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霧雨で視界の曇る夜の路地裏は、人はおろか野良猫の一匹も通る気配がない。
碌な上着も羽織らずに、若い占い師が一人で古びた椅子に腰掛けていた。
何の知識もないくせに、つまらない毎日に飽きて半ば遊びのつもりでインチキ商売を始めてから間もない頃。
売れないミュージシャンを適当に占ったある日から、彼の人生は大きく変わった。
何の偶然かいきなり成功を収めた例のミュージシャンが大袈裟に触れ回って、彼は一躍有名占い師になった。
ところが占いの何たるかも知りえないたかが素人の偶然。
彼の前に並ぶ列は日を増すごとに短くなり、気付けばこんな路地裏に毎晩のようにただ佇んでいるだけの存在になっていた。
それでも彼の元を訪ねる物好きは少ないわけではなかった。
娘の思春期に頭を悩ませる父親。
突然のリストラに生きる気力を失った元会社員。
酔っ払ったまま絡まれてそのまま意気投合したどこぞのホームレス。
占いは出来なくても持ち前の世話焼きな性格が功を奏して、今では彼の粗末な机と椅子は一部からはそこそこ人気の人生相談所になっている。
金は無いが、そんな生活も悪くない。
自分は人の支えになっている。
そう考えるようになってから、彼は自分の人生を少しずつ楽しみ始めていた。
朝から漂う霧は一向に晴れず、夜の路地裏はその不気味さを増すばかりだった。
この静けさでは野良猫の一匹も通る気配すらない。
はずだった。
「ねぇねぇ、なにしてるの?」
どこから湧いて出たのか、合羽を羽織った小さな、まるで仔猫のような女の子が、机を挟んで来客用の椅子にちょこんと座っていた。
まだ幼稚園通いといったところだろうか。
今日一日中暇だったところに魔が差して、占い師は素直に会話を始めてしまった。
「俺か?俺はここでいろんな人のことを占ってるんだよ」
「でもここだれもいないよ?」
「…そうだな。今日は寒いし、もう帰るとするか。お嬢ちゃんも早く帰んないとママが心配するぞ」
「………」
「…?…どうした…?」
「…おじちゃんは、いつもここにいるの?…まいにちここでうらないをしてるの?」
まだ「おじちゃん」と呼ばれる歳ではないと自負していた占い師だが、一瞬この女の子がしょげているように見えたので、注意するタイミングを逃してしまった。
「ああ、毎日と言っていい。お兄さんは暇だから」
「ふーん、わかった。またくるね、おじちゃん」
一度固定された呼び名はなかなか変わらない。
半ば本気でショックを受けつつ、彼は振り返って手を振りながら暗闇に消えていく少女の姿をそのまま見送った。
「…どうせこの近所の子だろうしな」
師走という言葉の由来の一説に、坊主が走り回るほど忙しいからというものがある。
そう思えば町全体が慌しい雰囲気を湛えているのも世の道理なのかもしれない。
そんな世間の喧騒から隔絶された薄気味悪い路地裏には、今日も小汚い人生相談所が営業していた。
「おじちゃん、きょうもひとりなの?」
仔猫のような無邪気さ。
目が合うなりいきなり満面の笑みを浮かべたこの声の主は名をさやかちゃんというらしい。
出会ってから三日間、いかにもこれ位の歳の子供らしい滑舌の悪さで毎日彼をおじちゃん呼ばわりにしている。
普通の商売ならこれは立派な営業妨害といったところだろうが、暇人占い師にとってこれは正直ありがたい。
客でなくてもいいから、話し相手は常に欲しいというのが彼の本音だったからだ。
「ああ。みんな年末で色々忙しいんだろう。お嬢ちゃんもお家の手伝いとかしてなくていいのか?大掃除とかさ」
さやかちゃん、と名前で呼ぶのは、どうにも気恥ずかしかった。
「…わたしは、ひまだからいいの。おじちゃんといっしょだね」
そう言って無防備に笑う可愛らしい表情が、彼にはなぜか眩し過ぎるように感じられた。
完璧過ぎる笑顔。
幼稚園に通っていた頃の初恋の女の子に似ているような気がしたからかもしれない。
「俺のは仕事なんだぞ?昨日話したいことがあるって言ったのはお嬢ちゃんの方だろう。だから待っててやったんじゃないか」
段々と不謹慎な方向に向かいつつあった思考を振り切って、本題に入る。
さやかはあからさまに辺りをきょろきょろと見回して、初めて真剣な顔で話を始めた。
大人がやればわざとらし過ぎるほどの仰々しい仕草が、実に子供らしい。
聞けば、彼女の幼稚園のお友達の「ななちゃん」が、家庭で父親に虐められているらしいということだった。
