「終電のホーム、彼女の残影」
凍えるような寒さに身を震わせる冬の夜。僕は大学のサークルの飲み会を終え、終電に乗って家に向かって帰っていた。
頭は金槌でガンガンと叩かれたような痛みが定期的に響いていて、足下もなんだかおぼつかない。他に誰も乗っていないのに、席に着くなんて事もできず、情けなく床に腰を降ろしていた。口から零れ出る息は酒臭く、せっかく店を出る前に胃の中の物を吐き出してすっきりしたっていうのに、その匂いを嗅いでまたしても気持ち悪くなってしまう。
うとうとと意識が何度も途切れては覚醒し、その度に駅を乗り過ごしていないかと、わずかに残った理性で確認する。どうも、まだ目的の駅に着いてはいないようだ。
それからしばらく時間が経ち、僕の中にある酔いもほんの少し和らいだ。目的地である藤岡駅まであと一駅。降りる準備をするために、僕は壁にもたれかかりながら立ち上がった。
「まもなく、藤岡駅。——藤岡」
僕は扉の前に立ち、減速に身を引っ張られるのに必死に耐えていた。
まるで不純物を吐き出すように扉が開き、僕は電車を降りた。この時間帯の駅のホームは閑散としている。田舎の駅にふさわしい寂れた外観と、それを灯す薄明かりが不気味さを漂わせていた。
大学に通うために毎日使っている駅のホームだが、朝早くの時間帯はまだマシだと思う。電車の中は人で満員になるし、帰宅ラッシュの夕方時も多くの人が駅のホームに溢れかえる。
それと比べると、今の時間帯のこのホームは、なにか別のような存在のように感じてしまうのだ。
こんなことを考えるなんて、本当に今日は酔っているな……。
普段は考えないような意味のないような事を頭の中で言葉にして並べる自分に対して自虐の笑みを浮かべていると、ふとホームの片隅に一つ人影があるのに気がついた。
ホームの隅に添えられているベンチ。そこに一人の少女が座っていた。
年の頃は自分より少し幼いくらいだろうか? おそらく高校生か、中学生だろう。どこのものかはわからないが赤色の生地に黒のラインの入ったダウンジャケットの下に制服を着ている。手には暖かそうな羽毛の生地でできた手袋をはめている。しかし、下はスカートなので、とても寒そうに見える。
そんな風に思っていると、少女の方も同じ事を考えていたのか、一度立ち上がり、ベンチの上に敷いていた布を取り出して膝に掛けた。どうやら膝掛けを敷いていたらしい。
こんな時間に何をしているんだろう? もうすぐ駅も閉まってしまうのに。誰かを待っているのか? と思ったが、最終電車はついさっき発車したばかりで、そこに乗っていたわずかな人の中でこの場に残っているのは、もう僕一人しかいなかった。
じゃあ、彼女が僕を待っていたかと言えば、答えはNoだ。僕は彼女を見たのは始めてだし、彼女だってそうだろう。
だったら、彼女は誰を待っているのだろう? 普段なら気にも留めないはずなのに、僕は酔っていたせいか、ついそんな事が気になった。そして、普段ならするはずのない、見ず知らずの女の子に自分から声をかけるなんてことをいつの間にかしていた。
「ねえ、何してるの?」
少女に声をかけると、彼女は一瞬驚いた。しかし、すぐに元の表情に戻り、律儀に僕の質問に答えてくれた。
「いえ、特にはなにも。あえて言うならボーッとしてました」
僕はそれを聞いて肩すかしをくらった。てっきり何かしらの理由があってこんな時間までホームに残っていると思ったからだ。しかし、同時に見知らぬ男性に急に話しかけられたから上手くあしらうためにこんな風に言っているのかなとも思った。
そう考え、もう帰ろうと思っている自分を余所に、彼女に話しかけた口は止まらずに言葉を紡いでいった。
「ふ~ん。でもこんな時間まで外を出歩いていると危ないよ。もうすぐ日を跨ぐし、ここも閉められちゃうから早く出ないと」
