【08】 そして、ボクは新たな次元の魔王になった
ウルスラとウルスラの母は思う存分、親子の愛の営みに興じていた。
母の深い愛情の込められた抱擁によって、ウルスラの中の不信感はすっかり消えていた。
ついでに羞恥心とか、普通の恋愛感だとかいう、女の子が最低限備えていなければならないものまで、ウルスラの中から奪い去っていった。
彼女のちょろい系女子の片鱗と百合的な素質は、彼女の母によって齎されたものなのかもしれない。
今のウルスラなら母の言葉全てを素直に聞き入れるし、命令されれば何だってしてしまう事だろう。
今まで数百年もの間、愛しい我が子を愛でる事を一切禁じられてきたウルスラの母。
これまでの冷淡な姿がまるで嘘であったかのようだ。本当はウルスラの母もずっと我慢していたのだろう。
本当はずっと娘であるウルスラとイチャイチャしたい系の母親だったのだろう。
それをずっと押し殺して、娘が生まれてすぐの赤ん坊の時から一番かわいい盛りの幼少期でさえも、何の触れあいもなく過ごしてきたのだ。
娘を撫でるその手が、いささか亢奮を含めた所作を持ってしまうのは致し方のない事であった。
額と額をくっつける母と娘。
「はくぅ……、あうっ……」
これまで一度も経験した事がないような至福の感覚に、思わず妙な声を漏らしてしまうウルスラ。
それだけじゃ抑えが効かないのか頬ずりまでするウルスラの母。娘の頬が真っ赤な紅葉のような色に染まっていた。
不愉快な気持ちとかは全くない。むしろ心が壊れてしまいそうな程の嬉しさと幸福感の只中にウルスラはいた。
嬉しさのあまり、目に涙を浮かべながらも微笑んでいた。やはり変な属性がウルスラの中に生まれてしまっていた。
ウルスラの幼い心、それに反して大人への一歩手前にまでは成熟している彼女の女としての肉体。
身体の内側から生ずるような妙なむず痒さを感じていたウルスラは、思わず両の足の太ももを擦りながらモジモジとしてしまっていた。
これは別に何も如何わしい反応ではないから変な勘違いをしないで欲しかった。
仮に彼女の女の子の秘匿部位が僅かに潤っていたとしても、それでもそれが正常な反応なのだ。
心理学的側面でいえば幼女のそういった反応は、自我の形成に重要な役割があるのだ。
今のウルスラの精神状態は幼女のそれと何ら変わりない。
つまり、数百年の時を経てやっと、ウルスラの中にハッキリとした自我が形成され始めたという事なのだ。
娘の様子を見たウルスラの母もその事を瞬時に察していた。
それが本来であれば生まれた時からほとんど心を持たずに生まれてくる修羅の子に、絶大な力を与えるという事も母は知っていた。
娘の額に小さなキスをする母。その笑顔がとても美しく咲いていた。
ウルスラの心が大きく揺さぶられた。
(本当はこんなに愛に溢れた人だったなんて……まだちょっと信じられない。 でもとっても幸せ……もう何も……考えられないよぉ……)
何百年も愛のない世界で孤独に生きてきたウルスラ。
好きな物同士が本当の気持ちを伝え合う事もできないなんて、ここは何て狂った世界なのだろう。
ウルスラは初めてそう思った。修羅の世界にこんなにも温かい感情が存在しているのだという事も初めて知った。
もう母への恥ずかしさも拒絶も何もなかった。もっと――もっとして欲しい、と彼女は懇願していた。
ウルスラを優しく抱き締める母が言った。
「私の愛しいウルスラや。 これから母の言う言葉を深く胸に刻んでおくのですよ。」
「はい……。 ママ」
恍惚の表情を湛えるウルスラが静かに母の言葉に答えた。
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母はボクに修羅の世界の王になれと言った。
修羅の王。それは数億もいる修羅の世界の人間の中からたった数名しか選ばれない、この世界の頂点に君臨するもの。
王といっても別に国を治めたりはしない。これは強さを示す称号のようなものに近いから。
普通の修羅国民に比べるとその行動には制限が少なく、優遇されている事もたくさんあるらしいけど、それは一般の人間には知る由もない事。
「……修羅の王が他の次元へ自由に行き来する事ができるのはあなたも知っているでしょう?
