張飛の酒乱に非ず ~曹豹の徐州クーデター~
小説「三国志演義」第14回、
「曹孟徳 駕を移して許都に幸し、呂奉先 夜に乗じて徐郡を襲う」の回で有名な、
劉備と関羽の留守中、徐州の留守を預かっていた張飛が自身の酒の失態から
同じ留守役だった曹豹と揉めて、
その徐州の城を逆に曹豹に奪われてしまうという事件。
演義中では先ず、
その頃、献帝を許に迎えて奉戴した曹操が、
父の仇だった前徐州牧・陶謙の後を継いで新たな徐州牧となった劉備と、
またその劉備が、兗州で曹操から州の乗っ取りを企てて敗走した
呂布を小沛に迎え、
庇護してしまったことに危機感を募らせ、
曹操が彼らに対しての対策を幕僚達に相談するところから
ストーリーが展開していく。
するとその諮問に対し荀彧が『二虎競食の計』を進言する。
これは劉備を徐州の牧に任じ、密書を与えて劉備に呂布を殺させるという策。
それと今一つ、
荀彧は『駆虎呑狼の計』を進言。
これは先ず袁術に対し、劉備が袁術領の南郡を攻めようとしているとの
偽の密書を送って、袁術に劉備を攻めさせ、
一方でまた劉備には袁術討伐の詔を下して両者を戦わせ、
劉備が軍を率いて出ていって留守になった徐州の城を、
小沛の呂布に奪い取らせようという策。
それに対し曹操は『駆虎呑狼の計』の方を実行に移す。
劉備はそれが曹操の策略だと気付きながらも献帝の勅命だということで
袁術の討伐に向かう。
するとそこに張飛が自ら留守役を買って出る。
劉備は張飛の酒癖の悪さを心配して退けようとするが張飛が強いて志願したため、
止むを得ず許可を与え、
関羽と二人で南征へと向かう結果に。
しかしその張飛は劉備を送り出すと、
「明日からはもう酒が飲めなくなってしまうから」などと言い、
逆に酒宴を始めて諸官に対して酒を勧め回り始める。
しかしそれを曹豹は「私は酒が飲めない」と拒否し、
それが余りに頑固だったので、
張飛はキレて部下に命じ、曹豹を百叩きの刑にしてしまう。
曹豹はこの張飛の仕打ちを深く恨み、
娘婿の呂布に手紙を送り、
劉備の留守にしている今の隙に徐州を乗っ取って欲しいと手紙を送る。
呂布は小沛から陳宮、高順らと共に急行し、
曹豹が内応して彼らを城内へと迎え入れ、
ついに城は呂布の手へと落ちてしまう。
と、
演義の内容ではザッとこのような流れなのだが、
先ず曹豹と呂布の関係について、
劇中では曹豹の娘が呂布の第二婦人という関係になっているのだが、
これは演義の創作で史実ではない。
史実では曹豹は下邳国の相という役職に就いていた。
下邳国は徐州を構成する郡国の一つで、郡と国は同格。
郡のトップが郡太守で、国のトップが国相という位置付けになり、
俸禄も同じ二千石。
曹豹は演義の影響から、現代でもコーエーのゲームなどで
まったくのザコキャラ扱いだが、
実際には非常に偉い立場の人間だったのだ。(笑)
曹豹は元々前徐州牧の陶謙に配下として仕えていて、
徐州が以前、曹操から攻められた際には、
救援に来た劉備と一緒に陶謙を守るため、共に戦ったりしていた。
それで陶謙が病死した後、州は劉備に継がれることとなったのだが、
そのためこの辺りは現代でも、
後からやって来て牧位の禅譲を受けた劉備を曹豹がこころよく思わず、
そうした感情が後の、彼の徐州乗っ取りの動機になったのではないかと、
推察されたりするのだが、
ただ曹豹の、彼の下邳国相という地位から考えて、
むしろその辺りは劉備の方がかなり配慮して、
陶謙の旧臣達に対しては接していたのではないかと思われる程、
だからその点、劉備の曹豹に対する処遇が不十分だったとは思えない。
