名前のない人
なにせこれが、後輩くんにとって初めての飲酒である。
そんな日に隣にいる先輩のご機嫌が、こんなにコロコロ変わるのだから、身体にいいはずがないではないか。しかし蒔田さんが、「この店のマスターのお友達のお店のマスター」のところに挨拶に行ってくると行って店を出て行ってまもなく、中寉さんが「お待たせいたしました」と持ってきてくれた意外な晩ごはんを前にしたときには、春の太陽が覗いたみたいにぱぁっと明るい顔になって、
「どうしたんだい後輩くん、冷める前にいただこう。了ぐらいの料理上手には私もまだ出会ったことがないんだ」
なんて言う。
メインは鰤の照り焼き、はじかみが一本添えられている。小鉢に小松菜としめじのおひたしと、かぼちゃの煮付け、きゅうりとにんじんのぬか漬け、なめこのお味噌汁、そして麦入りごはん。
「かぼちゃとごはんはサユカワさんのお仕事です。時間の掛かるもの先に作ってくださっていたので、とても楽でした。ぬか漬けはお店の常備菜です」
中寉さんはエプロンを外しつつ言う。このお洒落なバーには全く似つかわしくない「晩ごはん」である(じゃあどんなメニューなら似合うのか、と問われても、後輩くんには上手い答えは見つからない)が、同時になんというか、とても優れたものであることは判る。いただきます、と手を合わせて鰤の照り焼きを一口……、ふっくらしていて、しっとりしていて、こちらへ来てからしばらく口にしていなかった魚の旨み、特に鰤特有の、脂のぎゅーっとした味わいに驚く。醤油と砂糖と酒と醤油のバランスだけで作られたタレだが、甘さと辛さが一番しっくり来るバランスに仕上がっていて、ちゃんとした料理屋さんにおいてもこれだけの味にはなかなかならない。短い時間でも手抜きせず、例えば鰤を醤油でひと洗いして余分な水気を拭き取るだとか、片栗粉をあまりばさばさ付け過ぎないだとか、皮をしっかり焼き付けて香ばしさを出すとか(後輩くんは実家でも鰤の皮は残していたが、これはもう立派にご馳走だと思った)の気遣いが行き届いて、素晴らしく価値のある一皿になっているのだった。
そして、かぼちゃの煮付けの、……滋味。
優しい、けれどきちんとおかずとしての自覚を持った味。かぼちゃの煮付けは甘すぎるとお菓子感が出てしまう、けれど甘さが足りないと寂しい。絶妙である、と同時に安定感がある。
中寉さんは何者なのだろう。王子様です、とご本人はおっしゃるかも知れないが、これはもうなんというか、毎日相当に強い責任感と自覚を持ってごはん作りに臨んでいる人の偉大なるお仕事であると後輩くんは思った。サユカワさんのかぼちゃの煮付けも、そういう味が芯から届く。
先輩は教えてくれた。
「了とサユカワさん、……サユカワさんはこういう字を書く」
白湯川さん。やっぱりかなり珍しい苗字の人だ。
「了はここのお店で、白湯川さんは普段は向こうの通りにある、こちらのマスターの上之原さんとご友人がなさっているお店でこういうごはんを振る舞っているんだ。こういう街の人々はどうしても生活が不規則になりがちだし、外食が増えてしまうものだろう? だから、お店で働く人たちやお店に通う人たちのために、こうしてごはんを振る舞っているんだ。……私たちは了の休日にこうして特別にごちそうになっているわけだけども」
おそれいります、と中寉さんと白湯川さんが頭を下げた。
「了くんは、僕の料理の先生なんです」
ご自身よりずっと小さくて、なんだか歳の離れた弟みたいな中寉さんを、白湯川さんは眩しそうに見る。
「白湯川さんは僕が何かを教えるまでもなく、基礎がしっかりしていらっしゃいましたよ」