でもこれはあまり知られていない事だけど、王達は別の次元で人知れず喜怒哀楽に満ちた新たな人生を謳歌しているの」
母の言葉はすぐには信じられなかった。修羅の王といえば強さの極みの象徴。っていうかもはや生ける殺戮マシーン。
感情なんてものは修羅の国民以上に存在していないと思っていた。
その姿は映像越しで何度も見た事があるけど、いつだって鬼のような形相をしているか酷く冷たい真顔なのだ。
「そうなのです。 王には威厳が必要だからいつも怖いっぽいキャラを彼らは必死に装っているの。 中には別の次元で愛し合う相手を見つけた王だっているわ。
だからウルスラや……。 あなたは修羅の王を目指すのです。 そうすればきっとあなたに相応しい居場所も見つかる事でしょう……」
愛し合う相手……。それはとても魅力的な響きだった。ボクにもしそんな相手がいたら……。
そうなったらもう一時も自我を抑制する事なんて出来なくなりそう。
「でもボクなんかが王になれる訳が……」
「いえ。 あなただからこそなれるのですよ。 感情の豊かなものは本当はこの世界では一番に優れているの。 ただ初期のステイタスが低いせいで周りに埋もれてしまったり、芽が出る前に他の感情のない者によって淘汰されてしまうだけ……」
確かにボクの【ステイタス】はいつも周りの3分の1程しかない。生まれた時のレベルだって100しか無かった。それはアリと変わらないレベルだった。
だからボクは未熟児で生まれてきたんだと言われて、ずっとそれを信じていた。
修羅の世界は弱者に容赦がない。苛めどころでは済まないケースもある。生命を断たれる事だってある。
この世界は獣の支配する野生となんら変わりがない。親でさえ弱い個体を放棄したりする。
そんな環境でボクみたいな人間が生き残れる確率なんて蚊ほどもない。
数百年も生き残れたボクはむしろ運がよすぎたくらいなんだ。
「全く公にはされてないけど現在の修羅の王達の過去にも、今のあなたのように感情豊かで弱い人間であった時期があったのよ。 そしてほとんどの王が周りよりも才能がないと言われて虐げられてきた存在だったの……」
だからウルスラや……。 あなたは本当は大器に晩成を果たす事のできる、素晴らしい素質を秘めている子なのよ」
「ボクが……? 野良ネコと互角の戦いを繰り広げるこのボクが……?」
「ええ。 野良ネコバトルは王の特訓としてはもう王道中の王道なのよ。 ネコこそまさに覇道への第一歩とも言われるくらいだわ。 それを何の教えもなく実践しているなんて……。
ああ、もう……。 あなたはなんて素晴らしい子なのでしょう。 ナデナデしてあげたい……。 ってか、ナデナデしてあげる。 いえ、どうか母にナデナデさせて下さい……」
また母娘のイチャイチャタイムが再開しそうだった。
でもボクにとってはそれが何よりも望ましい。もう心からそれを欲している。
まだまだ母に愛され足りなかった。数百年の時を取り戻すかのように母娘の愛の営みに身を投じたかった。
この世界が誰かを愛する事も許される世界だったらよかったのに。
それなのにもうあまり時間がない。
ボクと母の周囲に不穏な空気が立ち込めていた。不快な音のサイレンが遠くから此方に向かって近付いてくる。
もう修羅の当局に気付かれてしまった。いや、いつもに比べれば遅すぎたくらいだ。
いつもであれば、例えば涙を流してしまった者がいたとするなら、それはモノの数分で彼らによって処理されてしまう。
この世界で罪に問われる『哀』と『愛』という感情。これは決して隠し通せるものではなかった。
修羅の当局はどういう訳かこれを瞬時に察知する事ができるのだ。
罪を犯してしまった者がその後どうなるのか――。
連行された人間は戻って来た例しがないので、それを推し量る術は今のボクには何も無かった。
「ああ……そんな。 ママ、もうヤツらが……」
「大丈夫です。 心配しないで。 母に任せていればすべて大丈夫なのですよ」
笑顔の母がそう言った。
そうは言ってもサイレンの音は1つも鳴り止まない。
ボクの心が瞬く間に不安と恐怖の黒い色彩に塗り潰されていく。
ボクは少し前には死のうとしていた人間。それなのに今は命が惜しい。
それに愛を知ってしまったボクが、大好きになってしまった母と離れ離れになるなんて……そんなの耐えられる訳がない。