「ななちゃんのママがしんじゃってから、パパがまいにちおさけをのむようになって、ななちゃんをどなったりたたいたりしてるんだって。ななちゃんひとりになるといつもないてるんだよ」
よもやこんな深刻な相談事が彼女の口から飛び出すとは思わなかった占い師は、意表を突かれて言葉を失った。
それほど大事な友達なんだろうということが、少女の表情から窺える。
「…おじちゃん。ごめんね。たのしいおはなしのほうがいいよね」
こんな小さな子に気を遣われる様では大人として情けない。
彼は気を持ち直して、少女と目を合わせた。
「…いや、いいんだ。それより先生には相談したのか?」
「ううん。してないよ」
「なんでだよ。ななちゃん、お父さんに虐められてるんだろう?だったら」
「ななちゃんね、パパのことがだいすきなんだって。いまはこわいけど、むかしのやさしいパパとママのことがだいすきだっていってたの」
先生に知らせればパパは警察に虐められるかもしれない。
「ななちゃん」は、それが一番怖いのだと言う。
情けない親がいたものだ、と彼は憤りを隠せなかった。
しかしやりきれない思いと一緒に、さっきから何か心の底に突っ掛かる奇妙な感覚が拭えないでいた。
この感覚は一体何なのだろうか。
彼の注意が自分の内に向きかけた時、さやかがまた口を開いた。
「だからね、ななちゃんがげんきになれるように、わたしがたくさんおはなしをしてあげるの」
「お話?」
「うん。ななちゃんがね、ずっとまえにパパにももたろうのえほんをかってもらって、そのおはなしがだいすきなんだっていってたの。だからわたしが、もっとたくさんのおはなしをおしえてあげたら、きっとななちゃんはよろこんでくれるから」
ぎこちない喋り方の中に、しっかりとした決意がある。
この子は、真っ直ぐで良い子だ。
占い師の男は、素直にそう思った。
「…それでね、わたしもあんまりしらないから、おじちゃんならおしえてくれるとおもったの」
「その、お話を?」
「うん」
もう呼び名を気にしたりくだらないことで傷ついている場合ではない。
おじちゃんでも何でもいいから、この子に出来る限りのことをしてやりたい。
彼は、昔絵本で読んだ知りうる限りの話を少女に聞かせた。
面白おかしく工夫したわけではないが、少女は楽しそうに、きっと誰が見ても楽しそうと感じるほどに、本当に楽しそうに、その話を聞いていた。
いくつの物語を聞かせただろうか。
使命感も忘れて夢中で語っていた占い師は、目の前の少女が不思議そうな表情を浮かべていることに気付いた。
「…どうした。変な顔して」
「ううん、あのね。さっきの、つるさんのおはなし」
「鶴の恩返しか」
「うん。おじいさんは、どうしてつるさんのおへやをのぞいちゃったの?」
「…うーん。どうしても気になったからつい、覗いちゃったんだろうな」
「ふーん。きっとおじちゃんなら、やくそくをまもっていつまでもつるさんとしあわせにくらせたのにね」
そう言って笑う少女に、買い被り過ぎだろうとは言えなかった。
「わたしもおじちゃんにたすけてもらったから、いつかおんがえしをしてあげるね」
この時になって、彼は自分の本心に気付いた。
決して怪しげな意味ではなく、自分はこの子のことが好きだ。
それはまるで自分に娘がいるような感覚だった。
甲斐性無しの未婚である彼には、それは想像し得ないことではあったのだが。
今まで彼は、それなりに多くの人の世話を焼いて、感謝されてきた。
その度に自分は誰かの役にたって、支えになることが出来たと思い、またそれがこの上なく嬉しかった。
この子の場合もきっと同じだろう。
しかし、今になって漸く気付いた。
支えになってきたはずなのに、自分が支えられていた。
悪意の欠片も無い無邪気な笑顔が、彼にとって何よりの支えになっていた。
だからこそ彼は、恩返しをしようと思ったのかもしれない。
この子のために沢山の話を聞かせてやろうと思ったのかもしれない。
「ななちゃん」という見知らぬ子供よりも、目の前にいるこの子のために。
それからまた数日が過ぎ、占い師は去年の自分よろしくあっけなく新年を独りで迎えた。
近所の家から漏れるカウントダウン番組に合わせてジャンプしてみて、次の瞬間には虚しさのあまりに涙が出そうになっていた。
それでも、アパートに戻るのはなんとなく嫌だった。
なんとなく一人になりたくなかった。
或いは、何かを期待していたのかもしれない。
「あけましておめでとう、おじちゃん」
憂鬱な気分を一瞬でぶち破った仔猫のような少女は、今日もまた完璧な笑顔とセットで現れた。