中寉さん、見た目は中学生みたいにあどけないのにしっかり大人で、いろんなことが出来るのだ、あと王子様なのだ。どうしたらそんなふうになれるんだろう、と疑問が浮かんだが、そもそも後輩くんにとって元祖そういう人は左隣に座る人である。先輩も小さくて幼い、いやすごく若く見えて、でもとても有能な探偵さん。
同じものを食べても、栄養の働きかたが違うんではないかと思う。
「美味しいですね」
後輩くんが先輩の顔を見たくなって顔を向けたら、また先輩はすんっと冷たい顔になっていた。
なんで? と思う。
後輩くんは困っているところを先輩に助けられた。そうして知り合って、世界を広げてもらったという経験を持つ。例えばこの宿木橋という街だって、こんなお洒落なバーだって、後輩くんが一人でうんうん唸っている限り到底辿り着くことなんて出来なかった場所である。
先輩は後輩くんに安らかで豊かな睡眠の喜悦を与え、「日輪山」から救い出してくれた。更に、後輩くんの平穏が安定的なものであり続けるようにと、王子様部のメンバーを紹介し、共にいさせるようにした。ボディガード、という大袈裟なものではないかもしれない(そもそも日輪山の人々にしても、実力行使に訴えてでも後輩くんをどこかへ連れて行ってしまおうなどとは思ってはいないはずだ)けれど、後輩くんのキャンパスライフはこれまでとはまるで違うものとなった。無論、お父さんのこと、お母さんのこと、悩みが尽きることはないけれど、ずいぶんといいものに変わった。
ぜんぶ、この小さくて可愛らしい、けれどとても優れた先輩のおかげである。だから後輩くんは先輩が何歳であろうと、そして男性であろうと女性であろうと、自分より圧倒的に優れている人、尊敬に値する人であって、……もっと言ってしまうと、先輩にこんな気持ちにさせられることがあることは全く想定していなかったのだ。
すなわち、……困ったなぁ。
こんなに浮き沈みの激しい一面があるなんて全く想像していなかった。先輩っていう人は、どんなことがあっても泰然としているに違いない……、なんて大雑把な思い込みをしていた後輩くんであり、それはまた、とても失礼なことだと気付いた。先輩だって人間なのだ、若者なのだ、僕みたいなところがあって何がおかしいだろう? 先輩の強い部分にこれだけ救われたのであれば、先輩の強くない部分は僕が支えてあげるのが本筋ではないだろうか。
そんなことを思って、でも、具体的にどうしたらいいのかアイディアが浮かばないでいたところだった。ずっと鳴らなかったドアベルが、ぐぁらんぐぉろんと大きく鳴り響いたのだ。
「ちょっと! ジョー!」
という、胴間声もおまけに。
百八十近く身長のありそうな、そして体重もたぶん百キロ近くありそうな、つまりとてもいかついボディに、黒と紫のブラウスにロングスカートを纏い、濃いめのお化粧をし、惚れ惚れするような角刈りに髪を仕上げたおじさんが飛び込んできた。つかつかつか、というよりはどすどすどすという感じでカウンターに突進し、上之原さんに詰め寄る。カウンターがあるからそこで行き止まるのだけど、そのままカウンターをぶち抜いて上之原さんのところまで行ってしまうのではないかと思うほどの勢い、そして迫力。
上之原さんは慌てず騒がず、溜め息を一つ。
「営業中だ」
「んなこたわかってんのよ! そうじゃなくて、七時から来月の『ヤドリギフェスタ』のミーティングだって言ったでしょうよ! いまたまたま来た皐ちゃんが代わりに出てくれてるけど、アンタじゃなきゃダメなんだから!」
お洒落なバーへの不似合いさ加減では後輩くんと同じほど、という男性の言葉に、上之原さんは「あ」みたいな顔をする。時計は七時十分であった。
上之原さんは中寉さんにチラリと目をやる。
「知りません。あと皐醒も知らないと思います。マスターはスケジュール管理はご自分でなさるって宣言しましたよね」
