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五月十九日

 しづやしづしづのをだまきくり返し

 昔を今になすよしもがな



   *



 ライティングデスクの片隅にある木製の小引き出し。

 一番上の引き出しから取り出した白いレースのハンカチの上に、二段目に入っていた桜貝のネックレスをゆっくりと乗せる。

 それから、三段目の引き出しに手をかけ――そこで止まる。


 ――開けられない。上の二段はやっと開けることができたけれど、ここだけはどうしても開けられない。


 三段目の引き出しの表面をなでる。どんなに心をこめてなでてみても伝わってくるのはざらりとした死んだ木の感触だけ。



 机上にぽつんと置かれている指輪のケースを手に取る。ケースごと胸に(いだ)く。


「桂介」


 瞳を閉じればたちまち目に浮かぶ。白を基調とした清潔でさっぱりした部屋。レースのカーテンがそよ風に揺れる。

 琺瑯(ほうろう)のコーヒーポットからドリッパーに、湯気の立つお湯がゆっくりと渦を描くように注がれる。ペーパーフィルターが濃褐色に染まりながらドリッパーに張り付いていく。ポチョポチョとかわいらしい音をたてながら生まれたてのコーヒーがサーバーに雨だれのように落ちていく。部屋にはハワイのフレーバーコーヒーのバニラマカダミアの甘くまろやかな香りが漂う。

 桂介がネクタイを結びながら「うまそうだな」などといいながら近づいてきて、「おはよう」と軽く唇を合わせる。


 桂介とのそんな生活が私の胸をくすぐって、思わずふふっと声が漏れる。


 瞼を上げれば、いつも通りの山手のアパート。朝日が整えたばかりのベッドカバーの上でくつろいでいる。


 今日は十七日。手紙を書いてから四日目。


 アイリスが閉店してから日にちの感覚がすっかりなくなっていたのに、ここ数日は日にちばかり気にしている。

 自分のことは忘れてくれというアキからの手紙に返信を送ってからというもの、ずっと手紙を待っている。まだ届いてすらいないはずの投函日の夕方から日に何度もメールボックスを覗いたりして。

 なんか、ばかみたい、私。

 桂介からの指輪を抱いたまま手紙のことばかり考えている。


 今日は日曜日だけれど桂介と特に約束はしていない。桂介はフットサルの練習の日。いつものみなとみらいのコートにいるはずだ。


 私は大きく深呼吸すると戸締りを始めた。



   *



 走る。緑の上を滑らかにしなやかにネコ科動物のような敏捷さで走る。

 桂介は眩しい。全力で生きているって感じがする。なにがあってもこの先には光しかないと思わせてくれる。


 スタンド席に腰かけてフットサルコートを走る桂介を目で追う。

 フットサルとサッカーはコートの広さや人数、ルールや用語などあらゆるものが違うらしい。けれど私から見れば、フットサルは小さなサッカーでしかない。サッカーですらボールに手を触れなければいいのだろう、というくらいの知識しかないので、違うスポーツだと認識できるだけマシだと思う。だって桂介と付き合うまではフットサルってどんなスポーツかなんて考えたことすらなかったんだから。


 アキと別れて二年が過ぎてもぼんやりしていることの多い私をこの場所に連れてきてくれたのはあやめさんだった。


従弟(いとこ)がフットサルの試合なの。一緒に応援に行ってくれない?」


 スポーツ観戦なんてちっとも興味が湧かなかったけれど、あやめさんがどうにかして私を暖かい陽射しの許に連れ出そうとしてくれているのがわかったから、断りきれなかったというのが正直なところ。でも、実際に見てみたらなんだかもうとっても清々しくて、他人が走り回る姿を眺めることがこんなに気分を晴れ晴れとさせることに素直に感動した。

 特にシュートを決めて、チームメイトに向き直った時の笑顔とか、見とれてしまうほど美しかった。人が生きるってこんなにも眩しくて美しいものなんだと、分厚いカーテンが一気に開かれた感じがした。

