03
「何からお話すれば良いのでしょうか。アレク様が来るまで、ずっとそればかり考えていたのですよ」
秘密の花園、人目に触れづらいそこでアレクは“姉”のアメジストと向き直っていた。
ここはかつてアレクが“アメジスト”に初恋をした思い出の場所だった。そこに立つアメジストは、その記憶の少女がそのまま育ったような姿をしていて。けれど、同じ場所だからこそ決定的な違いを感じてしまう。
目だ。その紫水晶のような瞳は、とてもよく似た色彩なのに記憶の瞳と重なる事はない。自然と握った拳に力が込められるのを感じる。それでもアレクはアメジストから目を逸らす事はしない。
「……アメジスト、と呼んで良いのか?」
「はい。もし、貴方にそう呼んで頂けるのであれば」
「……まったく私の目も節穴だな。入れ替わっている事に気付かないとは」
前髪を掻き上げるように掴みながらアレクは呟く。本当に滑稽だと、そう思える。初恋だった少女が入れ替わって自分の目の前にいた事に気付かず、いつから彼女が“姉”で、“妹”だったのかはわからない。
それだけに記憶の中の彼女を思い返して見ても、こんな異常でもなければ気付く事が叶わなかったのだから。
そんなアレクの言葉を聞いてアメジストは柔らかく微笑む。アレクとの距離を詰めて、強く握りしめている拳をそっと持ち上げて指を解かせる。
「……その為に、私もたくさん努力を重ねました」
「……何?」
「貴方を、心の底からお慕いしていたのは事実なのです。貴方は覚えていらっしゃらないでしょうが、この花園であの子と出会う前から私は貴方をお慕いしていたのです」
「……そう、だったのか」
「はい。その後です、あの子が“未来”について口にしたのは。そして私は、私が破滅する運命を知る事となりました。それからです。あの子が私の替え玉となり、入れ替わるようになったのは」
縋るように、祈るようにアレクの指を絡めた手に額をつけるようにしてアメジストは呟く。
「……何故、あの子は“未来”を知っていたんだ?」
「私も詳しくは。ただ、彼女は生まれながらその事実を知っていました。私がアレク様をお慕いしていると告げた時に思い出したそうなのです」
「……わからないな。何故、そんな未来を知り得る事が出来たのか」
「あの子曰く、それは“よくある事”なのだそうです」
「よくある事?」
「はい。あの子が“私の妹”として産まれる前、そこで彼女はこことは異なる世界にいたと言うのです。私は、まるで神の国だと思った程です」
「神の国?」
アレクの疑問に神妙な表情でアメジストが頷いて見せる。
「はい。その神の国では、私達の運命が無限に紡がれているそうなのです。そして、その神の国の住人はある日、気まぐれのように私達の世界に現れると言うのです」
「……それは、確かに神のようだな」
「でしょう? あの子はそうではない、とは言っておりましたが。この説明が一番わかりやすいのです。……それでですね。下界に降りられた神は人としての人生をやり直すのです。時には神の如き力を得て、時には報われぬ運命を背負う子となって運命を覆す為に。それはまるで“物語”のように紡がれると言うのです」
「……だから“本”と称したのか。数多に紡がれ続ける物語だからこそ」
「はい。そして、未来はまだ白紙なのです。しかし、完全な白紙ではなく、在る程度筋書きが定められているのです。その筋書きこそが……」
「“運命という強制力”……」
ごくり、とアレクは唾を呑み込んでしまう。まるで信憑性のない、まるで御伽話のような話だ。こんな事が我が身に降りかかるなど、想像した事があっただろうか。
時間を置いたからこそ、少し冷静に考えられるようになった。そして今起きている事態の重さを感じる事が出来る。胃が縮むような思いだった。
「……その、“運命の強制力”とやらは覆せないのか?」
「出来ます。ただ“覆し過ぎる”のもあの子は恐れていました」
「何?」
「筋書きがわからなくなると言うのです。運命の破綻は世界の破綻に繋がるかもしれないと。この世界が物語のように紡がれるのであれば、物語が筋書き通りに進まなかった時……この世界が崩壊する可能性もある、と」
「……馬鹿な。そんなの、一体どうすれば良いんだ」
「なるかもしれない。でも、ならないかもしれない。……えぇ、えぇ。恐ろしい話でしょう。理不尽な話でしょう。それを確かめる事は、私達にはどうしても出来なかったのです。だから筋書きを護りながら、破滅を回避せんと振る舞ったのです」
毅然とした表情でアメジストは顔を上げてアレクを見つめる。凜としたその姿は侯爵令嬢として見惚れてしまいそうな程に美しい。
「妹の死を装い、姉妹で“アメジスト・ファルカス”という令嬢を象りました。誰にも疎まれず、立派な振る舞いを心がけ、誰からも尊敬される令嬢となろう。……運命を覆す程に魅力的な人物になろう、と」
「……君は」
「なりたかったのです。誰からも認めれる素敵な令嬢に。傲慢ではなく、高飛車でもなく、嫉妬に狂って破滅する女になど……なりたくなかったのです」
つぅ、と。アメジストの両目から雫のような涙がこぼれ落ちる。
