五月三十一日
水茎の君から返事が来た。
身体中の細胞が跳ねまわり、全身が柔らかな温もりに包まれていく。ああ。こんな感覚、忘れていた。いくつ歳を重ねても感じられる悦びがあることを知る。桂介には感じたことのないあまりに懐かしい感覚だった。
これを最後と綴った手紙への返信。あちらも最後の挨拶をくれたのか、それとも――。
まるで制服を着ていた頃のような瑞々しい血潮が頬や耳を染めていくのを感じる。
望んではいけない。いつの頃からだろう。明かりに似たものを見つけると、まずそう言い聞かせるようになっていた。傷つきたくないからと、初めから手を伸ばさずに。
けれども今はまた、傷を負ってでも触れてみたいものがある。それはなんて心震えることなのだろう。
この震えがどうか共振しますように。
祈りながら封を切る。見ればまたもや便箋のほかに同封されているものがある。――絵だ。花を描いた水彩画。
この花は――オダマキ。
一般的によく見られるのは鮮やかな呉須色――藍青色ないしは青紫色――の花が多い。けれどもここに描かれているオダマキは薄桃色と薄群青を重ね合わせたような柔らかな色合いをしている。
中心に立ち上がる無数の雄蕊と、五本の雌蕊を取り囲む白い筒状の花びら。そして、その外側に、こちらこそが花びらだとでもいうように美しく発色し先端をつんと尖らせた五枚の萼片。
これは、あの庭に咲くオダマキ。
私はその花弁に沿って指先を這わせる。それから花の香りを感じたくて顔を近づけ――あの庭の風の匂いを吸い込む。
ああ……。あの時と同じ。馬車道の地下にある小さなギャラリー。極楽寺のあの家の庭を描いたアキの油絵を初めて見た時のあの感じ。
私はもう一度オダマキの花を瞳の奥に焼き付けてから、便箋に手を伸ばした。
水茎の君は、水城彰太さんという名前だった。水城彰大宛の手紙が水城彰太に届いていたのだった。
なんということ。きちんと住所も名前も記した手紙が、どうして赤の他人の手に渡ったのか不思議でならなかった。いくら同じ住所とはいえ、名前が違えば届くはずもない。それが。点ひとつ。まるで筆の先からぽたりと垂れた絵具のような点ひとつ。これではまるで、なにかのいたずらのよう。
改めて手紙と向き合う。
彼は、絵を描く仕事を志しているらしい。そうなるとやはりあの由比ヶ浜の青年にちがいない。そう確信があった。すでに思い込みではないかという不安は微塵もなかった。
一瞬アキと見紛うような雰囲気を漂わせていた青年。手紙の向こうにいる「アキ」だとは知らずに思わず心奪われた存在。あの時感じた清廉な魂。――あれはたしかに同じものだったから。
水茎の君と由比ヶ浜の青年が同一人物であったことは、私にとってこの上ない啓示に思えた。私は正しい道を歩んでいる。そんな気がした。なにをもって正しいのかなんてわからない。けれども、山道を歩いていたらぽんと切通しにつながっていたかのように、私の歩むべき道が目の前に現れた気がした。
そしてその道の先に待つ人がいる。
水城彰太さん――私に新しい色を重ねてくれる人。
同封されたオダマキの水彩画は自分の気持ちだという。つくづく思う。この人は絵を描くことでしか自らを伝えられないのだと。
オダマキの花言葉は「素直」。
けれども彼は知っているのだろうか。この花にはまた「捨てられた恋人」という花言葉もあることを。花言葉はひとつではないし、どれが正しいというものでもない。このオダマキにだって「愚か」「必ず手に入れる」などもある。
気持ちを言葉ではなく絵で伝える。それは自らが語る言葉を持たないというだけでなく、相手がそれを受け止める心を持っていると信じているからなのだろう。筆を伝わって色へと姿を変える画家の心。私はそれを感じ取れる人なのだと信じられたのかもしれない。彰太さんに。アキに。
手紙の中で彰太さんは語る。私のアキへの一途な想いに救われたと。そして立ち向かう勇気を得たと。
けれども私は彼になにも与えてなどいない。私の捨てられない想いを彼が自らに塗り重ねて新しい色を生み出したまでのこと。それでも彼はオダマキの花言葉に従って素直に「会いたい」と言ってくれる。私のアキを想う気持ちが必要だと言ってくれる。桂介には捨てることを望まれていたこの気持ちを――。