おせっかいな事に、つい少女に説教のようなことを言ってしまった。昔自分が言われてうんざりしたことを見ず知らずの他人に言っているんだと思うとなんだか可笑しかった。
そんな僕の説教に彼女は苦笑した。酔っぱらいの戯れ言だと思ったのだろうか? 僕はちょっとムッとした。僕の方が年上のはずなのに、こうして向かい合っていると、なぜか彼女の方が年上のように見える。僕の様子に気がついた彼女は、
「あ、すいません。べつに笑うつもりはなかったんですけれど……つい」
慌てて謝る少女はとてもかわいらしかった。こんなさびれた場所にはにつかわしくないほどに、彼女の笑顔は明るいものだった。
「いや、こっちこそ。怒ったつもりはなかったんだけど、なにぶんこんな状態だから……ね」
そう言って僕は自分を指差した。電車の中にいたときよりも、マシになったとはいえ、まだまだ足下はふらついている。
僕の冗談が通じたのか、彼女の口元はほんの少し上がっていた。
「あ、ちょっと待っていてくださいね」
何かに気がついたのか、彼女はその場を立ち上がり、膝掛けを再びベンチの上に置いて自動販売機の方へと駆けて行った。
立っている事に疲れた僕は彼女が今まで座っていたすぐ隣に腰掛けた。気を抜いたらもう寝てしまいそうな気分だった。
カクン、カクンと頭が上下する。何度かそんな事を繰り返してハッとすると、目の前にはさっきの少女が立っていた。
「大丈夫ですか? よかったら、これどうぞ」
彼女はそう言って、持っている缶コーヒーを僕に手渡した。
手渡された缶コーヒーは温かく、この寒い中では必需品だった。温かい缶の体温は外気にさらされて急速に熱を失っている。白い湯気が空に舞上がり、ほどなくして消えてゆく。
その光景を何故か儚いと感じながら、僕は缶のプルタブを開け、中に入っている黒い液体を身体の中へと放り込む。
苦さを舌が感じると共に、身体の芯に熱が伝わる。凍っていた身体の末端は溶かされて、固まっていた神経がほぐされていくのがよくわかった。
ホッと一息ついたところで、目の前の少女の腕には他に何もない事に気がついた。
「これ、ありがとう。ところで君の飲み物は?」
尋ねると、少女は困った顔をした。そして、しばらく悩むそぶりを見せた後、
「私のはいいんです。今こうしてそれをあげたのも、ただの気まぐれだとでも思ってください」
「でも、寒いんじゃない? まだ中身半分くらいあるからよかったら飲みなよ」
僕は少女から貰った缶コーヒーを少女に差し出した。少女はさきほどよりも更に困った様子で、キョロキョロと左右を見回し、
「そ、それじゃあ、いただきますね」
遠慮がちにおずおずと手を差し出し、僕の手にあった缶コーヒーを取った。一口、二口と小さく開けた口に黒い液体を流し込んでいく。どうにも、彼女にコーヒーは苦かったのか、しかめっ面をして明らかに不味そうな表情を浮かべている。
「……にがぁ」
案の定舌を突き出し、苦味を必死に外へ吐き出そうとしていた。
「コーヒー飲めないんだ」
年相応(といっても自分より下ということしか分からないが)の表情を覗かせる彼女を見て、僕は苦笑した。
「はい。なにせ飲み慣れてないもので」
それでよく飲もうと思ったものだ。いや、飲むように勧めたのは僕だったか。そうなると彼女には悪い事をしたな。
「そっか。じゃあ、飲めない物を無理に飲ませちゃったね。ごめんね」
「いえいえ、勝手に飲んだのはあたしなんですから、気にしないでください。それにこのまま飲まないでいるのもあれかな~なんて思ったんで」
「どういうこと?」
「あ、なんでもないです。たいしたことじゃないので」
彼女はそう言うが、僕はどうも気になった。おそらくだが、彼女みたいな子がこんな時間にこのような場所にいるのは、きっとそのたいしたことじゃない事が原因なのだろう。
