「まずい」と騒ぐだけの毒見役は不要だと追い出されましたが、隣国王子の食卓を守ったら手放してもらえなくなりました
フィーアが王宮の厨房に配属されたのは、十二の年だった。
孤児院育ちの彼女には、選べる仕事などほとんどなかった。読み書きは片言、礼儀作法も知らない。面接の場で「何ができる」と聞かれて、「ご飯を食べられます」と答えたら、担当官は呆れた顔をして、書類の一番下に名前を書き加えた。
配属先は、「王室食膳検査官」。
聞こえはいいが、要するに貴族たちの食事に毒が入っていないかを確かめるための捨て駒だ。毒があれば、死ぬのはフィーア。なければ、何事もなく一日が終わる。
それでもフィーアは文句を言わなかった。
温かい食事が出る。眠る場所がある。雨風をしのげる屋根がある。孤児院で膝を抱えていた頃と比べれば、贅沢すぎるくらいだ。
ただ、ひとつだけ、困ったことがあった。
何を食べても、まずい。
フィーアの舌は、生まれつきおかしかった。
王宮一の料理長が三日かけて仕込んだスープを一口含んで、「にがい」と顔をしかめる。宝石のように美しい前菜のテリーヌを口にして、「へんな味がします」と首を傾げる。
当然、料理長は烈火のごとく激怒した。
「三十年この道でやってきた私の料理に、小娘がケチをつける気か!」
フィーアは怒鳴られるたびに小さくなった。自分の舌がおかしいのだと思っていた。みんなが美味しいと言っているのだから、まずいと感じる自分の方がおかしいのだと。
けれど、まずいものはまずい。
だからフィーアは、こっそり味を直した。少しだけ塩を足す。ハーブをひとつまみ加える。酢を数滴。蜂蜜をほんの少し。自分が「まずくない」と思える味になるまで、そっと調整した。
すると不思議なことが起きた。
フィーアが手を加えた料理は、なぜかこぞって大好評だった。
「今日のスープは格別だな」「隠し味が絶妙ですわ」「最近、料理の質が上がっていますな」
料理長は複雑な顔をしていたが、結果が出ているのだから文句は言えない。やがて厨房では「最後の仕上げはフィーアにやらせろ」が暗黙のルールになった。
七年間、フィーアはそうやって王宮の食事に手を加え続けた。
自分の舌がおかしいだけだと思いながら。
◇ ◇ ◇
転機は、新しく就任した宰相の一言だった。
クレイグ・ヴォルツ。名門貴族の出で、血統と格式に異常なほどこだわる男だった。就任初日から王宮の「浄化」を掲げ、平民出身の使用人を片端から入れ替え始めた。
そのクレイグの目に留まったのが、厨房の毒見役だった。
「――あの『穢れた血』はまだいるのか」
晩餐の席で、クレイグは侍従長のバルドに言った。
「孤児院から拾ってきた薄汚い小娘風情が……なぜ王族の食にあんな出自の者が触れている?」
「は。ですが、フィーアは七年間真面目に――」
「問題は真面目かどうかではない」
クレイグは葡萄酒のグラスを揺らしながら、露骨に顔をしかめた。
「血だよ、バルド。あの小娘がどこの馬の骨とも知れぬ孤児であることは、宮中の誰もが知っている。王族が口にする食事に、そのような穢れた手で触れさせていること自体が――この王宮の品位を貶めているのだ」
「しかし、毒見の担当を急に――」
「毒見? そんなものは形式だ。それより、あの小娘が毎回まずいと騒いで料理を弄っているそうじゃないか。王侯貴族の食卓を平民以下の汚らしい手で掻き回すなど、我慢ならん」
クレイグは手をさっさと振った。ちょうどテーブルの上の塵を払うように。
「今日中に追い出せ。せめて男爵家の末席でも連れてこい。血が違えば、厨房の空気も変わる」
その日の夕方、フィーアは侍従長に呼び出された。
バルドの顔には、申し訳なさが滲んでいた。
「すまない、フィーア。宰相の決定だ」
フィーアは少しだけ目を伏せた。
驚きは、なかった。
自分が不要だと言われることには、慣れていた。孤児院でも、いつもそうだった。必要とされるのは一時的で、いらなくなれば手放される。そういうものだと、十二の年にはもう知っていた。
「七年間、お世話になりました」
フィーアは頭を下げた。
荷物はほとんどなかった。着替えが二枚と、厨房で使っていた小さな革の香辛料入れ。七年間で増えたものは、それだけだった。