中寉さんはけんもほろろってこういう感じかという態度であしらった。
「……行ってくる」
上之原さんはサロンを外して勝手口から出て行ってしまった。とてもクールできっちりした人のように見えたけど、意外と抜けたところもあるらしい。
「まったくもう、了ちゃんも、あんまアイツのこと甘やかしちゃダメよ。……柊、ごはん、アタシのぶんも」
女性の格好をした大きなおじさんは、後輩くんの隣に腰を下ろして言った。なんだかここだけ定食屋さんになったみたいである。
「ミツルママはミーティングお出にならなくていいんですか?」
「だってアータ、来月じゃまだウチの店の工事が終わってないもの。……あら、ごめんなさいね騒がしくしちゃって」
左隣の後輩くんに、申し訳なさそうに手を合わせる。上之原さんと同じぐらいの年齢であろうと思うけれど、表情が豊かで、愛嬌がある。
「通りの向こうにある『さよならメルセデス。』というお店をなさっているミツルママです。白湯川さんはそちらのお店の改装工事が終わるまでウチのほうを手伝って頂いているんです」
中寉さんが紹介してくれた。
「どーも、初めましてミツルですぅ、あ、これ名刺」
ミツルママはなんだかいいにおいのする名刺をくれた。これはこれはご丁寧にどうもももごもご言いながら両手で受け取って、後輩くんはどぎまぎする。後輩くんの周囲にはこれまで、こういうタイプの人がいたことはなかった。
いや、先輩との縁が出来てから、……まず先輩がそうそういないタイプの人であるし、王子様部の人々もそうである。類は友を呼ぶわけでもないし、後輩くんの住んでいた世界がだいぶ狭いものであったことも否めないけれども、新鮮な出会いがこのところ続出している。その上、多くの人が複数の名前を持っているのだから、だいぶ頑張らなければいけない。
「すみません、あの、僕は名刺を持っていません」
頭を下げた後輩くんにアッハッハとミツルママは笑った。笑顔になると顔がひまわりみたいに大きく花咲く人だ。お化粧がちょっと濃すぎるような気もするが、でもこういう人を可愛いと言うことには何の問題もないと後輩くんは思った。
「大学の後輩さんです」
これは中寉さんの言葉。
「へー。じゃーなに、アナタもけったいな名前があるの?」
「是非付けて差し上げたいと思っているのですが、いまのところはまだ王子様部に一定のご興味を持ってくださっているぐらいなんですよね」
「あんま深入りしないほうがいいわよぉ、あんまりいつまでも王子様なんてやってると了ちゃんみたいに留年しちゃうんだから」
またアッハッハと笑ったミツルママの前に、白湯川さんがおじやを置いた。小松菜と椎茸が入って、卵でふんわり仕上げたものに、青ネギが散らされている。それをふうふう吹きながら、ミツルママは食べていく。一口が大きい。
またドアベルが鳴る。
「ただいまぁ」
上之原さんの代わりにミーティングに参加していたらしい蒔田さんが帰って来た。
「あれ? ファルヴィニッヒは?」
と言われて、びっくりした。すぐ隣に座っていたはずの先輩が、忽然と姿を消している。お膳の上に、ご自身と、あと後輩くんのぶん、というつもりなのだろうか、五千円札が一枚無言で置かれている。ドアベルの音もしなかったし!先輩がいなくなっていたことには誰一人気付いていなかった。先輩は探偵ではあるが、忍者ではなかったはずである。
「さっきまでいらっしゃったのですが。スマートフォンご覧になってましたから、急用でも出来たのでしょうか。それにしても、お二人ぶんとしても頂き過ぎですが」
五千円札を細い指で摘まみ上げてレジに仕舞った中寉さんが、代わりに千円札を四枚持ってくる。
