第31話:それでも隣にいたい
人事通達は、あまりにもあっさりと届いた。
【辞令】
営業部 課長 柊 誠
――本社戦略部 ブランド戦略課 課長へ異動を命ずる。
発令日:来月一日付。
PC画面に表示されたその文面を、真由は何度も何度も読み返した。
(……本当に、異動するんだ)
「“検討中”じゃなくなった」
頭では分かっていたはずなのに、
胸の奥に、現実として突き刺さるのは今だった。
周りから、ざわざわと声が上がる。
「マジで柊課長、飛ばされるのか……」
「いや、“飛ばされる”っていうか、むしろ出世コースだろ」
「でもさ、“理想の上司プロジェクト”から離れるのは痛くない?」
「ていうか、藤原さんどうするんだろ……」
名前が出た瞬間、真由は無意識に背筋を伸ばした。
(聞こえないふりしなきゃ……)
画面を閉じようとして――
チャットの新着通知に気づく。
差出人:柊 誠
《――少し、屋上まで来られるか》
ほんの一行のメッセージ。
それだけで、心臓の鼓動がまた早くなる。
⸻
昼休み。
屋上。
冬の手前の冷たい風が、コートの裾を揺らす。
「来たか」
フェンスにもたれかかるようにして空を見上げていた柊が、振り向いた。
「……課長」
呼びかけた瞬間、自分で首を振る。
「誠さん」
言い直すと、彼の目がほんの少しだけやわらいだ。
「そうだ。その方がいい」
「辞令……見ました」
「ああ」
「発令日、来月一日付って……」
「思ったより早かったな」
あっさりと言うその声に、真由は少しだけむっとした。
「もっと……“ショックだ”とかないんですか」
「ある」
「顔に出してください!」
「今、必死で抑えてる」
淡々とした口調なのに、
視線だけが、いつもより強く揺れている。
(……あ、この人もちゃんと動揺してる)
少しだけ、胸の緊張がほどけた。
⸻
しばらく、風の音だけが二人の間を通り抜ける。
沈黙に耐えきれなくなって、真由は口を開いた。
「……行っちゃうんですね、本当に」
「“行く”というより、“広げに行く”つもりだ」
「広げる?」
「俺たちがやってきた“理想の上司”プロジェクトをな」
真由は瞬きをした。
「本社戦略部は、全社のブランド方針を決める部署だ。
働き方のキャンペーンも、そこで設計される」
「じゃあ……」
「“信頼と恋の両立”だって、会社の武器になるかもしれない」
柊は遠くのビル群を見つめながら続ける。
「もし本当にそうなったら……
君が、“あのとき一緒にやってよかった”と思えるような場所を作りたい」
(……ずるい)
「そんな未来の話されたら……
“行かないで”なんて言えないじゃないですか」
言いながら、自分の声が少し震えているのが分かった。
柊は、ゆっくり真由の方を向いた。
「“行かないで”と言われたら、迷っていたかもしれない」
「え……」
「でも、“行っちゃうんですね”と言ったのは、君だ」
「それは、その……!」
「分かってる」
彼は小さく笑って、言葉を続けた。
「君は、俺の仕事もちゃんと大事にしてくれる」
「……」
「だからこそ、余計に離れたくないと思う」
風の音が、急に遠くなったように感じた。
⸻
「……正直に言っていいですか」
「いつもそうしてるだろう」
「すっごく、嫌です」
目を伏せたまま、真由は言った。
「同じフロアにいない誠さんなんて、想像つかないし……
仕事してて、ふと顔を見上げてもいないって、絶対寂しいし」
言葉と一緒に、胸の奥に溜まっていたものが溢れ出る。
「“隣で頑張りたい”って、やっと思えるようになったのに……
部署が違うってだけで、その距離が遠く感じるの、なんか悔しいです」
柊は黙って聞いていた。
「それでも」
「それでも?」
真由は、きゅっと拳を握る。
「それでも、隣にいたいって思っちゃうんです」
顔を上げる。
「物理的に隣にいられない日が増えても……
“同じ方向を見てる”って、感じていたい」
視線がぶつかる。
逃げたくないから、わざと目をそらさなかった。
「だから……」
「だから?」
「誠さんがどこに行っても、私の“理想の上司”でいてください」
柊の目が、驚いたように見開かれた。
そして、ゆっくりと、表情がほどけていく。
「……それは、ハードルが高いな」
「えっ」
「“彼氏”であり、“理想の上司”でもあれというのか」
「い、今自分で“彼氏”って……!」
「事実だ」
さらっと言う。
この人は、本当にこういうところだけブレない。
「じゃあ、ハードルは上げておこう」
「上げて……」
「その方が、君の隣に立ち続ける理由になる」
(……こういうときだけ、名言みたいなこと言うのずるい)
それでも、胸の奥の不安が、
少しだけ形を変えていくのを感じた。
⸻
「異動まで、あと三週間だ」
「……はい」
「その間に、やることが三つある」
「三つ?」
柊は指を三本、立てて見せた。
「一つ。今のプロジェクトを最後までやり切ること」
「はい」
「二つ。君を一人前の“リーダー”に育てること」
