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潤んだ瞳

作者: 後藤章倫

僕が暮らすこの街には古本屋が多い。何軒もの店が軒を連ねていて、よくこんな同じ様な店が何軒もあって潰れないなぁと要らぬことを思う。

僕はコンビニとかで雑誌や漫画は買うものの、なんというか、本というものには真面目に向き合っていない。


中学の頃、格好つけて文庫本を読んだ事があるけど、それは中身に興味があった訳ではなく、文庫本という物が何となくその時に格好良かったというだけで、読んでる姿をわざと教室で披露していた感じだった。


初めて文庫本を購入する際に書店で

「ブックカバーつけますか?」

と聞かれ、上ずった声で

「お願いします」

と言った事をまだ覚えている。ブックカバーが装着された文庫本は何だかイケていて、それを持っているだけで大人になったような、頭が良くなったような、そんな感覚だった。

文庫本の中身といったらその時話題のドラマ化や映画化をされたようなエンターテイメント性の高いやつで、たとえば文庫本を読まなくてもテレビや映画でその内容は確認出来た。

僕の読書はその程度だった。今だって周りの友達や同世代の奴らが本を読んでいるとは思えない。時期になると発表になる芥川賞、直木賞というものがどんな賞なのかも全くわからない。


そんな僕が今月から暮らすこの街には古本屋がいっぱいあって、別に古本屋が多く存在するからこの街を選んだ訳じゃなくて、身の丈に合う家賃の物件が偶々この街だっただけの事だ。


古本屋にも色々あって所謂古書店みたいなちょっと堅苦しいというか敷居が高いというかそんな店から、雑誌や漫画まで取り扱っていて、更に中古CDなんかも置いてある店、チェーン店のサブカルチャーショップなど様々だ。


古書店の奥には会計をする所があってそこには大体小太りの頭の薄くなった初老が眼鏡を鼻頭まで下げて此方を見ている。きっと客の査定をしているに違いない。

学生か?何か探しているのか?冷やかしか?間違って店に来たのか?お前の読むような本は無いぞ、と目がものを言っている。

そのプレッシャーに堪え本棚へ目を移す。まるでピンとこない。タイトルにも著者にも何の縁もない。


店主はもう僕の事など見ておらず広げた新聞に目を移している。

どうしよう?このまま店を出ようか?いや、そうすると店主の思うつぼだ。

「それみたことか、お前さんみたいな奴が来る処じゃないのだよ」


本棚の端から背表紙を追う。全く頭に入ってこない。暫くそうしていると見覚えがある名前が見えた。

太宰治、太宰治は知ってる。たしか教科書にも載ってた。そう、走れメロスだ。でも他の作品は知らない。知らないというか、あまり世間から好ましくないとされている印象が強い。

たとえば人間失格とか、あと何だ?えっとあとはやっぱ知らないか。人間失格にしても読んだ事はないし、何となく暗い話なのかなくらい。

そう考えると教科書に載るくらいの走れメロスの作者と賛否はあるものの毛嫌いされたりもする人間失格の作者が同じ太宰治という事が不思議に思えてきた。

そしてこの太宰治の短編集を買い求める事になった。


会計をしている時、店主は少し笑っているような感じがした。小馬鹿にされているような。


案の定、アパートの部屋に帰ってからもこの本は暫くの間読まれる事は無く、部屋の隅に一週間程放置された。


アルバイトで生計をたてている。フリーターというやつだ。特に何かを目指している訳でもなく、社会に束縛されたくないというだけの理由でこの生活を続けている。

アルバイトとはいえ仕事場ではそれなりに責任があって、入社したばかりの新人正社員よりも仕事はわかっているし、正社員よりも休日は少ない、そのくせ様々な保証は無い。

年齢の事、彼女の事、田舎に居る両親、同じくらいの歳の奴ら、そんな事が頭を過るようになっていた。

何か、仕事に縛られてるなと思うようになり、大体これではフリーターの意味があるのか?と自問自答したり、上司からは正社員への誘いを受けたりもしていた。


同じくフリーターとして働く役者を目指す奴がいて、偶々本の話になった。

奴は本を読んでいた。川端康成、芥川龍之介、坂口安吾、村上春樹なんかの名前が出たけど僕はさっぱりわからなかった。そしてあまり好きではないけどと前置きして太宰治の名前があがった。