演義では曹操側の仕掛けた『駆虎呑狼の計』によって、
劉備が呂布に離反に遭って徐州を奪われてしまうが、
実はこの点、
史実では袁術が直接、呂布に対して密書を送り、
彼に劉備から徐州の背後を襲って奪い取ってしまえと決起を催促していた。
詰まり『駆虎呑狼の計』とは、実際には袁術の計略だったのだ。
史上では先ず、
劉備が亡き陶謙から国を継いだ直後、
以前から徐州の領有を目論んでいた袁術が、
おそらくは領主死亡の混乱時の隙を狙ってのことと思われるが、
彼が軍を送って徐州へと戦争を仕掛けることから事態が動く。
「袁術來攻先主。先主拒之於盱眙、淮陰。」(「先主(劉備)伝」)と、
劉備はそれに対し、
徐州下邳国の盱眙、及び淮陰に出て袁術の侵攻を阻み、
そしてこのときに、
劉備は曹豹の離反に遭って州を乗っ取られてしまう。
劉備の抵抗はかなり頑強だったらしく、
それにてこずってその対処として、
袁術は呂布に背後から襲って劉備を襲うように仕向けたのだ。
袁術は呂布に書面を差し向け、
「昔、董卓が錯乱し、王室を破壊したとき、禍害は私(袁術)の門戸に及び、
私は関東にて挙兵しましたが、未だ董卓を屠裂する能ず。
しかし将軍(呂布)は董卓を誅し、
その首を送って、私の恨みを晴らしてくださいました。
私には生死に何の愧じらいも、はばかりもなくなり、
これが将軍の功績の第一です。
また昔、大将の金尚元休が兗州に向かい曹操と封丘で戦って破れ、
流離迸走して滅亡に至った際も、
将軍が兌州(曹操)を破ってくれたため、
私はまた遠近に面目を得ることができました。
これが将軍の第2の功績です。
私は生まれて以来、天下に劉備有りなど聞いたこともなかったですが、
この劉備が挙兵して、私と対戦して来ました。
しかし私は将軍(呂布) の威霊をたのみに、劉備を破ることを得るでしょう。
これが将軍の第三の功績となるのです。
将軍は私に対し三つもの大功を有し、
私は不束者ではございますが、
これ程の報恩に対しては生死を以ってするしかございません。
将軍は連年の攻戦で軍糧に乏しく、
今、20万石の米をお送りし、道にお迎えに上がります。
無論これは今回で終わりではなく、
また絶え間なく続けさせて頂く所存でございます。
もし兵器戦具、その他に事欠くようでしたら、
大小に関わらずお命じ下さい」
などと言い、
詰まり袁術は呂布に対し、兵糧その他、軍需物資の提供と引き換えに、
劉備への謀反を誘ったのだった。
※(『三国志 張邈伝』注「英雄記」)
「英雄記曰。布初入徐州、書與袁術。
術報書曰「昔董卓作亂、破壞王室、禍害術門戶、術舉兵關東、未能屠裂卓。
將軍誅卓、送其頭首、爲術掃滅讎恥、使術明目于 當世、死生不愧、其功一也。
昔將金元休向兗州、甫詣(封部)[封丘]、爲曹操逆所拒破、流離迸走、幾至滅亡。
將軍破兗州、術復明目於遐邇、其功二也。
術生 年已來、不聞天下有劉備、備乃舉兵與術對戰。
術憑將軍威靈、得以破備、其功三也。
將軍有三大功在術、術雖不敏、奉以生死。
將軍連年攻戰、軍糧苦少、今送米 二十萬斛、迎逢道路、非直此止、當駱驛復致。
若兵器戰具、它所乏少、大小唯命。」布得書大喜、遂造下邳。
(『英雄記』に曰く。呂布は初めて徐州へ入ると、袁術に書を送った。
袁術はその手紙に答えて言った「昔、董卓が動乱を起こし、王室を破壊し、
私の一族門戸に災いの害をなしたとき、私は関東に挙兵しましたが、
董卓を屠裂することはできませんでした。
将軍(呂布)は董卓を誅殺し、その首を送り、私に代わって恨みを晴らし恥をそそぎ、
私が当世に面目を保ち、生時も死後も恥がないようにしてくれました。