「……リーダー?」
「異動後、俺の代わりにチームを支えられるのは、お前しかいない」
あまりにもあっさり言われて、思考が止まる。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私、リーダーなんて――」
「できる」
「いやいや、できないです! 私、人前で話すのだってまだ緊張するし、
数字の管理だっていつも課長に――」
「俺がいなくなっても、誰かがやらなければならない」
「それを、なんで“私”って決めつけるんですか!」
「決めつけではない。判断だ」
淡々と言われて、ぐうの音も出ない。
(……この人、本気で言ってる)
「君には、人の気持ちを見られる目がある。
数字だけでは見えない温度を感じ取れる。
それは、このチームにとって一番の武器だ」
胸の真ん中を真っ直ぐ刺す言葉。
「……そんなふうに言われたら、
やりたくないって言えなくなるじゃないですか」
「言わせないために言っている」
「やっぱりずるい!」
でも、頬が熱くなるのは、
怒りよりも、嬉しさのせいだ。
⸻
「で、三つ目は?」
しばらく黙っていた真由が、意を決して尋ねた。
柊は、少しだけ間を置いてから答える。
「三つ目は――」
「三つ目は?」
「俺の“わがまま”を一つだけ聞いてもらうことだ」
「わがまま?」
「そうだ」
「こわ……」
「怖がるな」
言いながら、柊は少しだけ真由に近づく。
距離が縮まる。
風の音が、また遠くなった。
「……わがままって、なんですか」
「異動の前の日」
柊の声が、いつもより少し低くなった気がした。
「時間をくれないか」
「時間……?」
「“仕事”でも“プロジェクト”でもなく、
お前と俺だけの、時間だ」
真由の心臓が、派手に跳ねた。
「それって……」
「デートだと言い換えてもいい」
「っ」
言葉が出ない。
「“恋の責任”を一緒に背負うと、君は言った」
「……言いました」
「だから――異動の前の日だけは、
仕事のことも、噂のことも忘れて」
視線が絡まる。
「俺のそばにいてほしい」
胸の奥に、まっすぐ落ちてくる言葉だった。
⸻
「……そんなの」
「そんなの?」
「わがままじゃないです」
「そうか?」
「“わがまま”っていうのは、
こっちが困るお願いのことです」
「困らないか?」
「全然困りません。むしろ……」
真由は、少しだけ笑った。
「こっちからお願いしようか迷ってたくらいです」
「それは先に言ってほしかったな」
「今言いました!」
一瞬の静寂のあと、二人して小さく笑う。
風が、さっきよりも柔らかく感じた。
⸻
「……じゃあ、約束ですね」
「約束だ」
「異動の前の日は、一日全部、
私たちのわがままに使いましょう」
「全部か」
「全部です」
「欲張りだな」
「誠さんが“わがまま”って言ったんですよ?」
「……確かに」
彼は少しだけ肩をすくめて、観念したように笑った。
「分かった。全部使おう」
「仕事人間の誠さんが“全部使う”って言った……証言、取りましたからね」
「証拠は残さなくていい」
「残します」
「頑固だな」
「誰の影響だと思ってるんですか」
「俺か」
「誠さんです」
そんな軽口を叩き合えることが、
こんなに幸せなことだとは、少し前まで知らなかった。
⸻
その日の夕方。
フロアに、人事発令の正式メールが流れた。
「柊課長、本社戦略部か……出世だなぁ」
「でも、ここからいなくなるの寂しいよな」
「“理想の上司”プロジェクト、どうなるんだろ」
ざわめきの中、部長の声が響く。
「静粛に。――“理想の上司プロジェクト”は続行する」
「え?」
「今後は、本社戦略部と連携して進める。
そして営業部の現場窓口は――藤原」
突然名前を呼ばれ、真由は椅子から跳ねそうになった。
「は、はいっ!」
「お前がやれ」
「えっ……」
「柊の右腕だったんだ。今度は現場の“顔”になれ」
フロアの視線が一斉に集まる。
心臓が、さっきから何度目か分からない悲鳴を上げた。
(顔って……そんな急に……)
横目で柊を見る。
彼は、ほんの少しだけ口元を上げて――
しっかりと、うなずいた。
(……任せた、って顔だ)
逃げ場がない。
でも、それ以上に――逃げたくなかった。
「……はい。やります」
自然と、そう答えていた。
(“誠さんのプロジェクト”じゃない)
(“私たちのプロジェクト”なんだ)
⸻
夜。
家に帰って、布団に倒れ込む。
スマホを開くと、通知が一件。
《@WORK_LIFE_BALANCE》
「“離れる”ことは、終わりじゃない。
“広がる”ための一歩だ。」
続いて、DM通知。
《――異動前の日の予定、空けておけよ》
送信者:柊 誠
(……分かってます)
真由は、笑いながら返信を打った。
《――全部、誠さんに使うって決めましたから》
送信ボタンを押して、スマホを胸に乗せる。
(部署が離れても、心の距離は離さない)
それが、
“それでも隣にいたい”って決めた、自分の選択だった。