聞くところによれば、彼女はあれから「ななちゃん」に占い師の受け売りの話を沢山聞かせて、実際に「ななちゃん」はとても喜んでくれたのだという。
嬉しくて、楽しくて、涙があふれるほどに。
大袈裟だと思いつつもそれを聞いて安心した彼は、ついさっき正月の挨拶に貰ったケーキの箱を取り出し、少女に分けてやった。
「わぁ!ケーキだ!…おじちゃん、これ、どうしたの?」
「ただの貰い物だよ。お嬢ちゃんも食うか?」
「いいの?」
「…そんな遠慮するなよ、子供らしくもない」
「だって…」
「いいから、駄目になる前に早く食っちまえ。な?」
「…うん、ありがとう」
仔猫のようなか細い声。
そう言って美味しそうにケーキを食べる少女の表情は、ついこの間昔話を聞かせてやった時と全く同じものだった。
見ていて切なくなりそうなほど、楽しそうに笑っている。
新年早々に暇を持て余していた占い師は、同じく自称暇人幼稚園児と色々な話をして一日を過ごした。
幼稚園のこと、「ななちゃん」の家庭のこと、そして時には、占い師の昔のことも話した。
こんな小さな子供を相手に、彼は本当に楽しい時間を過ごしていた。
一点の歪みもない楽しさゆえに、それが怖くすら感じた。
出会った日からずっと胸の奥底で燻っている、何か。
それが何なのかは、最後まで判らなかった。
「ななちゃんね、おはなしをたくさんしてあげたら、げんきでたって、ありがとうっていってくれたんだよ。」
「だからね、ゆうきをだしてパパにいってみるんだって。むかしのパパにもどってって」
その翌日は、朝から霧が濃くかかっていた。
なぜかいつもより早く目が覚めた占い師は、することも無いのでいつもの様にいつもの場所へと足を運んだ。
いつあの子が来てもいいように、と思うと、少しそわそわした。
いつか子供が出来たなら、あんな風に育ってくれるだろうか。
少し笑って、ただじっとその場に座っていた。
やがて辺りが薄暗くなってくると、一匹の仔猫が物欲しそうにこちらを見ているのに気付いた。
整った顔立ちが誰かに似ているような気がしないでもないが、今は構ってやれる余裕が無い。
とうとう、その日少女はやって来なかった。
夜が明けても、空の機嫌は芳しくない様だった。
昨夜は良く眠れなかった占い師は、冴えない頭でいつもの場所に座っていた。
その日も結局何も起こらないまま、すっかり夕方になっていた。
いつ大雨が降り出してもおかしくはない。
誰かの心の状態でも映しているのだろうかと思っていると、いつだったか前にこのインチキ占い業改め人生相談業をきっかけに親しくなった中年の男性が、なんとも言えない表情で近付いて来た。
「これはどうも。あ、この前はわざわざケーキなんか頂きまして、ありがとうございました。美味しかったですよ。最近よくこーんなちっこい子供が遊びに来るんですけどね、そいつもまた美味そうに」
「…あぁ、その子のことなんですが…」
「え?」
「前に一度、あなたと一緒にいるのをお見かけしたことがありましてね。その子、さやかちゃんと言いましたか。私の近所に住んでる子なんですが、……家庭内でひどい虐待を受けていたそうなんですよ」
「………!!」
「なんでも、母親を早くに亡くしてから、父親が酒に溺れて、彼女にひどい仕打ちをしてきたと聞いたことがあります」
「そんな…」
心臓が高鳴っているのが判る。
これではまるでお友達の「ななちゃん」そのものではないか。
「その様子では、昨日のニュースはご覧になっていないようですね」
「な…何ですか」
「その父親が昨日、さやかちゃんを抱えて川に身投げしたんだそうです。彼女と親しくなさっていた様ですから大変申し上げにくかったのですが…、でもだからこそお伝えしなくてはと思いまして…」
時間が止まったかのように思われた。
信じられない、というより、理解出来ない。
昨日、何があったというのか。
さっぱり理解出来ない。
そうして呆けていると、次の瞬間には心の奥底からあらゆる感情が溢れ出て来るのが判った。
色々なものが入り混じりすぎて、思わず吐きそうになった。
「嘘だ…」
「…お気の毒ですが、こればかりはもう…」
しかし占い師の耳には、そんな言葉は届いていなかった。
いつ雨が降り出したのかは知らない。
自分がいつ走り出したのかも判らない。
自分がどこへ向かっているのかも定かではない。
占い師は、気付いた時には感情に任せて全速力で走り続けていた。
川と言われて思いついた場所へ着くと、そこには何人かの警察や救助隊、傘を片手にひそひそと話し合う野次馬の姿があった。