宮門を出るとき、振り返りたい気持ちを押し殺した。
泣いちゃだめだ。泣いたって、何も変わらないのだから。
◇ ◇ ◇
王都から歩いて五日。
国境に近い小さな村エルムに、フィーアはたどり着いた。
もう、路銀もほとんど残っていない。最後の銅貨で買ったパンをかじりながら、村の掲示板を眺めていると、一枚の貼り紙が目に入った。
《従業員募集。料理ができる方。宿・食事つき》
宿屋「水辺の鍋亭」
飛び込んだ先にいたのは、熊のような体格の女将だった。
「あんた、料理できるのかい?」
「……少しだけなら」
「ふん、そうかい。なら合格だ。うちは先月、調理場の子が嫁に行っちまってね。猫の手でも借りたいんだ。寝床と飯は出す。給金はまあ、おいおいってことで。よろしく頼むよ!」
「お願いします」
水辺の鍋亭の厨房は、王宮とは比べものにならないほど狭くて古かった。
でも、不思議なことがあった。
ここの食材は、まずくないのだ。
村で採れた野菜を切って、塩を振って焼いただけで、ちゃんと美味しい。市場で買った鶏肉を煮込んだら、素直にいい匂いがする。
七年間、王宮で何を食べてもまずかったのは、やっぱり自分の舌がおかしかったからだ。きっと王宮の料理は洗練されすぎていて、孤児院育ちの自分には合わなかったのだろう。
フィーアはそう納得することにした。
◇ ◇ ◇
その男が宿屋に現れたのは、フィーアがエルムの暮らしに慣れ始めた頃だった。
旅装は仕立てのいい布地だが、砂埃にまみれてくたびれている。フードを目深に被って、カウンターの端にひっそりと座った。
「何か、温かいものを」
声は低く、かすれていた。
フィーアは厨房に入り、ありあわせの材料でスープを仕立てた。根菜と豆とベーコンの素朴なスープ。味見して、うん、と頷く。まずくない。
スープを運ぶと、男はフードの下から「ありがとう」と言った。
その声が妙に丁寧で、フィーアは少し驚いた。
男がスプーンを口に運んだ瞬間、動きが止まった。
しばらくそのまま固まっていた。それからゆっくりと二口目を運び、三口目を運び、気がつけば皿が空になっていた。
「……美味いな」
ぽつりと、独り言のように。
その声には、驚きが混じっていた。美味いものを食べた感想というより、久しぶりに味を感じた人間の ような……そんな声だった。
「……おかわり、まだありますけど」
男は少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「ああ、もらえるか」
二杯目のスープを出したら、男は「美味い」をもう一度言った。
王宮では、味を直す係だった。誰かの料理に手を加えるだけ。自分で一から作って、「美味い」と言ってもらえたのは、これが初めてだった。
フィーアはカウンターの裏で、こっそり自分の頬を触った。
少しだけ熱をもっていた。
◇ ◇ ◇
男は翌日も来た。その翌日も。
名はアレクというらしい。旅の商人で、このあたりの特産品を調べているのだと言っていた。
フィーアは疑わなかった。誰かが「こうだ」と言えば「そうなんだ」と思う。昔からそうだった。生まれつき、自分の意見など示せる環境にいられなかったからだ。
アレクは毎日、夕方になると宿屋に来て、フィーアの作った料理を食べた。
会話はほとんどない。
でも、最近少しずつ増えてきている。
そして、フィーアは気づいていた。
この人は、どこか身体の具合が悪い。
最初に来た日の、目の下の深い隈。食が細いのに無理して食べているような食べ方。水を飲むとき、ときどき顔をしかめる。
そしていつも、腰に革の袋を下げていた。中には美しい装飾の銀杯が入っていて、食後には必ずワインを注いで飲んでいる。見事に洗練された浮き彫りが施されている、明らかに高価な品だった。
「素敵な杯ですね」
「ああ。……もらい物だ。気に入っている」
大事そうに杯を掲げ、ワインを含むアレク。その横顔を見ながら、フィーアはなんとなく目を逸らせなかった。
ある夕方、アレクが小さな包みを差し出した。
「市場で見かけた。使えるかは知らない」
開けると、乾燥ハーブの束だった。タイム、セージ、カモミール等。どれも状態がいい。
