01
別作品の息抜きに書いてみました。お暇つぶしに良ければどうぞ。
今でも、その瞬間を覚えている。時が経っても、その思い出が色褪せる事はない。
今にも溶けて消えてしまいそうな儚さを纏った少女だった。あまりにも現世から懸け離れたこの世の人とは思えない程に美しく。肌が粟立つ程に見惚れていた。どうしようもなく心を奪われた。
自然と声をかけて、名を尋ねていた。瞬きの瞬間に失われてしまいそうなこの出会いを無に帰したくはなかったのだ。
緩慢な動作で少女は振り返った。その紫水晶の瞳は私を見た瞬間、心臓が早鐘を打つように高鳴った。あまりにも美しい。だから手を伸ばして、触れたくて、捕まえたくて。
「お名前を」
「え……?」
「お名前をお伺いしても?」
声は酷く静かで、鈴の音を思わせるようだった。あまりにも静かすぎて感情の色を感じさせない。やはり自分を取り巻く少女達とは違う。自分を見つめる少女達は羨望の色や、黄色いと称したくなる声を甲高くあげるのだから。
だから声が詰まってしまった。あまりにも熱に浮かれた自分が恥ずかしくて、それでも彼女と言葉を交わしたいと望む気持ちが抑えられずに。
「私は、……アレク。アレクだ。そして君の名前を教えてほしい」
「アメジストと申します。アレク様、お会い出来て光栄でございます」
1度瞳を閉じて、その名前と同じ紫水晶の瞳を彼女は隠してしまった。
それがどうしようも惜しくて、その瞳を開いて欲しくて見つめてしまう。
「……そんなに見つめられては、火がついてしまいそうですわ」
「えっ、あ、その、すまない……!」
何故見てもないのに、と。そんな疑問を口にする前に謝ってしまった。
すると少女はくすりと笑ったのだ。
「王子ともあろう方が簡単に謝罪してはいけませんよ」
「……うっ、知っていたのか。すまない、非礼を詫びよう」
自分が“名前を最後まで”名乗らなかった事に気付かれて気恥ずかしさに身を悶えさせてしまう。
アメジストと名乗った少女は、再びその紫水晶の瞳を開いてくれた。優しげに目尻が下がるのがよく見えた。
「よく出来ましたね」
あぁ、この人に恋をしてしまった。
アレクサンド・フォン・エルメライトは、そうして初恋へと落ちたのだった。
それは舞踏会を抜け出した、秘密の庭園での出来事。永遠に胸に残り続ける思い出の欠片。
* * *
アレクサンドがアメジストと再会したのは、それから10年も後の話になる。
彼の初恋は、彼女との再会で仄かに蘇った。再会の場所は、貴族学校での入学式での事。
アメジスト・ファルカス侯爵令嬢。深窓の令嬢として名高き美しいご令嬢との再会はアレクの胸を高鳴らせた。
アメジストは体が弱いらしく、この10年の間、表舞台に立つ事はなかった。本来であれば貴族学校に入学している筈が、卒業を控えた最後の年だけ特別入学を果たしたのだ。
体は病弱なれど、成績は優秀。礼儀作法も完璧であり、個人的な親交を持つ者達はこぞってアメジストの美貌と器量の良さを褒め称えるのだ。
そのアメジストが、ついに表舞台に姿を現したのだ。それはすぐに話題を掻っ攫い、注目を集める事となる。
「おぉ、アレがアレクが一目惚れをしたっていう深窓のご令嬢か?」
「ルビオ、うるさいぞ」
「おー、怖っ、そんな顔で睨むなよ」
茶化すように声をかけてきた青年にアレクは睨み付けるように鋭い視線を飛ばす。
彼はルビオ・メテオール。メテオール公爵家の息子であり、アレクとは従兄弟にあたる腐れ縁だ。アレクが赤紫色の髪色に対して、ルビオは燃えるような赤髪だ。並べば目立つ2人は学校でも美男子コンビとして持て囃されていた。
「押しても引いても靡かない頑固王子がご執心の華がついに姿を現したんだぜ? ちょっと茶化したっていいだろうが?」
「うるさい、黙れと言ったんだ」
「で? 声をかけにいかねぇの?」
「うるさいと言っている!」
顔を真っ赤にしてアレクはルビオを睨む。それは怒りの為か、或いは。そこまで考えてルビオは肩を竦めて視線を移す。
視線の先にはアメジストに是非声をかけようと生徒達が押し寄せて人垣を作っている。この従兄弟は出遅れてしまった為に、王子という身分が足を引っ張っているのだ。何せ王子である彼が人垣に近づけばすぐに割れてしまう事だろう。
それを要らぬ注目を集めているのだとアレクは思っているのだろう。まったくもって不器用な奴だとルビオは溜息を吐く。
「まぁ、良かったじゃないか。これでお前の嫁選びも一安心だ」
「……うるさい」
