表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

こんなにも蒼い空の下で

作者: TAKA丸

 カシャッ! と音がする度、一瞬がフィルムに刻まれる。 その瞬間、誰もが同じように、瞬きする間に過ぎ去るその一瞬を心にも刻み込む。

 人も、動物も、植物も、昆虫も、風景も……時間さえも、これでずっと姿を変えずに 『ここ』 に留まるんだ。

 そんな風に考えていた。 いつでも、どんな時でも、そう考えていた。

 何も無くても 『今』 が永遠に続けばいいと……そう思っていた。


「……こんなもんかな?」

 レンズキャップを取り付けると、カメラを大事そうにケースに入れて、ボックス型のバッグへとしまう。 これは、一つの儀式のようなものだ。

 職業でカメラを扱う身としては、商売道具をぞんざいに扱う事など出来はしない。 バチが当たってしまう。

 とは言っても、駆け出しではそうそう重要な仕事を任せてもらえる筈も無く、今のところは修行中といった感が強い。

 ちなみに、そのバッグの中にはフィルムスキャナーとノートパソコン、それに小型のプリンターも入っていて、いつでも写真をプリントする事が出来る。

「二流のケツか……痛い事言ってくれるよなぁ……」

 二流のケツとは、先日、

『あ? もっと良い仕事くれだあ? そんな言葉は、マトモな写真が撮れるようになってから言いやがれっ!』

 という台詞と共に、編集長から頂いた言葉である。 挨拶と共に出したサンプル写真も、それと一緒に飛んで来た。

 勿論、それ以外には何も貰えず、編集長の迫力に負けて自分のデスクへ逃げ帰ったのは言うまでも無い。

『いつまでも座ってねえで、さっさと取材に行って来いっ!』

 再び怒鳴りつけられて、青年は同僚の記者と共に、編集部を飛び出したのだった。

 もう少し食い下がらなきゃ駄目かな? と思いつつも、自信作まで突き返されては、それ以上何か言う気力も湧かなかった。

 欲目ではなく、今回の写真は会心の出来だった。 それは青年に写真を教えてくれた人の意見も聞いたので間違い無い。

 だが、駄目だったのだ……。

 こんな気分のままじゃ、モチーフを探す目も曇りそうだと、こうして地図にも載っていないような片田舎の町……と言うより、村と言った方がピッタリ来る場所へと出向いて来たのだ。

 休暇の申請をする際に、編集長からは 『もう帰って来んなっ!』 というオマケを付けられたが、休暇を取ってしまえばこっちのものだ。

 手付かずの自然が残されているここには開発の手など入っている筈も無く、樹齢何年か想像もつかないような大木も生えているし、剥き出しの崖や、そのまま飲めそうなくらいに透き通った水の流れる川もある。

 工場も無いこういった場所でなら、きっと星も鮮明に捉える事が出来るだろう。

 未確認飛行物体の目撃談も耳にしたが、そんな物には全く興味が無い。 そんな物の為にここへ来たのではないのである。

 時の流れに忘れ去られたような……そんな印象すらあるこの場所は、けれど、青年の心を擽って已まない魅力を持っている。

 バッグの口を閉じながら、青年は心が躍っている事に気付いた。

「次にお前が活躍するのは夜だな」

 この場所を知ったのは本当に偶然からだった。 高校生の頃、夏休みを利用して風景写真を撮りに出掛けた時、ここへ迷い込んだのだ。

 一目で気に入り、その後何度か来ようとしたものの道が判らず、結局、今この瞬間まで訪れる事は無かった。

「探し物って、探せば探すほど見つからなかったりするんだよな」

 毎日毎日怒鳴られ続け、それでも写真を撮り続ける事に意味はあるのだろうか? そんな事も考えた。

 辞めてしまおうか……それも考えた。 でも、好きで始めた事を、そう簡単に投げ出していいのかと思い直した。

 けれど、何かが違う……そう思えて仕方なかった。

「ここへ来いと心が命じたのだ……なんてね」

 バッグを少し横へ押しやって、青年はゴロンと草むらへ横になってみた。

 ジーンズにネルシャツ。 どちらも激安店で買った物なので、汚れたって構わない。

 しばらく切っていない髪が、一緒に草の上に伸びた。 そろそろ切らなきゃいけないなと思いながら、青年の目は、そのまま青い空を流れる雲を追った。

 頬を優しく撫でて行く初夏の風が、この上なく心地良い……。 鼻腔を擽る草の匂いが、何故か懐かしい気持ちにさせる……。

「こうやってじっとしてるのは嫌いじゃないけど、張り込みとなると途端に嫌気が差すんだよなぁ……」

 そもそも 『生命の発する息吹を感じられるような写真』 を撮る事を目標にしている男が、ゴシップ雑誌に使える写真など撮れる訳も無い。

 漆黒の夜空に、気の遠くなるほどの彼方から数億年の時を越えた輝きを放つ星や、躍動する人や静かに佇む人、戯れる子供や動物、瑞々しい草花、昆虫……それらが心に直接語りかけて来るような、そんな写真が撮りたいのだ。

 一見するとバラバラのようにも思えるが、そのどれもが 『生命』 を持っている。 それが最大にして唯一の共通点であり、テーマなのである。

 しかし、どれも勤めている雑誌社の作る本とは完全に趣旨が違う。 これはもう、技術云々の話しではないのである。

 だが、そんな我儘だけが通用するなら、こんなにも思い悩む必要は無い訳で……。

「今月の家賃、どうしよう……大家さん、待ってくれるかな?」

 あまり高いとは言えない給料の殆どは写真に費やしてしまう。 仕事で使うフィルムや交通費は請求出来ても、自分の都合で使った物など、経費で落とせる筈も無い。

 写真を撮りに外へ出れば、当然、食事も外でする事になる。 一度や二度ならともかく、それが頻繁に続けば出費もかなりの額になるのだ。

「通帳の残高なんて、怖くて見る気にもなれないよ……」

 いくらかの蓄えはあるので家賃を払えない事は無いのだが、それを払ってしまったら、暫くの間はひもじい食生活を余儀なくされるだろう。

 家賃以外にも、必ず電気、ガス、水道、電話と支払いの請求が来るのだから。 勿論、来月の家賃も同様である。

 いざとなれば編集部へ泊り込む事は出来るので、とりあえず雨風を凌ぐ事は出来る。 だが、まさにその場凌ぎな訳で、これでは何の解決にもならない。

「くそ〜……こうなったらパンちら写真でも撮って、小銭を稼ぐか!」

 起き上がってヤケクソ気味に拳を握ってはみるものの、そんな写真を撮る事など出来ないのは、自分が一番よく解っている。

 力強く言い切れるほど真面目という訳でもないが、そこまで堕ちたつもりもないのだ。

 風采の上がらない姿を更に駄目にするかのような溜息が出ると、脱力したように背中が丸まった。

「昔に戻りたいな……」

 何も考えず、ただ毎日を全力で突っ走っていたような子供時代。 友人と莫迦な話をしつつも、夢を語り合った青春時代。

 そのどれもが目も眩みそうな輝きを放っているように思える……今とは違って。

「そうしたら、あれもやって、これもやって……」

 高校で写真に出会い、虜になって大学へ進み、何度かコンクールで入選も果たした。

 プロになろう……自然と、そう決めていた。 好きな写真に埋もれていられるなら、こんなに幸せな事は無い。

 大学を出てすぐ、知り合いの伝を頼りに雑誌社へ就職出来たのは運が良かった。 編集部の人はみんな善い人で、手取り足取り仕事を教えてくれた。

 だが、最初の内は順調だった仕事も、雑誌の発行部数の減少に伴って上手く行かなくなった。

 やがて、編集部から一人去り、二人去り……最後は編集部も解散となり、雑誌社は無くなった。

 そして途方に暮れていた時に拾ってくれたのが、毎度怒鳴りつけてくれる今の編集長なのだ。

 年齢は、確か四十代前半と聞いたが、見事に薄くなった頭と突き出たお腹を見ると、五十代にしか見えない。

 しかし、口に出したら本当に編集部を追い出されそうなので、それは心の中にしまっている。

「あれからだよな……何もかも微妙に上手く行かなくなったのって……」

 何となく、そう考える瞬間が誰にでもあるだろう。 昔は良かったと。

 だが、不幸のどん底に思えるような過去でも、確かに幸せだったと感じる一瞬が必ずあるものだ。

 そんな話を、以前どこかで耳にした事があった。 あれはいつ、どこでだったろう……?

