青い舌
わけあって二浪してはいるものの、後輩くんはまあまあ頭の出来はいい子である。これまで見てきた通り、少々ぼーっとしたところのある点は否めないにしても。
ただ、いま後輩くんの頭の回転はアルコールによっていつもより鈍っていて、ぼーっとしているところはいつも以上に顕著になっている。つまり、賢明なる読者諸氏が既にお気付きであろうこと、……どんなに遅くとも、ミツルママが後輩くんの前に現れたぐらいで察していていいことに、いまだ気付くことが出来ていないのである。
端的に言うと、宿木橋というのは、男性同性愛者が出会いと交流を求め集う街の名前なのである。
それも、国内最大級の。
その成り立ちまで詳しく説明する必要はないだろう。とにかく、最大級のターミナル駅である冨緑駅の東口から十分ほど歩いた先に広がる宿木橋界隈は、行政区画上は「東冨緑二丁目」なので、略して「二丁目」なんて呼ばれかたもする。
すなわち、「緑の兎」というのはゲイバーであり、中寉さんも、蒔田さんも、マスターの上之原さんも、お手伝いに来ていた白湯川さんも、そしてミツルママも、全員例外なくゲイなのである。
……ということは、先輩も男で同性愛者?
と考えるのは短絡的であって、賢明なる読者諸氏も、その一歩手前で踏みとどまっていることだろう。後輩くんの場合は通りを歩く人が百パーセント男性であったならさすがに違和感を覚えたかも知れないが、ちらほらと女性、もしくは女性にしか見えない男性の姿もあるもので。「緑の兎」にいた四人のうち日常的に女装しているのはミツルママだけであるが、王子様部の学外部員であり、そもそもご本人の容姿も振る舞いも王子様然とした美青年である蒔田さんの第二の名前はマリアネッラといい、学祭においてはそれはそれはノーブルな雰囲気のメイドさんの格好をするのである。
また、同性愛者でなければ宿木橋に来てはいけないなんて法はない。寧ろ、宿木橋の側はどなたでもウェルカムであって、例えば中寉さんと蒔田さんが働く「緑の兎」やミツルママの「さよならメルセデス。」ではさっき後輩くんがご馳走になったみたいなごはんを出していて、それは実は舌の肥えたお客さんが電車に乗ってわざわざよその区からやって来るぐらいの評判になっている。
「えーと……、あれ?」
お店を出て十五分ほどが経っていた。
後輩くんは勘を頼りに駅に向かって歩いてはみたものの、そもそも今の後輩くんの「勘」なんてものがそうそう鋭く働くはずもなく、辞書に載せたいぐらいの右往左往を繰り返したあげく、見事に「緑の兎」の前まで戻ってきてしまったところである。
「えー……? どうしよう、困ったなぁ……」
本人の自覚は希薄だが、酔っ払っている。この後輩くん、さっきはおしっこがしたくなって、たまたま見かけた公園のおトイレを使おうとして、男子と女子を間違えそうになったのである。つまり傍目には、だいぶ危なっかしい姿を晒しているところなのだ。
後輩くんはそんなことにも気付かず、またへろへろと歩き始める。
「……そうだ。山で迷ったときは、登るほうを選んで歩くんだったね……」
先輩に出会うまで所属していた「日輪山ハイキング倶楽部」にはろくな思い出もないのだが、ごく初期、まだ藤村菊池らから積極的かつ具体的な勧誘をされずに済んでいたころは、そう悪いものばかりではなかった。これは、菊池から習ったこと。
ついつい下へ下へと歩いて行きがちだろうけど、逆なんだよ。疲弊しているときに下るのはリスクが大きいし、かえって迷ってしまうことも多いから。
菊池が後輩くんに教えてくれたのはあくまで「山で遭難したとき」の話であって、後輩くんはいま街の中で迷子になっているのであるから、してはいけないタイプの平行移動をしてしまっている。しかし幸運な偶然、この宿木橋界隈に限っては、後輩くんの発想が正解なのだ。というのは、さっき後輩くん自身が見たように、「宿木橋」の名の由来の橋が界隈の西端にあり、あのあたりが標高としてはいちばん低い(川が流れていたところ、と考えればごく妥当である)ので、少しでも標高を足していけるほうを選んで進んで行けば、自然と界隈からは抜け出せるし、近くの地下鉄駅やバス停、大通り、そして方角さえあっていれば冨緑駅まで辿り着ける可能性もある。
