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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは帰れない。
7/30

カマイタチ

 中寉さんという人は、寝起きこそあの通りぐだぐだしていたのに、覚醒すればかなりに鋭く回る知性を秘めた人である。

 いざミーティングが始まると、表情をほとんど動かすことなくてきぱきと場を仕切り、二週間後に迫った学祭における「お茶会」のタイムテーブル、必要な小道具のリストやリース先などがかっちりと決まってしまった。

 部外者でありながらミーティングの間ずっと後輩くんは王子様部の部室にいた。もちろん余計な口は一切挟まずにただ空気のように存在していただけ。かと言って疎外感を覚えることがなかったのは、後輩くんに厚かましいところがあるからだろうか? どのみちここを出たって行く場所はないのだし、先輩がここにいるのなら、自分も居たい。追い出されないみたいだから、腰を据えて居てしまおうという魂胆、……やっぱり後輩くんは厚かましいかもしれない。

 ミーティングの間、先輩はほとんど黙って、かと言って中寉さんたちから意見を求められるということもなく、編みものでもしているみたいにやや俯き加減に座っていた。ただ唯一先輩が声を発したのは、

「先輩は、今年もお手伝いして頂けるということでよろしいんですよね?」

 という問いを中寉さんに向けられたときばかり。

「ああ……、まあ……、そうだね……」

 数秒の沈黙を挟んでから、先輩はやっと答えた。

「それは、どちら(・・・)でご参加されるのでしょう。去年同様、『ファルヴィニッヒ王子』としてでしょうか、それとも『メイドのデルフィネス』として?」

 その問いには、しばし沈み込んだように考えて、緩くかぶりを振った。

「すまない、……いまは決められないな」

 先輩は王子様部の部員ではない。ただ、どうやらなんらかの理由があって彼らと互助関係にあるらしい。だから先輩は後輩くんのボディガードという仕事を王子様部に依頼したし王子様部も先輩に学祭への協力を求めるのだろう。

 王子様の先輩、メイドさんの先輩……、後輩くんは想像するだけで、冬の寒さをしのぐために大事に取っておきたいぐらいに指先がじんわり熱くなるような感覚に陥った。先輩が王子様なら、とても高雅で気品溢れる人であるに違いないし、メイドさんであったなら、細やかな気遣いの行き届いた有能さを発揮するだろう。先輩みたいな王子様に傅けるならば、むしろ僕がメイドになりたいです……、後輩くんは先輩と同じ次元を生きていることが、なんだかもう素敵なことのように思われた。

 けれど、今日の先輩はなんだか、ご機嫌がよくないみたいだ。

「先輩、後輩さん、この後なにかご予定はおありですか」

 後輩くんがたっぷり六時間も長居してしまったサークル棟を出たところで、中寉さんにそう訊かれた。先輩は答えない、しかし、中寉さんを無視しているわけでもない。なお、本橋さんと吉野さんはせっかくの土曜だからともう帰ってしまって、中寉さんと蒔田さん、そして先輩に後輩くんという四人だけが残っている。

「もし開いてるならさ、いまから俺たちの働いてるお店行かない? 宿木橋にあるの。晩ごはんごちそうするよ」

 蒔田さんと中寉さんが働いているお店、今朝話に出た、宿木橋の、夜にやっているごはん屋さんということだ。いや、夜から朝までやっているということは、ごはん屋さんというよりは居酒屋さん的な場所なのではあるまいか。

 後輩くんは都会に出てきてまだ半年、夜にふらふら出歩くなんてことは滅多にない。夜九時を過ぎて仕事でもないのに表にいるのは不良のやることだと思って居たので。しかし二十歳を過ぎて不良も何もあったもんではないな、ということに最近ようやく気付いて、先々月、これはお父さんが転がり込んでくる直前のことだけれど、夜の九時半にマンションから五十メートルほどのコンビニへ、用もないのに出かけて行って、別に必要だったわけでもないのにボールペンとアイスキャンディーを買い、出たところの駐車場にて高校生の男の子たちがしゃがみ込んでワイワイ話しているところを見付けて、目を合わせないようにこそこそ早足で駆け帰って来るという冒険をした。その次の段階が夜の歓楽街というのは大人の階段を一体何段飛ばしているのやら、股関節がどうにかなりそうだけれど、先輩が行くのなら行きたいと後輩くんは思うのだ。

 だって今日、先輩と会えたのに、まだほとんど言葉も交わしていない。会えただけでもラッキーだと思うべきなのかもしれないけれど、それだけでは満足出来ないのが人情というもの。

