その歯は何色?
高校生の淳一くんは、付き合っている真菜実ちゃんから相談を受けました。
真菜実ちゃんは白い八重歯がかわいい女の子。
彼女のおうちで何やら事件が起こったそうです。
公式企画『春の推理2024』参加作品です。
拙作『チワワ系の女学生』の登場人物が出ますが、旧作を知らなくてもお楽しみいただけます。
日曜日の昼過ぎのことだった。
男子高校生の須藤 淳一は、最近付き合い始めた池和田 真菜実の住むマンションにきていた。
スマートフォンに『先輩、お願いです。すぐにきてください』というメッセージが届いたのだ。
「先輩、急に呼び出してすみません。忙しかったですよね」
真菜実は淳一を部屋に招きいれると、ぺこぺこと頭を下げた。
小柄な彼女は子犬のように見えて、淳一は心の中でチワワちゃんというアダ名で呼んでいた。
彼女は淳一の中学時代の後輩だった。今はそれぞれが別の高校に通っている。
今は他の家族は不在で、真菜実だけのようだ。
彼女は指先を胸元でぎゅっと握りしめて、少し震えていた。
「いや、大丈夫だよ。マナちゃん。で、何かあったの?」
「あのですね……。えーと……」
真菜実は少しうつむいて、ぼそぼそと話し始めた。
小さい声なので、淳一は耳を近づける。
「うちのピアノがしゃべったんです!」
急に大きい声になったので、淳一は少しびっくりして眼鏡がズレた。
そして、その言葉の内容に不思議そうな表情を浮かべる。
ピアノがしゃべるなんて、まるでファンタジーのような話だ。
「それで、お父さんもお母さんもいなくて怖くて……。先輩にメッセージを送っちゃいました」
言いながら、真菜実は袖の端を両手でぎゅっとつかみ、小さく身を縮めた。
今にも泣き出しそうな顔だ。
「まぁ、頼りにしてくれて僕もうれしいよ。じゃあ、そのピアノを見せてもらおうかな」
真菜実はコクリと小さくうなずき、ためらいがちに部屋のドアを開けた。
扉の向こうを見るその目は、何かを警戒するように揺れている。
部屋の壁際に、アップライトピアノと呼ばれる縦長の黒いピアノが置かれている。
「これが、しゃべったピアノなんです」
「ふむ……。ようするに、このピアノの中から人の声が聞こえてきたってことだよね。マナちゃんはその時は何をしてたのかな」
淳一は、まずは状況を把握しなければと思い、冷静な声でたずねた。
「……えーと……午前中、この部屋で本を読んでいたんです。そうすると急にピアノから音が聞こえてきてびっくりしたんですよ。最初はただの音楽だと思ってて、どこで鳴っているかわからなかったです。だんだん言葉が分かるようになってきて、なんとピアノがしゃべり出したんです!」
「それは確かに驚きだな」と淳一は思わず呟いた。
どうやら真菜実は、このピアノがおばけになったように思っているようだ。
彼は真相を解明するためにピアノに近づいてみることにした。
淳一はピアノ用のイスにこしかけて、フタを開ける。鍵盤に白と黒の鍵が歯のようにずらりと並んでいる。
ためしに白鍵のいくつかを叩いてみると普通に音がでている。ちなみに淳一はピアノは弾けないので、それっぽく両手の指で押しているだけだが。
黒い鍵も押してみたが、異常はなさそうだ。
真菜実は『ピアノがしゃべった』と言った。ここから人の声が聞こえたということだ。
以前に淳一が見たテレビ番組で、バイオリンやトランペットで人の声のような音を出すパフォーマンスがあった。しかしピアノで同じことをやるのは難しいだろう。
「マナちゃん。この壁の向こうは何があるの? あっちにはラジオとかないよね」
「お風呂場と脱衣所です。ラジオとか音が出る製品ももないです。あ、給湯器でお風呂が沸いたのが音声ででますけど、その声とも違っていました。ピアノからは外国語みたいな声がでていたんです」
