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夜の色を少しだけ

作者: P4rn0s

道の名前は誰も知らない。

地図にも載っていないのに、誰かが確かに歩いた形跡だけが、静かに残っている。

小さな商店の並ぶ通り、看板の灯りがゆっくり瞬いて、誰かの影が路地の奥へ吸い込まれていく。

湿った石畳の上には、かすかな光の粒が浮かんでいた。

それは空から降ってきたのか、地面から立ち上がっているのかもわからず、ただそこにあった。

風が通り抜けるたび、何かが揺れる音がする。

装飾品なのか、乾いた葉の重なりか、夜の匂いそのものが形を持って鳴っているのかもしれない。

目を閉じると、地面から立ちのぼる蒸気が肌を撫でて、遠い誰かの記憶のなかに迷い込んだような気がした。


誰もが何かを落としながら歩いている。

それは鍵かもしれないし、手紙かもしれないし、もっと目に見えない、言葉にならなかったものかもしれない。

この街の端にある階段は、いつも濡れている。

昨日降った雨のせいか、それともまだ降り続けているのか、誰にもわからない。

けれど、その濡れた段差の上を、音もなく鳥が歩いていくのを見ていると、自分が夢のなかにいるような気がしてくる。

時刻はもう深い夜のはずなのに、街はどこか明るかった。

不自然な光ではない。

ただ、遠くにある星が地上にこぼれて、それがゆっくりと呼吸しているかのような、そんな淡さだった。

それを誰も気に留めない。

この街では、そういうことはとても普通のことだった。

水たまりに映る灯りが揺れて、その輪郭がぼやける。

近くを通った自転車のタイヤがその水を跳ね上げて、しぶきが空中に浮かんだまま止まりそうになる。

ほんの一瞬、時がやわらかくなる。

呼吸と鼓動のあいだにできた、言葉にならない空白。

そのすき間に、名前のない感情が差し込んでくる。


かつて誰かがここにいた。

そう思わせる気配だけが、あちこちに残されている。

ベンチの上の水滴、半開きの窓、点滅を続ける信号機。

それらはまるで、見失われた物語のかけらだった。

どれもが未完で、誰かが続きを書くのをじっと待っている。

けれど、この街では、結末を急ぐ必要はない。

ただ、まだ終わっていないことだけが、そこに漂っていればいい。

空は曇っていた。

なのに、なぜか月明かりがあった。

それはきっと、どこか別の場所の光がここまで流れてきたのだ。

夜の端っこをすくって、その色を染み込ませたような光。

湿った空気に混ざって、見えないものがふいに輪郭を持ち始める。

誰もが忘れかけていたもの。

誰にも見せなかった想い。

そういうものが、ひそかに光を持つ夜だった。


僕は歩きながら、それらを踏まないように気をつける。

靴音が小さくなるように、息を整えて、目をこらす。

道の端で咲いていた白い花が、雨に濡れて透きとおっていた。

その花びらの揺れに、さっき誰かがここを通ったことを知る。

言葉を残さず、足跡だけを残して。


夜は深まるにつれて、すこしずつ優しくなっていく。

誰かの秘密を飲み込んで、誰にも聞こえない音楽を奏でる。

目に映るものすべてが夢のようで、触れたらすぐにほどけてしまいそうだった。

それでも、なぜだか思い出してしまう。

どこか遠い場所で見た、きらきらと光る何か。

それはたぶん、スカートのすそに縫い付けられた飾りだったのかもしれないし、

あるいは、雨上がりの地面から立ちのぼる匂いだったのかもしれない。


名もなき夜の、名もなき街のなかで。

それらはもう、区別される必要がなかった。

すべてがまざりあい、溶けあい、

ひとつの静かな揺らぎのなかで、静かに、生きていた。

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