失った者(杯の5)
タロットカードから生まれた物語です。是非ご覧ください。
ある貧しい村の若者が、鍬を片手に悟った。
「男として生まれたからには、何かを成さなければならないはずだ」
栄養の乏しい土を耕している最中で、若者は赤褐色の土に滴り落ちた己の5粒の汗を見て、突然決心したのである。
「このままの程度の土を耕し続けていたのでは高が知れている、さらなる上を目指していかなければ」
赤褐色を黒く染めた汗粒をじっと見つめ、炎天下の中で考えに考え抜いた末に、若者は答えを出した。
「……5つ見つけよう。男としての、人としての魅力を」
若者は己の心の奥深くで決心した。
「男たるもの、まずは体力が無ければならないだろう。鍛える意味で、様々な仕事に精を出さなければ」
若者はその日から鍬を奮い、かつては3日かかった作業を1日で終わらせ、父の知り合いの伝手で日干し煉瓦の工房の手伝いをしたりと、とにかく己の体を鍛え始めた。
若者は真面目なもので、一日も休むことなく甘えることなく、ひたすらに仕事に精を出した。
何年か続けていくうちに中肉中背であった若者の体はがっしりとしたものとなり、村の力仕事とあれば彼という噂を生みだすほどの働き者となっていた。
若者はまず、体力を手に入れた。
ある日、働き者の若者の話を聞いた老人が、彼の農場を訪ねてきた。
「それだけの頑張りができるのだ、深く学問に触れてみてはどうだ?」
「…学問ですか、あなたは?」
「私は隣の町で教師をやっている者だよ、どうだね、熱心な若者を集めているのだが」
老人はある程度名のある教師であった。
「学問は見識を広める、君の人生の無駄になることはないと思うが」
「……今まで貧しい生活続きで、勉学というものには全く関わってきませんでしたが…そんな私にもできるのでしょうか」
「できるとも、学問は熱意ある者を拒まない」
その日から若者は、老人が開く小さな教室に足しげく通うようになった。
最初は慣れない文字の扱いや数字の処理などに戸惑ったが、若者の自身の向上心についての熱意は凄まじく、どのような難問に引っかかっても諦めることなく、学力や知識はみるみる吸収していった。
最初は歳が4つほど低い子供にも劣っていた理学でさえ、若者はほんの数カ月でその差を挽回していく勢いを見せた。
「なるほど確かに勉強という者は苦労だ、しかし果てない荒野のような土を耕すほどのものではない」
若者は数年の間仕事と勉学両方に励み、その知力は師である老人の手に負えないところにまで上り詰めていた。
若者は知力を手に入れた。
「おじさん、焼き煉瓦の窯を変えてみてはいかがですか?」
「窯?何故またそんな事をせにゃならんのだ」
若者はある日、働いていた煉瓦工房の社長にかねてより考えていた提案を差し出した。
「ここは日干しレンガを主に作っていますが、焼き煉瓦も作っています。しかし焼き煉瓦を作るための窯が、あまりにも小さすぎると思うのです」
「窯をもっと大きくしたいと言うのか」
「はい」
「できるなら最初からやっている、窯を大きくすると火の扱いが難しいのだ、温度のムラやらなにから、とにかく技術的にできんのだよ」
「では、私が窯を改良してみます」
「はは、窯を大きく作ると言うのか?できるものか」
工房長は嘲ったが、若者はその日から時間の合間合間に、本を片手に窯作りを始めた。
工房の片隅に石を運び、水を運び、工具を運び、仕事の無い日は専らそれらに向かって試行錯誤を繰り返す日々が続いた。
煉瓦工房で働く者達は最初こそ「変わり者だ」とその様子を笑っていたが、窯の大まかな形が姿を現していくにつれて、彼らの興味は期待へと高まっていった。
大きな窯なんて都会でもないのに作れるはずが無い。
しかしこの調子だと、もしかしたら作られてしまうのかもしれない。
「さて、石……石……ここに良い形を……うーむ、見つからないな…」
「これくらいの大きさか?」
「! おお、ありがとう!助かるよ」
「気にするな、是非俺にも手伝わせてくれ」
「本当か?心強いよ」
笑顔で若者に手を差し伸べたのは、同じ工房で働く同い年の男だった。
