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五月十二日

「ふ~ん。それで?」

 あやめさんは椅子にそっくり返ったままコーヒーカップに手を伸ばす。


 山手イタリア山庭園に建つ洋館に併設されたガーデンカフェ。数ある山手西洋館の中でも山手よりは石川町に近い。木立の向こうにみなとみらいのビル群が真っ青な空にくっきりと浮き上がって見えている。そよ風が吹くたびに掠めていく甘い香りは庭園の薔薇か、それともテーブルの上の紅茶の香りか。


 私はあやめさんの問いへの返答をわずかでも遅らせようと、紅茶に口をつける。薄いティーカップの淵がくちびるにしっとりと馴染む。ニナスのマリーアントワネットからは甘く爽やかな香りが立ち昇る。セイロンティーにりんごとバラの花びらで香り付けした紅茶。


「ねぇ、それでどうしたのよ? 美鈴ちゃんってば」


 あやめさんは私に紅茶を飲む隙も与えないつもりらしい。ほんのちょっぴり舐めるように紅茶の香りを味わい、カチャリとカップをソーサーにもどす。


「……返事を待ってもらっています」

「はぁ? あんた、なにやってんの?」

「すみません……」

 私は小さくなる。身体の大きさは変えられないので、声だけが小さくなる。

(けい)(すけ)からなんの連絡もないから、もしかして、とは思っていたけど」


 桂介はあやめさんの従弟(いとこ)だ。アキのことを引きずっていた私を桂介と出会わせてくれたのもあやめさんだ。


「私がオランダに行く前にあんたと桂介の結婚式に参列したかったのに」

「そんなの無理ですよ。あやめさんがオランダに行くのって来月でしょう? さすがにそんなにすぐ結婚式は挙げられませんって」

「うるさいわね。気持ちよ、気持ち。なに開き直ってるのよ」

「すみません」


 あやめさんは旦那さんの転勤でオランダ行きが決まっている。だから雑貨屋アイリスも先月で閉店した。そして私は晴れて無職の身。今はハローワークに通いながら失業保険受給中。

 こんなふうに時間にだけは余裕があるから過去のことなど思い出してしまうのかもしれない。


「だいたいね、桂介と結婚しちゃえば職探しなんてしなくてもいいのよ? 職を奪った私が言うのもなんだけど」

「そういうつもりで結婚するのもなんだか」

「……だから断ったの?」

「断ったわけでは……。ただ、考えさせてって」

「即答しないわけはなに?」

「……」


 ボーッっと太く低い汽笛が響く。横浜港から聞こえる汽笛。高台であるこの場所からも海が見えている。

 同じ海辺の街でも鎌倉とは大きく異なる。鎌倉は砂浜と山に囲まれた街だ。潮の香りと緑の香りが混じり合い、観光地でありながら人々の生活も感じられる場所。

 温かいというのとも違う、長閑で伸びやかなゆったりとした時の流れ。ともすれば止まってしまいそうにゆるゆると流れる時。ずっとあのまま――何度そう思ったことか。そしてそれは叶えられると思っていた。


「美鈴ちゃん。あんた、まさか、まだ――」


 あやめさんの目元がきゅっとすぼめられる。眩しいからではないだろう。

 私は返事に困って笑みを浮かべてみる。が、うまくいかず、あやめさんの姿が水中に沈んでいく。かろうじて溢れ出すことだけは免れた涙が目頭の奥に吸い込まれていく。

 あやめさんはわざとらしいくらいに大きな溜息をついた。


「あたしはね、別に美鈴ちゃんが桂介と結婚するべきだって言ってるんじゃないの。あの男のことは忘れなさいって言ってるのよ。あんただって、そうするべきだってわかっているんでしょ?」

「ええ。わかっています」


 ゆっくり頷いた拍子に紅茶に水紋が広がった。



   *



 あやめさんと別れ、山手の尾根伝いに南へ向かう。西洋館や教会、私立学校などが立ち並ぶ道を木漏れ日を踏みながら歩いていく。

 山手駅へ降りる急な階段が見えてきた辺りで細い脇道に入る。車が通れないどころか、人とすれ違うのも容易ではないほどの細い道。山手の住宅地はこんな道ばかりだ。車が通れるのは一部の高級住宅地くらいしかない。