 ただ、問題は……、財布の中身だ。

 ごはん代は、いや、まあ、ごちそうしてもらえるというならそれはありがたいし厚かましかろうとも甘えさせていただく所存なのだが、今朝お父さんに千円渡してしまって、後輩くんの財布の中は残り二千円しか入っていない。月曜日が給料日であるから、そこまで堪えればと思っていたのだが、交通費を捻出できるかどうかギリギリのライン。

「……私は構わないが。冨緑(とみどり)にはどうせ用事がある」

 冨緑、というのが宿木橋の最寄駅、大ターミナルである。

 後輩くんが言葉とはぐれている間に、先輩が言ってしまった。但し、後輩くんのほうを見ないで。いや、先輩は蒔田さんのことも中寉さんのことも見ていなかった。横顔は、冬の鉄棒みたいにひんやりしている。あからさまなまでの不機嫌、しかし何に対して不機嫌になっているのか後輩くんには判らない、……この件に限らず先輩のことで判ったことなんてこれまでほとんどないのだ。

 判らないままで「僕は行きません」なんて言ってしまったら……。

「僕も行きます」

 考えている途中で言葉は口をついて出てしまった。自分の中で結論が出ていたわけでもないのに。それでもこの反射神経は、ちょっとばかり褒められてもいいように思う。これまで見て来た通り、後輩くんという人は考えが行動に移るまで時間が掛かる傾向がある。よっぽどのこと、……それこそ、目の前で大好きな人が害されようとしているぐらいのことでもないとパッと動くことはなかなか出来ないのである。

 ただ、先輩は一瞬意外そうな顔で後輩くんを見たけれど、それだけ。何も言わなかった。

 後輩くんはさっきから、先輩の冷たさに触れるたび、毛穴という毛穴がきゅっと縮こまる。ここまで徹底しているとなると、……そして中寉さんと蒔田さんの言葉にはちゃんと反応するとなると、先輩の不機嫌の理由は僕なんじゃないか……、ということが、後輩くんにも少しずつ判ってくる。

 僕、何かしましたでしょうか。

 という問いを向けられないまま、猪熊駅まで来てしまった。後輩くんは「いまどき……?」と思われるかもしれないが交通系電子マネーを持っていない(大学徒歩圏内のところに住んでいるので、公共交通機関を使うことじたいが稀有なのだ)ので切符を買わなければいけない。宿木橋の最寄りの冨緑までは、片道四六〇円、往復で九二〇円、明日を乗り切るために千円札一枚は何とか残せそうだが、なんとも心細い話である。

 だいたい、どうしてこんなにもお財布の中がギリギリなのかと言えば、それはやっぱり、お父さんが家に転がり込んできてしまったからである。お父さんは、まあ本人には多少は遠慮しているつもりもあるのだろうけど、それでも呼吸だけして生きていられるはずもなくて、毎日二回か三回はごはんを食べなければいけない。水道光熱も当然使うのだし、もっと言ってしまえば後輩くんの安眠さえも圧迫している。

 せめて働いてくれたら。すぐに働き出すのは無理にしても、仕事を探すというポーズぐらいは見せてくれてもいいのにと思うのだけど、お父さんはきっと今夜後輩くんが帰り着くころ、朝後輩くんが出掛けに見たときと同じ格好のままでいるだろう。

 しかるに、お父さんが全面的に悪いと言うことは、後輩くんにはやっぱり出来ない。後輩くんの「今」というものは、だいたい後輩くん自身が原因になっている。お父さんは昔からお酒が好きで、十年ほど前にそのせいでちょっと体調を崩したことがある。そのとき「何で俺がこんな目に」と恨みごとを口にしていたけど、なんてことはない、人はその人が飲み食べたもので出来ている、だから因果応報、自業自得。

「そういえばさ」

 冨緑に向かう電車の中で、蒔田さんが言った。

「後輩くんは休みの日どんなとこで遊んでるの?」

 駅でも電車の中でも、この人は周囲の視線をその細身に集めていた。華がある、なんて言い回しがしっくり来る人だ、見た目が美しいだけでなく、表情や声も、なにやら人の心に訴え掛けるものがあるのだ。