これが将軍の功績の一つです。
昔、大将の金尚元休が兗州に向かい、封丘に到着したばかりのころ、
曹操が逆らい拒んだため戦って破れ、
散り散りに流離して敗走し、滅亡しそうになったことがありました。
しかし将軍が兌州(曹操)を破ってくれたため、
私はまた遠近に面目を得ることができました。
これが将軍の第2の功績です。
私は生まれて以来、天下に劉備有りなど聞いたこともなかったですが、
この劉備が挙兵して、私と対戦して来ました。
しかし私は将軍の威霊を頼みに、劉備を破ることを得るでしょう。
これが将軍の第三の功績となります。
将軍は私に対し三つもの大功を有し、
私は不束者ではございますが、
これ程の報恩に対しては生死を以ってするしかございません。
将軍は連年の攻戦で軍糧に乏しく、
今、20万石の米をお送りし、道にお迎えに上がります。
無論これは今回で終わりではなく、
また絶え間なく続けさせて頂く所存でございます。
もし兵器戦具、その他に事欠くようでしたら、
大小に関わらずお命じ下さい」と。
呂布は袁術からの返書を得ると大いに喜び、遂に下邳へと出て行った。)」
※(『後漢書』、巻七十五、「劉焉袁術吕布列伝」)
「时,刘备领徐州,居下邳,与袁术相拒于淮上。
术欲引布击备,乃与布书曰:“术举兵诣阙,未能屠裂董卓。
将军诛卓,为术报耻,功一也。
昔金元休南至封丘,为曹操所败。
将军伐之,令术复明目于遐迩,功二也。
术生年以来,不闻天下有刘备,备乃举兵与术对战。
凭将军威灵,得以破备,功三也。
将军有三大功在术,术虽不敏,奉以死生。
将军连年攻战,军粮苦少,今送米二十万斛。
非唯此止,当骆驿复致。凡所短长亦唯命。”
布得书大悦,即勒兵袭下邳,获备妻子。
备败走海西,饥困,请降于布。布又恚术运粮不复至,乃具车马迎备,
以为豫州刺史,遣屯小沛。布自号徐州牧。
术惧布为己害,为子求婚,布复许之。
(「時に、劉備は徐州を領し、下邳に居た。袁術を淮上に拒んだ。
袁術は呂布を引き込んで劉備を撃〔击〕ちたいと欲した。
そこで呂布に書を与えて言った:
“私は挙兵して阙(帝王の宮殿、皇居)にまで参りましたが、
董卓を屠裂することはできませんでした。
しかし将軍は(呂布)董卓を誅し、私の恥に報いてくれました。
これが将軍の第一の功です。
昔、金元休が南の封丘にまでやってきて、
そこで曹操のために敗れるところとなりましたが、
将軍はこれを討伐し、私のためにまた、遠近に面目の立つようにしてくれました。
これが第二の功です。
私は生まれて以来、天下に劉備などという名は聞いたこともなかったのですが、
劉備は兵を挙げて私と対戦しました。
しかし私は将軍の威霊にすがり、劉備を破ることができました。
これが第三の功です。
将軍は連年の攻戦で、軍糧に乏しいでしょうから、
今、二十万斛の米を送ります。
これはもちろん今回で終わりではなく、
今後もまた、続けさせてもらうつもりです。
大小となく命じて下さい”と。
呂布はその返書を得ると大いに喜び、ただちに兵を勒して下邳を襲い、
劉備の妻子を獲得した。
劉備は海西へと敗走し、飢えて困窮した。
そこで劉備は呂布に請い降伏をした。
呂布もまた、袁術が約束の軍糧を送ってこないのを怨んでいたので、
軍を伴って劉備を迎え入れた。
呂布は劉備を豫州刺史と為し、小沛へ派遣して駐屯させた。
そして呂布自身は自ら徐州牧と称した。
袁術は呂布が自分を害するのではないかと恐れ、
子供の婚姻を求めた。呂布もまたこれを許した。)」
と、このような経緯を経て、
呂布は軍を率いて張飛と曹豹が留守をしていた下邳城へと
攻め込んでいくこととなるのだが、