 山手駅に近づくほどに町はモザイクのようになってくる。細くうねった道沿いの斜面に張り付くようにごちゃごちゃと一戸建てやアパートが立ち並ぶ。

 車が入れないため、引っ越しの際は超過料金が科せられる。しかも私の部屋はアパートの一階部分なのに、路地からそこに辿り着くまでに二十段もの階段があるから、そこでもまた超過料金がかかる。単身引っ越しの割に高くついた教訓から、私はもう十年近く同じアパートに住み続けている。

 アパートと言っても白壁にオレンジ色の瓦屋根のかわいらしい建物で、とても気に入っている。だから引っ越し代金が高いことだけが住み続けている理由ではないのだけれど。


 アパート前の階段を上り切ると、建物と同じ白壁にオレンジ瓦のアーチがあり、そこをくぐったところに住人用のメールボックスが並んでいる。ダイヤルを回し、詰め込まれたチラシ類を掻き出す。

 よくもまあこんな車も入れないような路地の奥までポスティングに来るものだと感心してしまう。まったく単身者用1DKのアパートにどんな人種が住んでいると思っているのだろう。男性向けとしか思えないようなチラシがわんさか入っている。

 うんざりして備え付けのゴミ箱にまとめて放り込む。と、ぴょこんと真っ白な封筒の角が飛び出ているのが目に入った。


 え? 手紙?


 D(ダイレクト)M(メール)ならもっと目立つ封筒だろう。だからといってプライベートな連絡ならメールでしてくるはずだ。もっとも友人たちはみな結婚し子育てに忙しく、滅多なことではメールすら寄越さない。ましてや手紙なんて――。


「……まさか」


 唯一の可能性に思い至り、慌ててゴミ箱から救出する。もしそうだとしたら、一瞬たりともいかがわしいチラシなどと一緒にしておくわけにはいかない。


 ごくありふれた一般的な白い定型の長封筒だ。でもそんなことは問題ではない。


 差出人――水城彰大。


「アキ……」


 想いが私という殻を突き破って弾けたのかと思った。一瞬にして辺り一面にアキへの想いが広がり、傾いた陽射しさえいつかアキと見たはずの色に思えた。


 まさか返事が来るとは思わなかった。てっきり実家に帰っているのだとばかり思っていたから。私の手紙は宛先不明で帰ってくるのだと。それでいいと思った。それで諦められると思った。

 まさかまだ鎌倉の――極楽寺のあの古くて小さな家に住んでいたなんて。


 返事が来た。返事が来た。アキから返事が来た。


 バッグから部屋の鍵を取り出すのももどかしく、がちゃがちゃと騒がしい音をたてながら感情を開放できる空間へと転がり込む。

 封筒の口を爪でカリカリと引っ掻きながらもペーパーナイフを探そうとしたが、送る際に慌てて封をしたのかペーパーナイフを使うまでもなく、呆気ないほど簡単に糊がはがれた。

 手紙の方でも早く読まれたがっている。私はこの三年間を走り抜けてきたかのように息が苦しくなり、いつしか口で忙しなく息をしていた。


 指先がじんじんと痺れる。目にはそれとはわからぬほどに細かく震える指。

 そっと便箋を抜き出すとアルコールのような匂いを嗅いだ気がした。


 鼻腔にアキの家の匂いが甦る。

 アキは一番奥の部屋をアトリエにしていて、いつだって灯油かシンナーのような匂いがしていた。初めの頃はそれを臭いと言えずに我慢して、頭痛に悩まされたものだった。頭痛を耐えて笑顔が減った私を見て、アキは自分が退屈な人間なのではないかと悩んだという。