そんなボクの感情を察したのか、ボクの頬に優しく指を這わせる母。
「ウルスラや。 これは母からのお願いです。 どうか感情を殺さないで生きて。 あなたは思うままに笑って、悲しい時は好きなだけ泣いて、時には怒り、苦しみ、そして相手に愛情をもって大いなる許しを与えるのです。
あなたはそれができる子。 あなたはとっても素晴らしい人間なのよ。 今はその事を見失っているだけ。 こんな世界に生まれてしまったから……」
「そんな最後の言葉みたいに言われてもぉ……。 ボクはもうママの事が大好きになってしまったのに……いまさら離れたくないよぉ……」
「フフ……。 嬉しいわ。 愛しのウルスラ……。 でも大丈夫だから。 たとえ母とは離れてしまってもあなたは絶対に修羅の王になれる。
そしてあなたが王になった時、そこからあなたの本当の人生が始まるのです。 だからウルスラや。 今からでも遅くありません。 王を目指し励むのです。 あなたにならできる」
「ううぅぅっ……、ううううぅぅぅ……。」
ボクの頬を止め処なく流れてくる大粒の涙。
母はすぐにボクを抱き締めて、優しい両腕と柔らかい胸の領域に、今も涙を流し続ける小さな我が娘を誘った。
「あっ。 それともう一つ。 修羅の王を目指すなら間食は控えなさい。 あなたはお菓子が大好きな子ですからね。 お菓子は一日一袋までにするのです。
毎日ちゃんと運動もする事。 おなかがぽよんぽよんでは強い王にはなれません……」
「ふえっ……。 ぐすっ……、は、はい。 甘いものもダメですか……?」
「ええ。 甘いものは疲れた時だけね。 それと炭水化物も意識して減らさなければなりませんよ。 あと鶏肉や卵を生で食しなさい。 プロテインは欠かさないこと。」
「えっ……? う、うん……。 それも王になるために必要なのですか? ってか今いう事なの?」
「モチのロンです。 あっ……それともう一つ。 あなたはよく部屋に引き篭もって修羅フォンをカチカチとばっかりしてますけど、あれも控えなさいね……。修羅の仮想世界にばかりに気を取られていては、現実での向上心を失ってしまいますからね。
それと他人からの自分への評価も気にしてはダメですからね。 承認欲求なんてものは覇道の道にはクソの役にも立ちません。」
「は、はい……。 すいません。 以後、控えるようにします……」
「ええ。それがいいでしょう。 あなたは母が認めるほどに素晴らしい子なのですから……。あっ。 それともう一つ……。修羅屋の特売は18時30分からですからね。 あっ。これも言っておかなきゃだわ……。
あなたはショートカットがとても似合う子だから髪はあまり伸ばさない事……その方が絶対にモテるわ。 あっ!それともしも彼氏ができたら必ず避妊はする事! あなたはちょろい子だからすぐに中で……」
「いや……あの。 もういいですから……」
危険なワードが飛び出しそうだったので思わず母を制してしまった。
それにしても、もう一つがとても多い母だった。口うるさい点でいえば母親らしい、といえばそうなのかもしれない。
嗚咽していたはずのボクは何故だかいつのまにか微笑を浮かべていた。
今になって思えばそれが母なりのボクへの最期の思いやりだったのかもしれない。
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母はそのまま修羅の当局に連行された。何故だかボクだけが罪に問われなかった。その理由は分からない。
それから何年、何十年。何百年待っても母は帰って来なかった。
母がボクの分の罪まで被ってくれたのかもしれない。そうでなければボクの無実の説明が付かなかった。
心のないまるで機械のような父は、母が消えた事を気に止める事もなかった。元々縁もないようなものだったけどボクは即座に父と離別した。
コイツは母とは違って人ではないんだ。ただの獣なんだ。ボクはそう自分に言い聞かせた。一瞥もせずに別れを告げた。
再び孤独になった。でも涙を流す事はもう二度と無かった。母の犠牲を無駄にする気なんてサラサラなかった。
ただ母の最後の言葉だけが強く胸の中に渦巻いている。
『修羅の王になれ』
これが母がボクに残してくれた唯一無二の想い。ボクには大器晩成の素質があるという言葉も忘れてはいない。