「ええい、やめやめ! そんな事考えてたって、明るい未来はやって来ないぞっ!」

 無理矢理に身体を真っ直ぐに伸ばし、大きく背伸びをしながら深呼吸する。 今は何も考えまい……その為に、ここへ来たのだから。

 ……と、不意に鼻の頭に何かが当たった。

「……雨?」

 ついさっきまでは真っ青だった空には、いつの間にか黒い雲がその大きさを増していた。

 確実に降る。 しかも、もうすぐ。

「冗談じゃないよ! カメラが濡れたら一大事だっ!」

 どんなにお金に困っても、これだけは手放さなかった。 命と同じくらいに大事な相棒なのだ。

 ただ、カメラにお金をかけ過ぎて、バッグにまでは手が回らなかった為、青年の使っているのは安いコットン製のバッグ。

 防水スプレーをかけてあるお蔭で多少なら防げるが、あまり大量の雨に晒されては効果の程もイマイチだろう。

 とりあえず雨が凌げる場所を探して、青年は一目散に駆け出した。

 肩に掛けたバッグが重いように感じるのは、決してカメラやレンズだけのせいではないと思えた。 同じくらいに心も重いのだ……。

「え〜っと……よし! あそこだ!」

 一本の古木の根元に洞があるのが見えた。 高さはそれほどでもないが、横幅は大人が二人くらい入れそうな大きさだ。

 かなり古い木なのだろう、その枝を大きく広げてはいるが、付いている葉は殆ど無く、樹皮もところどころ剥がれている。

 木材としての利用価値は無いだろうが、雨宿りに使うには充分だ。

 青年が洞に駆け込むのを待っていたかのように、身体を入れると同時に雨が激しく降り始めた。

「ひえ〜……間一髪だったなあ」

 バッグを置いて座り込み、額の汗を拭って地面に手を着くと、ふんわりとした感触に気付いた。 枯葉が敷き詰められているのだ。

 昔、アニメでこういうシーンを見たな……と、何となく懐かしい気分になった。

「横になったら気持ち良さそうだな」

「そうですね」

 いきなり隣りで声がして、青年は飛び上がりそうなほど驚いた。

 まあ、自分一人だけだと思っていたのに、突然すぐ傍で声がしたのだから、驚くなと言う方が無理である。

 もっとも、相手が女性だからこの程度で済んだが、男性だったらもっと驚いたかもしれない。 直接的な意味で怖いし……。

「ごめんなさい、驚かせてしまいましたね」

「あ……ああ、いえ……はい」

 微妙におかしな返事になってしまったのは、声の主が若い娘なのか、それともそれなりの年齢なのか不明だったからだろう。

 雨雲が覆ったとは言え、空はまだ昼間の明るさを残しており、洞の中も隅々までとはいかないまでも見る事が出来る。

 しかし、その明るさの中で見てみても、相手の年齢が判別出来ない。

 身長は青年よりも十センチほど低いくらい……百六十センチ前後だろう。

 痩せている訳でも、太っている訳でもなく、特筆するほどスタイルが良いという感じでもない。

 肩の辺りで綺麗に揃えられた黒髪は、薄暗い洞の中でも艶があるのが判るほどだ。 少し大きめな瞳も、同じようにキラキラしているように感じる。

 それが幼い印象も与えるのだが、整った鼻筋や顔全体の放つ印象は、少し大人びた感じもする。 ……年齢不詳というやつだ。

 一応、写真を生業にしている身としては、見た目だけである程度の推測が出来るのだが、その女性に関しては感覚が発揮出来なかった。

 何とも微妙な表情を浮かべている青年の顔が可笑しかったのか、女性はクスクスと笑った。

「ごめんなさい、笑ったりして」

「あ、いえ……」

 見た目で駄目ならと、青年は女性の言葉遣いと服装で年齢を推測しようとした。

 少しは自慢出来る特技だったのだから、それを失敗したままではプライドが赦さないのだ。 ……まあ、安いプライドではあるが。

 ストレッチパーカーに、中は……多分Tシャツだろう、白地に青のストライプ。 下は青年と同じく、ジーンズと軽装だ。

 靴は……いや、ファッションチェックじゃないんだから、そこまで徹底的に見る必要も無いだろう。

 ただ、どれもその辺の店で買える物ばかりで、特にブランドに拘っているという風でもなかった。

 受けた印象からすると二十代前半……自分と同じくらいに思えるが、本当にそうかどうかは確信が持てなかった。

(こんな事は初めてだ……)