 そんなことならもっと早くに言ってしまえばよかったと笑いあったのはもう遠い昔のこと。


 梅雨も間近の湿った風が重たい日のことだった。気温と湿度が上がったせいか、その薬品のような匂いは濃度を上げ、どろりとした触手で私に絡み付いていた。

 さすがに耐えられず、それでも控えめに「なにか匂いませんか?」と聞いたものの、アキは「いいえ」と言ったきり。

 慣れとは恐ろしいものだと思う。あんな強烈な匂いを感じなくなるとは。この匂いの元が灯油であれ、シンナーであれ、こんなに古い木造家屋に充満していては火事にならないとも限らない。

 私は思い切って「臭いですよ」と言った。その時のアキの顔と言ったら。心底驚いて腕だの着ている服の裾だのを嗅ぎまわっていた。

 結局、あれはアトリエから漂う画用液というなにやら油絵具と混ぜて使う液体の匂いだった。

 それからというもの、私が訪れる日にはアキはアトリエの襖を閉じるようになった。


 手元の封筒から感じたその匂いは既に失われている。すると先程までの焦燥感はおさまり、とくんとくんと響く鼓動を感じながらようやくぱらりと便箋を開くことができた。


 封筒もシンプルなものだが、便箋もレポート用紙のようで素っ気ない。けれどもそれが却って急いで返信をくれたようで喉の奥が大きく脈打つ。


 これがアキの書く字……。


 思えば三年半も付き合っていて、文字を書くところをみたことがない。あの家に筆記用具があったのかどうかも怪しい。


 アキの右手は絵を描くためだけのもののような気がしてしまう。食事の時などはお箸を持っていたのだから、本当は絵のためだけのはずはないのだけれど、どうしてもアキの右手は特別に思えてしまう。


 あの手に一度でいいから触れてみたかった。初めて見たあの淡い緑の庭の絵を描いた右手に触れてみたかった。

 私が触れたことがあるのは左手だけ。アキの右手どころか髪も頬もましてや唇など触れたことはなかった。

 アキも私の右手のほかは触れなかった。三年半の間に一度も。


 ――ああ。一度だけ。ただ一度だけアキの手が私の頬に触れたことがある。ただそれだけ。

 私は右頬に手をあてる。……違う。こんなのじゃない。アキの手と感触が違うのは当たり前なのに。アキの手はひんやりと冷たく、私の右手と吸い付くようだった。


 ――美鈴の手は柔らかくて温かいなぁ。


 そういってむにむにと握るのだった。今頃の時期はあの濡れ縁でこんもりと咲いたツツジを眺めながらむにむにと握るのだった。土は湿り気を帯び、植物の吐息まで感じられそうな庭で――。


 手紙は柳のようにしなやかなアキの印象とは異なっていた。文章こそ丁寧だが、どこか無気力で投げやりな、やさぐれた感じを受ける。そう、まるで反抗期の少年か、手負いの獣のような。繊細で傷つきやすい正体を隠すように牙を剥き出し、必死に威嚇する姿が映し出される。


 私の知っているアキとは違う。


 けれどもあんな別れ方をした後に、アキがどのような月日を送ってきたのか、私は知らない。あんなことの後ならば、この手紙に浮かび上がる姿になっていても不思議はない。


 だって、精一杯強がっている姿の中にある魂は間違いなく清廉な画家そのものだ。

 あの庭のポンプで汲み上げた冷たい井戸水のように澄んで清らかな凛とした魂。


 手紙では、私とのことはすっかり過去のこととなり、思い出にすらなりえずに、私からの手紙によってようやく記憶の底から汲み上げたかのような表現をしている。

 今まで一度なりとも思い出さなかったかのように。


 そして、忘れろと。前へ進めと。


 静御前でさえ義経への想いを過去のものとし京へ帰った伝承を添えている。

 アキはいつから歴史になど興味を持つようになったのだろう。私といる時にそんな話はしたことがないのに。


 私の知らないアキがいる。もう私と一緒にいたアキではない。私が変えてしまったんだ。忘れることが互いの幸せだと綴るアキの気持ちは本心なのだと思う。


 今更アキとやりなおせるとは思っていない。桂介のプロポーズだって受けるつもりでいる。ただ思い出の整理をしたいだけ。きちんと蓋をして鍵を締めて、そっとしまっておきたい。その前に思い出とお別れを――。