 この人は周りをも光の中につれていく人だ。そう思ったら目が離せなかった。――それが、鷹野桂介だった。


 ホイッスルが鳴り、一年前の思い出が弾けて消えた。小さな粒子となってキラキラと風に舞う。キラキラの向こうから現在の桂介が光をまとって走ってくる。


「びっくりした。来てくれたんだ」

「連絡しなくてごめんね。急に来たくなって」

「いや、いいよ。すっげー嬉しい」


 歯並びの綺麗な口を大きく開けた桂介の笑顔は、初夏の陽射しまでが霞むほどに爽やかで眩しい。


「なんだよ、桂介!」

 遠くからチームメイトたちが声を飛ばす。

「彼女待たせてたのかぁ?」

「見せびらかしてないで、さっさと行っちゃえよ」


 私たちは笑い声と笑顔に見送られてその場を後にする。



 シャワーの後の桂介はミントの香りがする。乾ききっていない髪は無造作に掻き上げた手櫛の跡が残り、初めて見る姿ではないのに鼓動が高まる。

 どうして一緒にいるのだろうと甘い痛みと共になんだか不思議に思う。


 車に乗る時はいつも助手席のドアを開けてくれる。「閉めるよ」と一声かけて閉じられた後のわずかな一人の時間に、私は自分がとてもいい女であるかのような気分になる。


「えっと、どこ行く? 美鈴んち?」

「ううん。それより、お出かけがしたいな」

「そっか。じゃ、まず飯にしよう。腹減っちゃって」

 と言った途端に桂介のおなかがグーッと鳴る。

「……な?」

 なぜか得意げに微笑む桂介。

「わかった、わかった」

 私はなんだか楽しくてしかたがなくなる。


「どこがいいかなぁ」

 山下公園を過ぎ、本牧方面に向かいながら桂介が歌うように問う。

「私、行きたいお店があるんだけど」

「よし。じゃあそこにしよう」

 どこのなんのお店なのかも確かめずに即答してくれる。



   *



 私が提案したお店は、鎌倉七里ヶ浜の海を見下ろす高台にあるイタリアンレストラン。赤いパラソルがかわいらしいテラス席からは相模湾が視界いっぱいに広がる。


 クリスピー生地のマルゲリータピッツァを運んできた店員が去ると、桂介が身を乗り出した。


「鎌倉、もう大丈夫なのか?」

「うん。桂介となら来られる気がしたの」

「お、おう。そうか」


 焼きたてのピッツァを頬張り「あつっ、あつっ」と言いながらもぺろりと一切れを食べ終える。トンビがすぐ近くを旋回し、テラスの人々が笑い混じりの嬌声をあげる。


「あの、さ。あいつともこの店に来たこと、あんの?」

「あいつ?」

「その……元カレ」

 桂介でも気にするのかと意外に思う。

「ないよ」

「ないの?」

「うん。あやめさんとは一度来たことがあるけど」

「ああ、そうなんだ……。ここ、いいよな。景色も最高だし、料理もうまいし」

 桂介はピッツァの二切れ目に手を伸ばす。


 アキはこういうところには来ない。もっとひっそりとしたところ。佐助稲荷の近くのお蕎麦屋さんとか、銭洗弁天に行く途中の甘味処とか。


 でもあの手紙のアキはちょっと違う。もうそんな池の水面のような静けさはない。もっと原始的ななにか。荒々しさを秘めた由比ヶ浜の海。

 由比ヶ浜の沖には今でこそヨットなどが浮かび、穏やかで美しく陽の光をきらきらと煌めかせているけれど、鎌倉時代には合戦の地となったこともあって、いまだ人骨が埋まっているという。静御前が産み落とした男児もこの浜に遺棄されたとの言い伝えもある。