無事に抜け出すことが出来れば、という話であるが。
田舎から出てきて、あまり出歩くということもしないで半年を過ごした後輩くんは知らないのだ。宿木橋界隈と冨緑駅をまっすぐ結ぶ道からちょっと北に逸れたところに、冨緑中央公園がある。ベンチがいくつかとバスケットボールコートと水飲み場、それから公衆トイレがあるだけの広場がある。
この公園の略称は「トミチュー」であり、この公園周辺にたむろする未成年者が「トミチューキッズ」と称され、特に近年問題視されていることについては、改めて説明する必要もなかろう。
しかし後輩くんはそのニュースをなんとなく知っていても「トミチュー」がどこにあるのかも知らないまま生きてきているし、実際の危機感というものは全く持ち合わせていない、更に言えばいまは酔っ払っていて正常な判断力が働かない状況であるので、やはり説明しておくべきところであろう。
冨緑中央公園に集まる「キッズ」たち、それぞれに異なる事情はある。成人が規定した社会に馴染めなかったり、家庭内での居心地が悪かったり。それこそ、いじめ、虐待に遭った少年少女も少なくなく、彼らがこの公園に集い始めたのは、例のウイルスが蔓延して繁華街であるこの界隈から(宿木橋を含めて)ひとけがなくなった三年前あたりからであると言われている。暴力事件などが刺激的なニュースとしてメディアに乗ったものだから他者に向けて無差別な害意を撒き散らす集団であるという定義がされがちだが、人間同士というよりは場所に根付いて形成されたコミュニティという見かたをすべきだろう。
あらかじめ約束をしているわけでもないけれど、そこに行けば誰かがいる……、という場所は、現代では希少である。とりわけ人間関係を、立場だとか格だとかで何かと窮屈にされがちな国であることを思えば、相手のバックグラウンドはさておき同じような存在として集まれる場所というのは、もうこの国においては病院の待合室ぐらい(サウナやジムなんかもそういう側面はあるが、三十代以上になると人間というのは訊かれてもいないのにそれぞれ自分の有するものに語りたがってしまうものだ、相手に対して優位に立ちたいという、さもしい気持ちを抑えきれなくて)であろう。特にこどもたちからは、学校帰りに集まって遊ぶ原っぱや広場さえ大人に奪われて久しい。
同性愛者の男性たちが出会いを求めて宿木橋にやって来るように、大人に与えられた生活がちょっぴり苦手なこどもたちはトミチューに集うのだ。それ自体は、別に悪いことではない。
問題は彼ら「キッズ」に対して寄り付き悪意を持って接する成人がいることである。
こどもはこどもで純粋な邪悪さを備えて生まれてくるものであるから、刹那的な快楽に流されやすい。
ここのこどもたちも例外ではない、未成年の飲酒喫煙はざらであるし、軽重の差なく犯罪行為も多く、薬の過剰摂取、自傷行為なども耐えない。本来彼らを日の当たる場所に導いてあげなければいけない大人たちが私欲のために「トミチュー」にやって来て、安い小遣いと引き換えに身体を売るよう強要したり、非合法な仕事、いわゆる「闇バイト」の斡旋を行ったり。
そんなところに、何も知らない後輩くんがふらふらやって来たのである。少しずつ酔いも覚めて、足取りもだいぶ落ち着いたものになって来た。だらだらとした坂を登り切って、ちょっと歩き疲れたなぁ、あ、でもあの特徴的なシルエットの建物は冨緑駅のすぐ側にあったやつじゃないかしら、ということは方向は合ってるんだ、よかったよかった……、と思っていたところに見かけたのが冨緑中央公園、首尾良く手近なベンチも空いていた。はーやれやれと一息ついて、このあとは、先輩を追い掛けて猪熊まで帰る、……大学に行っても意味ない気はするな、だって夜だから大学入れないもんな、でも、じゃあ、どうしよう? 先輩の名前は知らなくてもいいけどメルアドぐらいは知っておいて損はないかも知れないな……、なんてことを思っていたところ。