 青年が少しだけ自信を喪失していると、

「そのバッグ、何が入ってるんですか? 重そうな感じですけど」

 青年のバッグを見ながら女性が訊ねた。

「ああ、カメラが入ってるんですよ。 それ以外に望遠レンズや三脚、パソコンなんかも入ってますから、どうしてもこれくらいの大きさになっちゃうんです」

「カメラ? でも、それにしては大きいんですね。 今のカメラって、掌に収まるくらいの物じゃないんですか?」

 どうやら女性は、デジタルカメラの事を言っているようだ。

「これは一眼レフなんですよ。 あ、デジカメじゃなくて、機械式のね。 デジカメも持ってますが、僕はこっちの方が好きなんです」

 趣味の写真を撮るには手軽で便利かもしれないが、仕事で使うには不十分だというのが青年の考えだ。

 デジタルカメラは一般的に、フィルムカメラよりレリーズタイムラグ (シャッターボタンを押してから、実際に撮影されるまでの時間差の事) が長い。

 その為、ジャストのタイミングでシャッターボタンを押しても、狙った写真が撮れない事が多いのだ。

 その分、早目にシャッターを押せばいいのだが、超能力者でもないのに、そんな真似は出来ないだろう。

 それに、いちいちそんな事に気を遣いながらでは仕事にならない。 まあ、それほど忙しい身でもないのだが……。

「いちがんれふ? きかいしき?」

 これは、いちいち説明するより現物を見せたほうが早い。 青年はそう思い、バッグからカメラを取り出して女性に見せた。

 生まれて初めて見るのだろう、女性はまるで新種の生物でも見るかのような目でカメラを見つめている。

「ここを回転させてピントを合わせて、それからシャッターを切るんです。 記録はメモリーじゃなくて、フィルムに焼き付けます」

「ピントを合わせる? ただシャッターを押せばいいんじゃないんですか?」

「余程運が良くないと、このカメラじゃ写りませんね」

「随分、旧式の物なんですね」

「古いは古いですけど、そこまで古くは……」

 何でもお手軽というのが昨今の流行なのだろうが、それで商売が出来れば苦労しない。

 誰でも同じように出来てしまうなら、プロなど必要無くなってしまうだろう。

「こっちにある、この大きなのは何ですか?」

「望遠レンズです。 遠くにある物を撮る為に使います」

「これは何ですか?」

「ブロアーです。 レンズに付いたホコリを空気で飛ばすんです」

「これは?」

「……」

 青年は説明を始めた事を少し後悔した。 この調子で何もかも説明させられるのは、ちょっと勘弁してもらいたい。

 バッグの中身だけなら大した数ではないが、カメラの構造や写真の原理にまで話が及んだら、説明出来ない事は無いが面倒だ。

 だが、女性は青年の言葉を、期待に満ちた表情を浮かべて待っている。

 雨もまだ止みそうにないし、無言のまま並んで座っているのも気詰まりだろう。 仕方なく、青年は説明を再開した。

「……レリーズです。 手ブレを防ぐ為に使います。 僕は星の写真を撮る時に、よく使います」

「星の写真……」

 図鑑などに載っている、星の軌跡が一筋になっている写真を撮る時、これでシャッターを開放状態で固定しておくのだ。

 青年が説明すると、女性は興味を持ったらしく、今までに撮った写真があれば見せて欲しいと言った。

 別に商売で使う物でもないし、趣味で撮った写真ばかりなので、青年は気軽に承諾し、数枚の写真をバッグから取り出して女性に手渡した。

「わあ……」

 濃い紫に彩られた空に、白やオレンジ、黄色や赤など、様々な色の星の軌跡が描かれた写真を、女性は食い入るように見ている。

 他にも動物や風景の写真があるのだが、女性は星の写真にのみ集中しているようだった。

「星、好きなんですか?」

 青年は、 「はい」 というリアクションを想定して訊ねたのだが、

「……いいえ、あまり。 嫌いという訳じゃないんですけど、大好きと言えるほど好きでもありません」

 ちょっと辛そうな顔をした女性から返って来た答えは意外な物だった。

 熱心に見ているから、てっきり好きなのだと思ったのだが……どうにも女性の心理は複雑な物のようだ。

「そう言えば、どうしてこんな場所に?」

 話題を変えようと、青年は言った。

 観光名所でもないし、何か目新しいものがある訳でもないここは、若い女性が好んで来るような場所とも思えない。

「偶然立ち寄ったんです。 そうしたら、雨が降りそうだったもので……もう行こうと思ったんですけど、間に合わなくて」

「ああ、成る程。 他に雨が凌げそうな場所がありませんからね、ここは」

 確かに樹木は多いが、鬱蒼と茂っているという訳でもないので、適度に陽射しは遮れるだろうが、雨宿りまでは出来そうにない。

 元は人が住んでいたであろうと思われる廃屋もあるが、完全に屋根が落ちていて、これも雨宿りには不向きである。

 だいいち気味が悪い……。

「一人旅……ですか?」

 もしかしたら傷心旅行かな? などと、下世話な事を考えながら青年は訊ねた。

 そういう話題は好きではないのだが、他に話す事が見当たらないのだ。

 まさか唐突に 「ご趣味は?」 などとも訊けないだろう。 お見合いではないのだし……。

「ええ、そうです」

「ここはいい所ですからね。 自然が多く残ってて、心を穏やかにしてくれますし」

 確かに、この場所は青年の心を癒してくれる。 嫌な事や柵、考えなければならない色々な事を忘れさせてくれる。

 だが、いつかは帰らなくてはならない……あの現実の中へ……。

「そうですね……わたしの故郷と何となく似てます」

「故郷か……」

 東京で生まれ、東京で育った青年には、故郷と呼べる場所が無い。 いや、東京が故郷なのだろうが、何故か故郷と呼ぶ気がしないのだ。

 青年のイメージする故郷とは、野山に小川、澄んだ青空に田園風景……と、些か定番ではあるが、まさにそれなのである。

「君の故郷って、どんな所?」

 青年は敢えて敬語を使うのをやめ、友達に言うような口調で言ってみた。

 少し、空気を変えたいという気持ちからだった。

「え?」

 青年に訊ねられた女性は、何故か驚いたような表情を浮かべた直後、少しだけ顔を曇らせたように見えた。

(あれ? 何かマズい事、訊いちゃったかな? 場を和ませようと思ったんだけど……)

 もしかしたら哀しき都落ち……もしくは、これから故郷を捨てて旅に出るのかもしれない。

 いずれにしても、あまり話したそうな雰囲気ではないのは確かだ。

 さすがに、このまま会話を進めるのは無神経な気がした青年は、女性に質問するのを止めて、

「僕は生まれも育ちも都会で、こういった雰囲気のある場所に憧れがあるんだ」

 そのまま自分の話をし始めた。 どうしてなのか、隣りで黙って座っている女性に、自分の事を知って欲しいと思えたのだ。

「我ながら安直だと思うけど、故郷って響きからは、こういった風景しかイメージ出来ないんだ」

「……」

「アスファルトで固められた道や、鉄筋コンクリートの高層ビル群からは、どうにも故郷って言葉が出て来なくてさ」

「……それでも、そこで生まれて、そこで育ったのなら、そこが貴方の故郷ですよ」

「うん、確かにそうだね。 東京だって、元々そんな物ばかりがあった訳じゃない。 ……それは解ってるんだけど、やっぱりピンと来ないんだ」

 狭くて澱んだ空に灰色の雲が浮かび、ゴミゴミした雑踏の中を進んで、ギュウギュウ詰めの乗り物に乗り、時間に縛られているのに時間の感覚さえ失くし、隣りには誰がいるのかすら知らない……それが青年の心にある東京だ。

「憧れ……なんだろうね、きっと」

「憧れ?」

「人はさ、手に入らない物に対して、自分の理想の形をイメージするんだ。 それが遠ければ遠いほど、そのイメージは美しくなる」

「……そうかもしれませんね」

 言っていて、青年は何故か、もどかしい物を感じた。 今にも肩が触れそうな距離で話しているというのに、女性が遥か彼方にいるような、そんな気がした。

(綺麗だ……)

 青年は今更ながら、隣にいる女性が美しい事に気付いた。 突然の雨に焦り、いきなり聞こえた声に驚き、冷静さを失って混乱していたのかもしれない。

 だが、少し話した事で落ち着きを取り戻した心は、それに気付いたのだ。

 考えてみれば、こうして女性と二人きりで話す事など、仕事の打ち合わせ以外では随分と久し振りの事だ。

 そうなると、今度は別の感情が頭をもたげて来る。

(こんな人と毎日一緒にいられたら、きっと楽しいだろうな……)

 物静かで、自分の話しに真剣に耳を傾けてくれる。 ちょっと変わった所はあるようだが許容範囲内だし、外見上は問題無いどころか……。

「雨、上がりそうですね」

「え?」

 女性の言葉に外を見ると、先程よりも明るくなっているのが判った。 この分なら、もうすぐ雨は止むだろう。

 そうしたら……? 青年は考えた。

 雨が上がればここにいる必要は無くなる。 雨宿りをする必要が無くなれば、お互いに話す必然性も無くなってしまう。

 つまり、ここでお別れになるという事である。

「あ、あの!」

 思い余って、青年は大きな声を出してしまった。 すぐ隣りの人物に話しかけるにしては、ちょっと迷惑な大きさだ。

 案の定、女性は驚いた顔をしている。

「あ……ご、ごめん。 あの……」

「はい?」

「僕、今夜ここで星の写真を撮ろうと思ってるんだ。 ほら、雨が降ったから空気が綺麗になって、星も良く見えるようになると思ってさ。 やっぱり、こういったチャンスは逃しちゃいけないじゃないか、だから」

「そうなんですか」

「うん、そうなんだ! そうなんだよ!」

 心の中で、もう一人の自分が突っ込みを入れて来るのが判った。 お前は何を言ってるんだ! と。 もっとハッキリ言え! と。

「頑張って下さいね」

「うん! ありがとう!」

 だからっ! そうじゃないだろう! と、別の自分に頭を叩かれたような気がした。

 何故かは解らない。 けれど青年は、この女生ともっと一緒にいたいと思っていたのだ。

 いや、理由など、どうでもいいのかもしれない。 人を好きになる事に、時間の経過や場所の違いなど微々たる問題なのだ。

 これがいわゆる 『一目惚れ』 という物なのだろうと、青年は思っていた。

「も、もし良かったら、一緒にどうかな?」

「一緒に?」

「うん! 君は星があまり好きじゃないと言ったよね? でも、それはきっと本物の星を知らないからだと思うんだ」

「本物の星……」

「綺麗なんだよ、夜空に浮かんでる星って。 見ていると心が澄み渡るような気がするんだ。 本当だよ」

「……」

 熱心に言う青年を見ながら、女性は何かを考えているようだった。 青年はそれを、返事に迷っていると解釈した。

 夜に、しかも見知らぬ男と二人きりだなんて、それは警戒して当然だし、まだ自分は信用に足るものを見せてもいないのだから尚更だ。

 青年は、何とか自分に疚しい気持ちが (全然とは言わないが) 無い事を知って欲しかった。

「だから……どうかな? あ! 別に君を誘い出だしてどうこうしようとか、そういった事は一切考えてないから! 本当だからね!」

 何を血迷ってるんだ! そんな事を言ったら余計に警戒されるじゃないか!

 心の中の自分が分身して、一斉に殴る蹴るの暴行を加えて来たような気がした……。

 女性は無言のまま、頭を掻き毟っている青年を暫く見ていたかと思うと、

「そうですね……いいですよ」

 と、少しだけ微笑んで言った。

「ほ、本当!?」

「はい」

「じゃ、じゃあ……今夜九時に、ここで!」

 これから宿を取ったり、色々な準備をしたらそれくらいの時間になるだろう。 青年は、そう思った。

 宿を取るのは、別に下心がある訳でなく、今夜だけで終わりにしないで、明日も約束を取り付けようと考えたからである。

「九時ですね? 解りました」

 女性が了承してくれた事で、青年は飛び上がらんばかりの嬉しさを感じた。 勿論、本当に飛び上がったりはしない。

 そんな事をしたら頭をぶつけるし、変な人だと思われてしまう。

(よ〜っし、早速行動だ!)