「わあ。これ、すごくいい品質ですね」
「大したものではない」
ぶっきらぼうに言って、目を逸らす。ほのかに耳が赤くなっている。
フィーアが庭先で洗い物をしていたら、アレクが黙って桶を持ち上げてくれた。
「あ、ありがとうございます。でも重いですから――」
「重くない」
重くないわけがない。でもアレクの表情は涼しいままだった。
フィーアが指を切ったとき。ほんの小さな切り傷だったのに、アレクが明らかに動揺して、「薬は」「包帯は」と立て続けに聞いてきた。
「大丈夫ですよ、ちょっと切っただけです」
「…………そうか」
椅子に座り直したアレクの手が、テーブルの下でぎゅっと握られていた。
この人は、不器用なんだ。
言葉にするのが下手で、態度に出すのも下手で、でも行動だけが本音を裏切れなくて、結果的に全部にじみ出てしまう人。
ある日の夕食後、アレクが去った後のテーブルに、小さな花が置いてあった。
名前も知らない、白い野花。茎の切り口が少し雑で、おそらく道端で摘んだのだろう。
フィーアはそれをそっと水に挿して、厨房の窓辺に置いた。
その夜、布団に入ってから、なぜか涙が出た。
嬉しいのに泣くなんて変だなと思ったけれど、涙は止まらなず溢れるばかりだった。
◇ ◇ ◇
アレクが通い始めてしばらく経った頃のことだ。
夕食を終えたアレクが、例の銀杯にワインを注いで飲んでいた。フィーアは隣のカウンターを拭きながら、ふと思った。
――あの杯のワイン、そんなに美味しいのかな。
「アレクさん」
「どうした」
「いつもそれ飲んでますよね。……一口、もらってもいいですか?」
アレクの手が止まった。
フィーアを見て、杯を見て、もう一度フィーアを見た。
「……ああ」
差し出す手が、ほんの少し震えていた。
フィーアは杯を受け取った。アレクの手の温もりが残る銀の縁に唇をつけて、一口含んだ。
――まずい……!!
口の中に広がったのは、鋭い苦味だった。舌の奥に金属が張り付くような、あの感覚。王宮で何度も味わった、あの「へんな味」にひどく酷似している。
フィーアは反射的に顔をしかめた。
「……にがい」
「苦い?」
「なんか、へんな味がします。……ちょっと待ってください」
フィーアはカウンターの裏に回り、自分の香辛料入れを開けた。王宮から持ち出した、あの小さな革袋。
蜂蜜を少し。乾燥ハーブをひとつまみ。杯の中のワインをかき混ぜて、もう一口含む。
「……うん。これなら飲めます」
アレクに杯を返した。
アレクが一口飲んで、目を見開いた。
「美味い。いつもの倍は美味い……なにをした?」
「えへへ。ちょっと味を直しただけです」
フィーアは笑った。
アレクは杯を見つめたまま、しばらく黙っていた。何か考え込んでいるようだった。
その夜からアレクは、時々ワインを注文する前に「味を見てくれないか」と言うようになった。
フィーアが味を直した後のワインを飲むと、翌日のアレクは少しだけ顔色がいい。
目の下の隈が薄くなり、食べる量が増え、声に張りが出てきた。
フィーアは嬉しかった。
この人が元気になっていく。自分の作った料理と、ちょっとした味直しで。
理由はわからなかったけれど、それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
それは、何の前触れもない昼下がりだった。
宿屋の前に、見慣れない馬車が停まっていた。
王都の紋章をつけた馬車だった。
中から出てきたのは、四人の兵士と、一人の文官。文官はフィーアの顔を確認すると、巻物を広げた。
「フィーア。元・王室食膳検査官。宰相クレイグ・ヴォルツの命により、即刻王都へ帰還せよ」
フィーアは固まった。
「……なぜ、ですか。私は解雇されたはずです」
「状況が変わった」
文官は無感情に言った。
「お前が王宮を去った後、食事に毒が検出される事件が相次いでいる。侍従長バルド、ロスマン将軍が倒れた。宰相自身の茶にも毒が見つかった」
「毒……?」
「調査の結果、お前がいた七年間、王宮の食事には常に微量の毒が含まれていたことが判明した。通常の味覚では検知不可能な量だった」
フィーアの頭が真っ白になる。