 ライティングデスクの上の小引き出しに手を伸ばす。二段目の引き出しを開け、そっと摘まみ上げる。しゃらりとチェーンが伸びる。桜貝をハート形に重ね、透明樹脂で固めたネックレス。


 やっぱりかわいい。素直にそう思う。


 鏡の前でつけてみる。三年ぶりのネックレスはまだ私に似合うだろうか。


「美鈴は肌が白いから、桜貝の淡く柔らかい色がよく似合うね」

 そう言って鏡越しに目を合わせ、優しく微笑んでくれたアキ。


 ……鎌倉に行こう。そう思った。


 アキとの別れ以来、鎌倉には訪れていない。どうしても足が向かないのだ。

 辛い? 苦しい? 悲しい? どれもがそうであるようで、どれもが違う気がする。


 行ってみよう。アキに会いに行くわけではない。あの頃の私に会いに行ってみよう。あの山と海に囲まれた鎌倉に散らばっている私の魂を拾い集めてこよう。届いたばかりの手紙を胸に抱いてそう思った。



   *



 山手駅から京浜東北線で大船駅まで下り、そこで横須賀線に乗り換える。大船駅は伊豆へ向かう踊り子号や成田空港へ向かう成田エクスプレスなどの特急電車も止まる大きな駅だが、京浜東北線と横須賀線のホームは隣り合っているから乗り換えは簡単だ。


 横須賀線に乗り込み、ドア付近に立って流れる景色を眺めていると、急に懐かしさに包まれる。不思議とアキの家へ訪れた頃の記憶ではなく、横須賀の実家にいた頃の記憶だ。

 両親は五年前に横須賀の家鳴りがひどい家を二束三文で売り払い、父の退職金と併せて伊豆の辺鄙な場所に温泉付きの一戸建てを購入した。

 念願の田舎暮らしに舞い上がる両親は、ありがたいことに一人娘が三十五歳にして未婚であることになんの関心もないらしく、こちらが忘れた頃に気味の悪いラブラブツーショットをメールしてくるくらいだ。


 横須賀は鎌倉とほど近い。なので、子供の頃から鎌倉には土地勘があり、そんなこともあって、アキの家に遊びに行くことに抵抗はなかった。


 一方、アキの実家は鎌倉山だそうだ。鎌倉山はそう高くもない丘で、鎌倉の西の外れに位置し、東は極楽寺と接している。自然豊かではあるけれども道路沿いにゆったりとした邸宅が点在する高級住宅地だ。

 アキが実家について深く語ることはなかった。私も特に知る必要性を感じなかったから尋ねたこともない。

 裕福な家庭で育ったにも関わらず、わざわざごく近いところで一人暮らしをするにはそれなりの理由があるのだろうとだけ、ぼんやり思っていた。


 出会った頃、私は二十八だったから、アキは三十一だったはずだ。

 実家が裕福だからと言ってその年で仕送りを受けているはずもなく、絵は主に平日の夜や休日に描き、普段はみなとみらいにある美術館で警備員の職についていた。

 だから横浜で会うこともなくはなかったけれど、それでもやはり私たちは静かな鎌倉でのんびり過ごすことが多くなった。


 ドアのガラスに映る桜貝が陽射しを受け、淡い光を放つ。


 大船駅から二駅目で早くも鎌倉駅に到着する。南北に延びるホームからの階段を降りて東西出口に向かう通路に出る。

 東口の改札は大きく、こちら側を出れば小町通りや若宮大路を抜けて鶴岡(つるがおか)八幡宮(はちまんぐう)へ行ける。主要な寺社の多くも東口に広がっていて、駅前にはバスターミナルもあるので、人の流れは多い。