 雨が上がったのを確認してから、青年は洞から転がるようにして外に出ると、大急ぎで駆け出して……すぐに足を止めて振り返った。

「忘れてた! 僕は、天田翔 (あまたかける) ! 君は!?」

「わたしは……わたしは、アオイ」

「アオイさん? 苗字? それとも名前?」

「……」

「……まあ、いいか。 じゃあ、アオイさん、また今夜!」

 今、細かく訊かなくても、今夜また訊けばいい。 今夜が駄目でも、また明日……翔はそう考え、再び走り出した。

 そんな翔の後姿を、アオイは静かに洞の中から見送っていた。



「……来ないな」

 約束の九時を回っても、アオイは姿を見せなかった。 やはり警戒されてしまったのだろうか? 翔は、昼間の自分の行動を思い返してみた。

 ……どう考えても怪しい。 冷静になって考えれば考えるほど、怪しさだけが際立って思える。

「あ〜っ! あんな事、言わなきゃ良かった!」

 舞い上がっていたとは言え、思い出すと顔から火が出そうだ。 切り出し方も、持って行き方も、まるでなっていない。

 もしもこういった物に点数が付けられるとしたら、きっと赤点で補習確定だろう。 だが……。

「補習でも追試でも、やり直しが出来るならいいよ……」

 セーブデータも無いし、リセットボタンも無い。 人生において、その一瞬一瞬が全てやり直しの利かない一発勝負なのだ。

 事前の準備が出来る場面もあるにはあるが、今回はそれに当て嵌まらない。

「ハァ……」

 切ない溜息をつくと、翔は満天の星空をファインダーの四角いスペースに押し込めた。

 まあ、元々これが目的だったのだから、これをしなければ話しにならない。

 別に仕事ではないから、やらなければいけないという事もないのだが、このまま帰ってしまったら、本当に疚しい心だけでアオイを誘ったような気がしてしまう。

「ポジションはここでいいな。 あとは……」

「ポジションって、やっぱり決めないといけないんですか?」

「うわあっ!?」

 いきなり耳元で声がして、翔は思い切り驚いた。 今度は夜だった為、驚きの度合いも昼間より大きい。

 今の今まで自分一人だけしかいないと思っていたのだから尚更……いや、そこは昼間と同じか。

「あ〜、ビックリした……」

「ごめんなさい……また驚かせちゃいましたね」

「あ、いやいや、大丈夫だから気にしないで」

 驚いた拍子に足が当たって、三脚がずれてしまった。 翔はもう一度しゃがみ込み、ファインダーを覗きながら位置を微調整する。

「ただ星を撮るだけなら構わないけど、あの大きな木を入れたいんでね」

 昼間、二人で雨宿りした古木の事だ。 翔が言うと、アオイは不思議そうな顔をした。

「ほら、ポジション決めないといけないのかって訊かれたからさ」

「あ、そうでしたね。 ……どうですか? 良い位置になりましたか?」

「うん。 見てみる?」

 翔が横にどけて、アオイに場所を空けた。 言われるままに、アオイがしゃがんでファインダーを覗くと、そこには小さな空に、更に小さな星が瞬いていた。

「……随分小さく見えるんですね」

「望遠鏡じゃないからね、それは仕方ないよ。 それに、このカメラに収めるには、宇宙は広過ぎるから」

「そうですね」

 アオイは翔の方を向いて、クスっと笑った。

「それじゃ、これを押して」

「これは……レリーズでしたっけ?」

「そう。 このダイヤルを右に回すとシャッターが開放状態で固定される。 そうすると、フィルムには星の動きが記録されるんだ」

「星の動きが記録される……」

 アオイは何故か少し躊躇いがちにボタンを押した。 カシャッ! とカメラから小さな音がした。 今、フィルムには星の光が取り込まれ、その軌跡を写している……。

「何となく、怖いような気がしますね」

「……怖い?」

「ええ……。 だって、今見えている光のいくつかは、もう存在しない星の輝きだもの……。 それを記録するのは、何となく怖い気がしませんか?」

 考えた事も無かったが、言われてみれば確かにそうだ。 

 光は光源の運動、伝播方向、波長などに関係無く、真空中を一秒間に、二億九千九百七十九万二千四百五十八メートル進む。

 つまり、例えば太陽を見たとすると、その時に見ている太陽は、約八分前の太陽という事になるのだ。

 その考えからすれば、今見ているアオイや、周りの風景でさえ過去の物なのである。

「……」

「でも、意味はありますよね?」

「え?」

「過去を記録する事に、意味はありますよね?」

 物凄い速さで通り過ぎて行く時間の一瞬を記録する事。 同じように見えても、その一瞬は、もうさっきの一瞬とは違う。

 永遠の一瞬……それを記録するのが翔の目指した仕事であり、夢だ。

「ああ、勿論あるさ! あるとも!」

 翔が言うと、アオイは嬉しそうな……けれど、哀しげな笑顔を浮かべた。

 何がアオイを哀しませるのか翔は知らない。 勿論、それを知りたいとは思うが、今はまだアオイの心に踏み込む資格が無い。

 その資格を得る為には、今夜、この瞬間だけで終わりにしてはならないのだ。

「あの……わたし、何かいけない事を言いましたか?」

「へ?」

 あまりにも真剣な顔をしていたせいか、アオイは翔が怒っているように思ったのだろう。 ちょっと申し訳無さそうな顔になっている。

「あ、ああ、いや違うんだ。 うん、何でもないよ。 ……それより、来てくれないのかと思ってたから、来てくれて嬉しいよ」

「ごめんなさい。 色々手間取っちゃって……」

「いやいや! 別に気にしなくていいんだよ! 女性は出かける時に時間がかかるものだって事くらい、僕だって知ってるから」

 そう言うと、翔はバッグから別のカメラを取り出して、レンズをアオイに向けて構えた。

 こちらのカメラは三脚に据えている物とは違い、少し小型だ。 普段はスナップ写真などを撮る為に使っている。

「え?」

「は〜い、そのまま〜! 笑って笑って〜!」

「い、いきなり言われても……」

「笑えなかったら自然にしてればいいよ」

 自然にしていればいいといわれても、そんな事を言われたら却ってぎこちなくなってしまう。

 一応、それなりの顔は作るものの、アオイの表情は若干硬いままだ。 それにも構わず、翔はシャッターを何度か押した。

 超高感度フィルムを使っているので、ストロボを使う必要は無い。 けれど、やはり出来上がった写真は、昼間、明るい場所で撮った物とは違った物になる。

 超高感度フィルムは粒子が大きい為に絵が粗く、ザラ目状にノイズが入りがちなのだ。

「う〜ん……」

「ど、どうかしましたか?」

 ファインダーを覗いたまま唸っている翔を、アオイは心配そうに見ている。

「ねえ」

「は、はい」

「明日、時間ある?」

 アオイに訊ねながらも、翔の指はシャッターを押し続けている。

「明日……ですか?」

「うん。 明るい時に、アオイさんの写真を撮ってみたいんだ」

 本当に、素直にそう思えた。 最初は悪戯で撮り始めたアオイの写真だが、ファインダーを覗く内に、翔は本気になった。

 本気で、アオイの写真を撮りたいと思ったのだ。

 細かい理屈など無い……ただ撮りたいと思えた。

「あ、あの……でも、わたしなんか……」

「どうしても撮らせて欲しいんだ」

 カメラを胸の前に下ろして、翔は言った。 その顔は先程の物とはまた違った真剣さが漂っている。

 勢いではなく、透き通るような真剣さとでも言うのだろうか……。 その顔には、昼間の、ちょっと頼りない感じが一切無い。

「は、はい」

 それに押される格好で、アオイは自然に頷いていた。

「よし! それじゃあ……」

 翔は手頃な高さにある枝にバッグを掛けると、その上にカメラを置いた。

 アオイに動かないように言いつつピントを合わせると、セルフタイマーをセットして、急いでアオイの隣へと走った。

「あ、あの……」

「記念撮影。 はい、笑って」

「そ、そんなに急に笑えません……」

「じゃあ、カメラの向こうに裸踊りしてる僕を想像するといいよ」

「え?」

 アオイは一瞬、言われるままにそれを想像してしまった。

「いや……それじゃ面白いと言うより、単なる危ない奴だな。 え〜っと、他に何か……」

「……プッ」

 噴き出したアオイを見て、翔も笑った。 その瞬間を逃がすまいとするかのように、シャッターが下りた。



 一夜明けて、翔とアオイの二人は昨日と同じ場所にいた。 勿論、アオイの写真を撮る為である。

 最初はぎこちなかったアオイも、枚数をこなす内に慣れて来たのか、翔の指示に少しずつだが応えられるようになった。

 二人が最初に出会った古木、目に眩しい初夏の若葉。 そして澄み切った空の蒼を、翔は余す所無く背景に収めた。 何枚も何枚も……。

(これだよ……僕は、こういう写真が撮りたかったんだ!)