「お前の舌だけが、それを感知できていたらしい。陛下がお呼びになられた専門家によると、お前が毎回『まずい』と言って加えていた調味料やハーブが、結果的に毒を中和していた。七年間、毒殺事件がゼロだったのは、お前のおかげ……ということになる」
「……え?」
「お前は、自分が何をしていたか知らなかったのだろう。だが事実だ。お前がいなくなった途端、王宮は毒に対して無防備になった。そういうわけで、至急戻ってもらう」
フィーアは震えていた。
まずいと感じていたのは、自分の舌がおかしかったからじゃなく――本当に、まずいものが入っていたから。
七年間、毎日、毒を消していた。
知らなかった。
誰にも気づかれなかった。自分でさえ。
「断ったら、どうなりますか」
「選択の余地はない。宰相命令だ」
兵士たちが一歩前に出た。
フィーアが後ずさる。
その時だった。
「――待て」
低い声が、宿屋の中から響いた。
アレクが外に出てきた。フードを被ったまま。兵士たちの前に立ち塞がった。
「この人は、ここの従業員だ。勝手に連れて行くことは許可できない」
「何者だ。部外者は引っ込んでいろ」
「部外者ではない」
アレクは一歩前に出た。
「おとなしくどけ。でなければ力ずくで排除する」
兵士が剣の柄に手をかけた。
アレクは動かなかった。
「いいから待て。それより……」
アレクの声が割って入った。兵士たちの肩越しに、文官を睨んでいた。
「今の話、もう一度言え。その娘の舌は、通常では検知できない毒を感知できた。それで合っているな」
「……そうだが。それがどうした」
アレクの顔色が変わった。
半年間の体調不良。味覚の消失。そしてフィーアのスープを食べた日から味が戻ったこと。フィーアが「にがい」と言ったワイン。味を直してもらった後の日々。
点が、線になっていく。
「――フィーア」
アレクが振り返った。
「頼みがある。このワインを飲んでみてくれ」
アレクは女将からワインと普通の木のコップを受け取り、注いでフィーアに差し出した。
フィーアは困惑しながらも、一口含んだ。
「……? 普通のワインですが」
アレクは頷いた。
「じゃあ、次はこれで」
腰の袋から銀杯を取り出した。同じワインを、銀杯に注ぐ。
フィーアがもう一口含む――瞬間、顔をしかめた。
「……にがい。前と同じ、へんな味がします」
「……やはりか」
「え? あ、あの、ちょっと待ってください」
フィーアは杯を覗き込んだ。さっきと同じワインなのに、杯に注いだら味が変わった。つまり――おかしいのはワインじゃなくて、杯のほうだ。
フィーアは指先を杯の内側に触れさせ、そっと舐めた。
「――っ、まずい!!!」
思わず大声が出た。
舌にべったりと張り付くような、重い金属の味。ワインに香るそれの比ではない。
「この杯、内側に何か貼ってあります。金属みたいな……これが溶け出して、ワインに混ざっています!」
アレクの顔が強張った。
文官が杯をひったくるように取り上げ、内側を覗き込んだ。
「……確かに、縁の裏に金属の層がある。これは鉛だな。ワインの酸で徐々に溶け出す。古典的な暗殺手法……」
全員が黙った。
フィーアはようやく理解した。
アレクの体調不良。味覚の消失。この杯を使い続けていたから。そしてフィーアが「まずい」と言って味を直した日から回復が早まったのは、フィーアが無意識に毒を中和していたから。
王宮と、同じだった。
フィーアの舌は、ここでも毒を見つけていた。
アレクは静かにフィーアを見た。怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。何かを決めた人間の目だった。
「さて」
アレクはフードを外した。
銀髪。国境の向こう、隣国グランヴェルの王族だけが持つ、月光のような髪が白く輝いた。
兵士たちの顔色が変わる。
「俺の名は、アレクシス=フォン=グランヴェル。グランヴェル王国の第一王子だ」
文官の手から巻物が落ちた。
「グ、グランヴェルの……」
「この娘――フィーアは俺の命を救ってくれた。俺はこの娘を、我が国の賓客として迎え入れる。――王宮の宰相に伝えろ。この娘に指一本でも触れたなら、グランヴェルはそれを敵対行為と見なす」