「しづやしづしづのをだまきくり返し――」


 思わず零れる静御前の唄。慌てて口を閉じても零れた言葉は辺りを漂う。

 桂介が眩しそうに眼を細めて問う。


「おだまき? 誰それ? 俺の知っている人?」

「え。オダ、マキ……? 誰って?」


 意表をつく問いに一気に現代に引き戻される。

 ああ、こういうところ。こういうところが桂介のいいところ。なんていうか、滑らかなの。すっきりさっぱりしている。からりとした五月晴れ。


「……なに笑ってるんだよ」

「あれ、ごめん。笑ってた?」

「で、そのオダさんがどうしたって?」

「ううん、いいの。桂介の知らないヒト」


 執念のような湿っぽくねっとりまとわりつくような想いは桂介に似合わない。


 ピッツァはタバスコをかけ忘れたせいか、なんだかちょっと物足りなかった。



   *



 葉山や逗子の方などをドライブして、大きな夕陽が波打つ水面に長く伸びるころには再び鎌倉に戻ってきていた。

 桂介と過ごす鎌倉はなんだか知らない場所の様で、私の心は凪いでいた。小波すらたたずに――。


 私たちは、稲村ヶ崎の海を眺める公園の柵に乗り出し、言葉もなく一日が終わりを迎えようとするのを感じている。


 ふいに桂介の気配が濃くなる。息遣いを自分のそれのように感じるほどに近づく。まさに触れようとするその瞬間、私は夕陽に目が眩んだかのように装って、つと顔をそむけた。


「……どうして? 鎌倉では、いや?」

 甘く耳元で囁く。桂介のいじわる。

「そうじゃなくて」

「あいつを思い出す?」


 常にはない(なぶ)るような言葉とは裏腹に、声はますます柔らかく深くなり、私は耳元から蕩けそうな痺れを感じてしまう。


「だから違うの」


 違う……違くない……違うんだけど……。


「あいつともここで――」


 今日に限って執拗な桂介を一瞬汚らわしいと感じてしまう。


「するわけないでしょっ! 手にしか触れたことがないのに!」


 つい声を荒げてしまい、慌てて口を噤む。

 けれども勢いよく吐き出された言葉は桂介を貫き、流鏑馬(やぶさめ)の矢のように的の中心にしっかりと刺さっている。


 あいつだなんて。アキを示すにはふさわしくない言葉に思わず声を……。そうじゃない。そういうことではなくて。


「だって……美鈴はその人と三年半も付き合っていたのに……?」

「……」

「……本当に?」


 私は頷く。言葉にするのはなにか違う気がした。

 そう、穢されたくない。……穢す? こんなにも朗らかで清らかな桂介が?


「――ごめん。俺、今日すげーみっともねー」

 桂介が自分の髪に両手の指をつっこんでぐしゃぐしゃと掻き回す。

「なんか焦ってて。不安つーか」


 いつもの桂介の魂が還っている。あの手紙から立ち昇る気配の主とは異なるけれど、これもまた間違いなく清い魂。それは水晶のように澄み、周りのものをありのままに映し出す。


「桂介は悪くない。私が返事をしないからいけないのよね」


 私はいつも間違える。


「いや、あ、いいんだよ、それは。だって気持ちの整理がついたら返事くれるんだろ?」


 承諾の返答を疑っていない。焦りや不安を感じつつも揺るがない自信が見え隠れする。

 思いっきり傷つけたくなった。

 艶やかに煌めき、光を反射する魂。小さな傷などではなく、粉々に打ち砕いたら一層美しく煌めくだろう。

 砕け散ったらもとには戻れない。けれどもどうしても衝動を抑えることができない。


「眩しすぎるのよ」

「へ?」

「桂介はいつだって正しく生きている」

「俺? そんなことないでしょ。今だって、ほら、ねぇ? みっともないとこ見せちゃったし?」


 照れ臭そうにへらへら笑う。そんなふうにして私の心を軽くしようとしないで。


「桂介は真っ直ぐで……一緒にいると私、自分がどんどん醜くなるの」


 違う。こんなことを言いたいんじゃない。こんなこと思っていない。


「なっ? ちょ、ちょっと待てって」

「これ、お返しします」


 指輪を差し出す。

 受け取らないので上着のポケットに突っ込む。


「なに言ってるんだよ」

「光が眩いほどに闇は濃くなるの」


 違うのに、言葉が止まらない。

 眩しくて眩しくて苦しくなる。本当はこんなにも綺麗な心を傷つけたくなんかない。けれど、どう伝えればいいというのだろう。

 桂介に響く言葉を私は持たない。


「だからなんなんだよ。難しく考えるなって」

「難しくなんかないよ。とても簡単なことなの。もっと早くに気付かなくちゃいけなかった」


 気付かなくちゃいけなかった。私は美しいものが欲しいわけじゃない。見晴らしのいい景色ではなく、薄暗い切通しの先や露に濡れる植込みの影にふいに現れるなにか。そんななにかを感じたい。