ちょうどその呂布が下ヒ城にまで向かっていた最中に、
下邳城内では張飛と曹豹が諍いを起こし、
それに対して曹豹の配下だった許耽と章誑が
城内で決起して、件のクーデターが実行へと移されていたのだった。
三国志の先主(劉備)伝とその中の注釈の方とで記述に違いがあるため、
その後の曹豹の生死までは不詳だが、
ともかくその場で曹豹は張飛により生命の危機に晒され、
それに対して曹豹の配下・中郎将の許耽が城内で
手勢を指揮して抵抗したらしい。
そして許耽はさらにその配下・司馬の章誑を
急使に派遣して呂布へ救援を頼み、
そのまま城門を開いて呂布の軍勢を城内へと導き入れ、
結果、
下邳の城は見事に乗っ取られてしまうのだが、
先述の通り、袁術は既に呂布に対して軍糧の提供を条件として
劉備への謀反を誘っており、
章誑が呂布の下へと救援を頼みに向かったときには、
呂布は既に兵を挙げて小沛城ではなく、
下邳城の西40里(約16km)の地点にまで差し掛かっていた。
これはやはり、出来過ぎだろう。
因みにこの曹豹の配下・許耽と章誑は共に前徐州牧陶謙と同じ
揚州丹陽郡の出身で、
この騒動の時に許耽が率いていた兵も丹陽兵1千人だった。
そしてその丹陽郡というのは、
実は袁術の領地だった。
さらに許耽は自らの主・曹豹の危機に際し、
真っ先に呂布に対して救援を求めていることからも、
この事件はもう、彼らの計画的犯行だったと見て間違いない。
詰まり曹豹は始めから呂布と内外呼応で、
下邳の城を乗っ取る積もりだった。
でなければ事後の対応など余りに手際が良すぎる。
※(『三国志 先主(劉備)伝』)
「袁術來攻先主,先主拒之於盱眙、淮陰。
曹公表先主、爲鎭東將軍、封宜城亭侯。是歲建安元年也。
先主與術、相持經月、呂布乘虛襲下邳。下邳守將曹豹反、閒迎布。
布、虜先主妻子、先主轉軍海西。
(袁術が来て先主(劉備)を攻めた。先主(劉備)はこれを盱眙、淮陰で拒んだ。
曹公(曹操)が曹公を上表し、鎮東将軍と為し、宜城亭侯に封じた。
この年は建安元年(196年)である。
先主(劉備)は袁術と、相対峙したまま1ヶ月を経たころ、
呂布が城の留守に乗じて下邳を襲った。
下邳の守将だった曹豹が離反し、隙をついて呂布を迎え入れた。
呂布は先主(劉備)の妻子を虜とし、
先主(劉備)は海西へと軍を転じた。)」
※(『三国志 先主(劉備)伝』注、「英雄記」)
「英雄記曰。備留張飛守下邳、引兵與袁術戰於淮陰石亭、更有勝負。
陶謙故將曹豹在下邳、張飛欲殺之。豹衆堅營自守、使人招呂布。
布取下邳、張飛敗走。備聞之、引兵還、比至下邳、兵潰。
收散卒東取廣陵、與袁術戰、又敗。
(『英雄記』に曰く。劉備は張飛を下邳の守りに留め、兵を引き連れ
袁術と淮陰石亭で戦ったが、勝ったり負けたりしていた。
陶謙の故将である曹豹は下邳に在り、張飛を殺そうとした。
曹豹は堅く自分の軍営を守り、人を使わして呂布を招いた。
呂布は下邳を取り、張飛は敗走した。
劉備はこの報告を聞くと、兵を還して、下邳へと到着するころには、
兵は壊乱してしまっていた。
劉備は散り散りになった士卒を収めると、東の広陵を取り、
袁術と戦ったが、また敗れた。)」
※(『三国志 張邈伝』注、「英雄記」)
「英雄記曰。布水陸東下、軍到下邳西四十里。
備中郎將丹楊許耽夜遣司馬章誑來詣布、
言「張益德與下邳相曹豹共爭、益德殺豹、城中大亂、不相信。
丹楊兵有千人屯西白門城內、聞將軍來東、大小踊躍、如復更生。
將軍兵向城西門、丹楊軍便開門內將軍矣」。布遂夜進、晨到城下。
天明、丹楊兵悉開門內布兵。
布于門上坐、步騎放火、大破益德兵、獲備妻子軍資及部曲將吏士家口。