高校生ぐらいだろうか、女の子が、後輩くんの隣に座って来た。
「どこから来たの?」
気安い口調、礼儀はざっくりと省略している。髪をふたつ結びにしていて、目が本来の倍ぐらいに見えるようなお化粧を施している。目の涙袋がくっきりと赤いのは中寉さんに似ているけれど、それ以外のところに共通項は見出せない。袖のところが擦り切れた黒の長袖パーカーはオーバーサイズで、その裾から白い足がにゅっと伸びているので、一瞬「この子、下穿いてない!」ってどきりとしてしまった後輩くんであった。まぬけである。
そもそも、若い女の子からこんなふうに話し掛けられることに慣れていない。
「え、あ、うん、……あの、えっ、猪熊っていうところの……」
コミュ障である。しかし彼女は後輩くんを嗤わなかった。
「あたし、ユカ。あのさ、……大学生?」
単刀直入感がすごい。赤い目元が眠たげに見えるのは、メイクのせいではなさそうだ。きっと、元はお化粧なんてしなくても可愛い子なのだろうけれど、肌は荒れて凹凸が目立った。
「あの……、ええと、うん」
「大学ってどこ?」
「え……、九隅、大学……」
「いいとこじゃん、すごい」
後輩くんは緊張しながら、この女の子がなぜ自分に声を掛けて来たのだろうかと、ようやく少しは本来の働きをするようになってきた頭を回す。トミチューキッズに詳しくない後輩くんであっても、「理由もなく僕なんかに話し掛ける人なんてそうそういるはずもない」という謙虚というよりは卑屈な想像は出来るのである。
しかし、そこはそれ、当然なんらかの「理由」があって話し掛けてきたユカも、この冴えない風貌の人物が優秀な大学に通うと知って、ぱっちりとは開かない目をぎらんと光らせて身を乗り出す。
「あたしね、いま、すっごい困ってんの」
さすがに後輩くんは薄い恐怖を覚え始めていた。僕だったら困ってることがあったとしても、こんなのに助けを求めたりはしないよなぁって思って。だから、ちょっとやそっとじゃ心は揺らがないぞとお腹の底に力を入れる。僕はさっさと猪熊に帰らなきゃいけない、出来れば先輩に会わなきゃいけないんだ。
しかし、後輩くんの腹筋というものは、残念ながらそれほど強くない。
「あたしね、彼氏いるのね」
ユカは、上体をぐっと寄せて来る。後輩くんはそうっと上体を反らしながら、うん、と頷いた。このユカという少女が話すとき、ベンチの斜め上方から照らす常夜灯の光が彼女の赤い唇をやけに強く目立たせる。なぜだろう、と思って、答えに気付いたとき、思わず息を呑んだ。
ユカの舌は、真っ青なのだ。
ついさっき、青いシロップのかき氷を食べましたと言わんばかりに。
「彼氏がね、友達作れって言うの」
「友達」
人間離れした青い舌に気圧されながら、後輩くんはおうむ返しにするぐらいしか出来ない。
「でもさ、みんななってくんないの」
「そうなの……」
「友達になるのなんて簡単なんだよ。あたしたちと一緒にさ、一日二回『ダイニッキイヤマスさまに感謝申し上げます』っつって、そうするとさ、月に一度はあっちにある会館でごはんが食えんの」
後輩くんにしてはかなりの反射神経を発揮したと言っていい。熟慮よりも行動、ぴょんと立ち上がって「ごめんね、さよなら!」と言い残して立ち去ることを素早く選ぶことが出来たのだから。とはいえ、選ぶことが出来てもそれを完遂することが出来るかと言えばまるで別の話で、後輩くんはペラペラコートの裾をユカの手にぎゅっと握られていて、そこから先はにっちもさっちも行かなくなってしまった。
「なんで? なんで逃げんの?」
青い舌の少女は、とてもとても酷い仕打ちをされたと言わんばかりの目をしていた。後輩くんも同じ気持ちである。……まったく、どうして放っておいてくれないんだ大日氣弥益は!