昨日ここで、あの子は死んでしまった。
勇気を振り絞って父親を説得して、思いつめてパニックに陥った彼に抱えられ、この川の底へ身を沈めた。
現実が、あっけなく突き刺さった。
夜も遅くなり、舗装の行き届かないいつもの路地裏はちょっとした洪水状態になっていた。
疲れ果てた占い師は、ずぶ濡れになりながらふらふらと細い道を辿る。
「ななちゃん」なんて、最初から存在しなかった。
虐待を受けていたのは、紛れも無くさやか自身だ。
「ななちゃん」は、それでも両親のことが大好きだった。
「ななちゃん」は、あの笑顔の裏でいつも泣いていた。
「ななちゃん」は、元気付けて欲しくなど無かった。
かつて親がしてくれたように、大好きな絵本の話を聞かせて欲しかっただけだった。
「ななちゃん」にはクリスマスなんか無かった。
美味しいケーキもプレゼントも貰えず、たった一人で苦しんでいた。
いくら寂しくても、パパは気付いてくれなかった。
だから、さやかはあんな顔をした。
絵本の話を聞いてもケーキを食べても、見ているほうが哀しくなるような眩しさで笑っていた。
ただ寂しかっただけの、それだけの少女。
「どうしてもっと早く気付いてやれなかったんだ…」
疲労と怒りに顔が歪む。
よその家の子みたいに、普通にパパに甘えてみたかっただけの、それだけの少女。
その眩しすぎる笑顔が、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「またくるね、おじちゃん」
「わたしもおじちゃんにたすけてもらったから、いつかおんがえしをしてあげるね」
もう何もかもが、手遅れに思えてしまった。
薄気味悪い路地裏を歩いていると、土砂降りの中から何やら乱暴な声が聞こえて来た。
中学生くらいの少年が三人、何かを罵る様な口調でせっせと足を動かしている。
何かを蹴っている。
それは、昨日の仔猫だった。
こんな小さな子供が、仔猫が、こいつらに何をしたというのだろうか。
言葉で言い表せないほどの怒りがこみ上げ、占い師は何かを叫んだ。
自分でも驚いてしまうほどに声を張り上げて、気がつけば猫を虐めていた少年たちは一目散に逃げ出していた。
彼が駆け寄ったときには、仔猫は見るに耐えないほどの傷を全身に負い、命の危険すら感じられた。
虫の息とは、こういう状態を指すのだろう。
「…くそ…。待ってろよ。すぐに助けてやるからな」
彼は滅多に使わない携帯電話を取り出し、開いたところで行き詰まった。
獣医はまだ閉まっていないだろうか。
その前に応急手当を施すべきだろうか。
次の瞬間、その場に倒れていたはずの猫がいきなり彼に向かって飛び掛かり、信じられない器用さで携帯電話を奪って走り出した。
「な…!ちょっと待て」
彼は慌てて猫の後を追い始めたが、直後に背後で鳴り響いた強烈な金属音に注意を逸らされた。
あまりの爆音に振り返ると、ちょうどさっきまで彼が立っていた場所に鉄骨の山が積み重なっていた。
ここは建設中の建物の真裏だったらしい。
とんでもない幸運で一命を取り留めた彼は、ふと我に返って急いで猫の元へと駆け寄る。
まさか。
まさか。
まさか。
拾い上げた猫は完全にぐったりしていて、鳴きもしなければ呼吸のひとつもしなくなっていた。
その真下には、ついさっき奪われた携帯電話が落ちている。
雨に濡れたディズプレイには、たった三桁の数字が表示されていただけだった。
最後の力を振り絞って、伝えてくれたのだろうか。
「…お嬢ちゃんなら、きっと向こうでもうまくやれる。超人気占い師の俺が保証するよ。もう我慢しなくていいんだ。パパとママに、好きなだけ甘えて来いよ」
彼はその場で立ち尽くして、雨の中で涙を流し続けた。
「またおじちゃんにたすけてもらっちゃったね」
少女の笑顔が、いつまでも頭から離れなかった。
それから暫くして、彼はインチキ占い師を引退して小さな商社に入社した。
今ではそれなりに貯金もたまり、誰かを養えるほどの甲斐性くらいはあるだろうと勝手に自負している。
しかし、仕事が終わって自宅のドアを開ければ、そこで待つのは何の変哲も無い一匹の猫だった。
ついこの間道端で拾ったばかりの仔猫だ。
彼が仕事に疲れてソファでぐったりしていると、猫はそろそろと微妙に開いた寝室のドアを通り抜け、その隙間から顔だけを出してこちらをじっと見つめ始めた。
「…はいはいわかったよ。覗いたりしないから安心しろ」
彼がそう声をかけると、猫は満足したのかそのまま寝室の奥へと姿を消したのだった。