「そもそも、先輩と後輩さんの晩ごはんはごちそうすると申し上げました。エーラッハだって本当はサービスしたいほどです。後輩さん、恐縮ですが、これは先輩にお返し頂いてもよろしいですか」
はい、と受け取ってしまってから、ハタと気付く。月曜日まで後輩くんは先輩と会わない。であれば、後輩くんを経由しなくても中寉さんが直接渡せばいいのではないか。
「あれ。後輩くんはファルヴィイの番号とかアドレスとか知らないの?」
こくん、と後輩くんは先輩とたぶん同じぐらいであろう蒔田さんに頷いた。
「僕は、あの、はい、先輩の電話番号も、メルアドも、あと、お歳と、どこに住んでるのかとか、お名前も知らないです」
右隣で大きなお口でおじやを書き込んでいたミツルママもピタリと止まった。
「……アータ変わった子ねぇ」
「そうでしょうか。……中寉さんや蒔田さんには、本名の他にもお名前がありますし、一個じゃなきゃいけないわけじゃないものですから、ゼロ個であってもいいんじゃないでしょうか。僕は先輩のことを先輩とお呼びしていて、先輩が僕のことを『後輩くん』と呼んでくださるならそれで十分だと思うのです。現に僕たちはそういう相互了解の上でこれまで問題なくコミュニケーションを成り立たせてきました」
ミツルママが分厚い上体をやや引き加減にして、「急によく喋るわね」と中寉さんに言った。中寉さんは「今日初めてお酒を呑まれたのです」と達観したような顔で答える、
「ああ……。まー、でもそうかもね、名前なんてさ、別に名乗りたいもん名乗ればいいのよね。アタシもそうだけど」
ミツルママは上体の角度を戻して結論付けた。
「アタシはどうしても自分の漢字が気に入らなくって。どういう字書くと思う?」
太い指がすらすらと宙を舞う。石へんに頁。
「『碩学』の碩の字ですね」
「そ。頭いい子になんなさいって。でもねぇ、大学は出たけど落ちこぼれよ。昔っから字が嫌いでサ、だってこれ一文字で『頭が大きい』って意味なのよ。大人になって改名できるようになったら美しい鶴で『美鶴』しようって思ってたもんよ」
あまり鶴っぽくはないかも知れない。鶴は中寉さんが、目元が赤いのがそれっぽいなと後輩くんは思った。
「俺は画数多いのが嫌だったなぁ……。テストのときとかさ、ちまちまちまちま書いてるうちに他の子はもう解き始めちゃってんの」
蒔田皐醒さんは仰る。数え間違いがなければ四十五画。
「あと、あんまり『醒』の字ってよくないよね。基本酔っ払ってるときの話だもん。俺は了みたいな名前がよかったなぁ」
「僕のは、ただ『末っ子』ってだけの意味ですよ」
「そうなん?」
「一文字で『終わり』という意味です。後輩さんにご案内しますと、僕は兄が複数いまして。出身が田舎の農家なものですから、発想がいちいち古い家でもありまして、大意としては『もうここらで終わりにしてはどうか』というぐらいのものが籠められた名前です。皐醒の言う通り、試験のときは楽でしたが」
「マスターも似たようなアレだよね」
蒔田さんが教えてくれたところによれば、マスターの上之原さんの下の名前は「承」一文字で「ことつぐ」と読むのだそうだ。さっきミツルママが「ジョー」と呼んでいたのは音読みにした渾名だったのだろう。
「あの人も末っ子です。ご両親が、『了』だと見る人が見ると意味が透けてしまうからと、色々装飾をつけて承になったのだそうです」
白湯川さんの下のお名前は柊と書いてしゅうと読む。お誕生日が立冬の日だったそうである。
「確かに、名前なんてそんな重たいものではないのかも知れません」
中寉さんは達観した顔である。
「名前が判ったからその人の為人が判るわけでもありませんし、……極論ですけど皐醒の名前が『武骨溪五右衛門三郎』であったとしても僕は皐醒を美人のお兄さんだと思っているでしょう」