兵士たちが剣から手を離した。
文官は蒼白の顔で、がくがくと頭を下げた。
「し、失礼いたしました……至急、王宮に報告して参ります……」
馬車は逃げるように去っていった。
◇ ◇ ◇
嵐のような数分が過ぎて、宿屋の前に静けさが戻った。
フィーアは、立ち尽くしていた。
「……お、王子」
「ああ」
「アレクさん。王子だったんですか」
「ああ」
「商人って言ってましたよね」
「……隠していてすまなかった」
アレクシスは、まっすぐにフィーアを見ていた。
フィーアの頭の中で、いろんなことがぐるぐると回っていた。毒のこと。王宮のこと。杯のこと。でも一番大きかったのは、たぶん別のことだった。
「……あの、一つ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「名前も、身分も、嘘だった。……じゃあ、あの花も、嘘ですか」
アレクシスの目が見開かれた。
「テーブルに置いてあった白い花。あれも、何か目的があって――」
「違う」
即答だった。
「……じゃあ、なんで」
「…………」
アレクシスは目を逸らした。顎を引いて、何か言おうとして、やめて、もう一度口を開く。
大国の王子の耳は、真っ赤に染まっていた。
「お前が作ったスープは、半年ぶりに味がした。何を食べても砂を噛んでいるようだった俺に、もう一度『美味い』と思わせてくれた」
「……」
「それだけで来る理由には十分だった。だが通い続けたのは、味のせいだけじゃない」
「…………」
「空になった皿を見て、お前が笑うからだ。あの笑い方は、美味いと言われ慣れた人間の顔じゃなかった。初めて誰かに認めてもらえた人間の顔だった。俺は、その顔が見たくて――」
言葉が詰まった。
フィーアの視界が滲んだ。
泣かないと決めていた。王宮を出たあの日、泣いたって何も変わらないから泣かないと決めた。
でも今、目の前のこの人がいる。
毒のことも。杯のことも。自分の舌がおかしくなんかなかったことも。
そして何より、「美味い」と言ってくれた。
「フ、フィーア。俺の国に来てほしい」
「……っ」
「毒見役としてじゃない。俺の隣に、いてほしい」
フィーアは声が出なかった。代わりに、小さく、小さく頷いた。
アレクシスの手が、そっとフィーアの手を取った。大きくて、温かくて、でも指先だけがかすかに震えていた。
ただ、手を握る力が少しだけ強くなった。
これが不器用な人の、不器用な答えだった。
◇ ◇ ◇
報告がクレイグの元に届いたのは、数日後のことだった。
「隣国グランヴェルの第一王子アレクシスが……元毒見役の女を、賓客として迎え入れただと?」
「はい。王子は公の場で、彼女を『かけがえのない存在』と宣言したとのことです」
クレイグの手から報告書が滑り落ちた。
連れ戻すことはできない。手を出せば外交問題どころか、大国グランヴェルとの全面衝突になる。
そして、その報告は国王の耳にも届いた。
王は温厚な人物として知られていたが、その日の謁見の間は凍りついていた。
「クレイグよ。整理させてくれ」
玉座の上から、静かな声が降ってきた。
「七年間、この王宮の毒を防いでいた唯一の人間を、お前が追い出した。理由は『穢れた血』だそうだな」
「陛下、それは――」
「その結果、侍従長が倒れ、将軍が倒れ、お前自身も危うく命を落としかけた。そしてその娘は今、隣国の王子の庇護下にある。我が国にとって二度と手の届かない場所だ」
クレイグは何も言い返せなかった。
「血統が大事だと言ったな。格式が大事だと。では聞こう。お前の誇る名門の血は、この王宮の誰かの命を一度でも救ったことがあるのか?」
「…………」
「孤児院育ちの、名もなき娘がやってのけたことを、この王宮の貴族は誰一人できなかった。それでもまだ血の話をするか?」
クレイグの膝が折れた。
「宰相クレイグ・ヴォルツ。職務怠慢および国家に対する重大な損害の責任を問い、宰相の地位を剥奪する。領地は没収。王都からの退去を命じる」
クレイグは何か言おうとした。弁明を、釈明を、言い訳を。しかし口を開いても声が出なかった。喉の奥が痙攣するだけだった。