「猪熊から出ることはあまりないです、なので、だいたい家にいます」

 先輩や中寉さんが、そしてだいぶ無理してカテゴライズするなら後輩くんも、月や冬に親和性の高いタイプであろうけれど、蒔田さんは太陽のような人だ。

「そうなんだぁ……。あのさ、いまさらだけど後輩くんは名前なんていうの?」

 当たり前の問い、しかし後輩くんは自分の、わりと日陰で目立たずこそこそしているのが似合うような顔に、強い陽射しが当たって、いろんなアラが目立ってしまうような気持ちになった。出来ればもっと強く白飛びするぐらいに照らしてもらえたほうがありがたいのだが、それはそれとして、である。

 中寉さんも「そういえば」と後輩くんに目を向けた。

「伺っていませんでしたね。……もちろん先輩はご存知なのでしょう」

 先輩は窓の外を見詰めていた。これといったリアクションはしていない、……ように見えるのだが、高いところにある吊り革を掴む手に、僅かばかり力が篭ったように思われた。

 先輩も、後輩くんの名前を知らないのだ。お互い、まだ訊いていない。

 後輩くんが先輩に訊ねない理由は、もちろん自分のことであるからまあなんとなくは説明できる。名前が判れば性別もある程度推測出来る(もちろん、「タケシ」という女性、「アキコ」という男性だっているだろうし、「カオル」「アユム」「レン」あたりになると聞いただけでは男性か女性かは判らない)かも知れないが、判らないことがもはや、そんなに問題でもないという感覚になっているので。

 では先輩が後輩くんの名前を訊かないのは何故だろうか。

 中寉さんと蒔田さんのことはそれぞれ「了、皐醒」と呼んでいた。後輩くんも付き合いが仲良くなってもっと親しくなった暁には先輩に下の名前を呼び捨てにしてもらえるのかもしれない。しかしその前段階として、当然名前を知られなければいけないわけだ。

 本当は僕が自分から名乗らなければいけなかったのではないか……、と後輩くんはちょっと後悔している。だって後輩くんなので、名乗られる前に名乗るのがお行儀である。先輩が名乗らないまま「先輩」として在り続けるのは、ひょっとしたらそのときの後輩くんの態度にちょっとムッとして、じゃーいいよ私も名乗らないから、ぐらいの気持ちになってしまっているからなのでは……。

「君たちが付けてあげたらいいんじゃないか?」

 先輩は静かな声で言った。中寉さんと蒔田さんは顔を見合わせる。

「それっていうのは、ファルヴィニッヒ的な話?」

 蒔田さんの言葉に、「そう」と先輩は淡白に応じる。

「では、どちらにしましょう」

 中寉さんが後輩くんの顔を覗き込んだ。「まずは後輩さんのご希望を伺うところから始めましょう。後輩さんは王子様とメイドさんのどちらをなさりたいですか」

 え、どっちもあんまりしたくないですけど、とは言わない。

「メイドさんネームは俺が決めてあげる」

 蒔田さんはすっかり後輩くんの本名より新しい名前のほうに思いが向いているようだった。四人を乗せた電車がすっかり初冬の細い陽も暮れ落ちた冨緑に着くころには、後輩くんには王子様ネームとして四つ、メイドさんネームとして七つの候補が与えられることとなっていた。

 後輩くんには、漢字で書くと三文字の苗字と二文字の名前がある。苗字に「神」が含まれて、実家の魚屋さんの屋号が「魚神」だったのでいっときあだ名が「ポセイドン(そういえば、そこから更に派生して『はんぎょドン』というのもあった)」だったことは既に記した通りであるが、見た目やや大袈裟な印象の苗字に負けない程度の画数の名前を併せ持っている。

 後輩くんの名前の意味は「広く慈しみの心を人に向けられるように」ぐらいのものだそうだが、名前にごてごてと意味を籠めるのは余裕のある時代ならではなのかな、ということを大学一年生の後輩くんは思う。

 こどもの数が貴重になればなるほど一つの名前に引っ掛ける荷物が多くなるということだ。そういう考えに立ってみると、中寉了さん、蒔田皐醒さん、それぞれ美しい響きのカッコいい名前だと思うけれど、引っ掛かっている意味のベクトルはだいぶ違うなという気がする。そして先輩はどんな思いの鞄が引っ掛かった名前なのだろう? このところにわかに「王子様/メイドさん」として複数の名前を持つ人たちと一緒にいるようになって、なおかつ名前の判らない人のことを好きになってしまったものだから、これまでにない深度で人の名前について考えるようになっているようだ。