あの庭のオダマキを彰太さんはどのような想いで描いたのだろう。長い間住む人もなく荒れた庭の草叢でオダマキのひと群れに出会った時の想いが、この一枚の水彩画に写し取られている。
それは言葉では言い表せない気持ち。あやふやで、もどかしく、けれども確かにここにある気持ち。新しい色を重ねたいと。そうして私たちは互いの色を求める。
――僕が同封したこの絵が描かれた風景を。
その先にしたためられた水茎の跡に視線を滑らせ、息を飲む。
だって、これは。この言葉は。
私はこれを手紙に書いただろうか。きっと書いたのだろう。そんな気がする。そして、この人は、その言葉が使われた過去を知っていてなお、再び私に授けてくれる。
――この場所を見てみたくはないですか。
*
その色が目に見えないのが不思議なほどに薔薇の香りが満ちている。小さな蜂や名も知らぬ虫たちが薔薇の香りに酔って舞う。
港の見える丘公園のローズガーデンをそぞろ歩き。
港の見える丘公園と呼ばれるこの一帯は、開港当時は外国人居留地で、この丘の上にイギリス軍、下にフランス軍が駐屯していた。軍の接収解除の後、今の公園の形となったらしい。フランス領事館跡地はフランス山と呼ばれ、元イギリスの総領事官邸はイギリス館として残っている。
ローズガーデンは丘の起伏を至る所に残し、カスケードと呼ばれる階段状の水路やガゼボと呼ばれる西洋風四阿などが様々な種類の薔薇の向こうに見えている。
前をゆくあやめさんが屈みこんでカメラを構えている。白いガゼボを背景に黄色に朱の差した熟れた桃のような色合いのバラをアップで撮るつもりらしい。二年はオランダに行きっぱなしになるので、馴染みの風景をたくさん写真に収めておくのだという。
「ちょっとお茶でもしようか」
あやめさんが伸びをしながら言った。
私の返事など待たずに展望台近くのカフェへと向かっていく。
白壁にオレンジ瓦のスパニッシュスタイルの洋館。白とピンクを基調とした店内席を抜け、ローズガーデンを見下ろすテラスの席につく。
白いパラソルの下で、店員にメニューを渡されるなり、あやめさんは「本日のケーキとローズティーをふたつずつ」と注文した。私の意志は確かめることすらされず、いつもと同じに見えるこの笑顔の下に隠されている感情があることを感じずにはいられない。
ケーキと紅茶が運ばれてくるまでの間、あやめさんは撮影したばかりの画像をひたすら確認している。確認している振りをしている。
私はちびちびと水を口に運んでは、あやめさんの唇が開かれるのを待っている。
待っていながらも私の心は彰太さんからの手紙へと手繰り寄せられる。
――この場所を見てみたくはないですか。
すぐにでもはいと答えたい。その言葉をアキに言われた時はすぐに答えていた。けれども今度は手紙。しかもアキの言葉に塗り重ねようとする彰太さんのその言葉に、どう答えるべきなのだろう。
「返信、お待ちしています。」という一文の後に記されたメールアドレスと080から始まる連絡先。当然、「返信」はメールか電話でということになる。少しでも早く声を聞いてみたい気持ちと、飛びつくようなはしたなさに恥じらう気持ちとの狭間で、私は丸一日漂っている。
躊躇いと怯え。答える言葉は決まっているのに、それをどう伝えれば私がよりよく思われるかなんてことを考えている。
汚いな、と思う。相手によく思われたくて、取るべき行動をあれこれ考えているなんて。まるで計算高い女みたい。桂介に対してはそんなことを考えたことなどなかった。私は私のままだった。アキに対してはどうだっただろう。導かれるまま吸い寄せられていって、そんなことを気にする余裕さえなかったような気がする。
甘い薔薇の香りが立ち昇る紅茶と、ハート形にカットされた苺が乗ったミルフィーユがテーブルに置かれる。
ティーカップの中で透明感のある褐色オレンジの水色の波紋が静まっても、あやめさんも私も紅茶に手を伸ばさない。