彼女はどれだけの努力を重ねたのだろうか。10年という長い月日、人知れず“運命”という重圧と戦い続けてきた彼女は、果たしてどんな思いで今日を迎えたのか。
目の前にいる彼女だけではない。今は牢獄に囚われてる彼女も。2人で1人の人間を描き続けた彼女達の心情をアレクには計り知る事は出来ない。
「……あの子を、“アメジスト・ファルカス”として処刑させるのは最後の手段でした」
「最後の手段……?」
「私達は“運命”を覆す事で世界が崩壊するのを恐れました。私達がどんなに信用を重ねても、強制力に囚われた人間は筋書きを描き出す為に……その思考を運命に奪われるかもしれないと。事実、似たような事があったのです。だから私達はそれを警戒していました」
「……ルビオのようになる、という事か」
あの聡明だった友人が、まるでアメジストが全ての諸悪の元凶だと言うように訴えてきた姿を思い出してアレクは眉を寄せる。
それは……恐ろしい。なんと恐ろしい事なのだ。発狂してしまいたくなる。昨日まで友だと信じていた人間が、切っ掛けによって別人のようにすり替えられてしまうのだ。
そんな世界で生きて行くなど、アレクには恐ろしくて堪らなかった。
「それでもどうにもならない時は“アメジスト・ファルカス”ならぬあの子が、アメジスト・ファルカスとして処刑される。その矛盾を叩き付ける、と」
「……それで“運命”を覆す、と」
「アメジスト・ファルカスの死はどの物語にも語られる程に“因果”が強い、歴史の転換点と呼べる瞬間だとあの子は語っていました。つまり、運命の作用が最も強く注がれる瞬間です」
「だからこそ、覆す事に価値がある、と。それにあの子は半分、アメジスト・ファルカスだ。“運命”が覆される事で世界が崩壊するかもしれないという可能性も」
「これで最小限に抑えられる。……そう、私達は目論見を立てていました。立てて、いたのです。ですが……ですが!」
堪えきれない、と言うようにアメジストは首を左右に振りながらアレクに縋り付く。
なんと細い肩なのだろう。手も柔らかく、女性らしい手そのものだ。これまで気丈に振る舞っていたアメジストは涙を零しながら叫ぶ。
「私は! あの子が死んでまで、生きたいなどと願いたくなかった! ただ……好きな人に好きと言って、立派な淑女になって、……貴方に、見初められたかった」
「……アメジスト」
「全ての運命を乗り越えて、もう“私”じゃなくても良いあの子をちゃんと名前で呼んで! 一緒に、未来を願いたかった! 一緒に生きたかった! なのに、なんで!? どうしてなのですか!? まだ私が傲慢だと、愚かな嫉妬に狂う女だと! そう言うのですか!? 頑張ったのです! 血も涙も流す程に……なのに、どうして……!!」
震えながら縋り付くアメジストの叫びにアレクは顔を顰める事しか出来ない。せめて、その震える肩を抱いてやる事しか自分には出来なかった。
彼女が落ち着くまでどれだけかかっただろうか。赤くなった目を隠すように目元を拭ったアメジストは、先程までの激情が嘘だったかのように静かな振る舞いを取り戻す。
「……私に」
「……はい?」
「私に、出来る事はないか?」
咄嗟にアレクが紡ぎ出した言葉がそれだった。アレクの言葉にアメジストは息を呑み、目を見開かせる。
そして……花が開くかのように優しく微笑んだ。心の底から嬉しそうに、とても幸せだと言うように。
「――私と、全てを捨ててくださいませんか? アレク様。国も、名前も、責務も、運命も捨てて。私を……愛してくださいませんか?」
……乞うように、願うように。
“彼女”は口にした。その思いを、アレクは……ゆっくり息を整えて告げる。
「――すまない」
断ち切る。その、思いと願いを。
「私は、2人の人間を愛せる程に……器用じゃない」
自分が愛したのは――未だに初恋の“あの子”だけなのだと。
嘘はつけない。人生の全てを注いだ彼女にだからこそ、嘘はつけない。つきたくなかった。
彼女もまた“アメジスト”だった。きっと、自分の為に“良き女”となってくれた。そこまで尽くしてくれた事に万感の思いさえ感じる。
それでも、やはり彼女は“初恋のあの子”ではないのだ。
「私は、例えそれでも……王子である事を捨てられない。捨てる訳にはいかんのだ。運命に翻弄される事で、人が人らしく生きていけない世界など私には耐えられない」
「……はい」
「運命を覆した世界が続くかもわからない。だからといって、運命の通りに進んだ世界で続きがあるのかも、わからないのだろう?」
「……はい」
「それは人知及ばぬ、私達が与り知らぬ神の領域だ。人が思い悩む事など、所詮は些末事なのかもしれない。考えても仕方ないと、抗っても仕方ないと。その上で全てを諦める事も……また潔いのかもしれない」
それでもアレクサンド・フォン・エルメライトはこの国の王子なのだ。
国を率いて導き、守らなければならない義務があるのだ。国民の為に、それがどのような敵であっても。王族が屈するという事は、それは即ち国の屈服に他ならない。それだけはどんなに安寧を欲しても、頷いてはならない。