彼は工房長の息子で、今まではあまり会話を交わしたことも無い仲だったが、作業を続けていくうちに二人の仲は深まっていった。
全く新しい機構によって作られる窯の設計図を若者が書き、男がそれを見ながら石を組む。
二人の努力が功を奏したか、窯はついに完成した。
「どうだ親父、二人で作った窯だ、すごいだろう」
「…こりゃあたまげた、まさか本当に作ってしまうとは」
「へへ、窯の設計は全てこいつが考えたんだ、すげえよ親父、こいつは本当にさ」
男は若者の肩を強く叩き、若者は照れを隠すように鼻を擦った。
新しい窯の性能は素晴らしく、日に仕上げられる焼き煉瓦の量は数十倍に増えた。
また量産される煉瓦も極々良質であり、焼き煉瓦工房の評判は三つ隣の町にまで轟くほどのものへと高まっていった。
工房は規模を拡大させてその生産力を増し、また新たに若者らが開発した窯が更に良質なレンガを倍ほども量産させてしまうのだから、会社は貧しい村を潤し、ちょっとした町にするほどの大きなものへと成長してしまった。
もちろん、若者の給金もあっという間に増し、社長と並ぶほどにまで出世した。
「まさか理学がこんなところで役に立つとは」
若者の学んだ知識が実らせた、誇らしい成果であった。
自らが開発した窯の設計図は記念としても財産としても、工房の金庫の中に大事に仕舞われた。
「いやぁ、お前のおかげで注文がひっきりなしになったな!忙しすぎて疲れちまうぜ!」
「いやいやー申し訳ない!」
また、若者と男はそんな冗談で笑い合う仲にもなっていた。
若者は財力と、良き友を得たのである。
ほどなくして、いつものように煉瓦工房で忙しく若者は裏に呼び出された。
「よう、どうしたんだ」
「いやあ、お前にはちょっと世話になりすぎているからな」
呼び出したのは友、男だった。
男は最近病気によって父を亡くし、代わりに社長になったばかりであった。
「近頃は注文が引っ切り無しに来る、忙しいだろう」
「おう、良い事だな」
「だが良い人生ってのには、余暇が必要とは思わないか?」
「余暇?」
「そう、仕事と余暇の両立だ。良い仕事をしつつ、他の事にも精を出す、お前にもまだやりたい事はあるんじゃないか?」
「……」
考えてみれば男の言う通りで、確かに今までは仕事に勉学にと休みというものがなかったように思える。
「これからは旅でもなんでもして、自分の時間を有意義に過ごすと良い。金ならあるんだ、時間はやるよ」
「…本当か?良いのかよ、そんなことしても」
「良いんだよ、ここの社長は俺だぜ?」
「はは、そうか、確かにそうだ」
若者は男から膨大な休暇を貰った。
若者にはまだまだやりたいことがあるし、学びたいものがある。
煉瓦工房で働き続けるのも良いが、その金を使って有意義に過ごすのも有りだろう。
「じゃあ、しばらく…一か月ほど、隣国の工房にでも回ってみるつもりだ」
「一カ月か、長いな、気をつけろよ」
ちょっとした荷物をまとめた若者は男にしばしの別れを告げた。
「休みをくれてありがとうな、戻ったらまたちゃんと仕事に戻るよ」
「おう、頼むぜ」
「ああ、それじゃあ、しばらく」
若者はそう言って手を振り、杖を突きながら出発した。
これから若者が目指す場所はともかく、どこか遠くの面白おかしな場所である。
「…しばらくのお別れだ、頑張れよ」
遠景に煙を吐き続ける煉瓦工房にも手を振ると、若者は「なにやってるんだか」と微笑んだ。
初めての旅行というものに若者は浮かれ、早足で街道を歩いて消えていった。
「……やれやれ、やっと町から消えてくれたか」
見えなくなった後ろ姿を見て微笑んだのは男もである。
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一か月の間の旅は心踊り続ける新鮮なものの連続で、帰路を往く若者の足は疲れ知らずのように軽快だった。
初めて見る町並み、文化、自然、若者は全てを楽しみに楽しみ抜き、一か月の時を経て、町へと帰って来たのである。
「旅とはすばらしいものだ、こんな素晴らしい事を定期的にできるなんて、まったく素晴らしい人生だ」
男の精神は今までになく充実していた。