「後輩さん、こちらです」

 都会の人混みに慣れていない上に考えごとをしながら歩くようなことをするのは大変危なっかしい。後輩くんは四人の中でただ一人百六十五センチをはっきり超えている蒔田さんのすぐ後ろに付いて歩くことになった。ほかの二人は後輩くんよりももっと背が低くて、中寉さんは百五十五センチしかないそうである。

 駅からなだらかな下り坂の並木路を進み、映画館やボウリング場やカラオケやフットサルコートや、あらゆるジャンルのごはん屋さんに居酒屋さん、この世の娯楽を一平方メートル辺り四つ五つは詰め込みましたと言わんばかりの密度で充満しているようなエリアを抜けて、暗渠だろうか、くねくねした細道を一本渡ったら、どうやらそこが「宿木橋」と呼ばれる場所のようだ。そういえば暗渠らしき道を渡るときには乾いた道の上に橋の欄干が立っていた、あれが地名の由来なのかも知れない。

 活気のあるところだ。

 通りをたくさんの人たちが行き交っている。ちょうどサッカーの試合が始まったところであったらしく、道に大きなテレビを向けている店がある。その店の前には人だかりが出来ていて、ワンプレーごとに手にしたグラスからビールが溢れそうな歓声が上がる。また、上機嫌に歌を唄いながら肩を組んで歩いている人がいる。向こうから来た人とこっちから来た人が、友達同士だったのか嬉しそうに駆け寄って手を叩き合って、路地へ消えていく。

 ほんのちょっと前まで、……後輩くんのお母さんから一時的に味覚を奪ったウイルス禍のあったころには、この賑やかな街路も閑散としていたのだろう。いまこうして、たくさんの人が楽しそうに歌って酔っておしゃべりをしているところを見ていると、こうした世界観とはこれまで無縁に生きてきた後輩くんも、よかったなぁ、なんて思える。仮に世界がまだウイルスに対して無力なままであったなら、後輩くんは先輩にも出会えていなかっただろうし。

「遠路はるばるお疲れさまー、俺たちのお店へようこそ!」

 ずっと後輩くんを背中で導いてくれた蒔田さんが立ち止まって振り返った。

 あ、思ってたお店と違う、と後輩くんは青ざめた。

 おいそれとご馳走になってしまっていいようなタイプのお店ではない、これは、あれだ、ちゃんとしたバーだ。それなのに後輩くんときたら、毛玉がないだけマシなセーターに、裾の擦り切れたジーンズなんて気の抜けた格好だし、お財布の中には一五〇〇円ぐらいしか入っていないのである。後輩くんは自分の鈍感さを呪った。中寉さんの、蒔田さんの、先輩に負けず劣らず洗い磨かれた容姿や雰囲気を見れば、二人が働いているお店がおしゃれで高級であることを察せていなければいけなかった。だいたい先輩は何者であるか。いや何者であるかがこれっぽっちも判らないのが先輩であるが、確かなこととして先輩は探偵なのである。探偵が飲酒する店といえば、そんなもんバーに決まっているではないか!

 尻込みしている後輩くんの前で蒔田さんによってドアが開かれた。黒くて分厚い木の扉、カランカランと鳴るドアベル、微かに聴こえてきたのはジャズである。格好いい。後輩くんの世界には今までなかったものばかり、あんまりにも居た堪れなくて逃げ出したい気持ちに駆られたけれど、

「どうぞ」

 中寉さんの両手が背中を押すのだ。前門の美青年、後門の美青年、その後ろにどっちか判らない先輩、凡人には厳しい世界観である。

 こういうとき、後輩くんは、というか後輩くんに限ったものではなく、後輩くんみたいな(・・・・)人は、自身の存在を出来るだけ小さくすることに専心するのだ。具体的には、目立つことは何もせず声も発さず(だって、動顛しているので出したなら変な声になる公算が高い)動作のヴォリュームも下げる。

 モノトーンで仕上げられたクールな店内、歳上の美青年二人に導かれて、カウンターの椅子に腰掛けて、ほっぺたが二三日放っておいたごはんみたいにかちかちになっている自覚が芽生える。

 先輩が、後輩くんの隣に腰掛けた。今日ずっと不機嫌で、後輩くんにも目を合わせてくれない先輩が、隣に。ぎこちなくそちらを向けば、もの憂げな横顔、ちらりと後輩くんに視線を向けた。ずいぶん久しぶりのことのように思われて、気が緩んで目が潤みそうになってしまった。