(『英雄記』に曰く。呂布は水陸に分かれて東下し、
軍は下邳の西、四十里の地点にまで至った。
劉備の中郎将だった丹楊郡の許耽は、夜に司馬の章誑を派遣して
呂布を迎えにいかせた。
章誑は「張益徳が下邳で国相の曹豹と共に争いとなり、
益徳が曹豹を殺してしまった。
城中は大いに乱れ、互いに信じ合うことができないでいます。
丹楊兵千人が城内西の白門に駐屯していますが、
将軍(呂布)が東方よりやってきたと聞いて、小躍りし、
また生気を取り戻したようです。
将軍が兵を連れて城の西門へと向かえば、丹楊軍が内から門を開き、
将軍を迎え入れるよう、便宜を図ることでしょう。」と。
呂布は夜に進み、早朝には下邳城下へと到達した。
夜が明け切ると、丹楊兵が悉く城の内側から門を開き、
呂布の兵を中へと引き入れた。
呂布は門の上に座し、歩兵と騎兵で火を放ち、益徳の兵を大破した。
呂布は劉備の妻子や軍需物資、及び部曲の将や官吏の家族を捕らえた。)」
現代ではもう、張飛の酒乱による失態として
余りに有名になってしまった事件だが、
しかし史書に於いてそのような記述は見られない。
それに状況的にいっても曹豹は既に前以ての準備をしていたのだから、
張飛の酒癖の悪さが事件発生の原因ではない。
だから即ちもし、下邳での居残りが張飛ではなく関羽だったとしても、
同様に叛乱は起こっていたはずである。
むしろ逆に下ヒでの危機を事前に察知し、
城内で事態の収拾に必死になっていたのは張飛のほうだったかも知れない。
勿論それは、
袁術によって仕組まれた曹豹のクーデターに対処するためにである。
下邳での事件発生の際、
曹豹の配下・許耽と章誑は丹陽兵1千人と共に、
“丹楊兵有千人屯西白門城內”と、下邳城内の城門の所に集結していたという。
そして彼らは東から呂布軍の遠来を聞くや、
皆、“大小踊躍、如復更生”とよみがえったように喜び、
“丹楊軍便開門內將軍矣”と、
その城門を開けて呂布軍を城の内部へと引き入れてしまう。
詰り彼らは下邳の城門を開けて呂布軍を城内へと迎え入れるべく、
事前にシッカリとスタンバイしていたわけである。
となれば、
曹豹はそうした動きに伴う何か不自然な兵の移動を、
張飛に説明する必要が生じたであろう。
しかもそれが呂布軍の挙兵を確認してからの対応であれば、
尚更動きが慌しく、
どうしても目立ってしまうことになる。
そうして、そんな曹豹達の怪しげな挙動に不審を抱いた張飛が、
彼らにその真意を問い質そうと、
両者の間でいざこざにでもなったのではないか。
徐州でのクーデターは始めに袁術が呂布を動かし、
劉備の背後を襲わせようとしたことから、
これは全て袁術の仕組んだ謀略だったことは先ず間違いない。
しかし問題は、
袁術は呂布に対しては軍需物資の提供をエサに、
謀反を誘っていたのだが、
では、
袁術と曹豹、許耽、章誑らとの関係のほうが一体どうだったのか・・・。
許耽、章誑は下邳での挙兵に際し、
直ぐに呂布へ救援を求めているのだが、
とすればこれは予め、“呂布を徐州に向かわせるから”と、
話が通っていたものと考えられる。
で、その話を通す者としては、これも袁術以外に有り得ない。
だから袁術が事前に下邳の曹豹、許耽、章誑らに対して、
呂布の救援を向かわせることを前提に、
下邳城内でのクーデターを命令したことになる。
が、それには当然、袁術が下邳の曹豹、許耽、章誑らに対し、
直接命令を下して動かすことができなければならないのだが、
しかし袁術が他国の長官に対し、
直接命を下して動かすことが可能な理由が一体何なのか・・・?