後輩くんは知らなかった、しかし自身が大日氣弥益の信徒に悩まされている立場であるからには、予備知識として持っておくべきであったことなのだが……。
大日氣弥益の人々は、勢力の拡大に躍起になっている。一世帯を構成する人の数が多く、また横の繋がりも強い地方においては、近隣の家々との付き合いに乗じてじわじわと信徒世帯の数を増やしていく一方で、都市部においては地域ごとの「地区長」なるポストがそれぞれ大学に「日輪山」のような活動を行うサークルを設置して若い世代の信徒を獲得しようと努めている。
そして最近では更に若い世代、特にこのトミチューに集うこどもたちを囲い込むことを始めているのだ。
同様のケースはトミチュー界隈に限らず、多くの繁華街においても行われているそうだ。ボランティアの食事提供、あるいは虐待を受けたり教育の機会を奪われたりしているこどもたちを保護する善意の団体のように見えつつも、多くのこどもたちは十八歳になったら大日氣弥益の信徒として正式に名簿へ登録される仕組みである。
後輩くんは顔を引き攣らせてぶるぶると首を振るしか出来ない。
「あの、ごめんね、申し訳ないんだけど、僕はその、大日氣弥益さまとは仲が悪いんだ」
ユカは全くめげない。
「大丈夫だよ、大日氣弥益さまは優しいよ、だってあたしみたいなのだって助けてくれたし」
後輩くんでも頑張れば振り解けそうなぐらい、細い腕である、小さな少女である。高校生だと思ったけれど、ひょっとしたら中学生かも知れない。想像するに、ろくなものを食べていないんじゃないか。彼氏、と言ったか。こんな少女の弱みに付け込んで信徒にし、更に布教活動をさせているなんて、それだけで大日氣弥益ろくなもんじゃないッて後輩くんに指弾させるには十分。
周囲にはユカと同世代、つまり後輩くんよりもちょっと歳下の男の子女の子が何人かずつのグループになって、スナック菓子であったり、ジュースであったり、……中にはビールや酎ハイの缶を手にしている者もいるし、喫煙している者もいるが、いずれもこちらには無関心であるかに見える。
いや、実はそうではないことに、後輩くんはすぐ気付いた。
彼らはみんな、ユカと後輩くんのやり取りを盗み見て、他人の振りをしているのだ。
ユカはきっとタチの悪い「彼氏」に言われるがまま、彼ら彼女ら片っ端から勧誘を試みて、不調に終わった後なのだ。 結果としてますます彼氏に依存する、そして彼氏のために、もうなりふり構わず勧誘活動に没頭する。……このあたりで見ない顔の後輩くんは、格好のターゲットだった。
ユカの黒いパーカーの袖が捲れた。ほとんど骨と皮だけみたいな白い手首に、うっすらと、でも確かに、生々しく走る無数の傷痕を見た。ユカは、血走った目に涙を一杯に溜めて後輩くんのコートを掴んでいる。仮に後輩くんが力一杯に引っ張ったら、今度は足に齧り付くつもりではないだろうか。
後輩くんも泣きそうになった。
なんでこんなことになってしまうんだろう?
もちろん後輩くんは全面的に善なる人間では決してない。心の中には、厄介ごとに巻き込まれたくはないという、人間として生きる以上は誰もが有する怠惰な憂いだってある。僕が無理矢理にこの子を置いて逃げ出したとしても、罪に問われるようなことってないよね? なんて打算もある。同時に、この子はこれからどうなってしまうんだろう、大日氣弥益も彼氏もこの子を救いはしないだろうという想像はあまりに容易い。
ユカという少女が渾身で作り出した困惑の泥濘に足を取られて、後輩くんはすっ転んだ。
「ね」
ユカがのしかかって来る。
「あたしと一緒に行こ? ね、美味しいごはんが食べられるんだよ、あたしと友達になろ……」
後輩くんが転倒した拍子に擦り剥いたらしく、後輩くんに馬乗りになった彼女は血の滲む自身の左手を押さえていた。
あちらこちらに存在するマイルドな地獄の縁に後輩くんはいる。大日氣弥益は、信徒という形で今後もきっとありとあらゆる場所で後輩くんに絡んでくるのだろう。後輩くんは、きっと永遠にその触手を振り解くことが出来ない。そういう宿命の中を生きていくことになるのだ……。
わかりました。
身から出た錆……、なんて言いかたは癪だけど、そもそもは僕があの日慌てて飛び出すようなことをしなければよかったんでしょ? 右見て左見てって、飛び出すのをワンテンポ遅らせただけで避けられたのなら……。
そう、後輩くんが観念し切ったタイミングであった。
「ちょっと、アンタ」
耳によく馴染んだ声が、耳馴染みのない高さで、聴き慣れぬ言葉を発するのを聴いたのは。
「アタシの後輩くんに何してくれてんのよ!」