「それに、あの子が死ねば世界が救われるとして」
「……はい」
「私は、これっぽちも幸せではない」
アレクの返答にアメジストは誇らしげに微笑む。その返答を待っていたと言うように。先程流した涙とは別の涙を両目から流しながら。
「それでこそ、我が忠誠を捧げるに相応しき王子の姿でございます」
「止してくれ。……すまない、君の想いには応えられない」
「はい。はい、わかっています。だって私も“アメジスト”なのです。あの子は私の偽物でしたが……貴方にとっては、私こそが偽物だったのでしょう」
泣き笑いのような表情を浮かべながらアメジストは、……いいや。
アレクにとって“初恋の君の姉”である彼女は満足げに頷いた。
「どちらを取って頂いても、私は幸せだったのです。“私自身”を愛されるのも、“私達”を諦めないでくださる事も。どちらでも……望外の喜びを感じるのです」
「君の想いを切り捨てるのだ。なら、私とて腹を括ろう」
「覆した運命の先に、未来が無くとも?」
「それでも、諦めてなるものか」
「貴方も、この先運命にその意志を奪われるかもしれなくとも?」
「奪わせぬ。神であろうと、世界だろうと、運命だろうと。私は、私だ。アレクサンド・フォン・エルメライトだ!」
「御意に、我が君よ。どうか、この国を導いてくださいませ。私は……まだ未来も、あの子も、諦めたくはないのです」
胸元に手を添え、もう片方の手でスカートの端をつまみ上げるようにして“初恋の君の姉”である彼女は深々と礼をする。
腹は括った。挑む敵は“人の意志をも操る運命”そのもの。神とも、世界とも言うべき相手だ。勝ち目など見えない、神なる者が真にいれば無様に見えるかもしれない。
それでも、諦めたくないのは。それでも、そう叫ぶ心が震えるのは。
「……あぁ、本当に悔しい。悔しいですわ。私が最初でしたのに」
「……すまない」
「いいえ。……いいえ。私達は、2人で1人だった。だから、ありがとうございます。これで私は“私”だと、胸を張って言えるのです。……王子、どうか、最後に我が儘を1つだけお許しください」
「……私に出来る事なら」
「思い出だけ下さい。……決別の為の、優しく残酷な思い出を」
アレクの両頬に“彼女”の手が添えられる。涙が浮かぶ紫水晶の瞳が自分を覗き込んでいる。その瞳が伏せられるのと同時に、アレクは身を屈ませるように距離を詰めた。
酷い罪悪感の味だ。一生思い出として残るだろう、胸を裂くような痛みが刻まれていく。
「……お慕い、しておりました」
「……あぁ、だが」
「良いのです。……私は、今ここで死んだのです。あの子だけを死なせませんとも」
「……救ってみせる。何に代えても、それだけは絶対だ」
「はい。……私は、表舞台に立つ事は出来ません。影ながら抗う事にします。だから、どうかご武運を」
“彼女”がそっと離れる。距離が離れ、一歩、二歩と下がっていく。
月の光が雲によって遮られる。一気に深くなる闇の中に飲まれるように、その姿が見えなくなっていく。
「私は、これで自由なのです。名も、証も、全てを置いていきます。ありがとうございます、王子。貴方は私から永遠に“愛”を奪い、私が欲した“夢”をお与えになったのです。どうか――あの子を、“私ならぬ私”をよろしくお願いします」
“彼女”の姿が完全に闇に溶けるように消えた。
気配もない。再び月の光が差し込んでも、その姿を確認する事は出来ない。
唇を指でなぞる。舌に残るのは……涙の味だ。酷く、酷く苦い、そんな味が残り続けた。
こうして1人の少女が、歴史の闇に呑まれて消えた。
“配役”は舞台を降りた。こうして1つ、有り得た道が閉ざされたのであった。
* * *
貴族学校はにわかに騒がしい。誰もがひそひそと小声で話し、周りの目を気にしている様子だった。
誰もが口にするのは“アメジスト・ファルカス”の悪行についてだ。自らの手を下さず、1人の令嬢を徹底的に追い込もうとしたその手口に恐怖を覚えると。愛と嫉妬に狂った悲しい人なのだと。勝手にその姿を描き、怯え、憐れみ、憤る。
世界とはこんなに煩わしいものだったろうか、とアレクは思う。つい先日まで日々を謳歌していた筈の日常はすっかりと無感動な灰色の世界へと変貌していた。
(……さて、どうしたものかな)
“彼女”は影ながら動くと言っていたが、正確に言えば“表舞台に立つ事が叶わない”のだと思う。
“彼女”の正体がばれて運命が狂う可能性も、或いは正しく運命が成就する事で、人の意志が奪われる結末が描き出される可能性がある。
何をしても、何を成し遂げても、何を失敗しても世界が狂う可能性がある。まるで砂上の楼閣のようだ。いっそ、この全てが夢であれば良いと願う程に。
(現実逃避をしている場合か! ……しかし、味方と言える味方もいないな)
自分がすべき事は何だろうか。“彼女”達が語る話を思い返せば、この世界は“運命”という物語の筋書きのように進むように仕組まれている。
それに抗おうとする者は、思考を“運命”によって改竄される恐れもある。その条件は? 彼女達は何故無事だったのか?