で、
その理由を精一杯考えてみて、
結局人質だろうか。
曹豹自身の出自は不明なのだが、彼の配下の許耽や章誑、
及び下邳でのクーデター決行時に彼らによって率いられていた
一千人の丹陽兵や、
また他にも笮融など、彼もまた丹陽郡出身の陶謙の手によって、
当時多く集められていた同じ丹陽人グループの一人だったか、
もしくはそうで無くても、丹陽兵の故郷を袁術が押さえている以上、
彼らの家族をそのまま人質として置き換えて脅迫し、
曹豹も含めて諸共に抱き込むことはできそうかと思える。
近くは曹操が以前、彼が自分の私兵として雇っていた、
まさにその丹陽兵の集団から一斉に反乱を起こされ、
危うく命を落としそうになったという事件で、
これにより曹操軍の私兵は以後、
今度は丹陽兵から青州兵へと変更がなされるのだが、
やはり同様な反乱を恐れてか、
曹操は青州兵達の扱いには非常に神経質に、
殆どエコ贔屓同然の“寛容”さで以って、
彼らを処遇し続けねばならないこととなってしまった。
詰まりそれくらい、
当時一兵卒の身分などは問題にもならぬ程、低い身分でしかなかったが、
ただそれが大多数の集団にまとまった場合、
逆に君主権力にも非常に強い影響力を及ぼす程の、
ヘビー・プレッシャーグループへと変貌を遂げた。
だからこれを現代風に言い換えれば、
曹豹は非常に労働組合の力の強い会社で日々絶えず、
その猛烈なプレッシャーに頭を痛める社長のような立場に
置かれていたといった、
そんなイメージに近いと言えるか。(笑)
だから袁術としては、彼が丹陽兵達の故郷を押さえ、
彼ら対して何か家族を人質に取るような仕草を仄めかせて、
クーデターの実行を曹豹に迫ったのではないか。
人質は袁術が他のケースでも使っていた手なのだ。
だから他にも袁術は、
昔からの幼馴染だった徐州の豪族・陳珪を仲間に引き込もうとした際にも、
彼は単に内応の手紙を送って誘うだけに止まらず、
袁術は陳珪の二男・陳応を、
人質に取りつつ念を押して陳珪に応諾を求めるなどしたりしていた。
それと、
袁術と前徐州牧・陶謙との関係について。
袁術はかつて反董卓連合を結成していた頃より、
袁術は公孫サンと確かな同盟関係にあり、
そしてその公孫サンは劉備・孔融・陶謙と同盟関係にあり、
それは間違いないのだが、
しかしだからと言って袁術と陶謙までもが
同じ同盟関係にあったかどうなのか・・・・・、
そこがハッキリとしないのだ。
どころか袁術は陶謙が病死した194年(興平元年)には、
その混乱のドサクサに徐州を併呑してしまおうと
占領軍を送り込む準備までしていた。
徐州はただでさえ前年からの二度に渡る曹操軍の大侵攻を受けて疲弊が甚だしく、
オマケにその曹操軍も徐州の攻略半ばで
本国で呂布の叛乱が巻き起こり、
もはや対外戦争どころではなくなっていた。
詰りその頃、袁術が徐州を奪うには絶好のチャンスだったのだが、
がせっかくのその計画も、
遠征に必要な軍糧の調達を命じた九江郡太守の陸康からその復命を拒絶され、
結局は御破算に終ってしまう。
しかしそれよりも以前、曹操軍に攻められる陶謙からの要請に応え、
青州から遥々徐州へと救援に遣って来た劉備が、
主の陶謙から直接州牧就任の打診を受けた際、
彼はその後継者ならば袁術の方が相応しいのではないかといって、
一旦は辞退しようとまでしていた。
だがそのときは青州刺史の孔融が、
袁術など既に死んだも同然の過去の人間で、
彼に牧位を明け渡すなどもってのほかだと、
