【16】 その姉妹と清浄の白、次元のニャ王と対峙する
トラ猫。それはネコ科ネコ属に分類される小型生物。かつて、害獣駆除を使命とするイエネコとして家畜化された元野生。
常に人の傍に寄り添いつつもその本心はいざ知れず、自由奔放に生きる猫型。まずその見た目からして万物より寵愛されるべき愛玩動物。
トラ猫の名に含まれる『トラ』とはその特徴的な体毛の色彩を形容する言葉であって、獰猛な肉食獣である『虎』とは本質的にはあまり共通点が無い。
だから筋肉質な豪腕による一撃で戦士ヴェインを瞬殺したりはできない。
仮にトラ猫が真なる猛虎であったとしても、強大な近接戦闘能力を誇るヴェインには全く太刀打ちできない事でしょう。
そういう意味で考れば、ヴェインにとってはトラ猫でも猛虎でもさして差異のない事なのかもしれない。
だけども、既に未知なるトラ猫という事象を前にして、己の屍を無様に晒しているヴェイン。
先程の戦いでは複数の黒騎士を相手にしても、決して引けを取らない獅子奮迅の戦果を披露した彼なのに。
そんな最強戦士を無様な末路に導いたのは――。今も堂々と眼前に居座るそのトラ猫。数えること1のニャーなのであった。
『ンナァ……』
猫がまたひと声鳴いた。
冷静に考えれば考えるほど意味が分からなかった。
私の隣にいる勇者ソーマも魔女の妹であるナナハも、私と同じ感情に支配されているのだろうか。
今も驚愕の表情を浮かべたまま、視先に鎮座している猫柳の具現体を訝しげに見つめている。
それはどこからどう見ても普通の可愛らしい猫ちゃん。それはもうあからさまに猫々たるが借りてきた猫。とても大人しかった。
虎柄の毛並が特徴的でバランスの取れた色彩と猫の額が目を惹く。表立った感想といえばそんなところ。
それ以外の特別な要素なんて皆無と言ってもいいほどに見当たらない普通の猫。その普通すぎる様相が逆にこの場においては酷く不自然な事である気もした。
このトラ猫の猫っぽい姿は実は仮の姿。真の姿はドラゴン以上の強さを備える未知の魔獣だとでも言うのでしょうか。
いえ。例えこのネコがドラゴン以上の強さをその身に秘める魔獣ちゃんだったとしても。それでもヴェインを一撃の元に葬るなんて事は不可能なはず。
聖女的シロナちゃん主観での評価でいえば『単なる肉壁その2』でしかないヴェインでも、一般的な評価では最強クラスの強さを誇る戦士。
仮にレッドドラゴンやアースドラゴンの群れをぶつけたとしても、ヴェインはそれを一刀の元に斬り伏せてしまうでしょう。
現時点でのヴェインの強靭強度の度合いであれば、単身で魔王勢とも渡り合えるのかもしれない。
うぬぬ……。つまり、このトラ猫はドラゴンどころか魔王クラスの強さを持っているという事なの?
私は逡巡を繰り返しつつも再度トラ猫という名の未知なる事象を繰り返し活目した。だけども何度見たってそれはただの小さな猫柳。トラ猫柳。
すくっと立ち上がった後に数歩だけ小さな歩を進めたトラ猫。細長い尻尾をピンと真っ直ぐに立て、その場で微動だにせずに円らな瞳で私達の事を凝視している。
尻尾が僅かに左右に揺れていた。猫目石の眩しいハイライトが私の心を奪って思わず愛でたくなった。
やっぱりどこからどう見ても何の変哲も無い普通の猫ちゃんだった。とてもかわいかった。撫でたかった。両手で腋を抱っこして頬ずりしたかった。
(この子は野良猫なのかな……?宿に連れて帰っても大丈夫かな?)
こっそりとお持ち帰りしてかわいい名前を付け、夜な夜な猫への愛を囁きながら撫でまくりたかった。
名前はカトリーヌがいいだろうか?フランソワーズでもいいかもしれない。どこか高貴な雰囲気を漂わせつつも庶民的なトラ猫にはお似合いの名前。
『ンナァ……』
猫がまたひと声鳴いた。
やはりさっきの珍現象はただの目の錯覚だったのでしょう。こんな可愛い猫ちゃんがヴェインを瞬殺できるワケがない。
アホのヴェインが1人で勝手に何かに躓いて、1人で勝手に妙な物理法則の歪みを巻き起こしただけなのでしょう。
そんでもって1人で勝手に異常な角度で激しく吹っ飛んで、1人で勝手に岩にぶち当たって気絶しただけなのでしょう。
この理屈で考えれば全てが上手くいく。全てが丸く収まる。余計な事に心を奪われずとも済む。
だから外野から変に言及されて『そうはならへんやろ』とか言われても、私は『なっとるやろがい』としか言えないし言わない。もう端からそれ以外の言葉を使う気もない。
無駄な事に思い悩んでシロナちゃんの貴重な人生の時間を無駄に浪費するくらいなら、目の前のトラ猫をどうやって手懐けるかについて策を巡らせていた方が何倍も何十倍も生産的で素晴らしいと思う。
そう結論付けた私の脳内で猫のみに特化させるべき懐柔策が目まぐるしく廻り始めた。
(猫を手懐けるには……。 猫じゃらし……? 若しくはマタタビか……。 いや、豊富なマグロエキスを含んだ例の秘薬を用いるべきか……)
『ンナァ……』
猫がまたひと声鳴いた。
そんな私の思索と猫のひと鳴きを差し置いて、クリムゾナが一歩前へと踏み出した。
彼女の表情は周囲の人間とは全く異なる様相。紅蓮の瞳が内包する攻撃的な色彩は色濃く、猫に対して抱いているクリムゾナの敵対心が半端ない事を安易に予感させた。
不敵な笑みを浮かべ、相手の事を好敵手として認めつつも暴虐を与えんと欲して猫に向けられるのは真紅の冷笑。
それは決してネコを愛でたいという意味合いを込めたものではないのは確か。
というか、猫に対してもクリムゾナはやっぱりそうなの?猫相手でも暴虐的なまま?