 ――ここに訪れたことはお忘れ下さい。それが今のあなたにとっても、この私にとっても何よりの幸せなのです。


 アキからの手紙。私の幸せをどうしてあなたが決めるの? 私の幸せがどこにあるかなんてわかるはずもないのに。

 そして、私はわかりやすい幸せを望んでいるわけじゃない。ただ想いが止められないだけ。想いのままに流される快感を味わいたいだけ。たとえその先に涙しかなかったとしても。


「ありがとう。さようなら」


 この言葉を言えてよかった。ちゃんと伝えられてよかった。


 国道134号線の細い歩道を歩き出した私を追ってくる足音はしなかった。



   *



 海岸沿いを二十分ほど歩くと砂浜が見えてきた。

 長谷(はせ)にほど近い由比ヶ浜の西の端。この前訪れた東の浜にはもうすぐそこまで宵闇が迫っている。

 ひと気のない砂浜へと階段を降りる。一歩波打ち際に近づくほどに国道の車の音が波の音にかき消されていく。

 レースのハンカチに包んだネックレスを取り出し、風に煽られる髪をよけながらどうにか身に着ける。


 波が瞬き、砂が震える。そこに残るは小さな桜貝。

 ひとつひとつ拾っていく。拾い集めていく。


 はふんっ。


 空気の漏れるような音に振り向くと、おじいさんが……ううん、逆。セントバーナード犬がおじいさんを散歩させていた。犬はぐいぐい歩いては、よたよたとおじいさんが追い付いてくるのを待っている。


 はふんっ。


 犬がくしゃみをした。そうか、(ふいご)のようなあの音は犬から漏れていたのか。

 おじいさんが犬の大きな背中を撫でてやると、今度は並んで歩き始めた。ゆっくりと共に歩んでいく。


 私は再び桜貝を拾い始める。


 この前のようなアキの気配はやってこない。淋しいような和むような妙な気分。

 極楽寺も遠くないこの場所ならば、気配だけでなく、アキ本人が現れるかもしれない。淡い期待と知りながら、時折辺りを見渡してみたりする。


 背に視線を感じて、ふと振り向くと、砂浜に降りる階段にリラックスした様子でスケッチをする男性の姿があった。

 波の音が消えた。


 アキ?


 世界がぐるりとひっくり返ったかと思うほどの眩暈と氷の剣で切り付けられたかのような鋭い痛みが走る。

 けれどもすぐに規則的な波音に包まれた。


 スケッチをしているというほかは、なにひとつアキと似たところのない青年だった。

 おそらく二十代だろう。洗いざらしの白シャツにジーンズというラフな恰好。なのに残念なことに爽やかな印象はなく、ぼさぼさの髪と季節外れに日焼けした肌は世界を放浪する写真家かなにかのように見えた。とてもスケッチなどという繊細な趣味を持つ人には見えない。いや、私は絵描きにかつてのアキのイメージを重ねすぎなのかもしれない。

 それでもどうにもその青年が気になって、私は桜貝を拾う振りをしながら、彼をちらちらと盗み見る。


 思いつめたように真っ直ぐな視線で見つめて描く――。

 孤独で苦しそうな清廉な魂。


 一瞬、彼の姿が手紙の中のアキと重なる。――まさか。どうしてそんなこと。アキとは似ても似つかないと初めに思ったばかりなのに。


 けれども、そんなことが頭に浮かんでしまうと、もう彼を見ることができなくなってしまった。


 しだいに緋色が闇を連れてくる。


 帰り際にひとめだけ彼を見ようと階段に目を向けるが、既に、かの姿はそこになかった。



   *



 日付が変わる頃になってようやく今日のお出かけのメインがなんだったかを思い出した。とんでもないことに、由比ヶ浜からずっとあの幻のようなスケッチ青年の姿が心に棲みついていて、桂介のことなどすっかり忘れていた。うっかりにもほどがある。