アレクが言い返してくるも、その声は弱々しいものだった。
その理由はアレクが王子の身分でありながら、未だに婚約者を決めていない事に起因している。王子ともなれば将来は世継ぎを生まなくてはならない。だが、初恋を拗らせたこの王子はただ一途にその思いを護り続けてきたのだ。
「一応、暫定的な婚約者で、という話ではあったんだったか?」
「……あぁ、そうだ。だが、正式に婚約者となるのは彼女の体が治ればの話だ。あと1年、彼女の健康が改善されなければ白紙にされる所だった」
確かにアレクは婚約者を決めていない。しかし、暫定的な婚約者として名を挙げられていたのがアメジストなのだ。
ただ、アメジストはこの10年間表舞台に出れない程に体が弱かった。それで王妃に迎える事が出来るのか、と反発の声が大きかったのだ。
しかしアレクが頑なに譲らなかった為に、アレクが学校を卒業し、成人となるまでに改善が見られれば無事、2人の婚約を正式に結ぶという話の運びとなったのだ。
「今まで文通でしかやりとりしてなかった愛しの君が現れて動揺するのはわかるけどよ。いい加減腹括って行って来いよ」
「わかっているっ!」
本当は真っ先に駆け寄って声をかけたかった。それでも、それをしなかったのは恥ずかしい自分の姿を見せたくはなかったからだ。
しかし、そうしている内に声をかける機会を失ってしまった。人垣を掻き分けてでも声をかけにいくのも王子としてどうなのかと問う自分がいる。アレクが悶々と己にどうするべきか問うていると、ルビオが目を瞬かせた。
「お、アメジスト嬢がこっちに来るみたいだぞ?」
「何!?」
慌てて視線を移せば、人垣が割れてアメジストがこちらに歩み寄って来るのが見えた。
アレクの心臓が早鐘を打ち鳴らすように早まっていく。そして、アメジストの姿をしっかり捉えて、その紫水晶の瞳を見つめる。
「……?」
ひっかかるような違和感が、喉に小骨が刺さるように残る。
その紫水晶の瞳に心がざわめく。それが何を意味しているのか、よくわからない。だが心がざわめく。これは一体何だろうか、と。
「……アレク様」
「……アメジスト」
「……ずっと、ずっとお会いしたかったです。念願が叶いました」
静かに微笑むアメジストは、幼い頃にあった時を思わせる仕草だった。
あぁ、と。違和感は胸の奥に引っ込んだ。きっと10年という歳月の隔たりがそのような感傷を喚起したのだろう、と。ここにアメジストがいる。それだけで退屈な学園の生活が楽しくなる。そんな予感さえした。
「私も、君をずっと求めていた。アメジスト」
「……はい。ずっと、お慕いしておりました。アレク様」
* * *
幸せに、なる筈だった。
* * *
「――何故だ、答えろアメジスト!」
アレクは怒りに燃えていた。あの再会の日、彼が感じていた幸せの予感は裏切られていた。それも他ならぬアメジストの為に。
アメジストはアレクの怒りを真正面から受け止めていた。ただ静かに、何も感じさせない表情で佇んでいる。それがアレクの怒りに火を注ぐのだ。
「ここ最近の噂は本当なのか……?」
「……噂とは何のことでしょうか」
「惚けるな! クリスタの事だ!」
アレクが烈火の如く怒っているのは、クリスタという少女が関わっている。
クリスタ・フィロニア男爵令嬢。彼女は特異な才能に恵まれ、平民から貴族の養子に迎えられたという特殊な経歴を持つ少女だった。
その特殊な経歴故、王子としても気にかけない訳にはいかず、貴族社会に慣れぬ彼女の良き友人として付き合っていた。
「クリスタが最近、様々な災禍に見舞われている事は知っているな……?」
「はい、存じています」
そんな彼女が最近、よく災禍に見舞われているのだ。
所持品の盗難、廊下を歩いていれば水をかけられ、挙げ句の果てには階段から突き落とされるなど。この突き落としなど、一歩間違えば命を落としかねない程だった。
アレクも憤慨する陰湿な行い。しかし、アレクに寝耳に水な話が舞い込んだのは先程の事。これを扇動しているのが他ならぬ、アメジストだと言うのだ。
「どうしてだ……アメジスト」
「……」
「――何故、お前は否定しない!!」
アメジストがそんな事をする筈がない。アレクは、だからこそ憤っているのだ。
まだアメジストはアレクの正式な婚約者という訳ではない。体がしっかり治ったのか、そして2人の相性は良いのか、改めてそれを確認する為に保留の状態となっている。
