第6話:上司の嘘と、本当の顔
夜。
残業フロアに、コピー機の音が静かに響く。
「……終わった」
プリントアウトを揃えて、真由は小さく伸びをした。
周りを見渡す。
オフィスにはもう誰もいない。
ただ一人、柊課長のデスクのランプだけがまだ灯っていた。
(課長、まだ帰ってないんだ……)
SNSの“理想の上司”の件。
今日一日中、噂が飛び交っていた。
けれど本人は――終始、何もなかったような顔。
(あんなに堂々としてるのに、ほんとは……)
「……藤原」
振り向くと、柊が立っていた。
ジャケットのボタンを外し、少し疲れた表情。
「残ってたのか」
「はい。資料の修正が終わらなくて」
「そうか。……だが、言ったはずだ。残業はするな」
「すみません」
「怒ってはいない」
彼はデスクに置いたコーヒーを手に取り、
ゆっくり口をつけた。
「噂のこと、気にしてるか?」
「……はい」
「俺は気にしてない」
「でも、皆が……」
「皆が何と言おうと、俺の仕事は変わらない」
淡々とした声。
でもその奥に、ほんの少しの疲れが滲んでいた。
真由は、言葉を選びながら口を開く。
「……もし、あのアカウントが課長だったとしても、
私は……何も言いません」
柊はゆっくりとこちらを見る。
目が合う。
「なぜだ?」
「だって……課長が、誰かのために言葉を残してるなら、
それを責める理由なんてないです」
短い沈黙。
それから、柊がふっと笑った。
「君は、優しいな」
「そんなこと……」
「だが、優しさは時に危うい」
「危うい、ですか?」
「“誰かを信じる”ってことは、
同時に“自分を疑われる”ことでもある」
その言葉に、真由の心臓が少し痛くなった。
(……そうだ。私、もう社内で噂の的になってる)
「“藤原”って名前、投稿に出てました」
「知ってる」
「っ……!」
「偶然、だ」
「でも……!」
「偶然、にしておけ」
言葉が鋭く遮られた。
でも、その声はどこか優しかった。
「……君まで巻き込みたくない」
(やっぱり……)
(あのアカウント、本当に課長なんだ)
⸻
帰り道。
オフィスを出ると、街の灯りが滲んで見えた。
手にしたスマホが震える。
《@WORK_LIFE_BALANCE》
「“信じる”という言葉は、時に刃になる。
でも、その痛みを知る人ほど、優しくなれる。」
“刃”と“優しさ”。
さっきの会話そのまま。
(……もう、隠す気ないよね)
返信ボタンを押そうとして、手が止まる。
(でも……私が反応したら、また課長が疑われる)
そう思って指を引っ込めた。
⸻
翌朝。
エレベーター前で、美咲が真由に声をかける。
「ねぇ、昨日の投稿見た?」
「……はい」
「まるで誰かと会話してるみたいだったね」
「え?」
「“信じる”とか“優しさ”とか。
あれ、完全に誰かを意識してる感じ」
「そ、そうですかね……」
美咲はわずかに笑って、目を細めた。
「ねぇ真由ちゃん。
もしあれが柊だったら――あなた、どうする?」
「……どうって」
「彼、昔から不器用だから。
誰かを守るときほど、嘘をつくの」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「嘘……?」
「“自分じゃない”って言いながら、全部本音を隠すタイプ」
美咲の声が静かに落ちた。
まるで何かを知っているように。
⸻
昼。
休憩室。
成田がスマホを見せながら叫んだ。
「やば! “理想の上司”が社外メディアに取り上げられてる!」
「えっ!?」
「“正体不明の会社員が語る、職場のリアル”だって!」
「……」
柊のデスクの方をそっと見る。
いつも通り、淡々と仕事をしている。
でも、指先がかすかに止まっていた。
その夜、また投稿が上がる。
《@WORK_LIFE_BALANCE》
「“嘘”もまた、誰かを守るための言葉なら、本音だと思う。」
(……)
その一文を読んだ瞬間、真由の胸に熱いものがこみ上げた。
(あの人は、守ってる。私を。)
⸻
翌日。
資料室。
真由は勇気を出して声をかけた。
「課長」
「ん?」
「“嘘も、本音になることがある”って、
……そう思いませんか?」
柊の手が止まる。
ゆっくりとこちらを向いた。
「……何の話だ?」
「ただの……雑談です」
その瞬間、ほんの一瞬だけ。
彼の口元が緩んだ。
「そうだな。……君にしては、鋭い質問だ」
(……やっぱり、あなただ)
心の中でそう呟きながら、
真由は笑ってごまかした。
⸻
夜。
オフィスを出ると、外の風がやけに優しかった。
スマホが震える。
《@WORK_LIFE_BALANCE:今日も“彼女”が笑ってくれた。それだけでいい。》
“彼女”。
指が震える。
胸の奥がじんわり温かくなる。
(……その“彼女”、私ですよね、課長)