 濡れた草が反射する光の中で、アオイは美しかった……。

「お疲れ様。 もうお昼だし、少し休憩しようか」

 少し夢中になり過ぎていた事に気付き、翔はアオイに声をかけた。 そろそろ日も高くなり、暑さが増している。

 プロのモデルでさえ撮影の時にはクタクタになってしまうのだから、素人のアオイはもっと疲れているだろう。

 翔の言葉に頷くと、アオイは翔の傍まで歩き、丁度アオイの腰の高さくらいの岩へと腰を下ろした。

 本当は草むらで座りたかったのだが、昨夜の雨で濡れている為、ちょっと敬遠したのだ。

「はい、どうぞ」

 翔は適度に冷えた濡れタオルと、ポットから注いだ麦茶をアオイに手渡した。

「ありがとうございます」

 これは、今、泊まっている宿の女将さんにお願いして用意してもらった物だ。

 五十代くらいの女将さんは、恰幅の良さと同様に気もいいらしく、お安い御用だと言ってすぐに用意してくれた。

 ついでだと言って弁当まで作ってくれて、しかもタダでいいと言ってくれたのだから、本当にありがたかった。

 一泊するだけにしようと思っていたのだが、今夜もまたお世話になろうと、翔は思っていた。

「今日は昨日のカメラと違うんですね」

「うん。 今日のはデジタルだからね」

 本当は機械式を使いたかったのだが、そうするとどうにも普段の癖が出てしまう。 知らず知らずの内に、撮影対象に厳しくなってしまうのだ。

 キツい言葉を使ったり、物に当り散らしたりするような事は無いが、普通にスナップ写真を撮る時にでも真剣になり過ぎてしまう。

 お陰でモデルの機嫌を損ねてしまった事が何度あったか……。

 今日は自然体のアオイを撮りたいのだから、そんな事になってしまっては困るのである。

 これも一種の職業病かな? と、翔は苦笑した。

「あの……どうですか?」

「ん? 何が?」

 おにぎりを頬張りながら翔が言った。

「わたし、写真を撮ってもらうのって慣れてなくて……おかしくありませんでしたか?」

「全然そんな事無いよ! 生き生きしてて、凄くいいと思う。 それに……」

 アオイは本当に綺麗だった。 今までに撮った、どんな人よりも。

 濡れた草が日差しを反射して小さな光の珠を作るように、ファインダー越しに見るアオイもまた、陽の光にキラキラしているように思えた。

 昨夜はすぐに笑えなかったアオイだが、今日は翔が言うと、即座に明るい笑顔を作る。

 本当に自然な笑顔で、撮っている翔まで思わず微笑んでしまうくらいだった。

「それに?」

「い、いや、いいんだ! 何でもないよ!」

 翔は慌てて麦茶を飲み、少しむせた。

(何を言おうとしてるんだ、僕は……)

 それに、綺麗だし……と言おうとしていたのだが、そんな事をさらっと言えるほど翔はキザでもないし、女性の扱いに慣れてもいないのだ。

「さて、午後からは場所を変えよう。 少し移動するけど、時間、大丈夫かな?」

「ええ、今日一日は」

「今日一日……?」

 つまり、明日は時間が無いという事だろう。

「もしかして、明日には帰っちゃう……って事?」

「え、ええ……明日出発しないと、間に合わなくなっちゃいますから」

「……大事な用事?」

「はい……」

 ここに住んでいるのでなければ、いつかは自分の住んでいる場所へ帰る。 或いは、他の土地へと移動する。 それは当然の事だろう。

 今日以外にチャンスは無い……アオイに伝える事があるのなら、今日を於いて他には無いのである。

「ところで、どこへ行くんです? ここよりもいい撮影場所があるんですか?」

「いや、写真は、もう充分に撮らせてもらったから。 午後からは、その……まあ、有り体に言えば、デートって事になる……のかな」

「デート……?」

「駄目かな……?」

「……」

 アオイは、何やら難しそうな顔で考え込んでしまった。

 これは言わない方が良かっただろうか? と、翔はちょっと後悔したのだが、何も言わずに連れ回しても、あまり意味が無いように思えた。

 何しろ今日一日しか時間が無いのだし、もしも二人の住んでいる場所が離れていたら、こうして会えるチャンスも少ないだろう。

 ならば、自分の気持ちくらいは伝えておかないと……。

(でも、もしかしたら恋人の一人くらい、いるかもしれないな……)

 弱気になるな! と、また別の自分に叱咤された。

 だからこそ、今日、勝負をかけるんじゃないか! これで駄目なら、いっそスッキリするというものだ。

 このまま何事も無く終ってしまったら、きっといつまでも引きずるような、そんな気がした。

「……ですよ」

「……え? あ、ごめん、聞いてなかった」

 リアクションとしては最悪の物だったが、アオイは然して気にする様子も無く、

「いいですよ。 って言ったんです」

 と、少し笑いながら言った。

「ほ、本当に!?」

「はい」

 アオイはまだ笑っている。 翔のリアクションが、いちいち大袈裟なのが面白いのだろう。

 昨夜と違って豊かなアオイの表情を見て、翔は自分と打ち解けてくれていると考えた。 これなら、いけるかもしれないぞ……と。

「よし! そうと決まったら、早速移動しよう!」

「あ、わたし、少しやる事がありますから、先に駅へ行っていてくれますか?」

「あ……ああ、わかった。 それじゃ!」

 一瞬、待っていると言おうとしたのだが、その台詞はちょっと情けないと、翔はすぐに思い直した。

 それに、相手を信用していないようにも取れてしまう。 あまり女々しい印象を与えてしまうのもマズイと思えたのだ。

 翔が駅に向かって歩き始めたのを見てから、アオイは昨夜、雨宿りをした洞へと向かった。



「ここ……ですか?」

「うん、そう」

 午前中にいた場所とは打って変わって、前後左右、どこを見回しても人、人、人……。

 たった数本の電車を乗り継いだだけだというのに、この変わり様はどうだろう? 本当に同じ星の上なのかと疑ってしまいたくなるくらいだ。

 通りの両端にはベンチも幾つか設置されているが、座っている人はほんの数人といったところで、殆どのベンチは空いたままだ。

「こんなに人がたくさんいる所で、何をするんです?」

「いや、特に何をするって訳でもないんだけど……」

 宿の女将さんに、若い女性が好きそうな場所という事で教えてもらったのだが、どうもここはアオイの好みの場所ではないようだ。

 あんなに静かで何もない場所にいたのだから、それくらい、ちょっと考えれば判りそうなものなのだが、翔の方も些かテンパっている様子だ。

(しまったな〜……もっと彼女の好みを把握しておくんだった)

