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1.ローマ帝国簡略

1/31改稿。プロコピオス、植民州と奴隷、流行病を追加。ベリサリウスの記事の誤字修正など。

 簡単にローマ帝国について記載いたします。


・ローマ帝国について

 ローマ帝国は現在のイタリア発祥の帝国になり、一時は地中海世界全体を支配する大帝国に発展しました。

 北はブリテン島(現在のイギリス)。南は北アフリカ全域。東はシリア。西はイベリア半島の先までと広大な地域を支配していました。

 ローマが変容するのはギリシャを征服した後です。ローマに征服された地域は植民地州となるのですがローマ人はギリシャ人に教えを乞い、文化的には完全にギリシャ文明に支配されることになります。


 ローマとギリシャはギリシャ・ローマ神話と言われる神々を信仰しており、多神教でした。ギリシャ人はソフィストと呼ばれる人に代表されるように、思想的な縛りが無く、大いに哲学や科学が発展していきます。

 ローマでもギリシャ文明を受容していますので、同じく学問が発展していきました。

 ギリシャ・ローマ文明は西欧中世に比べ、非常に発達した文化を誇っていました。副官ローマを読んでいる方々に違和感があったのはこの辺りかもしれません。

 簡単にローマ帝国の習慣などを記載していきます。


・植民州

植民州は一等低い身分にありました。中には奴隷も居ましたが、奴隷の身分といえばよくあるファンタジー小説に出て来るような首輪をつけられた奴隷とは異なります。

イメージで一番近いのは、一段身分が低い市民でしょうか。この身分制度は流動的で、奴隷に落ちることもあれば、奴隷から市民になることも出来ました。

ベリサリウス時代の皇帝ユスティアヌスは農民の出です。ローマでは軍隊に参加し頭角を示すことで高い身分に登ることが多々ありました。彼もそのうちの一人です。


・建築物

 ローマン・セメントと言われるコンクリートを使った彼らの建築物は中世にも残り、中世の人が「これは人間が造ったものとは思えない」と言わしめました。

 正直古代にはありましたが、中世ヨーロッパ人より優れた建築技術を持っていたと思います。


・学問

 アレクサンドリア・ローマでは学問が盛んで、様々な学問が発達しました。これが中世に入りゲルマン人に支配者が変わると衰退していきます。

 中世西欧では神を都合よく使い、支配を円滑にするため、愚民化政策を取ります。なので、識字率も低くなりました。さらには、知識人層であっても、実践主義を取らず過去の遺物が権威となり、キリスト教の権威ともア合わさって発展を阻害しました。

 例えば医学を例にあげると、ローマ帝国時代のガレノスという医者(三世紀頃)が残した医学書を十四世紀になっても権威として使っていたのです。

 これに対し、同時期の元ローマ帝国であった東の帝国(ビザンツ帝国)では識字率も高く、聖書が読めました。


・風呂

 ギリシャ・ローマ人は綺麗好きです。風呂に入る習慣があったのは有名ですね。今後作中に出そうと思っている習慣は脱毛習慣です。

 男は、髭だけじゃなく、脛毛を綺麗に脱毛する習慣がありました。そのため脛の脱毛グッズが現代にも残っています。


・上下水道

 ローマ人の街は上下水道がありました。中世西欧都市にはありません。


・同性愛

 ギリシャ・ローマ人はキリスト教的な習慣が入るまで同性愛は忌避されてませんでした。


・キリスト教

 ローマ帝国でキリスト教が受け入れられると、ローマ人の性質も少し変質していきます。同性愛や入浴習慣や脱毛習慣などは残りましたが、野蛮とされ消えていったものもあります。