劉備に徐州牧を引き継ぐよう、熱心な説得に乗り出したため、
最後には無事、
劉備によって徐州牧の地位が受け継がれることとなった。
孔融はその以前、青州で黄巾の乱が巻き起こった折、
賊軍に囲まれて窮地に陥った所を劉備からの援軍を受けて救われたことがあり、
劉備はそれ以来、この孔子20世の末裔たる名士から非常に高い評価を受け、
何かと面倒を見てもらえる関係になっていたのだった。
そしてそれは劉備がそれまでの無名の立場から、
世上での彼の知名度を一気に押し上げるきっかけともなったのだが、
しかし幽州から救援に遣って来た余所者の劉備の口から、
当たり前に徐州の後継として袁術の名前が挙がるということは、
その頃の世間一般ではやはり、
陶謙は袁術のシンパだと見なされていたと受け取れる。
が、
しかしその一方で陶謙の盟友であった孔融などにはとてもそんな意識はなく、
さらにその時劉備のブレーンとして仕えていた陳羣も、
劉備が徐州に入れば袁術と争いになることは必至だと進言したりしていた。
これは一体どういうことなのか・・・?
袁術と陶謙は同じ同盟勢力ではなかったのか?
非常にややこしいが、
劉備は公孫サンと兄弟も同然の関係で、公孫サンは袁術と同盟。
そしてその公孫サンは青州の孔融、徐州の陶謙と同盟を結び、
袁紹、曹操のグループと対立していた。
言わば袁紹と袁術、兄弟同士二大勢力の争いで、
だから劉備も当然、袁術が同じグループの盟主だと思っていたのだろうが、
しかし実際には孔融、陶謙と袁術は険悪の関係で、
袁術も徐州へ攻め込もうとしていた。
で、袁術は揚州九江郡の寿春に本拠を構えていたのだが、
その以前、兄の袁紹らと共に反董卓連合を結成していた頃は
荊州の南陽郡に本拠を構えていて、
しかしながら袁術はその地を荊州刺史・劉表の離反に遭って
追い出されてしまい、
そのため彼は193年(初平4年)3月に揚州へと本拠を移し、
そこからまた改めて、
彼は豫州・揚州一帯に新たな勢力圏を築き上げていくような状況へと
変っていた。
そして揚州の地へと降り立ち、九江郡の支配を全くした袁術が次に狙ったのは
寿春とは長江を挟んでその南岸、同じ揚州の丹陽郡で、
袁術はそこに孫堅の一族・孫賁と呉景を送り込んで乗っ取ってしまうのだが、
所がそこは陶謙の郷里でもあった。
そして陶謙はその丹陽郡から多くの傭兵を雇って連れてきていたので、
彼にとって袁術にその地を占領されることは、
何かと支障が生じる事態だったかもしれない。
さらに陶謙は劉備の豫州刺史任命だけに限らず、
元は徐州の別駕・侍中として陶謙に仕えていた趙イクと王朗をそれぞれ、
徐州広陵郡太守と揚州会稽郡太守とに任命して送り込み、
それはちょうど、袁術の支配地域に対して、
向かい合いに争うような格好にさえなっていた。
詰り袁術は、彼が揚州へと領土を拡げ、
徐州牧陶謙の郷里でもある丹陽郡を手に入れたことで、
同じ派閥の仲間だった陶謙に対し、
彼を直接、自らの支配下に組み入れようと表裏に様々、
影響力を行使しようとしたのではなかろうか。
それに陶謙が反発し、
両者の関係が拗れていったということなのかもしれない。
なので袁術が下邳国相の曹豹、及び彼の配下だった許耽と章誑らを動かして
徐州を乗っ取ろうと画策したクーデター計画は、
既にその以前、前徐州牧・陶謙の時代の頃から、
陶謙の出身地だった揚州の丹陽郡という土地をキーとして、
様々に引き起こされた政争の一つということだったのかもしれない。