それでもアレクはアメジストを大事に思い、アメジストも自分の思いに応えてくれていると思っていた。
だが、そんなアメジストがクリスタに災禍を見舞うように扇動したと、それはクリスタがアレクに近づき、心を奪おうとした事で嫉妬に狂ったからだと言う。
そんな馬鹿な事があるか、と。アレクは怒っていた。そんなの根も葉もない噂だ。クリスタに特別な感情などない。自分が愛しているのは、間違いなくこのアメジストだけなのだから。
「……お前がそのような事を扇動する筈がない。共に過ごすようになって短い間ではあるが、お前がそのような事をするとは私にはとても思えない。何か行き違いや、悪意があったのだろうと思う。だが、それをお前が否定しなければならないだろう!」
「……」
「何故黙るのだ! どうして否定の為の声を上げない!? まさか、本当にそのように扇動をしている訳がないだろう!?」
アメジストは何も答えてはくれない。それがアレクには苛立たしかった。やっていないのであれば、やっていないと言えば良いのだ。アメジストがそのような事を先導する筈がないのに。
それでも彼女は否定もせず、ただ黙りこくるだけだ。思えば彼女はクリスタが傍にいる時は絶対に近くには寄って来ない。普段は考えなかった違和感がアレクの喉元に上ってくる。
「……アメジスト、何故なんだ……?」
途方にくれたようにアレクは呟いてしまう。このままではアメジストの悪評が一人歩きしてしまう。ルビオですらアメジストに疑惑の目を向け始めているのだ。それはアレクにとって耐えられない事だった。
アメジストは静かに口を閉ざして佇んでいる。痛いほどの沈黙が満ちていく。だからこそ、彼女の声は久しぶりのように思えた。
「……信じてくださいますか?」
「何?」
「アメジストを、信じて頂けますか?」
「……お前は私を疑うのか?」
今更、そんな事を問われずとも信じている。なのに自分の事は疑うのかとアレクは眉を顰めてしまう。
するとアメジストはふるふると首を左右に振った。とても嬉しそうに、とても誇らしそうに、とても……安堵したように。
「……今は、まだ何も話せないのです」
「……何?」
「確証のない事は言えません。そして、その確証を得た時、この硬い口は全ての真実を詳らかにする事をお約束します」
「どういう事だ、アメジスト」
「申し訳ありません。……今、貴方と語る意味がないのです。失礼させて頂きます」
「待て、アメジスト!」
アレクは思わず立ち去ろうとするアメジストの肩を掴む。肩を押さえ、振り返らせれば至近距離に迫る。その紫水晶の瞳を見た時、アレクの違和感が大きく膨れあがる。
それがどのような違和感なのか、やはりわからない。このようにアメジストに対して酷く違和感を抱く事が増えた。そう、今の彼女の瞳は最初に出会った時のようで……。
「……信じて」
ぽつりと。願うように、祈るように呟かれた切実な一言にアレクは縫い止められるように動きを止めた。
そして背を向けて去っていくアメジストを、アレクはただ呆然と見送る事しか出来なかったのだった。
この数日後、アメジストは憲兵に捕縛される事となった。
その罪状は殺人未遂。遂に彼女は、その手でクリスタを殺害しようとしたのだった。
* * *
「おい、アレク……やめとけって」
「うるさい、黙れ」
「今更あの女に会いに行って何になる!? 未練がましいぞ!!」
「ならば帰れ、俺に付き合う必要はない」
「だーっ、王子ともあろう者が面会禁止になってる罪人に会いに行こうだなんて何考えてるんだよ!?」
ルビオが頭を掻きむしりながらアレクの腕を掴む。それはアレクがこれから行おうとしている無謀な真似を止める為だった。
アメジストが殺人未遂の疑いで牢獄に入れられてから3日が過ぎた。その間、アレクは何度かアメジストに会いに行こうとしたが面会禁止と言い渡され、言葉を交わす事は叶わなかった。
だが、アレクはどうしてもアメジストに会わなければならなかった。彼女は別れ際に言ったのだ。信じて、と。
何を彼女は信じて欲しかったのか。そして、彼女の口を閉ざさせていた真実は何だったのか。それを知らなければならないと、そんな焦燥に駆られた。だからこそアレクは無謀な計画を立てた。
それは牢獄に忍び込む事だった。例え、それは王子であっても到底許されるような事ではない。
「俺は信じない。アメジストは罪人じゃない」
「罪人だ! 俺は見たんだ! あの女がクリスタを殺そうとしたんだ! なぁ、アレク、お前どうしちまったんだよ……!」