「五右衛門三郎は嫌だな……、画数増えてんじゃん」
先輩に、名を問われたことがない。先輩の名を訊いたこともない。僕があの日あのとき、「初めまして、一年の……」という当たり前の自己紹介をきちんとしていたなら、きっと先輩もスムーズに名乗っていたのではないか。でも、あのとき後輩くんは寝起きであったものだから、そして先輩が非常に独特な個性を持った(あるいは逆に、とても無色な)人であったものだから、通常の段取りを踏むことができなかったと言いわけすることも少しぐらいなら許されるはずだ。
「あの……、皆さんは先輩のお名前を……」
ここまで言って、慌てて口を噤んだ。賭けてもいいが、「ご存知なんですか」なんて問えば、まず間違いなく蒔田さんが何の躊躇いもなく教えてくれてしまうだろう。
「先輩のお名前を、僕に教えないでいただけますか」
ずぞー、とおじやを平らげたミツルママは「この子もだいぶ変わった子ねぇ」と中寉さんに言った。
「僕は、先輩のことを何も知らないです。知らないですけど、先輩は僕の恩人で、すごく尊敬しているんです。知らないままでずっといることになるのか、どこかで我慢出来なくなって知りたいって思っちゃうのかわかんないですけど、でも」
後輩くんの手の中、氷のすっかり解けてしまったグラスを見て、中寉さんがひょいとそれを摘まみ上げる。新しいグラスに氷を入れて、慣れた手付きでもう一杯、後輩くんの開いた手のひらの中に収めた。
「マスターいないので僕の裁量でごちそうします」
恐縮して頭を下げる、けれど、味と香りの多重奏がたまらない。美味しいだけでなくフワフワした感覚まで連れてくるのだから、たくさんの人たちがお酒を呑む理由が解った気がする。
脳が、難しいことを考えるのには適さない形になっていくのが判る。
先輩はなんで今日、あんなに感情が乱高下していたんだろう。
その答えを探し当てるには、もう後輩くんの血の温度はずいぶん高くなり過ぎていた。代わりに、……中寉さんと、蒔田さんと、白湯川さんと、ミツルママ、のお話を聴きながら、中身の半分も理解できていないくせにうんうんと頷いているうちに、後輩くんはこんな光景をイメージし始めていた。
すなわち、先輩が、九隅大学猪熊キャンパス一号館屋上の喫煙所にて、独りぼっちで夜空に向けて紫煙を燻らせている姿。
暗闇に溶け込んでしまいそうな、黒いコート、黒いマフラー、その中で先輩の白い顔だけが、寂しく目を引く……。
先輩が出て行ってから、長く見積もっても三十分程度しか経っていない。仮に電車の乗り継ぎが最高に上手く行って、駅からは全力疾走に努めたとして、まだ大学まで半分ぐらいのところまでしか行けていないだろうし、後輩くんは先輩が猛ダッシュしているところなんてとてもじゃないけど想像できないのだった。
けれど、原則的にそう社交的なタイプではなく、特に大学に入ってからは長らく「日輪山」のメンバーたちに囲い込まれて嫌な思いをした以外に知り合いもできず、通りのいい言いかたをするなら「ぼっち」でいる時間が長い。
独りでいるとき、他の人たちの笑う声って、ずいぶん大きく聴こえるものだ。これまで先輩と一緒にいるときの後輩くんというのは先輩とほとんど二人きり、先輩が近くにいるのに先輩以外の誰かと話すというシーンはなかった。
でも待てよ? 先輩がそんなこどもじみたおへその曲げかたをするだろうか? もちろん後輩くんは先輩のおへそを見たことがない。けれどひょっとしたら、いまこの瞬間も、先輩のおへそはねじねじぐるぐると曲がっていく最中なのではあるまいか。そんなはずはないと思うけれど、そうであっては困るもので、後輩くんはついつい考えてしまうのだ。