 慌ててスマホを手に取りディスプレイを表示させると、メールのアイコンに「17」という数字がくっついていた。


「え?」


 二ケタのメール受信通知なんて初めて見た。しばし、その数字をまじまじと眺めてしまう。

 そうしてようやくびくびくしながらメールを開く。



 1>今どこ?


 2> 落ち着いて話そうよ。


 3> なんで怒ってんの?


 4> 元カレのことなら、もう二度と聞かないから。


 5> いい加減に機嫌なおせって。


 6> 戻ってこないなら帰っちゃうよ?



 なにこれ。私はちょっぴりがっかりした。桂介には私の本気が届いていなかったから。私の精一杯を桂介はちょっと虫の居所が悪かったというくらいにしか思っていないから。

 画一的な整った文字は十七ものページを開くまでもない。最新のメールだけ開くこととする。



 17> もしかして本気なの?



 伝えたかった「ありがとう。さようなら」は、どうやら伝わっていなかったことを知り愕然とする。そして、桂介に申し訳ない思いでいっぱいになりながらも、私自身は少しも悲しみを感じない。もう桂介との楽しい時間を過ごせないのかと思うと残念ではあるものの、狂おしいまでに取り戻したい気持ちは起こらない。

 不思議。三年半も前のアキとの時間はこんなにも巻き戻したいのに。


 対峙して声で伝えても伝えきれない想いもあれば、遠く離れても水茎の跡だけで伝わる思いもある。だからきっとそれは時間や距離ではなくて、魂の近さ。


 手紙、来ないなぁ……。


 婚約者になりかけた恋人との別れよりも、三年半前の元カレの手紙の方が気にかかるなんてどうかしている。私ってこんな人間だっただろうか。


 もう手紙は来ないかもしれない。


 そもそも初めから返事どころかアキの手元に届くことさえ期待していなかった。もうそこにいないと、もう私とは関わりがないと、もう済んだことだと実感したかっただけ。

 なのに、まさか返事が来るなんて。

 でもそこでやめておくべきだった。アキも忘れろと言っていたのに。


 思えば、二通目は心の赴くままに書き連ね、なにが言いたいのかさっぱりわからない手紙を書いてしまったような気がする。手紙だからだろうか、以前のアキとはまた違う鎌倉の香りに誘われてついペンを執ってしまった……。


 あんな手紙に対しアキが返事を書くこともないだろう。もう終わったのだから。


 五月十日付のアキからの手紙を胸に掻き抱き、想いの波に身を委ねる。強く私を惹きつけるのは、かつての想いの名残なのだろうか。ここにいるのは私の知らないアキ。それでも私はまた惹かれていく。


 水茎の跡が――筆跡が、文体が、手紙の主を浮き上がらせ、その手の感触を呼び起こす。求めてやまない清廉な魂。それに寄り添いたくて私は苧環(おだまき)を繰りながら唄い踊り続ける。



   *


 それから二日もの間、私は大した外出もせず、だらだらと部屋の中で過ごした。桂介からメールはあるものの、電話もないし、ましてや訪れてくることもないので、ちょっぴり肩すかしだった。案外終りなんて呆気ないものなのかもしれない。アキのことをずるずる引きずっている私の方がどうかしている。


 カタン……カタン。カタン。


 私はコットンスニーカーの踵を潰したまま突っかけてメールボックスへ向かった。郵便配達の制服姿が去っていく。

 期待しちゃ駄目。今日だってDMくらいしかないんだから。

 そう言い聞かせながらも、万が一、億に一でも可能性がないものかと、どうしても期待してしまう。


 ――あった!


