦に甘やかされて育ったら、息子がニートまっしぐらじゃないか、などと失礼なことを考えたが、勿論口には出さない。
両親は当然、夫が失踪してしまった事は知っている。しかし、夫が浮気をしている可能性については話すつもりも無い。証拠の無い話をしてあれやこれや騒がれたくないし、何より両親に心配をかけたくは無いのだ。
「気持ちは有り難いけど、それはどうにもならない時の最後の手段として取っておく事にするわ」
「そうか?いつでもいってくれよ?」
「うん。でもそれより、春馬の保育園が決まるまでは、子守とかでしばらく母さんたちのお世話になると思うから、そっちのほうでは沢山迷惑かける事になると思う」
私の返答に満足したのか、両親は少しホッとした顔をして、そして息子を再び愛でるのだった。
***
その晩、私は久々に実家の大きなお風呂を満喫していた。
ハルくんと一緒にお風呂に入る権利争奪戦では父が優勝し、今は母が息子の寝かしつけをしてくれている。息子の面倒を面倒だと思ったことはあまりないのだが、今日のような日は娘と孫に甘い両親に感謝しなくてはなるまい。
それにしても電気で沸かした風呂って、どうしてこんなに気持ちが良いのだろうか。まるで温泉のようではないか。
ルラーラルーララー ルールルーララー
私は鼻歌を歌いながら、湯船の中で疲れた自分の全身を軽くマッサージしていく、
足がむくんでて太くなってるなーとか、お腹に浮き輪肉ついてるなーとか、気がついたら周りの同世代より自分が老けてる事にきづいたとか、愛想尽かされるのも当たり前かなーとか、夫は本当に浮気しちゃったのかなとか、
――考えてもどうにもならないことが、お湯の中に溶けて消えていく。
ルールラーリラー ルーララー
料理も掃除も下手すぎたから愛想つかされたのかなーとか、どうやったら元の幸せな日々を取り戻せるのかなーとか、考えないようにすればするほど、考えてしまってボロボロこぼれ落ちる
――涙もお湯に溶けていく。
はぁ、とため息をつく。
なんとなく口ずさんでたメロディが、グリーンスリーブスっぽかったことに気づき、更にため息が出る。まったく、短調すぎて私らしくもない。
明日からちょっとだけ、痩せる努力をしよう。
鑑定眼で夫のことがもっと詳しく分からないか、聞いてみよう。
最初のお給料が出たら、息子におしゃれさせて遊びに行こう。
これからどうせガリ勉するのだから英語の勉強し直そう。
できることなら息子が小学生になる前にハワイとかにも行ってみよう。
あとは火魔法が使えるようになったらキャンプファイヤでもしにいこう。
大人なのに、ずっと大人になりたいと思ってた。
私はもうすぐ、やっと会社員になれる。
掃除も洗濯も料理も下手くそで、家族が帰って来なくなった私だけれど。
今日より明日がもっと明るい物であるように。
10代の頃の私が喜んでくれるような将来の姿になれるように。
春馬にもこの人の息子で良かったと思って貰える私になれるように。
そしてマッサージ中、何度か自分のあばららへんを触ってみたのだが、正面からだとどうやっても乳にあたるので、社長のことはいつか折りをみて殴ることを決意した。