 西口は構内から眺めても改札口が小さく、東口に比べると人通りも少ない。ただ、少ないとは言っても観光地鎌倉だから有人改札には観光客らしき人々が群がっている。

 西口の近くには鎌倉市役所くらいしかないけれど、こちら側は江ノ電への乗り換え口でもある。極楽寺に行くのなら江ノ電に乗り換えなければならない。


 私は西口につま先を向け……立ちすくむ。


 修学旅行生らしき制服の一団が、きゃあきゃあ言いながら江ノ電への乗り換え改札口を抜けていくのが見える。

 古い民家の軒先や海沿いを走る緑色の車体。二両か四両の小さな電車。

 鎌倉、和田塚、由比ヶ浜、長谷、極楽寺。乗車時間七分。

 幾度この電車に乗ったことだろう。なにも考えずとも自然に乗り換え、極楽寺の小さな駅で降り、線路沿いの坂道を上って行った。

 こんなにも鮮やかに目に浮かぶ光景にどうしても近づくことができない。背筋に冷たい汗が流れる。酸素が薄い。胸に真綿を詰め込まれたように浅い息しかできない。こめかみから一筋の汗が流れ落ちる。頭の芯が痺れ、ゆらりゆらりと揺さぶられる。青紫や赤紫の柔らかな色が揺れる。


 成就院の紫陽花の時期ももうすぐだろう。

 極楽寺の駅から海に向かって坂を下っていくと道沿いの苔むした壁に張り付くように階段が現れる。その階段を何度か折れながら上っていくと成就院の山門とその向こうに本堂がひっそりと建つ。細い参道の両側は紫陽花で埋め尽くされ、その向こうには相模湾が眼下に広がっている……。


「今年は紫陽花見られないらしいわよ」

 ざらざらした声が近づいてくる。

「やだ、どこの紫陽花? 北鎌倉の明月院?」

「違うわよ、極楽寺のほら、あの坂の途中にある」

「ああ、成就院、だっけ」

 声はくぐもってざわめきに漂う。

「そうそう、そのなんとか院。紫陽花の植え替えとかで、今年から三年は花が咲かないんだって」

「あらぁ。残念ねぇ」

「え。あなた、見に行く予定だったの?」

「べつに予定はないけど」

「なんだ、だったら関係ないじゃない」


 声が目の前を通り過ぎていく――。


「あら。あなた、大丈夫?」


 ふいに二の腕をがしりと掴まれる。ゆらゆらとバランスを取っていた揺れが止められて、私はその場にふにゃりと座り込んでしまう。


「あらあら。大変。具合悪いの?」


 ああ、放っておいてほしい。


「あなた、ひとり? 誰か一緒じゃないの?」


 ひとりよ。ひとりで来ちゃいけないの?


「真っ青な顔して」


 腕を掴んでいるのとは別の手が、私の右手をぎゅっと握った。


 ――いやっ!


 とっさに手を振り払う。

 紫陽花色の靄が晴れ、目の前に還暦前後と思われる女性ふたりが口をぽかりと開けて佇んでいる。


「あ……すみません。大丈夫です」私は慌てて頭を下げる。

「あら……そう? じゃあ気を付けてね」


 女性ふたりは「なんなのあの子」「心配してあげているのにねぇ」などと不機嫌そうに囁き合いながら江ノ電乗り場へと消えていく。


 右手で桜貝のネックレスを握りしめる。そしてその上から左手でそっと覆う。


 右手はだめ。唯一アキに触れたところだから。唯一アキが触れたところだから。ここでしかアキの感触を感じられないから。


 アキ。あなたに触れた右手の感覚が薄れていくよ――。

 アキ。あなたを想った気持ちも薄れていくのかなぁ。それがあなたの望みなの?

 アキ。忘れるってそういうこと?


 立ち止まっていても仕方がない。私は西口へ向かうのを諦め、鎌倉駅の表側ともいうべき東口へと向かう。不思議と足取りがしっかりしているのが自分でもわかる。こちら側にだってアキとの思い出がたくさんあるのに。