彼女は“観測”という視点が必要だと言っていたが、その“観測”とは何だろうか。未来を知っている事? ならば未来の可能性を話す事で誰かを協力者として引き入れる?
それが出来るなら、既に彼女達だってやっているだろう。自分とて半信半疑だ。そう簡単にこの話を呑み込んでくれる者など。
(考えてもキリがないな。答えがない泥沼のようなものだ。……何故と問うのではない。何をどうするべきかを考えろ)
運命の大きな転換点はアメジストの死だ。なら、シンプルに考えてアメジストの死を覆せば良い。
彼女はその悪行を暴かれ、その罪状を突きつけられる事で処刑される事になるという。
ならば彼女の罪が冤罪だと、そう証明する事で処刑を回避する事は出来ないだろうか?
(……調べてみる、か)
何をすれば良いのかはわからない。しかし、何もせずにはいられない。
意を決してアレクは顔を上げる。すると、目の前に誰かがいる事に気付いた。
「きゃっ」
「……何だ?」
「も、申し訳ありません。アレク様」
思考に意識が取られていたせいか、その人物の確認が遅れてしまった。
それが誰かのか認識して、アレクは思わず腹に力を込めてしまった。
大人しくも、派手ではなく素朴で、けれど人目を引く顔立ちをしている少女だ。
心配そうな表情を浮かべてアレクを覗き込んでいる少女こそ、クリスタ・フィロニア男爵令嬢その人であった。
「アレク様……その、大丈夫ですか?」
「……何がだ?」
「……お辛そうな顔をしていましたので」
誰のせいだと思っている。そう怒鳴りつける事が出来たら、どれだけ心は晴れただろうか。
奥歯が砕けんばかりに噛みしめながら、しかし怒りや動揺を表に出す事もなくアレクは表情を消しながら呟く。
「……君に心配されるような事ではない」
「で、でも……!」
「君が出来る事は、真実を詳らかにする事だ。私はこの国の王子だ。この件に関しては真実が明らかになる事を望んでいる。何が起き、何故そうなったのか。私はただ、それが知りたい。それがこの憂いを晴らす唯一の手段だ。君にもその一助となる事を望んでいる」
「……はい! わかりました!」
出来るだけ冷静に振る舞えるように心がけながらアレクは淡々と告げる。
すると、クリスタは意を決したような表情で顔を上げ、大きく頷く。
「私も、誤解がないように解きたいと思います! ……ルビオ様も、私やアメジスト様のせいでアレク様と仲違いしてしまったのですよね!? 私、本当に、申し訳なくて……!」
「……君はルビオと親しかったんだったか」
「はい。ルビオ様も、あの一件で酷く怒っていて……で、でも! アレク様のアメジスト様を信じたいという気持ちも、私は尊重したいと思っています! ですから……私にも、どうか誤解を解く機会を与えてくださいませんか!?」
落ち着け、力を抜け。悟られるな、そっと息を吐き出せ。
「……私が望むのは真実が明らかになる事だ。君がそう振る舞えば、自然と機会は与えられるだろう」
「……ありがとうございます!」
「君には期待している、クリスタ」
そっと肩を叩いて、横をすり抜けるようにしてアレクは立ち去る。
早く人のいない所へ、この仮面が剥がれ落ちる前に。溜めに溜めた怨嗟が誰にも見られないように。
早足でアレクはその場を立ち去っていく。その背を、クリスタがずっと、ずぅっと見つめている事に気付かないままに。