甘い香りが纏わりつくようにして鼻先を舐めていく。ローズガーデンから漂ってくる香りなのか、紅茶に垂らされた天然ローズエッセンスの香りなのか。
あやめさんの表情を窺おうと視線を上げると、既にこちらを見つめている瞳とぶつかった。怒ってはいない。あやめさんの目を見て、ひとまずこっそり胸をなでおろす。
「……まったくねぇ」
あやめさんが言葉をまるめて溜息とともに吐き捨てる。
ようやくローズティーに口をつけ「おいし」と呟く。私も薄いカップの淵に唇を当て、舌先を湿らせる程度に香りを味わう。紅茶のかすかな苦みはさらりと去り、薔薇の甘い香りだけが鼻腔に抜ける。
「聞いたわよ」
なにを、とは問わない。桂介とのことに決まっている。
「どうしたのよ、いったい。随分突然じゃない」
どう答えればいいのだろう。だって突然だったんだもの。自分の心にけじめをつけるために――桂介との結婚に向かうために手紙を書いた。そうしたら一筆さっとぞんざいな線が引かれて返ってきた。そんな感じ。もう二度と手を加えられるはずのなかった部分に無造作に、けれども絶妙な色合いで筆が入れられた。
「ごめんなさい」
私がいけなかったんだと思う。ちゃんと自分の色を確かめなかったから。アキとの絵を仕舞い込んで、新しいキャンバスを用意してしまったから。まっさらなキャンバスを。私の色さえ入れられていないキャンバスに桂介の色が塗られるはずもなかった。真っ白なまま。それはきっとこれからも。白く眩いだけの一枚の――絵になる前の……絵になることのないキャンバス。
「謝られても困るけど」
あやめさんは怒っているというより、心底困ったように眉根を寄せた。
「ごめんなさい」
私はまた謝る。だってほかにどう言えばいいのかわからない。
あやめさんは泣き笑いのような表情で、ははっと文字が形を成して浮かんでいそうな乾いた笑い声をあげた。
「あたしもさ、ひとの恋路に口出しするなんて無粋な真似はしたくないんだけどさ。ほら、あたしがけし掛けたっていうか、美鈴ちゃんに桂介を紹介したわけじゃん? なんか責任っていうか、ねぇ」
「責任なんて、そんな」
「うん、まあ、責任なんて感じてないんだけどね。今のは言葉の綾っていうか。ただね、やっぱ気になるじゃん。あ、べつに、考え直せとかそういうんじゃないからさ。その、この前会った時は返事を待ってもらっているだけで、結婚はするつもりはある、みたいなことを言っていた気がしたから」
そう言って、ミルフィーユの上に乗っているハート形の苺をぱくりと食べた。ハートの消えたミルフィーユはなんだか寂しげだ。
「あの時は本当に桂介と結婚するつもりだったんです。でも、気持ちの整理をしようと思っていたら……」
「あのさ。美鈴ちゃん、まさかと思うけど」
「あ、違います。過去を引きずっているとかそういうことじゃないんです」
私は両手を振って否定した。だって、あやめさんがものすごく気の毒そうに私を見るから。アキに去られた私はそんなに哀れに見えたのだろうか。
「……だったら、なんで?」
どう言えばいいのだろう。うまく伝えられる言葉を持たなくて、私はにへらっと笑って見せる。
「うーん。……なんとなく?」
「……あんたねぇ。そんなので誤魔化せると思っているの? いい? あたしが桂介を紹介したからとか、あいつがあたしの従弟だからとか、そういうのはいいの。ただ単にあたしが気になるのよ。関わったのに知らないままでいる気持ち、あんたならわかると思うんだけど」
関わったのに知らないまま。そう。それは呪いのようにつきまとう。だから私はアキを想い続けてしまった。
「しづやしづしづのをだまきくり返し――」
「オダ・マキさん? 誰それ?」
あやめさんのとぼけた声に、ふっと思わず笑いが零れる。だって、その反応、桂介とまったく同じ。この従姉弟たちはやっぱりからりと晴れた空の下でたっぷりの陽射しを浴びている。
「いえ、いいんです、それは。このところ、静御前の唄が頭から離れなくて」
「静御前? なんでまた。……もしかして、やっぱり、鎌倉の?」
「鎌倉は鎌倉なんですけど、あやめさんが思っているのとは違うっていうか」
「えっ、あんた、まさか他に好きなオトコができたの?」
「えっ?」