 靴を脱ぐのもそこそこに封を切る。すると中身のふくらみで封筒がぱかりと自ら口を開けた。

 やけに分厚いと思ったら、スケッチブックから切り取ったかのような紙が折りたたまれている。なぜこんなものが……?


 そっと開くと、細く繊細な線で描かれたたおやかな静御前が立っていた。


 白拍子の装束の――私?


 私が直垂・水干を纏い、頭上には立烏帽子、腰に白鞘巻の刀を差している。届けるあてのない想いを持て余し、戸惑いながらもなお真っ直ぐな白拍子。


 どういうことかと逸る気持ちのままに手紙を開く。

 相変わらずの素っ気ない封筒と便箋ではあるけれども、走り書きの前回の手紙とは違い、丁寧に心を籠めて文字が綴られている。力強く大きめの文字はけして整ったものではないけれど、たしかになにかを伝えようとしてくれているのが感じられる。

 繊細で細密な静御前の絵と、摯実で勇壮な文字。どちらも溢れんばかりの想いを持て余した精一杯の表現。


 手紙によれば、この静御前の絵を入れたのは、アキが以前とは描く絵までも変わってしまったことを示すためらしい。由比ヶ浜で桜貝を拾っていた女性のスケッチを元に描いたという。しかし、しかし……。幻想的に美しすぎる雰囲気を除けば、どこをどう見ても私としか思えないこの静御前。


 ――アキじゃない。


 遠目であれ、アキが私と知らずにスケッチするはずがない。知らぬふりをするということも考えられなくもないけれど、そうなると、こうやって手紙に同封してくる意味がわからない。だから、この手紙の向こうにいるのはアキじゃない。

 水城彰大はやはりあの家にはもういない。


 ――それなら……これは誰?


 不思議と落胆はしない。だって、わかっていた。初めからわかっていた。アキが返事などくれるはずがないと。だから初めから期待していなかった。私自身が手紙を送るという行為そのものに過去との決別の意があったわけで。

 なのに、どういうことなのか、返事がきてしまったから。そんなはずはないという思いと、もしかしたらという思い。私は再び過去に手繰り寄せられて……。


 こんなはずじゃなかった。手紙を送り、受け取り手がなく、そこで私はやっとアキとの想い出に別れを告げられたはずなのに。

 こんなはずじゃなかった。桂介を好ましいと感じていたのに。共に歩く道は光に溢れていると思っていたのに。

 こんなはずじゃなかった。手紙の向こうに手繰り寄せたいなにかがあったなんて。


 人の想いは年月を絵具で塗り重ね変わっていくものだと、この人はいう。

 ああ。この人は――。

 忘れろといいながら、塗り重ねろという。

 この人にしてみれば、忘れるというのは捨て去ることではない。大切に仕舞い、その上に新たな色を重ねていけばいい――。

 私にそう促してくれている。過去を抱いたまま前へ進めと――。ただ過去に捉われるなと――。


 この人もまた重ね塗りの下絵となるものを持っているのだろう。そして重ねるべき色が見つからないでいる。


 互いに色を混ぜ、塗り重ね合い、新たな絵を描く――。それはとても魅力的に思えた。


 あの階段に腰かけていた放浪画家のような青年の姿が脳裏に鮮やかに浮かぶ。あの時は夕景を描いているのだとばかり思っていたけれど、もしかして。……まさか。そんな偶然があるわけない。

 けれどもあの日は由比ヶ浜の西の端。極楽寺の家からでもそう遠くはなく、アキとも何度も訪れた場所でもある。

 でもそんな。ありえない。――ありえない、だろうか。ほんとうに?


 いくつもの偶然で塗り重ね、そこに現れる色は運命なのかもしれない。


 いくら私が絵画に疎いとはいっても、これではさすがにアキの絵ではないとわかる。この人は、それに思い至らない人ではないだろう。


 それでも手紙に入れたのはなぜ?


 気付いてほしいと。見つけてほしいと。静かに叫んでいる。


 私を呼んでいるの? 


