別れの言葉
週末の夜、彼はいつものように遅く帰ってきた。時計の針は午後十時を過ぎていた。彼は仕事が忙しいわけではない。遅くなる理由は、たいてい会社の人と飲んでいるか、ネットカフェで時間を潰しているか。問いただしても答えは曖昧で、私はいつしか聞かなくなっていた。
「ただいま」
玄関のドアが開く音に続いて、乾いた声が部屋に落ちた。
私はソファに座り、テレビをつけたまま振り向いた。「おかえり」と口にしたのは、反射だった。
彼はコートを脱ぎながら、何も聞かない。私がどんな一日を過ごしたか、食事はしたのか、寒くなかったか。そんなことはもう、とうに互いに関心の外だった。
――今、言えばいい。今こそ。
私はソファに座ったまま、手のひらに力を込めた。何度も練習したはずの台詞が、喉の奥で沈黙に変わる。
「ねえ」
ようやく声を出すと、彼は洗面所から顔を出した。無表情のまま、軽く眉を上げる。
「なに?」
その瞬間、喉まで出かかった言葉が溶けた。
“もう、無理なの”――その一言が、ただの空気になって消えていく。
「……明日、雨らしいよ」
自分の口から出た言葉に、情けなさがこみ上げる。彼は「へぇ」とだけ返して、また視界の外に消えた。
なぜ言えなかったのか。言うつもりだった。覚悟もしていた。でも、あの何気ない表情を見たとき、不意に思ってしまったのだ。
――この人は、私との別れを悲しむだろうか?
――それとも、ただ、面倒がひとつ減ったと考えるだろうか?
そんなことを想像してしまったせいで、足元がぐらついた。
愛されていないことは知っていた。でも、憎まれてもいない。存在が希薄なまま、ただ一緒にいる。それが一番傷つかない方法だった。私も、彼も。
翌朝、私はベッドの中で目を覚ましながら、背中越しに眠る彼の呼吸を聞いた。静かで、安定した寝息。私がいなくなっても、きっと何も変わらないんだろう。そう思うと、かすかに悔しさが滲んだ。
だけど、心の奥で、別の気持ちも膨らんでいた。
――せめて、もう一度だけ、話してみようか。
別れの前に、最後の確認をするみたいに。
「もう少しだけ、付き合ってみようか」
その言葉が、胸の内に静かに浮かんでくる。
別れを決めたその夜、私はなぜか、別れを保留にした。