今度は私が驚く番だった。好きな、オトコ? ……そう、なんだろうか。
静御前のスケッチ。オダマキの水彩画。由比ヶ浜の青年。水茎の君――。
あの思いつめたように真っ直ぐな視線で見つめて描く姿が脳裏に甦る。
おそらく私より十歳くらいは若い。桂介だって年下だったけど、それだってたった二歳。ううん、年齢じゃない。あの孤独で苦しそうな清廉な魂。それに触れたくて。その手で――あの絵を描くその手で新しい色を塗り重ねてほしくて。それは……その想いの名は――。
「やだ、あんた、いつの間に。ううん。いいのよ、それならそれで。桂介なんか捨てちゃって」
随分ひどい従姉だ。あ、ひどいのは私か。プロポーズに応える素振りをしておきながら、ころりと態度を変えた私の方こそひどい。誰も傷つけずに素直に生きることなどできない。それでも私は。
「で、どんな人?」
あやめさんは興味津々なのを隠そうともしない。これはあやめさんを満足させる類のものなのだろうか。違う。そんな単色の想いではなくて。
――この場所を見てみたくはないですか。
素直という花言葉を持つオダマキの咲く庭。義経をひたすらに想い続けた静御前の唄。水茎の跡を重ね。新しい色を重ね。
それはきっとあやめさんや桂介を納得させられるほどの話にはならない。それでも私に色を重ねてくれる。あやめさんも。桂介も。出会うすべての人たちが。
だからせめて伝えたい。もし伝わらなくても。伝えたいという思いだけでも伝えたい。
あなたのおかげで新しい色を塗り重ねる縁が生まれたと。私のいちばん奥にある想いに新しい色を重ねてくれる人に出会えたと。
「手紙を書いたんです」
私は語り始める。重ねられた水茎の跡を。静御前の舞を。そして私が新しい色に出会うまでの小さな物語を。
あやめさんが身を乗り出し過ぎて、ティーカップがカチャリと音をたてる。私は紅茶をひとくち。私の外にも内にも甘くまあるい香りが広がった。
*
五月三十一日、日曜日。ついに約束の日。
夜半に静かに音もなく窓を濡らしていた雨も上がり、今はライティングデスクの片隅にある木製の小引き出しに、窓から差し込んだ朝日が小さくあたっている。
一番上の引き出しから取り出した白いレースのハンカチをトートバッグに入れ、二段目に入っていた桜貝のネックレスを身に着ける。
それから、三段目の引き出しから取り出したのは、折りたたまれた一枚の紙。細かな皺が無数に散らばった紙。
それを静御前のスケッチとオダマキの水彩画とに重ね、そっとバッグに忍ばせる。
さしておしゃれなどはしないこととする。
そもそもアイリスで働いていた頃から改まった格好などしていない。めったに着ないブランド物のワンピースを着たのだって、桂介から指輪を貰ったあの日くらい。
いつも通りの私で会いに行く。リネンのロングスカートに春物の薄手のセーター。
ようやく彰太さんへ連絡したのは、手紙を受け取った翌々日だった。
すぐに誘いに乗ることに躊躇われるのは相変わらずだったけれど、あまり長い間放っておくのも失礼な気がして、中途半端な挨拶だけのメールを送ってしまった。
そんなメールでも彰太さんは喜んでくれ、手紙よりも若々しい印象の文章だった。そう、初めての手紙で感じた薄汚れた捨て犬みたいな。
けれどももう手負いの獣のように必死に威嚇する姿はそこにはなかった。代わりにあるのは、ちぎれんばかりに尻尾をぶんぶん振り回す姿。
彼のメールの素直さに――会って詫びたいということと、オダマキの絵の印象を尋ねる内容に――私は、決まっている答えを伝えることに躊躇う意味を見失った。彼は……彰太さんは、きっとオダマキの絵を送ってきた時から素直であることにしたのだ。
それならば私もそうありたい。
そして私は返信した。
――あなたの描かれた風景を、その場所を見てみたいです。アキと……彰太さんのお庭を。
大船駅で横須賀線に乗り換え、鎌倉駅へ。ホームから改札口へ続く通路へと降りる。
西口へ行かなくてはならない。前回はどうしても足が動かず、東口へ向かい、鶴岡八幡宮と由比ヶ浜を訪れたのだった。
大丈夫。まずは西口を出るだけ。