 考えても後の祭りである。 ここまで来てしまったのだから、ここで何かアオイに好印象を与えなければならない。

 このまま戻っても、それでは電車に乗っただけになってしまうのだから。

「え〜っと……あ、あった! アオイさん、こっちこっち!」

「え? あっ!」

 翔はアオイの手を掴むと、人込みの中を泳ぐようにしてどんどん歩き始めた。

 戸惑ったアオイだったが、ここで手を振り解いては迷子になってしまう。

 何とか翔のペースに合わせて暫く歩き、人込みから抜け出した二人の目の前には、小さな店があった。

「わあ、可愛らしいお店ですね。 ……こういうお店、好きなんですか?」

「違う違う、僕はこんな店に来るのは初めてだよ」

 ショウウィンドウに飾られている品を、アオイは興味深げに見ている。 そこに飾られているのは、ガーデンオーナメントだ。

 と言っても、それほど大きな物は無く、ベランダガーデンに使うような、ちょっとした小物程度の物がメインだ。

 店の外装もそれに合わせて、園芸店というよりアンティークショップの趣がある。

 本当なら、もっと若者向けの所へ行こうと思っていたのだが、宿の女将さんに 「若い人のみんながみんな、派手好きってもんでもないでしょ?」 と忠告されたのだ。

 何しろこういった経験が少ないのだから、ここは人生の先輩の言う事に従うべきだろう。

「これくらいなら広い庭が無くても楽しめそうだね」

「そうですね。 お部屋に置いてもいいかもしれません」

「店の中にも入ってみない? 他にも色々ありそうだよ」

「ええ」

 二人で店内に入ると、そこには様々な形、様々な大きさのオーナメントが所狭しと飾られていた。

 勿論、それらは商品として展示されているのだが、こうして眺めているだけでも、なかなか楽しめる物がある。

 翔もそうだが、アオイも初めて見る物が多いのだろう。 先程よりも熱心に見ているようだ。

「ん〜……あの、これって何ですか?」

「どれ?」

 アオイが指差したのは、草を食んでいる羊のオーナメント。 掌に乗る程度の大きさの物だった。

「ああ、羊だね」

「ひつじ……」

 アオイはそれを手に取ると、様々な角度から見始めた。

「気に入ったの?」

「よく分かりませんけど、何となく」

「ふうん……」

 アオイに気付かれないように値札を見てから、翔はアオイの手からそれを取り、 「ちょっと待ってて」 と言って、レジへ向かった。

 アオイは言われた通りにその場に立ち、店内をしげしげと見回した。

 その様子は何かを探している風でもあり、また、初めて放り込まれた場所で不安げにしている風でもあった。

「お待たせ。 どう? 他に何か目ぼしい物はあった?」

「どれも可愛らしいと思いますけど、見る物全部欲しくなっちゃいますから、もう出ましょうか」

「そう? じゃあ、行こうか」

「はい」

 翔に促されるまま、アオイは翔と共に店を出た。 昼を過ぎて、日差しが少し強さを増したようだった。

 相変わらず店の前を人の波が行き交っていて、周りの温度を上げているようでもある。

「う〜ん……久々に人込みの中を歩くと疲れるなあ」

 歩き出した途端に翔が言った。 だが、その台詞は台本を棒読みしているかのごとく、どうにもぎこちない。

 視線もキョロキョロしているし、態度もソワソワしているようで落ち着かない。

 誰が見ても落ち着きが無いのが見て取れるのだが、アオイは気付いていないのか、翔の挙動に対してのリアクションは無かった。

 やがて意を決したようにコホンと軽く咳払いすると、

「よ、良かったらその辺で、ちょっとお茶でも飲まない?」

 翔は、出来の悪いナンパのような事を言った。

 だが、アオイの方はそんな事は気にしていないのか、 「はい」 と当たり前のような返事を返した。

 内心、飛び上がりそうになりながらも必死に冷静さを装うと、翔は旅館の女将さんから聞いた店の名前と場所を思い返した。

 若い女性が好みそうで、それでいて落ち着いた造りの感じの良い店……そんな無茶な注文に応えられる店が一軒だけあるというのだから、翔にとっては、まさに天の配剤とも言うべき店なのだが、

「え〜っと……」

 宿の女将さんに聞いた目印を頼りに視線を巡らせてみるのだが、どこにもそれらしい店が見当たらない。

 別にその店でなければいけないという訳でもないのだが、何しろ翔も初めて来る場所なので、他に良い場所を知らないのだ。

 だが、いつまでもここでキョロキョロしている訳にもいかない。 こういう時にサっと行動出来ないような男の得点が、高い筈が無いのだ。

(いかん……ここで醜態を晒す訳にはいかないぞ!)

 そんな風に翔が焦っていると、

「あの、あれは何ですか?」

 アオイが指差す方向に、何やらカラフルなパラソルが見えた。 その前には数名の女性が並んでいて……。

「あれは……ああ、クレープ屋だね」

「くれえぷや?」

「……もしかして、食べた事、無い?」

「くれえぷやって食べ物なんですか?」

「いや、食べるのはクレープ。 そのクレープを売ってるのがクレープ屋で……説明するのは面倒だから買って来るよ。 何かリクエスト……適当でいいか」

 そもそもクレープが何か知らないのでは、リクエストも何も無いだろう。 翔はアオイにその場にいるようにと言い残し、クレープ屋へ走った。

 丁度、お客の切れ目に当たり、すぐに注文出来たのは幸運だった。 とりあえずアオイの好みが判らないので、ショコラクレープを二つ頼んだ。

 生チョコにココアパウダー、チョコフレークにチョコアイスとチョコ尽くしのクレープだが、アオイがダイエットをしていない限り、大きく外す事も無いだろう。

 人によってはフルーツの好き嫌いもあることだし、無難な選択だと翔は思った。

 まあ、チョコが嫌いだという人もいるだろうけれど、今の翔の頭の中は、そこまで気が回らなくなっているのだ。

「はい、お待たせ」

 アオイの所へ戻ると一つを手渡し、手近にあったベンチに二人並んで腰掛けた。

 他にも同様の事をしている人がいるので、浮いた感じにならなくて良かったと翔は思った。

 暫く手の中のクレープを繁々と眺めていたアオイだったが、隣のベンチの人が食べているのをみて、同じように口に運んだ。

「……甘い」

「あ、ちょっと甘過ぎたかな?」

 何しろチョコ尽くしのクレープだ。 その甘さは普段口にする物よりも数倍甘いだろう。

 もしかしたら甘い物が苦手だっただろうか? と、翔は少し後悔したのだが、

「いいえ、美味しいです」

 アオイは微笑んで言った。 無理をしているようには見えないので、どうやら翔のセレクトは間違っていなかったようである。

「こちらに来て十日になりますけど、こういう物を食べたのは初めてです」

「……? クレープなんて、そんなに珍しい食べ物でもないよ。 日本中、どこでも売ってるんじゃないかな?」

 今日のように、ちょっと (と言っても数本乗り継いだが) 電車にでも乗れば、こういった食べ物が必ずと言って良いほど売っている場所に着く。

 余程の過疎地帯や、雪深い山奥でもない限り、人の集まる場所にはこういった食べ物は売っているものだろうと翔は思ったのだが……。

「そういうものなんですか?」

 と、やはりアオイは不思議そうな顔をしている。

「いや、必ずそうとも言い切れないかもしれないけど、多分……」

「ふうん……」

 もしかしたら、アオイはどこか (言葉は悪いかもしれないが) 凄い田舎から出て来たのではないだろうか?

 あんな何も無い場所が故郷と似ていると言っていたし、きっとそうに違いないと翔は思った。

 しかし、翔はアオイの故郷について訊く気にはなれなかった。

 昨夜、あの場所で訊いた時も、あまり話したそうではなかったし、単なる世間話で終われば良いが、もしもそうでなかった場合……つまり、アオイが故郷を捨てて来たのだとしたら?

 せっかくここまでは和やかに来られたというのに、自分でその雰囲気をブチ壊してしまいかねない。

 別に今すぐ何をどうしようというつもりも無いが、これから先を考えれば、それはあまり好ましい状況ではないだろう。

「これから先って……僕も気が早いな」

「? 何か?」

「え? あ、ああ! いや、何でもないよ、ははは!」

 いつの間にか考えが口に出ていた。 翔は慌てて残りのクレープを口に放り込むと、勢いで少し咽た。

 そして、何とかそれを飲み込むと、

「……僕さ、こうやって女の人と過ごすのって、あまり……というか、殆ど経験が無いんだ」

 今までの焦りが嘘のように無くなり、素直に自分の事を話し始めた。

「そうなんですか?」

「うん。 だから、どういう風に行動していいか、よく解らないんだよ」

 何か楽しい話でもと思ったのだが、アオイの真っ直ぐな目を見ていたら、何故かこんな話しになってしまった。

 話しのネタが無い訳ではない。 取材先で色々な体験もしたし、記事を書く際に参考にした物で、面白そうな話題もあった。

 けれど、そのどれもが頭に浮かばず、翔は自分の話しをし始めた。 何故なのか、その理由も解らないままに。

「お陰で、この歳で恋人の一人もいないんだ。 おかしいでしょ?」

「でも、それは人それぞれでしょう? それに、作ろうと思って出来るものでもないでしょうし」

 何となく、心を抉られたような気がした。 アオイに他意は無いのだろうが、今の翔にとっては、少々厳しい言葉だった。

「……あ、そうだ、忘れてた」

 翔はカメラを入れたバッグのポケットを暫くまさぐると、 「はい、これ」 と、小さな封筒をアオイに手渡した。

「何ですか? これ」

「昨夜の写真」

 アオイが受け取った封筒を開けると、中からはちょっと硬い表情をしたアオイと、扇状に広がった星の写真が出て来た。

「綺麗……」

 まるで高速で移動したかのような星の軌跡が写った写真は、とても美しかった。

 そう……静止しているように見えて、星は絶え間無く動いているのだ。 休む事無く、時が進むように。

「あ、アオイさんの写真、ちょっと普通の写真と色が違うけど、それはフィルムのせいで仕方ないんだ。 でも、今日撮ったのはもっと鮮明だと思うよ」

「星の写真は綺麗ですけど、わたし、ちょっと引きつったような顔してますね」

「その時は緊張してたみたいだしね、それは仕方ないよ。 その代わり、今日のは良かったよ。 凄く自然に笑えてたし」

「そうですか……?」

「うん。 あ、でも、昨夜のにも笑ってのがあるよ。 え〜っと……」

 アオイの手の中にある写真の一番下から、翔は一枚を抜き出した。

「ほら」

「あ……これ、最後に撮った写真ですね」

「これは表情が良く出てると思う。 凄く自然に笑ってると思うよ」

「……翔さんが笑わせてくれたから」

 カメラの向こうに裸踊りしている翔を想像しろといわれて、素直にそれを想像して笑った。

 本当に、何故そう出来たのか不思議なくらい自然に想像していた事に、アオイは戸惑っていた。

「こんな筈じゃなかったのに……」

「はは。 でも、笑ってくれて助かったよ。 それで笑ってもらえなかったら、僕は単なる間抜けになっちゃうからね」

「え? あ……ええ、そうですね」

「……そこは相槌を打たないで欲しかったなぁ」

 困ったように笑う翔と一緒に、アオイも笑った。



 日もとっぷり暮れた頃、翔とアオイは午前中に撮影をしていた場所へと戻って来た。 二人が初めて出会った、あの場所へ。

 他に行くような場所も無いし、さて、これからどうしようかと翔が思案していると、アオイがここへ来たいと言ったのだ。

(シチュエーションは完璧じゃないか……何か言うなら今しかないぞ、僕!)