ついでに男の子とは避妊しろよ、っていう余計な言葉も甦ってきたけど、それはすぐに忘れてボクは女の子を愛でる事に決めた。
ボクは凛とした表情と、強い意志を持って再び修羅の学校に舞い戻った。
校舎の門の前で堂々と立ち尽くした。
今までボクをコケにしてきたヤツらは、覚悟しておけよ――と。ボクは修羅の学校のすべてのものに対して宣戦布告した。
いつもボクと死闘を繰り広げていたはずのトラ猫がボクの足に擦り寄ってきた。
トラ猫はもうボクの焼き魚を奪う事はなかった。だからといって別に甘えてきたりするなんて事はなかった。
ネコでさえ甘えれば罪に問われるのだ。野良ネコだってその世界の摂理を生まれながらにして理解している。何だか不思議な世界だ。
でも今のボクにはそれがとても心強い事に思えた。ボクはもう弱さなんかに逃げ隠れしなくてもいいのだ。
この世界の全てがボクの意に反していて、母が言うとおりにボクの心が正しいのなら、ボクはもう何も専守防衛に浸る必要がない。
もはや何かを顧みる事もない。この世界で失うものなんて何もない。
ただもう一度、誰かに甘やかされる事だけを目指して修羅の王になる。
そんなボクのモチベーションを数値で表すとすれば、それはもう億を超える値を叩き出していたかもしれない。
かつてはボクに熾烈ないじめを加えていたクラスメイトの存在でさえも今思えばあり難く思う。
それがいつのまにかボクの中の潜在能力の上限を高めていたのだ。
ボクの中に密かに蓄積していたプラス補正はある日を境に一気に爆発した。
レベルの差が1000はある格上でもボクは一撃の元に粉砕できるようになっていた。拍子抜けだった。
今までいじめられていたはずのボクの世界は一変した。
周りの連中はレベル4000の後半からは完全に成長が頭打ちしていた。
生まれながらに早熟過ぎた反動が、後半のレベルの上昇に弊害を及ぼしているのだろう。
そこからは数百年かけて100も上がるか、上がらないかの世界だった。
それに反してレベル3000に達してからのボクの成長速度は逸脱していた。
ボクは僅か数年という早さで一気にレベル6000に到達する。強くなった実感はあまり無かった。
ただボクの身体は自分の意のままに動くようになった。いや、それ以上だったかもしれない。
跳ねろと願えば意識の倍以上は跳躍できるし、捻じ伏せろと願えば加減を間違って相手を殺す一歩手前まで痛めつけてしまう。
でも周りの心のない人間はすべて獣以下の機械な存在しかない。何も躊躇う必要なんてない。
そんな修羅の世界だからこそ、妙な人間関係を煩わしく思う必要も無かった。そうなってしまえば逆に楽な世界だった。
力に目覚めたボクは修羅の学校の全てを蹂躙した。
そこからは簡捷の出来事だった。小、中、高の頂点を瞬く間に制覇していった。
少しつまらなくさえ感じた。それと同時にあともう少しでまた思う存分誰かに甘えられる。そんな事を考えていた。
蹂躙される側は、実はボクがそんな事を考えてるなんて思いも寄らない事だろう。
強さにしか興味が持てないなんて哀れな人間達だな、とボクは思った。
ボクの中にある愛情を求める心と、それに対する欲望は止まる事を知らないのだ。
それによって生まれる力も途方も無い。ただ無機質な鍛錬だけを繰り返している人間にこのボクが負ける訳がない。
次元の魔王に選ばれる前に既にレベル8000を達成していたボクの前にもはや敵はいなかった。
いつものトラ猫もボクに追従してか、レベル6000を迎えていた。
やがてボクは母を奪った修羅の当局へと向けてその悍しい感情を発散するようになった。
この世界では強さが全てなのだ。気まぐれで公務執行妨害を行ってもそれを実力で止められないのでなければどうしようもない。
ボクは四方八方から放たれる魔の砲弾でさえも片手だけでいなせるようになっていた。仮に直撃して爆風の渦に吞み込まれたとしてもボクの身体には傷一つ付かなかった。
トラ猫の振るう猫パンチで何台もの魔導戦車が吹き飛んだ。
ボクはもう殴るのも面倒だったので、適当な小石を投げたらそれが流星の如き弾丸と変わって当局を一瞬で壊滅させた。
そうやって思う存分、ヤツらに暴虐を振るう事ができたボクはすぐに当局から懇願された。
『お願いだから次元の魔王になって下さい』と。
父が国外へ逃亡したという噂を聞いたが、そんな事はもうどうでもよかった。