JRから江ノ電への乗り換えは専用改札があるけれど、今日はひとまず駅を出る。だから大丈夫。あの頃とは違う改札口だから。
自分にそう言い聞かせ、乗り換え用改札口を横目に西口改札を外に出る。
こちら側は東口と違って、ひっそりとしている。日曜日なので江ノ電に乗ろうとする観光客もいるのに、それでも地方の小さな駅舎のようなのんびりとした佇まい。
小さなロータリーを抜け、信号を渡る。左手に市役所を眺めながら、右手の高級スーパーマーケットへと向かう。
お酒売り場で棚に並ぶシャンパンを眺める。すっとピンク色の箱に手を伸ばしかけ、はたと気付いてその隣の白い箱を両手で抱えた。あの日、アキが買ってきたのはピンク色の箱に入ったロゼだった。あの時鼻腔をくすぐったフルーティーな香りが甦る。でも、今回はこっち。
では日曜日にと、会う約束をしたメールの直後にまた着信があった。もしや思い直してキャンセルになるのだろうかと落ち込みかけた目に飛び込んだのは、鯛は苦手かどうかという問いかけだった。幸い私は食べ物の好き嫌いはない。大丈夫だと返信しながら、こんなことで慌ててメールを寄越す彰太さんを可愛いと思った。
そして今頃せっせと料理を作り、私をもてなそうとしているのかと思うと、自然に頬が緩む。このシャンパンを喜んでくれるだろうか。
スーパーマーケットの名前が大きくデザインされた紙袋を下げて駅へと戻る。
信号待ちの間にふと思い立って振り向くと、市庁舎が建っている。日曜日なので当然のことながらひと気はない。
青信号を知らせる軽快な曲が鳴り、私は前を向き、歩きはじめる。
江ノ電の改札口を入ればもうそこは駅のホーム。さすがに足が止まる。壁に寄りかかり、呼吸を整える。
どうにかよろよろとベンチまで辿り着き、息をつく。まだ電車は来ない。線路が鈍色に陽を受けている。
トートバッグの口を開き、三枚の紙を取り出す。皺だらけの紙。静御前のスケッチ。オダマキの水彩画。
皺だらけの紙を胸にあて、両手を重ねる。その下で桜貝のネックレスが胸元に押し付けられて、肌がちくりと痛む。
「……大丈夫」
小さく自分に言い聞かせる。
新しい色を。この上に新しい色を。
「大丈夫」
彰太さんの二枚の絵をじっくり眺める。どこか武骨な筆跡や姿にそぐわない繊細な絵。けれどもそれらすべてに感じる清廉な魂。その新しい色を。苧環を巻き続けた私の上に新しい色を重ねてくれるのだから。
藤沢行きの電車が来るとのアナウンス。ほどなくして緑色の車体が滑り込んでくる。
皺だらけの紙を今一度強く抱き締め、バッグに押し込む。二枚の絵を手に私は立ち上がる。シャンパンの入った紙袋が重い。
ドアが開くと、私は三年ぶりに江ノ電に乗り込んだ。
極楽寺のあの家に向かうために。
*
江ノ電鎌倉駅は、始発駅だ。既に電車が止まっていることもあるけれど、あの日は――あの三年前の――アキとの別れが訪れたあの日は――まだ折り返し電車の到着前で、屋根のない線路部分に帯のような陽射しが降いでいた。
初夏の煌めく陽射しと共に爽やかな風が吹いていて、ホームにまで明るい気分を運んでくる。視界を遮るように風になびく髪を掻き上げながら、体を風上に向けた。
すると、見慣れた姿が、平日の午前中で人もまばらな改札口を抜けてくるのが見えるではないか。
あれ? アキ。
アキったら、今日は私が来ると知っているのに、朝からどこへ出掛けていたのだろう。市役所にでも用があったのかしら。
そんなふうに思いながら見つめていると、アキはようやく私に気付いて左手を振った。私も手を振り返す。
アキもここで私に会えると思わなかったのだろう。笑顔で早足になるアキは右手に紙袋を下げている。市役所の手前にある高級スーパーマーケットの紙袋。
へぇ~。珍しい。鎌倉駅まで買い物に来ることも、高級スーパーマーケットで買い物をすることも今までになかった。言ってくれれば私が買い物してから行ったのに。
そう声をかけようと口を開きかけた時、またふわあっと暖かい風が吹いた。
カサッと軽い音がして、アキの手にした紙袋から薄い紙が一枚舞い上がった。
「あ」
アキと同時に声をあげる。
私は零れるような声を。アキは呼び止めるような声を。