 まだ何も伝えていない……伝えるなら今日しかない。

 会ったばかりでこんな気持ちになどなるのだろうかとも思うが、人を好きになるのに時間も距離も空間も関係無い筈だ。

 翔は何とか勇気を出そうと、自分自身を説得していた。

(頑張れよ、僕! そんな事じゃ、この先、何年経ったって同じ事の繰り返しだぞ!)

 ただ、いいなぁ……と思うだけじゃ、相手に気持ちは伝わらない。 相手の気持ちもこっちには向かない。

(よし……言うぞ!)

 翔は意を決して、アオイに一歩近付いた。

「ア、アオイさ……」

「……写真」

 最悪のタイミングで台詞が被った。

 翔の中でガッチリと固まった筈の決意は、あっという間に小さな欠片になってしまった。

「あ、ごめんなさい。 何ですか?」

「あ……い、いや、アオイさんからどうぞ」

 ヘラヘラしながら言った自分を、もう一人の自分が、こっぴどく蹴り飛ばしているような気がした。

「今日撮った写真ですけど……この場で頂く事って出来ますか?」

「へ? あ、ああ、大丈夫だよ。 道具は一式揃ってるから」

 そうか……翔は思い出した。 アオイには、もう時間が無いのだ。

 今夜しか……。

「ちょっと待ってて。 今、準備する」

 翔はバッグを開けると中から機材を取り出し、手馴れた様子で接続し始めた。

 いつもやっている事だし、ケーブルを繋ぐだけの単純作業なので、目を瞑っていても……というのは言い過ぎだが、それに近い感覚で作業出来る。

「ごめんなさい、勝手を言って」

「構わないよ。 アオイさん、明日には、もう発つんでしょ?」

 それならすぐに写真を欲しいという気持ちも解る。 それもあって、今日はデジタルカメラで撮影したのだし。

「え、ええ……日付が変わると同時に」

「……え?」

 日付が変わると同時に? 翔は手を動かしつつ、アオイを見た。

 深夜まで動いている路線はあるが、ここの駅には止まらない筈だ。

 という事は、移動は電車ではなく、他の交通手段という事になるが、アオイが車を持っているという話しは聞いていない。

 路線バスなど出ていないし、ここにはタクシープールも無いし……。

「アオイさん……?」

 接続が終わり、写真のプリントアウトが始まった。 連続してプリンターから排出される紙を、アオイはじっと見つめている。

 昨夜ここで出会った時のように、少し哀しそうな、辛そうな顔で。

(まさか……)

 翔の頭に嫌な考えが過ぎった。 もしかしたらアオイは、自殺でもするつもりなのではないだろうか?

 日付が変わると同時に旅立つとか、今日しか時間が無いとか……どう考えても不自然だ。

「あ、あの、アオイさん?」

「わたし、思い出を追いかけてるんです。 もう、ずっと昔から……」

 思い出を追いかけている……やっぱりそうだ。 翔は確信した。

 けれど……。

「綺麗に写ってますね」

 一枚を手にしたアオイは、嬉しそうな顔で言った。 昼間、写真を撮った時と同じ顔だ。

 これから死のうとしている人間が、こんな顔をするだろうか? いや、だからこその顔なのかもしれないと翔は思った。

 もう思い残す事は無い……もう、遣り残した事は無い、未練も無い。 そんな、悟り切ったような顔なのかもしれないと。

「ここには滅多に人が来ないんですよね」

「え? ああ、そうだね。 名物も無いし、観光名所でもないから。 余程の物好きでもなければ、わざわざ足を運んでは来ないだろうね」

「だから、ここを選んで良かったと思ってたんですけど……あなたは来てしまいましたね」

「はは……僕、物好きだから。 ……アオイさんの邪魔をする形になっちゃったかな?」

「え……?」

「ほ……ほら、人って、独りでいたい時があるでしょ? だから、それを邪魔しちゃったかなって……」

 まさか 「自殺の邪魔した?」 なんて訊ける訳が無い。

「邪魔……そうですね、最初はそう思いました。 静かに独りでいたかったのにって」

「ごめん……」

「でも、すぐに考えが変わりました」

 アオイは微笑みながら言った。

「どうして?」

「翔さんが善い人だからです」

 『善い人』 というのは、男性として、あまり女性からは言われたくない台詞だ。

 その台詞の大半が、 『恋愛対象には見られない』 という意味を含んでいるからである。

 ご多分に漏れず、翔も何度か言われた事がある。

 こちらから何か言う前に先手を打たれて、 『ずっと友達でいてね』 と言われてしまえば、それ以上、何か言う事など出来はしないのだ。

 もっとも、これは翔の性格のせいだとも言えるが……。

「だから……何もかもお話しします」

「何もかもって……?」

「何も言わずに行ってしまうのは、何となく寂しいですし……初めてなんですよ? こんな気持ちになったのって」

 アオイの笑顔を見て、翔は何とも複雑な気持ちになった。

 こんな時にそんな事を言われても、どうリアクションして良いものやら……。

「わたし、ずっと、ある時間……瞬間を追いかけているんです。 ……追いかけてるって言い方はおかしいかな? わたしの方が先に進んでる訳だし」

 何の事だろうか? 翔には、アオイの言葉の意味が解らなかった。

「星の光は過去の物……わたしは、その過去をずっと見ているんです。 一番、幸せだった頃を……」

 星が瞬く空を見上げて、アオイは続けた。

「丁度、あの方向です。 わたしが昔、住んでいた星があったのは」

「……はい?」

 聞き間違いか? と翔は思った。

「あの……何があったって……?」

「わたしの故郷です。 ……もう、無くなってしまったけど」

「ちょ、ちょっと待って! ……アオイさん、真顔で冗談言うの、やめてくれないかな? 僕は真剣に聞いてるんだからさ」

「冗談……ですか。 やっぱりこの辺まで来ると、そういう反応になっちゃうんですね」

 アオイは微笑みながら言った。 その顔は冗談など言っているようには見えず、翔は戸惑った。

 本当に? 本当にアオイは地球の外から来た人なのか?

 そんな馬鹿なと打ち消す自分と、完全に否定する事の出来ない自分が翔の中にいた。

「星に寿命があるのはご存知ですよね?」

「あ、ああ、それは知ってるけど……」

「寿命が尽きる時、恒星は一度、膨張するんです。 そして、そのあと、急速に萎んで行く……」

 灼熱で惑星表面を焼き払ったあと、完全な氷河期が訪れる。 そして、恒星の周囲にある惑星は死ぬのだとアオイは言った。

 惑星自身の寿命が尽きる事も当然あるが、アオイの星は、恒星の寿命が尽きると共に消えたのだと。

「膨張が始まったのを確認したわたし達は、星を捨てて外宇宙へと出ました。 でも……わたしには出来なかった……。 わたしだけ、みんなとは反対方向へ進路をとったんです」