 改札口を抜けると左手に進み、土産物屋の並ぶ小道、小町通りの入口に立つ。が、制服姿の中学生の多さにうんざりする。

 そうか、春は修学旅行の時期だった。駅構内で江ノ電に乗り換えていた集団のことを思い出す。中学生くらいの年齢だと、歴史的な寺社よりもお土産選びに熱が入るのだろう。

 小町通りには小さなお店が立ち並び、おまんじゅうやクレープなどの食べ歩きもできるから観光客には大人気だ。


 私は並行して通っている車道もある大通り、若宮大路を通ることとする。こちらも人通りは少なくないものの、修学旅行生の姿がないので比較的歩きやすい。


 突き当りに朱が映える大鳥居が見える。鶴岡(つるがおか)八幡宮(はちまんぐう)だ。

 大鳥居をくぐり、左右の源平池と朱色の太鼓橋を横目に広い参道を進む。正面の大石段の先に本宮が山を背負って建っている。


 けれども今日は本宮まで上るつもりはない。大石段の下に建つ(まい)殿(でん)を見ようと思う。手紙に書かれていた静御前が義経を慕って白拍子を舞った場所。

 実際に静御前が舞ったのは若宮廻廊らしいけれど、その跡に建てられたのがこの舞殿。地元出身者なら必ず小学校の社会科見学で一通りの知識を詰め込まれる。その知識が数十年後に思い出されることになるなんてあの頃は思いもしなかったけれど。


 舞殿の目の前まで来ると、突如神楽演奏が始まった。

 神前結婚式かあ――。

 わらわらと観光客が集まってくる。人々の目線よりも高い舞台に柱と屋根だけの舞殿で執り行われる挙式。

 外国人観光客が写真を撮り始め、後方では観光ガイドが小声で説明している声が聞こえる。

 神職によるお祓いに続き、祝詞奏上。そして巫女による神楽舞の奉仕。巫女装束なので白い直垂・水干に立烏帽子の白拍子とは違うはずなのに、見たこともない静御前の舞と重なって見える。その連想は私だけではないらしく、観光ガイドが例の静御前の舞を紹介している。



 吉野山峰の白雪踏みわけて

 入りにし人のあとぞ恋しき


 しづやしづしづのをだまきくり返し

 昔を今になすよしもがな



 兄頼朝の追っ手から逃れ落ち延びていく義経の後ろ姿を今も目に焼き付けたまま、昔を今に手繰り寄せたいと舞い唄う白拍子。

 アキからの手紙には、そんな彼女ですら北条政子に説得されて京へ帰ったと書かれていた。だから私にも過去を見るなという。

 私は思う。静御前は義経を過去としたのではないと。どこにいてもなにをしていても義経と共にあると思えるまでになったから、新たな道へと向かったのだろう。過去を捨てたわけではない。形は違えども手繰り寄せることができたのだ。


 バッグの中でスマホが唸っている。見れば桂介からの着信。私は周りに小さく目礼を繰り返しながら人の輪を抜けつつ、通話ボタンをタップした。


「もしもし」

「ああ、俺」

「うん。どうしたの?」


 舞殿では神酒拝戴へと進み、雅楽の曲目が変わった。(しょう)篳篥(ひちりき)が深く響き、横笛(おうてき)が鳥の声のように過っていく。


「……なに、この音? どこにいるの?」

「え……あ、ちょっと。散歩」


 どうして隠そうとしているのだろう。なにも疾しいことなどないのに。……ないの? ほんとうに?


 手水舎(ちょうずや)の脇まで来て立ち止まる。


「どうしたの? 散歩なんて珍しいね」

「うん。まあ。それより、なぁに?」


 言ってしまってから、冷たかったかなと気が咎める。ただでさえ、プロポーズの返事を保留にしているのに。けれども桂介は気にした素振りも見せない。


「ああ、そうそう。今夜そっちに行ってもいい? 定時で上がれそうなんだ」


 とっさに昨日届いた手紙の存在が心に浮かんだ。

 桂介の目には触れさせられない。きっと余計な心配をさせてしまう。でも別にどうってことはない。あんなに薄っぺらい物、どこにだって隠せる。けど。


「あー。今日はちょっと……」

「あれ? 都合悪かった? あやめちゃんのお店、もう閉店したんだよね?」

「うん。そうなんだけど、ちょっと親に電話しようかと思って」

「え。あ。そ、そうか! うん、いいよ。じゃあまた今度で」

「うん。ごめんね」


 うそ、ついちゃった。初めて。


 しかもとっさに思いついた嘘とはいえ、親に電話とか思わせぶりなこと言って。きっと桂介は結婚について親に相談するのだと思っただろう。もちろん親に電話なんかしない。自分で決めることだと思うから。