そしてアキは思わずといった様子で、風に舞う紙に手を伸ばす。
掴んだ――その瞬間。アキの姿が消えた。
「キャアーーーッ!」
耳をつんざくような悲鳴が上がる。私の声だった。
「アキッ!」
アキの消えた場所まで駆け寄って膝をつく。
ホームの縁に手をかけて覗き込むと、アキがあの紙を左手に掴んだまま、鉄のレールを枕にして横たわっていた。閉じた瞼が小刻みに動く。
人が集まってくる。ざわめきが渦を巻く。遠くで非常停止ボタンを押せと叫ぶ声がする。
私は狂ったようにアキの名を繰り返す。アキ。アキ。アキ――。
紙袋から飛び出したシャンパンの瓶が割れ、アプリコットかピーチのような甘く爽やかな香りが風に乗る。そしてたちまち線路の砂利にロゼの赤い泡がシュワシュワと吸い込まれていった。
救急隊員の「お知り合いの方ですか?」との問いに「はい」と答え、救急車に同乗する。
サイレンの音が突き刺すような車内で状況の説明とアキについて質問される。どのようにしてホームから落ちたのか、持病はあるか、住所、氏名、生年月日……。
「あなたのご関係は?」
「お付き合いしています」
「水城彰大さんのご家族は? ご連絡先とかわかりますか?」
「いえ……実家は鎌倉山としか……」
一通りの質問と、アキへの応急処置を済ませると、救急隊員たちは口を閉ざした。頭部を固定されたアキの視線がゆっくりこちらに傾く。
「アキ。今、病院に向かっているからね」
アキが心細くならないように、笑顔で語りかける。
アキの左手が重そうに持ち上がる。
急いで両手で包み込むと、握っていた紙を私の手に押しこんでくる。
私がそれを受け取ると、その手はこれ以上ないくらいにゆっくりと持ち上がっていき、私の頬に触れて張り付いた。
ひんやりしっとりとしたアキの手が、初めて触れる私の頬の感触を味わうようにかすかに動く。私の右手を握る時のようにむにむにと。
アキがなにか言いたそうに口を開きかけたその時、救急車は病院に到着し、アキの担架は何人もの人に囲まれて運ばれていった。
私の頬にアキの手の感触をはっきり残して。
救急病院に到着したアキはそのまま処置室に運び込まれ、私はひとりひと気のないICU待合室のソファーにぽつんと座らされた。処置室からは時折看護師が出入りするくらいで、広い待合室の角にすっぽりはまっている私のところへなど誰も声をかけに来ない。
私はただ震えを抑えるように全身をこわばらせていた。寒い。壁に掛けられた時計がたいして進みもしないのにカチカチと音ばかりたてている。
やがて警官が五人もやってきた。制服姿が二人と作業着姿が三人。彼らは忙しげに言葉を交わした後、廊下の角を曲がっていき、すぐに制服の一人が戻ってきて私の隣に腰かけた。私より少し上の年齢だろう。左手の指輪が随分歪んでいるな、などと妙なところが目につく。
「杉村美鈴さんですね?」
「……はい」
「神奈川県警の荻原です。水城彰大さんとお付き合いされている方、でよろしいですか?」
「はい……」
「ご結婚はされていないですよね?」
「はい」
「そうしますと、お身内の方に来ていただかないとならないんですが……水城さんのご家族と連絡はとれますか?」
「いえ……全然知らないので」
「あー、そうですか。ちょっと待って下さいね」
荻原さんは席を立ち、すぐにもう一人の制服警官と一緒に戻ってきた。上司なのかもしれない。犯罪者に舐められるのではないだろうかと心配になる程に柔和な顔をした初老の男性だ。しかし、口調はぞんざいだった。
「杉村さんね、ご家族を呼べないと困るんだわ」
そんなこと言われてもこっちも困る。
「すみません。本当に知らないんです」
「彼のご家族にお会いしたことはない?」
「ありません」
「うーん、まいったなぁ。なんかご家族のこと聞いてないかな」
「鎌倉山に実家があるとしか……」
「鎌倉山ねぇ」
「あ」と荻原さんが声をあげる。「あの水城さんじゃないですか?」
「なに。鎌倉山の水城さんに心当たりあるの?」
初老の警官は期待に満ちた目を荻原さんに向ける。
「ほら、あの水城さんですよ、市会議員の」
市会議員……?