「どうして……?」

「安住の地なんて、わたしには必要無いんです。 わたしにとって、あの星以外に、そんな場所なんて……」

「……」

 これはもしかして、何かのショックでも受けて、精神状態がまともでなくなっているのではないか? 翔は、そんな事まで考えてしまった。

 アオイを悪く言うつもりは無いのだが、やはり素直に受け入れるには話しがとっぴ過ぎる。

「ちょっと来て下さい」

 アオイは翔の手を取ると、昨夜、雨宿りをした木の洞へと連れて行った。

 昨夜と同じく、下には枯葉が敷き詰められていて、適度なクッションがある。

「ちょっとここを覗いてみてくれます?」

「……?」

 アオイが指をさしたのは、単なる節穴のようだった。 まあ、覗くだけなら危険も無いだろうと、翔はそこへ目を当ててみた。

「……ア、アオイさんがいる!?」

 そこには、見た事も無い街で楽しそうに歩くアオイがいた。

 そしてその隣には、翔と同じくらいの年代と思われる男性が一人……。

「一緒にいるのは、わたしが愛した人です」

「……」

「星を出る時トラブルがあって、そのまま……」

「トラブルって……?」

「……我先に脱出しようとする人達の一部がパニックになって、それに巻き込まれたんです。 慌てなくても充分間に合ったのに……全員が脱出出来るだけの時間も、船もあったのに……それなのに……」

「……」

「手を繋いでたんですよ、わたし達……一緒に出ようって……ちゃんと並んで、順番を待ってたんです。 でも、一人、二人と列を乱す人が出始めて、それがどんどん広がって……いつしか手を放してしまったんです」

 普段は理性的な人でも、そういった状況に置かれたらどうなるかなんて分からない。

 自分が生き残る為に他人を犠牲にする事も厭わないかもしれない。

 酷い奴らだなと言いかけて、翔は言葉を飲み込んだ。 それを責める事は簡単だが、それを自分が責めても良い事なのだろうか……と翔は思った。

 自分を犠牲にしてでも他人を助けろとは、翔には言えない。 その場になって自分がどう行動するかなんて、翔には解らないのだから。

「わたし、彼を助けようとして、列を戻ろうとしました。 でも、人の勢いが凄くてどうにもならなかった……」

「……」

「船に乗ったあと、彼を探しました。 でも、どの船にも彼は乗ってなかった……置き去りにされたんです! そんな人達と一緒になんて、わたしは行けなかった!」

「……」

「すぐに小型の船に乗り込んで星に戻ろうとしたんですけど、警備の人に捕まっちゃって……。 ほとぼりが冷めた頃、ようやく船を盗んで星まで戻ったんですけど、その時には……もう……」

 翔の頭の中がごちゃごちゃになった。

 つまり、アオイは自分の星から脱出した宇宙人で、身勝手な連中のせいで恋人を亡くして、傷心の旅をしている……という事なのか?

「それからわたしは、こうして静かに彼と過ごした最後の一日を見ながら旅をしているんです……ずっと……」

「ずっと……って?」

「ここの標準時間で計算すると、わたし、翔さんよりずっと年上なんですよ」

 アオイは少し微笑みながら言った。

「不思議ですね……翔さんに話したら、何だか少しだけ気持ちが落ち着きました。 ずっと心に蟠っていた物が、ほぐれたような気がします」

「……だったら、もっと話してよ」

「え?」

「ここにいてさ、もっと僕に話してよ、アオイさんの事! もっとたくさん聞かせてよ!」

「……」

「過去を振り返りながら故郷を遠ざかって行っても、何の解決にもならないじゃないか! それよりここで、一緒に新しい生活を始めようよ! 僕と一緒に! そうすれば……」

「……それは出来ません」

 アオイは小さく首を左右に振った。

「どうして!」

「やっぱり、わたしには過去は捨てられないんです。 あの人との思い出を捨てる事は、あの人を忘れる事だから……。 わたしが忘れてしまったら、誰も彼を思い出さない……彼は存在しなかった事になってしまう」

「そんな……そんな馬鹿な生き方なんてあるもんか! 過去に縛られたままなんて、そんな……!」

「馬鹿な生き方……ですか?」

「そうさ! アオイさんには未来があるんだ。 それを、ずっと過去だけ見つめて生きるなんて……それに! そのまま宇宙の果てまで行ってしまったら、どうするんだ! そうしたら、もう……」

「なら、翔さんが一緒に来てくれますか?」

「……え?」

 一緒に? どこへ?

 翔は一瞬、呆けたようになって……その後、これが重大な問い掛けなのだと気付いた。

「あなたが一緒に来るという選択肢もあるんですよ? ここでの生活も、何もかもを捨てて、わたしと一緒に……」

「そ、それは……」

 夢がある……やりたい事がある……それを捨ててアオイと一緒に行く事が出来るか?

 アオイがここに残るという事と、翔が一緒に行くという事。 それは、同じ意味を持っているのだ。

 アオイがここに残って新たな夢、新たな希望を見つける事と、翔がここから出て新たな夢、新たな希望を見つける事と。

 アオイに過去を捨てろと、忘れろと言うのなら、自分はここでの生活を捨てられるのか? 忘れられるのか……?

「僕は……」

 翔が言いよどんでいると、アオイは不意に、翔を洞の外へと突き飛ばした。

「ア、アオイさん、ちょっと待って! 少し考える時間を……!」

「時間は無いんです。 出発の時間をセットしてしまったから……もう、止められないんです」

「そ、そんな……」

「……さよなら」

「あ……っ!」

 洞の口が閉じて、古木の表皮が剥がれた。

 何本か残っていた枝も落ち、根っこが生えている筈の地面が盛り上がり、そこからは銀色に鈍く光る金属が顔を出した。

 まただ……翔は思った。 また土壇場で躊躇って、大事なチャンスを逸した……もう取り返しはつかない……。

「アオイさん!」

 何の音もしなかった。 ただ一瞬の光と風。 それだけを翔に浴びせかけて、アオイは行ってしまった。

 もう、目の前には夜の闇以外、残っていない。

「何で僕は……!」

 プリントアウトされたアオイの笑顔が、風に舞ってどこかへ飛んで行った……。


 そして……。


「……クソ面白くもねえ。 何だ、この腑抜けた写真は」

「また〜……編集長は素直じゃないんだから」

 飾られた何枚もの大きな写真を見ながら文句を言う中年の男性に、一緒に付いて歩く三十代くらいの男性が苦笑しつつ言った。

 飾られている写真は、どれもみな自然で、人も、動物も、昆虫も、草花でさえ生き生きとしている。

 まさに 『生命の鼓動』 を感じさせるような写真ばかりだ。

「そろそろ褒めてやったらどうです? あいつだって、もういっぱしのプロなんですから」

「へっ! 俺から見たら、まだまだヒヨっ子だ!」

「まったく……そんなに言うなら、あの時、引き止めれば良かったじゃないですか」

「本人が辞めるってもんを、どうして俺が引き止めなきゃなんねえんだ!」

「あいつの腕、一番買ってたのは編集長のくせに」

「うるせえ!」

 『天田翔写真展』 の会場には、たくさんの来場者がいた。

 中には写真界の重鎮とまで呼ばれるような人もいて、その注目度の高さを物語っている。

「でも、まさか俺が天田の取材をするなんて思いもしませんでしたよ」

 編集長のお付が言った。 翔が編集部にいた頃、よく一緒に取材に回ったなと思い出しながら。

「あいつは、やっぱりこういう写真を撮るべき人間だったんですよ」

「……そうだな」

 どやしつけ、無理難題を吹っかけたのは、翔の腕を認めていたからだ。 もっと撮れる筈だ……もっと、もっとと。

 けれど、やはり人から命じられて撮れる人間と、そうでない人間がいるのだ。 翔は後者だったのだろう。

「くそったれ……立派になりやがって……」

 憎まれ口を叩きながら、編集長は笑った。

「どうだろう……見えるかな……?」

 翔は小さな子供を抱きかかえ、空にかざすようにしている。 澄んだ蒼の広がる空には、雲一つ無い。

「ビルの谷間にあるような場所じゃ、見えないかもしれないな……というより、この場所を見てる筈が無いか」

 翔は苦笑して、子供を下ろした。 だが、もう一度抱っこしろとせがまれて、再び苦笑している。

「あなた、何をしてるんです? もうすぐ記者会見が始まりますよ?」

 背後から女性が声をかけた。 その子の母親、翔の妻である。

「ああ、もう少し待ってて貰えるかな? もう少しだけ、こうしていたいんだ」

「まるで誰かに見せてるみたい」

 翔の妻は、クスクスと笑った。

「ああ、そうさ。 空に見せているんだ。 君と僕の子をね」

 翔はもう一度、空に届けとばかりに子供を高く抱き上げた。

(アオイさん、見えるかい? 僕の子……名前は、葵っていうんだ)

 今度、あの場所へ子供を連れて行ってみよう……あの場所なら、きっとアオイは見てくれる筈だ。

 翔は、そう考えていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言]  とてもおもしろかったです。 時間を忘れて読んでしまいました。  とてもいい設定で食いいるように読みました(笑)  これからも頑張ってください。 応援してます。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