精神的にも肉体的にも満ち足りていた。赤茶けたつまらない色の地面も、鈍い色の青空も、この世の全てが色づき鮮やかに見えていた。
「……鍛えた体力、学んだ知力、働いて得た財力、出会えた良き友、そして余暇…そうだ、これだ」
若者は悟った。
己の人生を彩る5つの要因を、この手に掴んだと。
「…なんてすばらしい人生!」
若者は自身の人生の完成を悟ったのだ。
足が踊り、家路へと急がせる。
とにかく、彼はいてもたってもいられなかったのだ。
振り返り自分の人生がこんなにも素晴らしく、華やかで、楽しいものであることに。
そして若者は思う。はやく町に戻り、更に自分を磨こう、と。
更に自身を高め、人生を高めよう、と。
だが若者を待っていたのは、あまりにも衝撃的な光景だった。
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「煉瓦工房が無い」
唖然。
若者はただただ立ち尽くした。
煉瓦工房があったはずの川辺には崩れた外壁の破片だけが寂しく散るのみで、煙を吐き稼働していたその姿は跡形も無く残っていなかった。
「……なんで…」
荷物が手から滑り落ち、地へと崩れる。
思考がまとまらない。工房に何があったのだろう。
男はどこへいったのだろう。
「……ああ、あんた、帰ってたのかい」
「! あなたは」
「ついこの間まで工房で働いていたもんですよ…あんたが居なくなってから、社長のやつめ、まるで人が変わったようだった…」
「あいつが変わった…?一体何があったんだ!」
ふらりと現れた中年の男の肩を勢い良く掴み、若者は叫ぶように訊ねる。
「…特許だよ、新しい窯の特許を奴は取ったんだ」
「……特許だと」
「ああ、会社の窯を全て潰して、何もかも畳んでさ、…金庫の中にあった全ての者をかっさらってよ、どこか都会にでも雲隠れしちまったのさ」
「……そんな、まさか」
「男は…最初からこうするつもりだったんだ、あんたの設計した窯も自分で独占して、都会でのうのうと暮らそうって魂胆だったんだよ」
「…そんな、あいつは俺の友達だったのに」
「友の縁なんて儚いもんさ、金が人を変えちまう事だってある……まあ、奴は最初から金にしか目が無かったのかもしれんがね、俺はそう思うよ」
若者は愕然とした。
今まで親友だと信じてきた男が自分を裏切ったなど、信じられなかったのだ。
だが現実は目の前に広がる荒野と、貧しそうな服の中年の男が言わずとも諭すように物語っている。
若者は騙されたのだ。
「……失ってしまった、何もかも」
項垂れる。
絶望は眩暈となって襲いかかる。
友と、財産と、贅沢な余暇を嗜む時間も、一気に3つがなくなってしまった。
大切な、大切なものがなくなってしまった。
完成された人生、その最後の最後で。
「もうこの町には何もなくなってしまったよ…集まっていた人も散り散り、かつてあった貧しい村に元通りさ」
「……」
「あんたはこれからどうするね、工房はもう無いぞ」
「……確かに工房は無くなってしまった…大切だったはずの友達も…人生の楽しみも」
若者はきっ、と、前を睨んだ。
遥か遠く、どこかの町へ繋がるであろう街道の遥か先を。
双眸から一滴ずつ零れた涙が茶褐色の地面を黒く染める。
「…やり直すさ、3つ大事なものを失っても、2つ大切なものが残っているのだから」
体力と知力。
若者に残された2つの力が、彼のこれからの人生をどう彩り直してゆくのかは、まだ誰にもわからない。
杯の5、どうでしたか。
若者は人生において大切な5つの要因を求め、努力の末にそれらを手にいれます。
しかし彼は最後の最後で大半を失い、残されたものは2つだけとなってしまったのです。
皆さんにも順調だった物事が最後に躓き、絶望してしまったことはないでしょうか。
希望の数ほど絶望の数もあるもので、それらは人生と心に深い傷を残します。
ですが残された希望を糧に立ち直ることができれば、また再びいくつかの希望を手にすることは可能だと、私は思います。
どうか皆さんが絶望に直面した時も、決して全てを諦めないでください。
多くを失ったと思っても、生きている限りはだいたい、希望が残っているものですから。