「もし、よかったらでいいんだけど話くらいなら聞くよ。コーヒーを奢ってもらったことだしね」
軽めの調子でなるべく彼女が話しやすくなるように僕は言った。彼女はそんな僕の反応が意外だったのか、口を開けて一瞬惚けていたが、すぐにクスリと笑い、
「じゃあ、せっかくなので聞いてもらおっかな。酔っぱらいさんが相手なんで絡まれた時点で話さないといけなかったんですよね」
軽口を叩いた。
「あ、言ったな。そりゃ、現に僕は酔っているけどさ。話を聞いたことの記憶がなくなるほどは酔っていないと思うよ」
「そうですか。でも、この話を覚えていてほしいかどうかは正直私にはわからないですね」
「ふ~ん。まあ、それは話を全部聞いてから考えるよ。面倒くさそうな話だったら忘れるつもり」
「……勝手ですね~。でも、いいです。それくらいでいてくれたほうが私も楽ですから」
そして、白い吐息をハァ~と一度宙に吐き出し、彼女は語り始めた。
「お兄さんは人間関係について悩んだ事ありますか?」
「まあ、それなりには」
「私が悩んでいる事の一部がそれなんですよ」
なるほど、年頃の少年少女がよく頭を悩ませるような悩みの一つだ。
「私の周りの子っていい子ばかりなんですけど、実はそれって表面上のことで、実際はみんな裏でいろんな事を言い合っているんですよ」
「彼女がうざい、ムカついた、死んでほしい。ブログだったり、SNSだったり、相手が気づかなければ問題ないと思っている。そんな周りに気がついていても何もできずに変わらない関係を続けて行くのが私は嫌です」
よくある話だ。人間関係を築く中で、相手に全くの不満がないなんてことは、まずありえない。かといって仲のいい相手ほど溜まった不満をさらけだしづらい。そうして本人の与り知らぬところで陰口を叩いたりするしかない。そうして、何事もないように人間関係は続いて行く。
それが嫌いな相手ならなおさらで、相手がいないネット上での陰口を叩くなんて事は今の時代ざらである。
「私が考えているのはそれだけじゃありません。親もそう。こうなってほしいから、自分の理想の子供になってほしいから、習い事を習わせて、私を型にはめる」
彼女の言葉は止まらない。先ほど飲み干した黒い液体を、身体の中に溜まっていた黒いものを吐き出すほどの勢いで語って行く。
「それは君を想っての事じゃないかな?」
「そうですね、そういった面もあると思いますよ。でも、親だからこそ子供は自分の理想の子供になってほしいと思う面もある事は否定できないですよね」
そうかもしれない、でもそんな風に思ってほしくはない。
「でも、人生なんてそんなものだよ。時には我慢しなくちゃいけない事もあるし、楽しい事だってある。君が今考えているような悪い事ばかりじゃないよ」
「はい、それもわかっています。私が今言った事はあくまで前提に過ぎないです。これから話す事が本題です」
そう聞いて僕は先ほど温まった身体が急速に冷えていくのを感じた。冷や汗が一滴、頬に一筋の痕を残して垂れた。
「年を取るにつれて色々な人に出会い、関わり、時が過ぎて行きます。人に関われば関わるほど、自分がいなくなったときの影響はありますし、そのせいで生まれるしがらみも多くなります。
だったら……だったら私の命は誰のものなのかなって思ったんですよ。
よく、自殺をする人に対して、その命は一人のものじゃないから、大切にすべきだなんて言う人がいますよね。その人に関わった人は悲しむし、俗物的な言い方をすれば、それまでその人に費やしてきたお金の全てが無駄になるなんて事も言われています。
それなら、個としての私の命をどう使えばいいのか。他人にその使用権を握られて自分のしたい事もできないのかって思ったんです」
「……考え過ぎだよ。そう思っているのは今だけさ」