「……そういえば、後輩くんは? 名前」
蒔田さんがいつからかカウンターの中に入ってカクテルを作っていた。代わりにとても美味しくて健康的なごはんを振る舞ってくれた中寉さんは、先輩の座っていた高い椅子に腰掛けているのだった。
「僕はもう知っています。大学で出席取るときに見えてしまいました。美しいお名前です」
褒めすぎです、と後輩くんは肩を縮ませる。
「えーどんなの?」
蒔田さんがカウンターに肘をついて身を乗り出す。学生証を覗き込むなり彼は声を上げた。
「あ、ほんとだぁカッコいいし綺麗」
「ご両親はだいぶ凝ったのねぇ」
ミツルママもうんうんと頷いて、後輩くんの髪を分厚くて温かい手のひらで撫でてくれた。そういう見かたも出来るか。後輩くんにこの名前を付けてくれたのはお母さんである。
「え、じゃー待って、ひょっとしてさ、ファルヴィイは後輩くんの名前を……」
自分を三角形に取り囲む三人が視線を交わす。
「まだ、知らない……、ということですか?」
一歩引いたところにいた白湯川さんが目を丸くする。
「僕らは、だって、名前とか知らなくても、先輩と後輩で知り合って……」
変だろうか、後輩くんはちょっとしどろもどろになってしまった。四人は特定の言葉で先輩と後輩くんの関係を定義することはしなかったが、後輩くんは慌ててこう言いたい気持ちになった。
「だから、さっき申し上げたんです。先輩の名前を僕に教えないでくださいねって。僕の名前も先輩にはまだ教えないでください」
本当のことを言うならば、蒔田さんたちに自分の名前が知られてしまったこともちょっと後悔している。妙なことを主張した自分を恥じながら、それでも後輩くんはほんの少しだけでも先輩と繋がる秘密を残すことに執着したい気持ちが芽生えた瞬間、胸の奥がちくんと痛みを訴えた。
先輩はいまどこにいるんだろう。
後輩くんという人物について、先輩よりもどんどん詳しくなっていく人たちに囲まれて、それでも後輩くんは先輩を恋しく思った。後輩くんなんかよりもずっと先輩に詳しい人たちがここにいるというのに、彼らから先輩の本名だとか、ひょっとしたらそれに付随して性別までも、先輩以外の誰かから聴かされることには、ちょっと耐えられそうもない気持ちになった。
それでも、彼らは親切心からか、それともうっかり、教えてくれてしまうことがあるかもしれない。
であるならば。
「あの、僕、そろそろお暇します」
唐突を自覚しながら言うことにも、妥当性があると後輩くんは思うのだ。
お酒が入っていると言っても、判断力は通常のまま働いているし、目が回ったり頭が痛かったり気持ちが悪かったりということもない。どうやらこの身体は、決してお酒に強いわけでもないみたいだけど、極端に弱いということもないらしい。
「ああ、では冨緑の駅までお送りしましょう」
中寉さんが高い椅子から降りようとするのを制して、後輩くんは四人の男性に向けて頭を下げた。新鮮な体験をたくさんさせてもらった、晩ごはんもごちそうになってしまった、心からの感謝をこめて。
「本当に、ありがとうございました。次、また、先輩と一緒にお邪魔させていただきます」
「後輩さん」
中寉さんは、後輩くんの本名を知っていてもそう呼んでくれる。
「この時間は、だいぶ人が多いです。どうかお気を付けて」
秘密に義理立てする自分に共感してもらえているみたいで、なんだかほんのりと嬉しく気恥ずかしい。バー「緑の兎」を後にして、実のところ駅がどっちであるのか全く覚えていないし、もっと言えば後輩くんはここまで、……それこそミツルママと出会ってもなお、この宿木橋という飲み屋街がどんな性質の場所であるのか、まだ全く認識出来ていないのである。