マシな関係
冷蔵庫の中には、昨夜の残りのカレーと、期限が過ぎた豆腐、あとはペットボトルの水だけがあった。ドアを開けた瞬間、溜息が漏れる。料理をする気力も、買い物に出る元気もなかった。ただ、少し空腹を感じただけだった。
キッチンに立ちながら、私は携帯を手に取った。通知は数件、仕事のグループチャットと、通販からの宣伝メール。親友の美咲からは、ここ数日連絡がなかった。あの子も、きっと大変なんだろう。あの恋人と、まだ一緒にいるのなら。
――比べるなって思う。でも、比べてしまう。
美咲の恋人は、話を聞く限り、ひどい人だった。束縛が強くて、スマホを勝手に見られるのは日常。少しでも返信が遅れると電話が鳴る。飲み会には一切行かせてもらえないし、ひとりでカフェに行っただけで怒鳴られたこともあったという。
私の恋人は、そんなことはしない。
彼は私に関心を示さない代わりに、自由も奪わなかった。私が夜遅くまで外にいても、LINEひとつ来ない。予定を伝えても、返事は「ふーん」だけ。浮気の疑いもなければ、束縛もない。でもそれは愛があるからじゃなくて、たぶん、どうでもいいからだった。
「うちはまだマシだ」
何度この言葉を自分に言い聞かせただろう。
夜のテレビの音を聞き流しながら、私は自分の選択を正当化するために、いつも誰かと比べていた。誰かよりまし。誰かほど不幸じゃない。だからこの関係を続けていられる。それだけだった。
スマホの画面が震えた。
美咲からだった。久しぶりの連絡に、心臓が少しだけ強く打った。
いま、話せる?
短いメッセージ。
私は「うん」とだけ返して、すぐに着信が入った。
受話器の向こうの美咲は、いつもより静かな声をしていた。あの強気で、少し勝ち気な彼女の姿はどこにもなかった。
「……別れた」
沈黙が流れた。テレビの音すら、遠くに霞んでいった。
「そうなんだ」
それ以外、なんと言えばよかったのかわからなかった。
「もっと早く決めてればよかったのに、って言われるかもしれないけど……怖かったんだ。ひとりになるのが。誰かといないと、ダメな気がしてて」
それは、私も同じだった。誰かといないと、価値がなくなるような。そんな錯覚に、しがみついていた。
通話を終える頃には、美咲は少しだけ落ち着いた声になっていた。「話せてよかった、ありがとう」と彼女は言った。私はそれに「うん」としか返せなかった。
通話が切れたあと、部屋の中が妙に静かだった。
私はようやく気づいた。
もう、比較できる相手はいない。
「うちはマシ」という理由は、もう消えてしまった。
彼との関係を続ける根拠が、どこにもないことを、急に現実として突きつけられた。何かを見透かされたように、床の木目が妙に鋭く見えた。
私は立ち上がって、カレーをレンジにかけた。
湯気が上がるまでの数分間、胸の奥で何かが冷たく沈んでいくのを感じながら、ただ無言で立ち尽くしていた。