「でも誰だって一度は考えると思いますよ。そして、これを考えて大人になった人は当時の自分を恥ずかしいと思ってそのまま過ごすと思います。そして、実行した人はその人にしかわからない答えを得たと思います」
そこまで断言されて僕は何も言えなくなった。さっきまで自分を悩ませていた酔いはとっくに醒めている。今は酔いなんかよりも頭を悩ませることができたからだ。
彼女の話を聞いて僕がわかる事。それは、今話した考えで僕が前者、彼女が後者だということだ。彼女に何があったのかはわからないが、今まさに後者の道を歩もうとしている。
「本当は今日この場でいなくなろうと思ったんですよ。でも、いざとなると踏ん切りがつかないもので、ずっとこのホームに座っていました」
それで、こんな時間までこのホームにいたのか。僕は今更ながら納得をした。そして、彼女がまだ迷っているといるんじゃないかと考えた。
「いざとなるとそんなものだよ。誰だって君みたいな事を考えた事はあるだろうけど、実際にはできないものさ」
「そうですね。私もさっきまでそう思っていました」
彼女の言いように僕は違和感を覚える。なぜ、過去形なのだろう? それに気づくのが怖くて、気づかないフリをして話を進めた。
「なら、今日はもう家に帰った方がいいよ。それで、温かい物を飲んでもう寝た方がいい。きっと君の両親も心配しているよ」
僕がそう提案すると彼女は首を縦に振った。
「じゃあ、帰りましょうか。そろそろここも閉まると思うんで」
そう言って彼女は立ち上がった。膝掛けをベンチに置いたまま。
「膝掛け置きっぱなしだよ?」
「ええ、それはもういいんです。必要ないので」
僕たちは二人並んで駅のホームを出た。
音という音のない真夜中。手を伸ばせば届く距離にいるはずの少女がどこか遠い場所にいるように錯覚する。
「あ……」
別れの言葉を交わすべきか悩んでいると、ふと彼女が呟いた。
「雪……綺麗」
言われて空を見ると爪先ほどの大きさの雪がはらはらと空に舞っていた。落ちて来るそれにそっと手を差し伸べると一瞬の冷たさとともに蒸発し、雪は姿を消した。
「また、会えるかな?」
どうしてそんな言葉が出たのか自分でも不思議だが、いつの間にか僕はそんな言葉を口にしていた。同情、心配、罪悪感、単純な興味。そのどれもが言葉が出た理由としては適当だと思う。そんな僕に対して彼女は、
「さくらです、私の名前。覚えていてください、きっともう会う事はありませんけど」
僕にコーヒーとほんの少しの会話と名前だけを残して雪の降り注ぐ道へと進んで行った。
僕はそれに、彼女の背をそっと見送る事しかできなかった。
それからしばらく時間が経った。冬が終わりに近づき、最近では春の息吹が近づいている。
あれから、彼女と会う事は二度となく、かといって自分から彼女を探し出す気も起きなかった。
たった一時会話をしただけの少女のことなど何故探す必要があるのだろうか? しかし、そんな風に考える自分の気持ちとは裏腹に、彼女との記憶は時間が経っても少しも消えてくれはせず、むしろ日に日にその記憶の色合いを増していった。
駅のホームに降りる度、彼女の姿がないか確認するのが癖になっていた。
終電のホームに行けばまた会えるだろうか? そう考えながらも、終電のホームに僕が訪れる事はなかった。
そんなある日、テレビのニュースで一人の少女が自宅で亡くなっていたことが報道された。それは事件性もなく、自殺と断定され、本当に一瞬だけ紹介された。
少女の名前は神谷さくら。高校二年生の少女だった。
彼女が何を想い、どうしてその道を選んだのかは僕にはわからない。
だけど、僕はきっとこの出来事を生涯忘れることないだろう。
あの日、身体に染み込んだ温かさや、静かに一人ベンチの上に座っていた彼女の事を。