 ただ、なんとなくいやだった。あの手紙と桂介が同じ部屋にいることが。だから桂介を追い出してしまった。手紙と一緒にいるために。


 私、おかしい。どうしちゃったんだろう。手紙を送る前は思い出の整理のつもりだったのに。


 アキが返事なんかくれるからいけないんだ。

 よりによって、人を拒んでいながらもけして遠く離れられずにいる薄汚れた捨て犬みたいになって私の許に戻ってくるから。ぎゅっと抱き締めたくなっちゃうじゃない。

 以前のアキもどこか世捨て人みたいな感じがしていたけど、本人はその状態で満足している様子だった。それが心地よくて、そばにいると私も心穏やかでいられて、この世のすべてに感謝したいようなゆったりとした気分でいられた。

 それがどうだろう。以前と変わらずに澄んだ魂を抱えながら、誰も触れてくれるなと鎧を着こんでいる。

 かつて私が包まれたように、今度は私が包み込んであげられたら。戦になど行かなくてもいいと、そっと鎧を脱がせてあげられたら。そしてアキのすべてに触れられたら。私のすべてでその澄んだ魂を包み込んで――。


 バサバサバサッ。


 白い鳩が一斉に飛び立ち、舞殿を大きく旋回してから大石段の上の本宮の屋根を越えていく。


 もう。やだ、私ったら。桂介と話した直後なのにこんなこと考えて。

 私は想いを振り落すように大股で歩き出す。

 日はまだ高い。妙な想いを抱えたまま帰るよりはもう少し気分を変えたほうがいい。そして私は若宮大路を真っ直ぐと海に向かって歩き始める。



   *****



 お手紙拝見いたしました。


 先日は早々のお返事ありがとうございます。まさかお返事がいただけるとは思っていませんでしたので、とても驚きました。


 実は今日、鶴岡(つるがおか)八幡宮(はちまんぐう)へ行って参りました。三年ぶりの鎌倉です。(まい)殿(でん)を見上げ、お手紙に書かれておりました静御前のことなどに想いを馳せておりました。

 そして、静御前が京へ帰ったのは、過去の恋人を諦め忘れたのではなく、どこにいてもなにをしていても共にあると思えるようになったからだと感じました。懐かしい過去ではなくても、同等のものを手繰り寄せることができたのではないでしょうか。

 お会いしないうちに歴史に詳しくなられたようで不思議な心持ちがいたします。三年の月日はあなたを変えるだけの時だったのですね。なによりも私がいけなかったのでしょう。変わらぬ清廉な魂を抱えたままに、傷を負われているのかと思うと胸が苦しくなります。


 今日は由比(ゆい)ヶ浜にも行って参りました。若宮大路からほど近い場所でしたので、あなたとよく訪れた海岸とは少し離れていますが、見晴らしのいい砂浜は懐かしい場所まで見渡すことができました。

 そしてひとり波打ち際で桜貝などを拾っておりました。

 覚えていますか。ふたりで拾った桜貝をあなたがハート形に樹脂で固めてネックレスにして下さったことを。

 そのネックレスを身に着けて桜貝を拾っているうちに、今がいつなのかすっかりわからなくなってしまいました。ふと顔を上げた瞬間に隣にいるはずのあなたを探してしまうことが幾度となくありました。

 つい夕暮れまでそこで過ごしてしまい、沈みかけた夕陽に江ノ島が浮かび上がっているのに気付いて慌てて帰路につきました。


 向夏のみぎり、暑さも増す頃です。御身おいといくださいませ。

 

                      かしこ


 五月十三日


                     杉村美鈴


 水城彰大様



   *****




【参考】

子靜、先吟出歌云、

△吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ

次歌別物曲之後、又吟和歌云、

△シヅヤシヅ++ノヲダマキクリカヘシ、昔ヲ今ニナスヨシモガナ


吾妻鏡 寛永版本 文治二年(1186)

四月八日 (冊数名:4)(頁数:54)


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