 代表的なのは闘技場です。キリスト教が入るまでは闘技場の見世物は非常に盛んでローマ人の大好きな娯楽の一つでした。

 しかし、ローマ帝国で発祥し受け入れたものですので、元からある習慣は他の西欧地域と違い残ってます。


・流行病

ペストをはじめとしたいくつかの病は当時の人口を激減させるほどのものでした。

ベリサリウスの生きた時代より後にペストが大流行し、東ローマは急速に縮小します。

別記事の「中世ヨーロッパの生存率と結婚年齢」もご参照ください。


・ローマ帝国、東ローマ帝国、ビザンツ帝国

 ローマ帝国は四世紀に東西に分裂します。広大な地域を収めきれなくなったと言われています。西ローマ帝国は間もなく滅亡し、東ローマ帝国が生き残ります。

 東ローマ帝国は七世紀初頭辺りまでは、元のローマ帝国の気質をほぼ受け継いでいましたので、ローマ帝国と呼んでも支障がないほどでした。しかし七世紀を過ぎると独自の文化を構築しはじめ、ついには公用語がローマのラテン語からギリシャ語に変わっていくのです。

 七世紀初頭までは、文化的にローマ帝国と言っていいかと思います。

 副官ローマに出る二人の主役ベリサリウスとプロコピオス(作中ではプロコピウス)は、六世紀の人間ですので強くローマを意識していたのですね。


・プロコピオス

小説内のプロコピウスは実在のプロコピオスを参考にしています。

史実の彼はベリサリウスの秘書官兼法律顧問として彼に従軍します。有名になっているのは、彼が残した三冊の書物です。

戦史、建築について、秘史の三つがそれにあたります。これらは後世から高く評価されています。


・ベリサリウスの生きた時代(ブログより転載)

 375年にゲルマン民族の大移動がはじまり、ローマ帝国は東西に分裂する。オドアケルによって西ローマが滅び(476)、旧西ローマ帝国領地は、西ゴート、フランク、東ゴート、ヴァンダルなどのゲルマン系民族によって支配をうけた。ただ、ゲルマン民族はキリスト教化しており、名目上、ローマ帝国の承認の元国をつくった。

 東方には急速に力をつけてきた、ササン朝ペルシアが控えており、東ローマを圧迫した。

 北にはスラブ、ブルガール族が東ローマを圧迫していた。

 そんな時帝位についたのが、元マケドニアの将軍であったユスティニアヌス一世(483~565)であった。

 ユスティニアヌスは世界史の授業で聞くには、東ローマの最大領土を築いた偉大な皇帝とされているが、実際はこの皇帝とんでもない奴で、その性格は、他人の能力に対して嫉妬ぶかく、いつも用心深く、さらに領土欲も非常に強い上にけちで、蓄財なんぞ考えないそんな皇帝であった。


 ともかく、ベリサリウスはユスティニアヌスによって東方戦線指令長官に任命され、ペルシャを打つよう命を受ける。

 ベリサリウスに与えられた兵はほとんど新兵であり、数は約二万人であった。

 ダラス要塞に立てこもったベリサリウスは約倍の四万のペルシア軍相手に見事勝利し、ペルシアに永遠の平和を誓わせた。(530年)


 次に、ユスティニアヌスが我慢ならんというローマ市民はコンスタンティノープルで武装蜂起、これがニカの乱である。

 絶望するユスティニアヌスに妻のテオドラ(鉄の女として有名)は、「皇位こそ最高の死に装束」といって励まし、ベリサリウスに鎮圧を命じた。

 わずか三千人の兵士を与えられたベリサリウスはニカの乱を鎮めた。


 領土欲が復活した皇帝にアフリカ北岸のヴァンダル討伐を命じられると、ベリサリウスはヴァンダル王国を滅ぼすことに成功する(533)。

 次にイタリア半島の東ゴート王国の討伐を命じられるが、ユスティニアヌスはベリサリウスの能力に嫉妬し、成功しそうなところで彼を解任してしまった(535)。

 ベリサリウスは再びペルシアを破り(542)、イタリア半島の征服に乗り出すとまた成功しそうなところで解任された。

 

 このことで、ベリサリウスは軍を退役し、コンスタンチノープルでひっそりと余生をすごしていた。

 その後、スペイン南部で反乱がおこったり、スラブ族が北から攻めてきたりと、危険な状態になると皇帝は都合よくベリサリウスを呼び出し、ベリサリウスは当然のように全ての戦いで勝利した。

 562年には皇帝の嫉妬は最高に達し、ベリサリウスを無実の罪を着せて侮辱し投獄した。翌年には皇帝もさすがにやりすぎたと思ったのか、解放されベリサリウスはひっそりと余生をすごすのだった。


 次回はベリサリウスの会戦についてです。

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