衛兵に両脇を抱えられて、クレイグは謁見の間を引きずり出された。
廊下を通るとき、すれ違う使用人たちが道を開けた。その中に、厨房の者がいた。クレイグと目が合った使用人は、すぐに視線を落とした。
――あの顔。あの伏し目。
フィーアが解雇を告げられた日と同じ顔だった。
宮門を出る。宰相の紋章がついた馬車はすでに回収されていた。自分の足で歩けということだ。
磨き上げた革靴が、石畳の泥を踏んだ。
背後で、宮門がゆっくりと閉じる音がした。
かつてフィーアが出た、同じ門だった。
ただし、フィーアと違ったのは――彼を待つ場所が、どこにもなかったことだ。
◇ ◇ ◇
グランヴェルでの暮らしは、穏やかだった。
アレクシスが用意してくれた、城下の外れの小さな離れ。窓辺には白い野花が活けてある。エルムの村に咲いていたのと同じ種類の花。
「この国にもあった。同じかは知らないが、似ていたから」
そう言った時のぶっきらぼうな横顔を、フィーアは時々思い出す。
いつものように夕食の支度をしようと厨房に入ったら、先客がいた。
アレクシスが、鍋の前に立っていた。
銀色の髪を無造作に束ね、袖をまくり、慣れない手つきで木べらをかき回している。テーブルの上には、不格好に切られた野菜と、焦げかけたパンと、形の崩れた焼き菓子が並んでいた。
「……アレクさん?」
アレクシスは振り返った。
一国の王子が、エプロンをつけて、頬に粉をつけて、鍋の前に立っている。
「……座っていろ」
「え」
「今日は、俺が作る」
フィーアは言われるまま、椅子に座った。
しばらくして、目の前に皿が置かれた。
野菜のスープ。具材の大きさはばらばらで、にんじんは皮がついたまま、豆はやや煮崩れている。焼き菓子は片側だけ焦げていて、形は何を目指したのかわからない。
アレクシスは向かいに座ったが、フィーアの方を見られないでいた。
「…………」
「…………」
長い沈黙の後、アレクシスがぼそりと言った。
「……食べてみてくれ」
フィーアはスプーンを取った。
一口含んだ。
塩が足りない。火の通りもまばらだ。にんじんは固いところと柔らかいところがある。お世辞にも料理が上手いとは言えない。
焼き菓子をひとかじりした。焦げた側は苦いが、奥に香るほんのりとした甘さ。
――この人、蜂蜜を入れたんだ。
フィーアが蜂蜜好きだと、いつ知ったのだろう。たぶん、いつか厨房で料理に蜂蜜を足しているのを見ていたのだ。この人は、そういう人だから。
フィーアの目から、涙がこぼれた。
「……な、泣くほどまずかったのか!?」
アレクシスの声には戸惑いと焦りが混じっていた。
「いいえ」
フィーアは首を横に振った。涙が止まらないまま笑った。
「とっても、おいしいです」
七年間、何を食べてもまずかった。
自分の舌がおかしいのだと思っていた。
この村に来てから、まずくないものはたくさんあった。自分で作ったスープも、市場で買った焼きたてのパンも。
でも、誰かが自分のために作ってくれたものを食べるのは、これが生まれて初めてだった。
この不格好なスープと焦げた焼き菓子が、フィーアの人生で一番おいしかった。
アレクシスは何も言わなかった。
テーブルの向こうから手を伸ばして、フィーアの頬に触れようとした。一度止まって、引っ込めて、今度は指先がフィーアの涙に触れた。
拭うというには力が足りなくて、ただ涙の上に指を置いただけだった。
「……すまん。泣かせるつもりじゃ」
「ふふっ。違いますよ」
フィーアは涙を袖で拭って、笑った。
「嬉しいんです。嬉しくて泣いてるんです」
「…………」
「アレクさん」
「なんだ」
「明日も、作ってくれますか」
アレクシスが目を見開いた。
「……俺のは、まずいだろう。それくらい自分でわかる」
「ううん」
フィーアは首を横に振った。
「おいしいですよ。世界で一番」
アレクシスは耳まで赤くなって、そっぽを向いた。
「そうか……明日は、焦がさないよう気をつけよう」
「楽しみにしてますね!」
窓の外では、グランヴェルの夕日が離れの厨房を橙色に染めていた。
テーブルの上には、塩の足りないスープと、片側だけ焦げた菓子。
世界で一番おいしい、夕食だった。
(了)