「ふむ。壁の向こうじゃないのか。天井とか床から聞こえたってことはない?」
淳一は、騒音トラブルのテレビ番組を見たことを思い出した。
その番組では、マンションで天井からの騒音に悩まされた人が、上の階に抗議に行った。
しかし、上の住民は『物音は立てていない』と主張。問題のあった日付を確認すると、上の住民が旅行で不在の時にも音が聞こえたのだ。
マンションの管理会社に連絡し、詳しく調べてもらった。すると、もっと下の階の音が配管を伝わって天井から聞こえていたらしい。
「方角は、こっちから聞こえてましたよ」
真奈美は部屋の中央から、おそるおそるという感じでピアノを指さした。
淳一は少し考えてみる。音の方向を錯覚することもあるだろうか。
人間の耳は左右の音の方向はハッキリわかる。しかし前後の音の区別は怪しいかも。
その音が聞こえたとき、真奈美はちゃぶ台の横で本を読んでいた。
身体の右側をピアノに向けていたらしい。
その時の真奈美の左側にあるのはベランダだ。ここはマンションの7階で、窓の外には空が広がっている。
外からの音が反射したか……いや、無理があるな。となると、ほんとうにピアノから音が出たのだろうか?
もう一度、淳一はピアノの周りを調べる。ピアノの足に金具がついていて、ヘッドフォンがかけられている。
「マナちゃん。これって電子ピアノじゃないよね。このヘッドフォンは何に使うの?」
「ああ、それですか? あたしもよくわからないんですけど、電子ピアノみたいな機能がついてるんですって。夜は他の部屋から苦情がこないように、ヘッドフォンを使うんです。それか、ボリュームを絞ってスピーカーで音を出しています」
ヘッドフォンのケーブルをたどると、ピアノの鍵盤の下側にある箱型の装置につながっている。
刻印された商品名をスマートフォンで調べると、消音ユニットというらしい。
別のケーブルがピアノの上に伸びていた。楽譜や教本の間にスピーカーが置かれており、ケーブルはそこにつながっている。
「ん? もしかして……」
淳一はスマートフォンでスピーカーの型名を検索した。
メーカーのホームページでそのスピーカーの情報が見つかった。
「やっぱりそうだ。マナちゃん。このスピーカーってBluetoothに対応しているんだ」
真菜実は小首をかしげた。
「須藤先輩、ブルートゥースって何ですか?」
「無線で機械を操作するものだよ。たとえばパソコンでは、無線のマウスとかキーボードでも使っているみたい。このスピーカーは、パソコンやスマートフォンからケーブルなしで音が出せるんだ。ワイヤレスイアホンみたいなものかな。これが原因かもしれないね。近所で同じスピーカーを使っている人がいて、設定したときにこっちにつながったんだと思う。その音声がピアノから聞こえてきたんだよ」
「え? それじゃあ、隣の家のパソコンとかスマートフォンの音が、こっちで鳴っちゃうってことですか?」
「まぁ、使う時間帯がかぶっていると、混線するかもね」
淳一はメーカーのサイトにあったスピーカーの説明書を読んだ。
そして実際にスピーカーの設定を確認してみた。
「やっぱり。Bluetoothの機能がONになっているよ。今その設定を切ったから、これで隣近所の音を拾うことはないよ」
真菜実は納得の表情を見せ、肩の力も抜けたようだ。
ほっとしたような笑顔を見せた。かわいらしい白い八重歯がのぞく。
「ありがとうございます、須藤先輩。ピアノがしゃべるなんて怖かったけど、解決できてよかったです。何かお礼をしないとですね……」
「どういたしまして。それじゃあ、僕はマナちゃんのピアノが聞きたいな」
「え? わたし、簡単なものしか弾けないですけど……」
すこし恥ずかしそうにしながらも、さっきまでの怯えが嘘のように、真菜実はピアノの椅子に腰かけた。
明るい音色で柔らかい旋律が部屋の中を満たしていった。