「……後輩くんは」

 ああ、やっぱり、……やっぱり先輩がいい。先輩に「後輩くん」って呼ばれるのがいい。昨日まで平日毎日、一日に三回か四回はあの喫煙所にて顔を合わせるたびに、その声でそう読んでもらえていた。後輩くんは自分にとってその事実がとても大きいのだと再認識する。それこそ、わりとろくでもない状況に押し込まれてしまっているっぽい後輩くんが、うん、平気、なんとかなるって自分に言い聞かせていられるのは目下のところ、先輩がいてくれるからである。

「はい……」

「お酒は呑めるの?」

「少しだけ、呑めます」

「そう」

 聡明な先輩には、この空間に来てがちがちに緊張している後輩くんのことなどお見通しだろう。ずっと不機嫌でいた先輩が氷を溶かすように少しずつ声を柔らかくしていく。それは、冬が終わり春が来たぐらいの幸福な温もりを後輩くんに感じさせてくれる。

 後輩くんは徐々に周りが見えるようになって来た。こうしたバーの世界観を、後輩くんは創作物でしか知らない。後輩くんが先輩と並んで座るカウンターがあって、後方にはソファとテーブル。二十人も入れないだろうなという小さなお店だけど、狭苦しさは少しもない。後輩くんの正面の壁には、それがウイスキーなのかブランデーなのか、……ワインやビールではなさそうだけど、その他のスピリッツである可能性に関してはどれ一つとして後輩くんは否定できない酒瓶がずらり並んでいる。仮に後輩くんが学校の先生になって、なぜかインターナショナルスクールに赴任することになったなら、教壇から見る光景はこんなだろうか? 教職課程は取っていないけれど。

 中寉さんと蒔田さんはいなくなっていた。カウンターの中には三十代の半ばぐらいかな、と思われる、背の高くてシャープな体型の、冷ややかな目をした男性と、こちらはもう少し若そうな、しっかりめの身体付きだけど優しい顔立ちをした男性がいて、二人とも先輩と顔見知りなのだろう、年嵩の人のほうが、ガラスの灰皿を先輩の前に置いた。

 先輩が小さく「ご無沙汰しています」と言った。後輩くんは先輩が敬語を使うところを見るのは初めてだった。どうやら少なくともこの男の人よりは歳下であるらしい。まあそうだろう、僕より歳下かも知れない、という思いはいまも捨てていない後輩くんだった。

「ところで……。ああ、サユカワさん、エーラッハをロックでいただけますか。ウイスキーだけど後輩くんも同じのでいい? では二つ」

 何か言いかけて、先輩は言葉を止めた。サユカワさん、どんな字を書くのだろう、強そうな身体の優しそうな人は「かしこまりました」と綺麗な声で応じ、壁の酒瓶を手に取った。サユカワさんの視線が逸れた隙間を縫うように、小さな声で先輩が後輩くんにも囁いた。後輩くん以外の誰にも聴こえないように、……先輩の言葉が後輩くんの頬や耳の産毛を揺らすぐらいの距離。冬近い風に少し乱れた先輩の髪のにおいも届く。同じホテルの同じ部屋に泊まって、自分とこの人の髪のにおいが同じになったことがもう何度もあるんだという事実に、後輩くんは震えそうになる。

「……君は、ここがどんな(・・・)街か知っていて()いて来たの?」

 後輩くんは(やや気持ち悪い)陶酔に沈み掛けていたが、先輩の言葉は聴き逃さない。

 どんな街?

 都会の繁華街、ということではないのだろうか? 冨緑駅から徒歩十分ほど、さっき見た「宿木橋」の欄干は、後輩くんも文学部で、しかも国文学をやっているので、興味を惹かれた。ああいうものをわざわざ残すということは、きっと何らかの歴史があって、じっくり探していけばだいたいそれを取り扱った小説テクストに出会うことが出来るものなので……。

 しかし、それ以外は特徴をまだ見付けられていない。

 後輩くんの生まれ育った赤州は、言ってしまえばだいぶしょぼいところで、住んでいる人の話し言葉をよその人が聴くと「喧嘩してるのかと思った」と心配されることがしばしばある以外、本当に何もないところで、飲み屋街なんてものも、後輩くんは知らない。後輩くんは受験を控えていたので成人式には参加しなかった、市役所隣のホールでしめやかに行われて、みぞれのチラつく中、参列した新成人たちは特に問題も起こさずとぼとぼと手と足の指先を悴ませて帰途についたそうである。つまり後輩くんはどの街であれ飲み屋街を知らず、この宿木橋界隈に特徴があったとしても、それに気付くことは出来ないのである。