 そうに違いない……そんなはずはない……。

 想いが行ったり来たりする。


 ライティングデスクの片隅にある木製の小引き出し。

 一段目には白いレースのハンカチ。二段目には桜貝のネックレス。三段目には――。


 あんなに重く、もう二度と開くことがないと思っていた引き出しは、思いのほか滑らかに開かれた。中には折りたたまれた一枚の紙。角を揃えてはあるけれども細かな皺が無数に散らばり、さながらちりめん和紙のよう。


 折り目のついた静御前の絵と並べ置き、届いたばかりの手紙を胸に押し当てる。



 しづやしづしづのをだまきくり返し

 昔を今になすよしもがな



 苧環(おだまき)を巻き続けてみよう。この糸の先にあるのは未来かもしれないから――。


 そういえば、たしかどこかにあったはず。引き出しや小箱を次々と漁り、ようやく目当てのものを探し出す。


 萌黄(もえぎ)色の封筒と便箋。封筒の口には赤い縁取りがされている少し和風のレターセット。

 あの人ならきっとこれの意味するところをわかるはず。初めの手紙で静御前の舞のことを記してきたあの人が気付かないはずはない。


 でも、これでは私が新たに塗り重ねたい色がわかってしまうかもしれない。でもそれでも。わかってほしいような、そうでないような。


 はしたないだろうか。静御前の絵を送られた返信にこの色合いで送るなんて。だってこれは――



 赤地錦の直垂(ひたたれ)に 萌黄縅(もえぎおどし)の大鎧



 ――義経の戦姿の色。


 私の消せない想いを静御前と重ねたあなたへ贈るのは、その想い人の色をした水茎の跡――。



   *****



 一筆申し上げます。


 もうお手紙をちょうだいすることもないのかと淋しく思っておりました。

 このたびは、静御前の絵を添えていただき、ありがとうございました。やはり絵を描かれる方の筆は――水茎は、文字よりも絵の方が雄弁のように思います。とても繊細で美しい絵ではありますが、残念ながらその絵のもとになった身であまりお褒めするわけにはまいりません。


 あなたはずっとアキとなって私のお相手をしてくださっていたのですね。責めているのではありません。感謝申し上げたいのです。


 あなたは私に新たな色を塗り重ねるようおっしゃいました。気付けば私はとうに新たに筆を落としているのかもしれません。あなたからのお手紙によって。


 たしか義経は兄頼朝による追っ手が届こうかというその時、静御前の機転によって逃げおおせたことがあったような気がします。

 かつて私はアキに襲い掛かる手をかわすどころか、招き寄せてしまいました。ですから私には静御前のように別れた人を思い続ける資格はないのかもしれません。


 それでもかつてたしかにあった想いは私の奥深くまで沁み込んで、私を更に私らしく形作っていくのだと思えるようになりました。


 アキを忘れることなどできません。忘れたくはありません。


 けれどもその想いを抱えたまま、新たな先へと向かいたいと思います。あなたのおっしゃるように色を塗り重ねていく心持ちになれたのです。お手紙をしたため、そしてお返事をいただいたおかげで。


 ひとつ、ご報告しなければなりません。

 申し込まれていた結婚はお断りいたしました。あなたは重ねて願って下さったのに申し訳ありません。しかしながら、これは過去の幻影に捉われてのことではないのです。


 ご迷惑でしたら、今後はお手紙をお送りするのは控えます。

 でも、もし、ほんのわずかでも、私に色を重ねてくださるのなら――。いいえ。身の丈に合わないお願いになってしまいますね。

 やはりこれを最後にいたします。


 ただ一言お伝えしたくて。


 ありがとうございました。私と出会ってくださって。



                      かしこ


 五月十九日


                     杉村美鈴


 水茎の君




   *****

【参考】


三日△壬午△前備前守行家、〈櫻威甲〉伊豫守義經、

〈赤地ノ錦ノ直垂、萌黄威ノ甲、〉等西海ニ赴ク。


吾妻鏡 寛永版本 文治元年(1185)

十一月三日 (冊数名:3)(頁数:121)

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