「ああ! あの水城さんか。長男が国政に出馬するとかなんとか」
「そうそう。次男がたしか私くらいの年齢ですよ」
警官ふたりは勝手に納得して去っていく。
またしても私はひとり取り残される。
寒い。恐ろしく寒い。
握りしめた両手を胸にあてたまま時計の音だけを拠り所として意識を保つ。
アキ。アキ。アキ。
笑顔で手を振る姿が何度も何度も心に映る。
警官が還暦前後と思しき男女を連れてICUに入っていく。
「彰大っ!」
「あきくんっ!」
看護師の出入りが激しくなり、ICUの自動ドアは開閉を繰り返す。ドアが開くたび途切れ途切れに声が聞こえてくる。
CTを撮って……MRIで調べるまでもない……。
脳挫傷からの出血……脳内血腫……多量の血腫……脳幹……。
損傷が激しく……。
女性の泣き叫ぶ声がうるさくて、あとはなにも聞き取れなかった。
「こちらが先ほどお話した杉村美鈴さんです」
いつの間に来たのだろう。荻原さんが目の前に立っていた。私も知らないうちに立ち上がっている。
「杉村さん、こちらは水城さんのご両親……」
「あなたのせいよ!」
荻原さんの言葉にかぶせて女性のキンキン声が響く。やめてよ。頭が痛いんだから。
「あなたがあきくんを……!」
「もうやめなさい」
男性が女性の肩を抱くと、女性はよよと泣き崩れた。男性は女性の背を撫でながら、私の口元あたりに視線を落として話しかけてきた。
「杉村さん、でしたね?」
「はい」
「申し訳ないが、今日のところは帰っていただけませんか」
言葉だけは依願だけれど、気難しそうな男性特有の責めるような物言い。目尻が赤みを帯び、目元の皺が濡れている意味を敢えて考えないこととする。
「あの、アキ……彰大さんは?」
それを聞かずに去るわけにはいかない。すると、女性が突如私を突き飛ばし、私はソファーに倒れ込んだ。荻原さんが背中を支えて起こしてくれる。
「あなたに関係ないでしょ! あきくんに近づかないでちょうだいっ!」
荻原さんは私を立たせると、エレベーターホールまで連れて行く。
「杉村さんはお帰り下さい」
「あの……水城彰大さんの様子は……」
「ご両親の許可もなく警察から第三者にお伝えするわけにはいきませんので。申し訳ありませんが」
気付けば闇に包まれた自宅の上り框に座り込んでいた。いつどうやって帰ってきたのかもわからない。辺りはしんと静まり返っていて、この世に私ひとりが取り残されたまま、世界は滅亡したのではないかと本気で考えた。
――寒い。
自らの肩を掻き抱くと、かさりと音がしてごわごわしたものが触れた。握ったままだった拳をゆるゆると開くと、くしゃくしゃにまるまった紙がぽろりと床に転げ落ちた。救急車でアキに渡されてからずっと握りしめていたらしい。
こんな紙を拾おうとしてアキは……アキは……!