ルビオは必死の形相でアレクを止めようとするが、アレクはルビオが鬱陶しくすら思っていた。
ルビオはどうにもクリスタとの親愛を深めていたようだった。それ自体は別に良い。それでクリスタを害そうとしたアメジストを敵視するのも、まぁわかる。
だからこそ、愛した者がどうしてそのような事をしたのか突き止めたい、という気持ちもわかって欲しいとアレクは願っていた。
「お前、俺が逆の立場だったら止めるのか?」
「それは……いや、だけど、あの女は駄目だって、止めておけって!」
「どうして頑なにアメジストを信用しない?」
「だから! それはあいつが罪人だからで、そんな奴と王子であるお前と近づける訳にはいかないだろ!?」
「もう良い。知らん、帰れ」
「帰らないぞ! 行かせる訳にはいかない!」
さっきからこのやりとりの繰り返しだ。もう無理矢理にでも黙らせようかとアレクが拳を握りしめた時だった。
アレクが牢獄に潜り込もうとしたのは夜。牢獄の裏手には森が広がっていて、その森の中に入ろうとしていた。その森の夜闇に紛れて、何かが背後から近づいて来る。
「ルビオッ!」
「えっ!? ぐぁッ!?」
呼びかけるのも一歩遅く、背後から強襲を受けたルビオは意識を昏倒させたように倒れてしまう。
アレクはすぐさま振り返って構えを取ろうとする。その内心は襲撃者への恐怖や襲撃の驚愕などで荒れ狂っていたが、それでも対応しようと反応出来る所はアレクが非凡である証明だったのだろう。
そして振り返った彼が見たのは――予想外の人物だった。あまりにも予想外で目を見開く程に。
「……アメジスト?」
そう、そこに立っていたのはアメジストだった。
アメジストは口元を布で隠し、全身を黒装束で覆っていて一見、女性だとすらもわからない格好をしていた。それでもアメジストだとわかったのは、その瞳の色だった。
紫水晶の瞳。それを自分が見間違える筈がないと。だから咄嗟に口に出た名前に、彼女は動揺したようにその瞳を揺らした。
「……アレク様」
「……お前、どうしてここに。その格好は何だ? いや、どうやって牢屋から脱獄を……」
「シッ! ……お静かに。お聞きしたい事は理解しています」
問いを重ねようとするアレクの唇に指を添えて、アメジストは黙らせる。
「しかし、それを語るのは私ではありませんね……」
「……何? どういう事だ?」
「真実を全てお話します。アメジストが、全てを。このまま付いて来て下さい」
アメジストの真剣な瞳にアレクは言葉もなく頷いてしまう。
それに満足げにアメジストは頷き、目元だけを優しく笑みの形にしてアレクの手を引いて行く。
彼女がアレクを導いたのは、アレクが侵入しようとしていた牢獄だった。その牢獄の見張りは欠伸をしていて、うつらうつらと船を漕いでいる。
そんな見張りの様子を伺っていたアメジストは、そっとアレクの唇に指を当て、それから自分の指に押し当てる。黙っているように、という合図だと思い、アレクは唇を引き結んで頷く。
それを見たアメジストは音も無く壁に身を隠すように見張りへと近づいてく。とても令嬢とは思えぬ身のこなしにアレクは目を丸くする。やがて、アメジストは見張りの背後を取り、ルビオにしたように気絶させてしまった。
(……ルビオを置いてきてしまったが、獣などが出る訳でもない。悪いが、ここで騒ぎになる訳にはいかないんだ)
アメジストには尋ねないといけない事がある。だからこそ森の中で気絶してしまった友には申し訳なさを感じつつも、アレクはアメジストに促されるままに牢獄へと忍び込んだ。
中に見張りはいないようだった。ひんやりとした空気は夜の闇と合わせて不気味な気配を漂わせている。アメジストは無言だった。アレクも無言だった。
……そして、やがて1つの牢屋の前でアメジストは足を止める。その檻の中に入っていた人物を見て、アレクは息を呑む事になった。
「……お待ちしていました、アレク様」
そこにはアメジストがいた。囚人が着るような粗末な服を纏っている。
その牢屋の外には、やはり黒尽くめの装束を纏ったアメジストがいる。顔は、まったく同じ。違うのは……そう、その紫水晶の瞳だった。よく似ている、けれど自分は違うと断ずる事が出来るその紫水晶の瞳をアレクは交互に見つめた。
「全てお話します。私の、“私達の秘密”を」
――これは、身代わり令嬢が死を迎えるまでの物語。
作者の別投稿の「転生王女様は魔法に憧れ続けている」も良ければよろしくお願いします。




