3 心の傷と
かすかに鳴る、カエルと虫の声。それが耳につくくらい、今夜の寮は、静かだ。
夏休みに入り、半数の生徒が帰省して不在だからだ。
お盆まで帰省しない勇は、暑さと退屈さで、眠れずにいた。
竜との決闘以来、力はスムーズに発動するようになった。
あの日のポケットには、咲のケータイの、メアドと番号のメモがあった。自分のケータイに登録したし、メモは大切に机に挟んだ。
ただ、照れ臭くて、メールなんて、出来ないけれど。
自分は、なんでこんなに、咲にこだわるのか。咲のことを考えると、なんで力が出るのか。
ただのクラスメイトなのに。
美人だから?つぼみに似ているから?
どこか影のある作り笑いが、切なくて、勇の心を揺らすから……?
そのとき、
外の音に混じって、女性の小さな歌声が聴こえてきた。
切なく求めて、むげに振り切るような…
勇は、声に導かれるように、庭に出て行った。
「咲?」
寮の庭で歌っていたのは、なんと咲だった。しかし、振り向いた咲は、いつもと様子が違った。
いつもの作り笑いが消え、薄氷のような透明感のある、見すかすような美しい眼差し。
「いや…咲…じゃないのか?」
そう尋ねると、咲は表情を崩した。
「…君が、勇か。ようやく会えた。夜更かし、してみるものだな。
……よく分かったじゃないか。咲が多重人格障害だって、知ってたのか?」
「いや、初耳。」
ふっ、と、彼女は笑った。いつもの咲とは違う、どこか大人びた色っぽい笑顔。
「はじめまして。私の名前は殺鬼。
咲のトラウマとか負の感情とか、そういうのを請け負うため生まれた人格。まぁ、咲の姉兼カウンセラー役だと思ってもらえれば結構。」
トラウマとか何とか言われても、勇にはよく分からなかった。
「スターターは、命の危機で覚醒することが多い。しかし、それだけではない。心が枯れるような、愛の飢餓、ストレス。
勇、君も心当たりがあるんじゃないか?」
勇は、心がざわつくのを感じた。
父の、ゴミを見るような表情。
母の、怒りと悲しみに満ちた怒号。
諦め。逃避。八つ当たり。バカみたいに明るく振舞って、喧嘩だけが、強くなって……
(駄目だ、忘れろ……!)
勇は勢いよく頭を振って、記憶を追い払ってから、殺鬼を睨みつけた。
「おっかない顔。でもね、君だけじゃないから安心しろ。せっかくこうして会えたんだ。咲の過去のこと、こっそり教えてあげよう。」
殺鬼は、目をつぶって、語りはじめた。
咲は、芸能カップルの長女として生まれた。幼い頃は、音楽やダンスの英才教育を受け、すくすくと育った。
しかし、咲の妹が生まれると、事情が変わった。
妹は、アイドルとしての才能…音楽、ダンス、見た目の可愛らしさ、内面のしなやかなしたたかさ…すべて、天才だった。両親は妹の英才教育とプロデュースに夢中になり、咲は放置…食事さえ、忘れられるようになった。
頑張っても、妹には勝てず両親の愛は得られない。それどころか、注意を引こうと振る舞う咲は、邪魔者とされた。
幼少期のレッスン漬けのせいで、友達の作り方も知らない。
咲は、孤独な少女になった。
事件は、中一の全校登山行事で起こった。
咲のやつ、崖から滑落して骨折。しかも、遭難したのだ。
探してくれる友達なんていないし、何より、咲は生きる気力を失っていた。
光も、風の音さえない、あの世のような崖の下で。
(足、痛い。寒いのに、汗が止まらない。私、死ぬのかな。……まぁいいや。どうせ、誰も、困らないし。それに、もう、頑張るの疲れちゃったし……)
音のない世界に注ぐ、力の清流。
川のように、若木の葉のそよぎのように、ざわざわと、咲の心を洗う。
(駄目だ、咲。諦めずに、生きろ。)
そのとき生まれたのが、
新しい人格である私と、私たちのスターター能力だ。
(だれ…?)
(殺鬼。咲の心の傷から生まれたんだ。お前の負の感情は、私の糧だ。私には、お前が必要だ。だから、生きろ。)
(…よく分かんないや。どうすればいい?)
(生きたいと、強く願え。私たちのために。それが私たちの、力の形になる。)
「…分かった。」
風は、咲自身。
心身を揺さぶる、透明な美しさ。包み込むような柔らかさ。身を刺す鋭さ。気まぐれで天邪鬼に変わる風向き。
ざわざわと、木々が揺らめく。
甘い血の香りが、冷たい決意が、大地を駆け下りていく。
人の気配を嗅ぎ取った警察犬が、こちらに吠えながら向かってくるのが聴こえた。
(生きよう。もう、弱くはない。もう、独りぼっちじゃないから……)
それからすぐ、咲は叶中にスカウトされ、転校した。
その秘めた攻撃性…いや実力を発揮しはじめ、瞬く間に学年トップクラスに躍り出た。
自信が芽生えはじめ、友達ができるにつれ、咲に笑顔が増えてきた。
しかし、咲は誰にも心を許さない。
自分を可愛がっていた両親の手のひら返し…外見だけで寄ってくる軽薄な男たち…咲が自分を守るためには、そうするしかないからだ。
いつか、本当に信じられる相手ができたら、私は消えるのかもしれない……
「大人気ジュニアアイドル、やまとなでしこ。知ってるか?」
「おお、めっちゃファン。CD全部持ってる。…ってまさか…なでしこちゃん、って…」
「彼女こそ、咲の妹だ。」
「うあああ、マジか!!確かに似てると思った!!てゆーかファンなのバレたら八つ裂きにされるじゃねーか!!」
ひとしきり、頭をかかえる。
「…って。なんで、こんなこと、俺に話してくれたんだ?」
「私が、お前を気に入ったから。」
咲の顔で、そんなこと言われて。
勇が、次の言葉に詰まる。
「咲の裏から見てたよ。ほぼ反射的に、咲を守る、お前の様子。咲だって、まんざらじゃないみたいだよ。」
「嘘だぁ。話すたびバカバカ言われてんだぞ。…確かに、俺は大馬鹿だ。」
風が、涼しくなってきた。
勇は、苦笑しながら、冷たくなった汗を手で乱暴に拭う。
殺鬼の独白に、自分もそうしなきゃいけない気分になり、
早口で、吐き出した。
「金持ちの家に生まれたからって、調子乗って馬鹿やって。あまりに馬鹿すぎて早々に跡継ぎから外されて。親泣かせて。ヤケになってさらにグレまくって…あげく、幼馴染を一人巻き込んで死なせた。どうだ?咲に釣り合うわけない、とんだ大馬鹿だろ?」
「釣り合うかどうかは、咲が決めるさ。咲が見てるのは、過去じゃない。今のお前だからな。」
再び詰まる勇に、殺鬼がクスクスと笑う。
「こんなこと、お前に話したのは内緒だぞ。咲に知られたら、精神水面下で大喧嘩になる。」
「当たり前だ。とばっちりで、照れ隠しで俺まで八つ裂きにされる。」
「違いない。」
2人はひとしきり笑うと、おやすみの挨拶をして、部屋に戻った。
勇は、もう寝苦しさを感じなかった。
咲を守る、その気持ちに迷いは無くなった。
そして不思議と、自分の過去とも、少しだけ踏ん切りがついた気がした。
涼しい夜風が、勇を夢の世界へ誘った。