この日、仕事を終え最寄の駅に降り立つとあの古書店の前を通り、A定食が650円の喜代須屋で夕御飯を済ませ帰宅した。

あの日、買ったままでまだ古書店の匂いがする太宰治の短編集を手に取った。


どうやら初期の短編集らしかった。読み始めると文字が全く頭に入ってこなかった。

一体何が書いてあるのか、どういう言葉なのか、同じ日本語なのか疑問ばかりが浮かび早々に本をたたんでビールを飲んだ。


太宰治についてちょっと調べてみると両極端だった。太宰ファンというか熱烈に好きな人とアンチ太宰で酷評しまくる人。

どちらにせよ魅力的なのだろうとあの短編集を手にとる。五つ目の話を読んでいる時に何となく思った。

「面白いんじゃないか、引き込まれているんじゃないか」


あの古書店に行き人間失格を購入。店主は

「何だ?太宰だから人間失格か?単純な奴だ」

とでも言っているようだった。

人間失格はまた違っていた。あの短編集より大分現代に近かった。めくるめく感情と行動が赤裸々に書いてあった。


そして気が付くと太宰治ばかりを読み漁るようになっていた。あの古書店だけじゃなく様々な古本屋へ赴いていた。

仕事を厭になった時も、彼女と逢えない週末も、酒を飲み過ぎた翌日も、太宰治を読む事でなんか満たされていった。

内容も然ることながら文体が心地よかった。暗いと言われていたが、そんな事はなかった。現に声を出して笑った事が何度もある。


何故、本を読む人が少ないのだろう?と考えて恥ずかしくなった。少し前の自分が居たからだ。テレビがあり映画があり、それでさえも見なくなってるという。パソコンやスマートフォンから何も考えなくても情報が勝手にやってくる。

コレを見なさい、聞きなさい、大丈夫、間違いない、褒め称えなさい、買いなさい、やりなさい。と言われているようだ。


「うちはね池なんだよ、何回間違えばわかる?失礼だと思わないかよ?」

怒り心頭でクレームの電話をいれていた男は、何かちょっとした事でも直ぐに文句を言ってくる取引先である菊池産業の部長だ。

部長といっても三人しか居ない小さな町工場の名目上の部長だ。書類に一ヶ所、菊池産業という箇所が菊地産業となっていただけである。

キクチのチが池だろうと地だろうとそんな事どうでもいい。大体この部長は小さい事をチマチマ言ってくる。

「大変申し訳御座いません。今後こうした事が無いようにしますので」

と、無表情で対応した。

「あんたさ、前もそう言わなかったかよ」

菊池をカタカナで書くとキクチとなって、その並び順というか字面で何となくキチガイと見えてくる。

「チッ」

心の声が漏れてしまった。

「あ?何今の?なんつった?」

電話口で部長がキレそうになったみたいだ。そんな時に太宰治の色々な物語が頭の中に現れ、僕は何でこんなことをしているのだろうと思い

「煩い」

と低く呟き受話器を置いた。直ぐにまた電話が鳴ったけど僕は事務所から出て行った。


昼間からアパートの自分の部屋でビールを飲んだ。彼女に電話して別れを告げた。

「何言ってんの?酔ってる?なんで?ねぇなんで?」

と言う彼女の次の言葉を聞かずに電話をきった。もうなんか色々どうでもよくなってきて、ウイスキーを炭酸水で軽く割って飲み始めた。


炭酸水がなくなったけどもうストレートでどんどん飲んで部屋がグニュグニュに歪んでいた。

どのくらい寝てたのだろうか、窓の外は薄暗く夕方なのか早朝なのか分からなかった。頭はまだクラクラするけどシャワーを浴びた。少しばかりの現金をジーンズのポケットに押し込みパーカーを羽織り早朝の街を駅に向かった。

伊豆へ行こう。なぞるようにそう思った。浅はかだとも思ったけどもう電車の中に居た。


駅前は静かだった。そんなに都合よく女の人もなかった。僕は何をしてるんだ?何をしようと思ってるんだ?

おみやげ物売場でハイボールを買った。それをやりながら海の方へ歩く。別に死にに来たわけじゃないし太宰治のパロディをやってるつもりもない。

漁港がある。堤防を歩くと際に小魚が見えた。何という魚かはわからない。ぬらぬらと六匹で泳いでいる。潮のかおりとアルコールの匂いが合わさる。

「なんだよ菊池産業って、ハハハ、馬鹿みたいだ」

振り返ると小高い丘の上に神社が見える。何となくそこを目指す。暫くすると腹が減ってる事に気付いたけどとりあえず神社まで行こうと思い歩いた。なにがそうさせたのかは分からない。

松林の中の小さな鳥居をくぐると古い神社が建っていた。神社の裏手に廻ると崖になっていて崖下には海が広がっていた。

「こんな所から落ちたら死ぬな、なんかそういう話もあったな」

丸い石があって、踏み台みたいな大きさで乗るとちょうど良い目線で景色を見れる感じがしたので片足を石に置いたら滑って尻もちを突いた。

「危っ、落ちたら死ぬから」

神社をあとにしようと立ち上がると女の人と目があった。着物を着た落ち着いた感じの人で瞳が潤んでいた。

なんて声をかければ良いのかわからなくて歩きだそうとした時、女の人も一歩前へ進んだ為に少し驚き後退りをした。

それがいけなかった。かかとを丸い石に掬い上げられ僕は落ちた。女の人の瞳だけが頭に残った。


真っ暗で波が打ち寄せる音が聞こえ、水しぶきがかかっているようだった。身体の感覚は無くなりそれから…


僕は女の人の胸に抱かれて小さくなっていた。崖下の岩場に人形のようなものが見える。


ふと、あの古書店の店主の顔が浮かんだけど意識が消えていく。



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