こんな猫ちゃんでも躊躇なしに思いっきり手で掴んで、思いっきりぶん投げてしまうのでしょうか?それは色んな意味で不味いのでは?
猫を投擲するくらいならシロナちゃんを投擲した方が色んな意味でみんなが幸せになれるはずなのに。
傍観する神々だってシロナが無残にも陵辱される事を願って止まないはずなのです。
だからクリムゾナは猫に向かって好戦的に歩み寄って行くのを今すぐ止めて、私の事をぶん投げて欲しかった。誰かが彼女を止めなければ……。
このまま制止せずに無残にも猫が投擲されてしまえば、ただちに然るべき動物愛猫団体が現れる事でしょう。
そうしてクリムゾナを糾弾、弾劾。その後にクリムゾナの爆裂魔法で微塵に吹き飛ばされる愛猫団体。
ん……?そう思うと別に何の問題もない気もしてきた。倫理的には問題ありありだけど。
とりあえず彼女の進撃を阻める存在なんて、もはやこの世界には存在していない気がする。
クリムゾナだからこそ、そうあるべきなのか。彼女なら猫でさえも足蹴にしかねない。彼女の内に無限に潜む凶暴であるならば。
ついにトラ猫と対峙するクリムゾナが、いつもの紅蓮の魔女らしき口上で語りかけた。
「ククク……。 やっと私の前に姿を現わしたわね……次元の魔王……ッ!」
それはとても不適切な台詞だった。それは魔王の力を奪わんと欲する魔王以上の絶対悪が、魔王を対象にして言い放つべき台詞だった。
絶対に猫に対して使うべき台詞じゃなかった。だけども、確かにクリムゾナの瞳はトラ猫を畏れを仰ぐ事もなく強烈に射抜いている。
(えっと、次元の魔王……ですって? 猫が? いや、次元のニャ王……??)
次元の魔王。若しくは次元のニャ王。それはこのシロナちゃんでさえも初めて耳にする類の言葉だった。
このかわいいネコちゃんが魔王、若しくはニャ王だなんて。
竜魔王ドラグノスや恐怖の魔王バラムデウスと似たような存在であると?そんなバカな事が……。
それに魔王の名が冠する『次元』とは一体。禍々しくも嫌な予感しかしないその言葉が持つ意味。
魔王の背後に潜んでいた黒騎士達でさえも『次元』という言葉をもち出せばその忌が瞬く間に霞んでしまうようにも思えた。
それがこの世界ではない『別の次元』……という意味合いを持つ言葉であるならば尚更。
そうなれば私達の戦いは即座に小さな箱庭世界を飛び出して、珍妙な異次元バトルへと変貌してしまう事だろう。
おそらくそこにはこの世界の常識が一切通用しない『次元』を超越した何かがある。
鋭敏で聡明で想像力豊かなシロナちゃんであれば『次元』という言葉一つでここまで妄想を膨らませる事が出来るの。
でも、できればそれはしょうもない妄想のままであって欲しかった。それが真実なのは逆に困る。とっても困る。
すっごく分かりやすいリアクションで困り果てる。妙に狼狽しまくって変な汗をたくさんかいてしまうかもしれない。私の手汗の活発さを愛しき人に知られるのだって困る。
別に私は予想屋でもないし予想管理人でもない。そんな何の意味も無い無駄な憶測に、貴重な脳細胞のエネルギーを消費させる必要がない。
これから巻き起こるであろう厄介な展開なんて微塵も望んでいない。
私はただ魔王どもを根こそぎ駆逐して、さっさと世の中を平和にして、クリムゾナとの純愛ラブコメに路線変更したいだけなのに。
その事について詳しく言及したくても、クリムゾナの纏う重圧な忌気は決して論を交わす事を許そうとはしなかった。
夥しい量の魔素が彼女の周囲に満ち溢れていた。両の細腕に粒子の奔流そのものを纏っていた。
それは黒騎士との後半戦でひたすらに充填を続けた彼女の魔性の力の顕現。
クリムゾナの火花散らす紫電と七色に輝く色彩が眩くチカチカとなって、狼狽する私の視界と思考を閃光の彼方へと奪い去ろうとした。
可視化された銀の呪詛が全方位に拡散、無数の輝きの六芒が瞬時に展開されていく。
光芒は全属性を網羅するであろう多彩な呪文を解き放つべく出現した複数からなる巨大な砲塔へと変換された。
その光景は幻想的かつも暴虐的――。
不敵の笑みを携えるクリムゾナの挑発的で魅惑的な紫色の光に包まれた面貌がその力の絶大さを物語っていた。
『鳴かぬ猫は鼠もとらず』と称する程に大人しかったトラ猫もこれにはさすがの臨戦態勢。
耳を寝かせて吃驚に慄き、二三歩分下がって身を構えた。
火蓋はもはや切って落とされるのが必定。
それなのに封神の水晶機兵の召聖によって力を使い果たしている私は、クリムゾナと猫の戦いを傍観する事しかできないのであった。




