一日目(4)
助けを求めなくていいように。
◇◇◇
意味を持たない悲鳴の連続に、喉が痛みを覚えるものの、まるでブレーキの壊れた車のように歯止めがきかなかった。自分で自分が制御できなかった。
ほんの数秒前まで自分に跨り、恐怖を生み出していた相手の“頭”が落ちる瞬間を間近で見たのだ。
脳裏に焼付いた映像は鮮明すぎて、そしてそれが現実なんだと私に知らしめる、生温い温度の“黒い液体”が顔や髪を汚している。
生臭いソレがなんなのか。分からない程、稚拙じゃない。
気が振れそうだった。
【なぁ】
このまま、意識を無くしたかった。
【なぁってば】
信じたくなかった。
【……いいかげん、】
顔を覆っていた両手が有無を言わさない力で引っ張られる。
【うるさいよ】
悲鳴を掻き消す静かな怒声。
【だまれ】
心臓にズン。と響く、威圧感と、圧倒的な存在感。
本能が告げる危機感に自分でも驚く程に、ぴたりと止まる悲鳴。
そして、顔を覆っていた腕がどけられた事で見えたもの。
それは生々しいぬめりを帯びた、白く光る細い刃。
先端が地面に埋まり、少しでも傾けば自分の鼻先を確実に掠めるだろう位置にある刃に映る顔は紛れもなく自分自身で。
情けないくらいに寄せられた眉。引きつった頬。そして顔全体を汚す、砂と黒いソレと、痣。
【うん。分かってくれればそれでいいよ】
打って変わって優しい…と言うより、楽しげな雰囲気を纏わせた声が降ってくるのと同時に、目の前の刃が渇いた音を立てながら地面から引き抜かれ、離れていく。
【ごめんね。俺の部下がしつれーなことしちゃって。許してくれる?】
掴まれたままの腕がゆっくりと引かれ、吊られて上半身が起き上がる。次いで、支えてもらう形でようやく立ち上がることができた。
状況を整理すれば、今、自分の腕を掴んでいる人は私を助けて…くれた。と、思ってもいいんだろうか?
「…………ぁ、りがとう………」
【?】
地面に視線を落としたまま、消えるような声で呟いた感謝の言葉。
だが、相手の反応が返ってこない。
【あぁ、お前、この国のヤツじゃないんだ?変な格好してるし…旅行者?】
しばらくの沈黙の後に放たれた声にはっと気づく。
そうだ。
私が相手の言葉を理解できないのなら、相手もこちらの言葉を理解できなくて当然だ。
【ま、なんでもいいや。ってかさ、俯いたままじゃ気分悪いんだけど?話す時は相手の目を見て。っておかーさんやおとーさんに教えて貰わなかった?ほら、顔上げて…】
こちらの腕を掴んでいない方の手…つまり、刃を握ったままの手が伸びてきて、私の顎を刃の柄部分でくい。と上へと向けた。
汚れている私の顔をまじまじと見つめてくるその人の顔が、驚きの色を浮かべている。
私も私で、目の前の人が綺麗な顔立ちをしている為に、思わず視線が泳いでしまった。…が、フラッシュバックする記憶に全身が凍った。
(…っ!レンズ…!!)
ここに運ばれてくる以前に、目に入った砂と一緒にコンタクトレンズを外している事を思い出したのだ。
裸眼状態の瞳を、見られている。
「見るなっ!!!!」
叫んでいた。
恩人もくそもなかった。
見られた。
見られた。
決して見られてはいけない、禁忌のモノを見られた。
誰もが忌み嫌う、憎悪を起こす……不幸の元凶を。
【…はは…サイコー。お前……そっか、そーか、お前“サリルス”なんだなっ!?】
聞こえてきた言葉は、理解できないものだけど、分かってるつもりだ。
“化け物”
“気持ち悪い”
心を抉る、凶器。
誰もが簡単に振り回せる、他人を瞬間で殺せる、何よりも残酷な武器。
掴まれていた腕を振りほどき、目の前の人物の視線から隠すように両目を手で覆う。
【おい!も一回見せろ!】
「っ!やめ…」
抵抗も空しく再度捉えられた腕が無理強引に顔から引き離される。これが最後の砦だ。絶対に、何をされても瞼だけは開くものかと、全身の力をそこに集めた。
【目を開けろ!開けろってば!】
何かを叫ぶ男が、力にモノを言わせるように私を壁際に追い詰め、片手で簡単にこちらの自由を奪ってしまった。
「離せ…!痛い!」
固くざらつく壁に押し付けられた背中と、締め上げられる手首が痛い。
「ぐ、ぅ…っ」
【いいから!早く開けろって!】
どうにかして私の目を開けさせようとしている。
どうせ好奇心だ。
好奇の目で私を侮辱するんだろ?
こんなの見た事ないって、信じられないって、笑うんだろ?
【っち】
苛立ちを隠せない舌打ちの直後、喉に感じた体温。
【なぁ、このまま締め上げて折ることくらい簡単だよ?ね?死ぬの嫌だよね?俺も“サリルス”は殺したくないし】
徐々に奪われていく酸素。
次第に食い込んでくる指の形まで、はっきりと分かった。
鼓膜の奥で響く耳鳴りと、目の裏に感じる奇妙な熱。
【ね、早く開けてくれないと喉潰しちゃうよ?声、無くしちゃうよ?いいの?】
目の前の人物の声が遠退いていく。
少し、休んでもいいだろうか。
パンク寸前の頭が何もかもを投げ出し、機能を停止させる信号をようやく送ってくれた。
疲れた。
しんどいよ。
自分の身に何が起こっているのか。ここはどこなのか。この人は誰なのか。何一つ理解できていない状況下で、よくここまで踏ん張った己へのご褒美だ。
完全にブラックアウトした視界と脳内に安堵しつつ、意識を手放した。