紙屑を力いっぱい部屋の奥に向かって投げ捨てた――つもりだったのに、紙屑は力なくふわりと静かにライティングデスクの前に着地した。
あったまにきた! 私はびりびりに破り捨ててやろうと、紙屑を拾い上げ――手を止めた。
「これって……!」
逸る心を必死で抑え、破けないようにそうっと紙を開いていく。そして机上に乗せて、手のひらで丁寧に皺を伸ばす。
「これ……」
そこにはまだなにも書かれていない婚姻届があった。
「アキ。なにこれ。聞いてないよ、私……」
アキ。そんな素振り一度も見せなかったじゃない。不意打ちだよ。急すぎるよ。もっと予感みたいなの感じさせてよ。
――アキ……私は、水城美鈴になりそびれたんだね。
翌朝、私はその婚姻届を丁寧に折りたたんで、小引き出しの三段目にしまった――。
*
極楽寺の駅はこじんまりとしている。この駅で降りるといつも随分と遠くまで来てしまったかのような気分になる。それは三年の空白があっても変わらない。あの頃と変わらない景色がここにある。
こんなにいい天気なのにここの空気はほのかに湿り気を帯びていて、しっとりと肌に馴染む。昨夜の優しい雨に洗われた緑の息遣いが伝わってくる。
鶯が澄んだ声で鳴き、ケキョケキョケキョといつまでも余韻を響かせる。
古い映画でしかお目にかかれないような円柱形のポストを曲がる。昔からのものが昔のままに残されている。だからここは、距離だけでなくて、時間までも遠いところまで来たかのような錯覚を起こさせるのだろう。
ゆるい坂をだらだらと上る。日曜日だというのにあまり人がいない。成就院の紫陽花もまだだし、と思って、ああしばらくあそこの紫陽花は咲かないんだったと思い出す。
この街は以前と変わらず、三年ぶりの道でも迷うことはない。細い路地へと入っていく。
垣根からはみ出ている紫陽花の株が蕾を持っている。歩みを緩めて目をやれば、まだ薄緑色のつぶつぶとしたそれはほのかに青く色づき始めている。
もうすぐそこ。そう思った瞬間に身体の芯が熱くなった。思わず手にしたシャンパンに目をやる。自覚のないまま口にしてしまったかと思うほどの熱さだった。まさかそんなはずもないのだけれど、酩酊しているかのようだと他人事のように思ったりする。
頬から耳にかけて熱が駆け上る。喉の奥が大きく脈打ち、呼吸が早くなる。浅い息しかできない。
路地を進むと、ブロック塀が見えてきた。その塀の向こうに、平屋建てのその家がある。
家が若返るはずもなく、相も変わらず年季の入った佇まい。
オリーブオイルでグリルした魚の匂いが路地に広がっている。鯛料理は大丈夫かと聞いていたのはこれだったのだろう。もしかしたら、焼き加減を見ながら、それを口にする私のことを考えてくれたかもしれない。そう思うと、胸の奥でたくさんの小さな粒が跳ねまわる。
そして、オリーブオイルとは違う油の匂いをも嗅いだ気がした。
ああ、これは。記憶の波が柔らかな霧となって私を包み込み、また引いていく。これは、あの頭痛を引き起こす匂い。油絵に使う画用液とかいう……。
もう目の前に玄関が見えているのに、私はその場に立ちすくむ。来し方行く末に想いを彷徨わせ、小さく拳を握る。
ここに水城彰太さんがいる――。
こちらの気も知らないで、裏の山でピィピィと名も知らぬ鳥が無邪気に鳴く。
苧環で手繰り寄せたのは過ぎし日の――私の魂。青白く絶えず燃える炎。
入り組んだ細い路地の奥に。草の葉の陰に。ひっそり落ちている名もなき色。
絵具が溶け合い、重なり合い、どこにもない色が生まれる。そんな相手を求めて魂は彷徨うのだろう。
重なり合い溶け合って、新しい色を生み出せる清廉な魂を求めて――。
チョットコイ。チョットコイ。
裏の林でコジュケイが鳴く。
ちょっと来い、という呼びかけに励まされて、私は一歩踏み出す。
そして、自らの気持ちを落ち着けるために、ゆっくりと声をかける。
「ごめんください」
家の奥から「はい」と爽やかなやや高めの声が返ってくる。そしてすぐにバタバタと近づいてくる慌ただしい足音。
玄関のガラス戸に黒っぽい人影が映る。三和土に下りてサンダルのようなものを突っ掛けたのだろう。地面を擦るような音がする。
あたふたとした動きの影はガラス戸の取っ手と桟に手をかけ、しばらくガタガタと揺らしながら、小さな声で絶えず悪態をついている。
そう。この敷居は傾いでいるらしく、以前から開けるのにコツがいるのだった。私は懐かしさと共に、かつてとは異なる影の動きを見つめる。
戸を少し持ち上げるようにして――ガタンとひとつ大きな音を放ち、隙間が開く。
その隙間から絵具に汚れた指先がにゅっと出てきて、力強く戸を横に滑らせる。
やがて、相変わらず立てつけの悪い玄関の戸が、ガラリと開いた――。
* fin *