 あるいは、これまでのところそんな余裕もないと言うべきかも知れないが。

「お待たせいたしました」

 サユカワさんが先輩と後輩くんの前にグラスと、ミックスナッツの入った小さなボールを置いた。かしこまって「ありがとうございます」と頭を下げた後輩くんの隣で、「サユカワさん、今日はこちらなんですね」

 と先輩が言う。

「ええ。いま改装工事中なので、ウエノハラさんにお願いして置いて頂いてるんですよ」

 グラスを拭いていた、長身の人、ウエノハラさんというらしい。こちらは普通の苗字だ。

「……中寉が卒業するまでは、サユカワさんにちょくちょく入っていただけるとありがたいんですが」

「サユカワさんはいつもはこの近くの別のお店で働いていらっしゃるんだ」

 教えてくれた先輩に、へぇ、なんて顔で頷く。先輩は中寉さんたちと親しくて、この街の事情にも詳しいらしい。飲み屋街に顔が効いて、こんなお洒落なバーのカウンターでも堂々としていて、やっぱり先輩はすごいな、探偵さんなんだな……、としみじみ感じ入ってしまいそうになる。

「では、……頂こうか、後輩くん」

 先輩が、今日初めての笑みを後輩くんに見せてくれた。その顔は、やっぱり歳上とは思えないぐらいにあどけなくて、可愛くて、でも格好良くって凛々しくって、何もかもが判らなくなってしまう。サユカワさんやウエノハラさんは、先輩の正体をきっとご存知なのだろう。

「乾杯」

「はい、あの、乾杯……」

 薄いグラスを不器用に当てて、恐るおそる、先輩の真似をする。

 先輩の、艶のある唇の触れたグラスが、そのまわり、少しだけ曇る。そんなところをまじまじと見て、性的だと思ってしまうことが後輩くんは我ながら気持ち悪いなあと思う。一滴のアルコールだってまだ口にしていないのに、先輩を見ているだけで頬が紅くなりそうだ。

 一方で、……生まれて初めてのウイスキーは、不思議な馨りでまず後輩くんを戸惑わせる。

 潮の香りがした、……それから、木材を燻したような煙たさ、そして、何かの間違いかしらんと思ったけれど何度嗅いでも明らかな、……お腹の薬のにおいだ。

 困惑を隠しつつ、先輩の真似をして、唇を当てる。お酒に親しんだことのない後輩くんではあるがさすがに常識は備わっていて、これはガブガブ飲んではいけないやつだとわかっている。そーっと唇の中へ染み込ませて、舌に巡らせて、あ、熱い、辛い、ピャーなんだこれ、と混乱を来した次の瞬間には、さっきの謎めいたにおいからはまったく想像もできない、葡萄やリンゴ、明るくカラフルな色彩を伴う味と香りが花から抜ける。掛け値なしに後輩くんは一瞬、恍惚となった。

 頭に浮かんだのは、曇った空の下の海である。後輩くんは崖の上で転寝をするようにぬめる入江を見下ろしている。色彩に乏しい世界であるはずなのに、雲間から陽が差した瞬間、気付いていなかっただけで最初からそこに存在したのだろう、世界にたくさんの色彩が溢れていることに気付かされて、呆然とする……。

「おいしい?」

 先輩が首を傾げて聴く。先輩はまるで雲を割って降りてきた天使である。

「……はい、あの、……たぶん、すごく」

 先輩はくすぐられたように笑った。

「多分? そうか、多分でも気に入ってくれて嬉しいよ、私の好きな銘柄なんだ。これはアイラモルトと言ってね、お腹の薬の香りがするだろう……」

 先輩のご機嫌は、もうよくなったらしい。何にご立腹であったのか、後輩くんにはまるで計り知れない。僕の言ったことやしたことで先輩が不快になっては困るな、と先輩の横顔を眺めながら思った。細くて長いけれど、しっかりした手を見ていると、男性かなぁ、と思う。けれど潤いを帯びた声は、男性のそれとは思えない。骨が細い、しかし肉付きもある、性の顕著な記号を削り取っているか、あるいは極限まで妥協し譲歩したところに先輩だけが存在している……。

 しばらく先輩の、ウイスキーに関して傾聴すべき蘊蓄(うんちく)にうんうんと頷いていたところに、店に着いてすぐどこかへいなくなってしまっていた中寉さんと蒔田さんがやってきた。手には、どこかのスーパーのものらしいビニール袋がぶら下がっている。

「そろそろごはんを作りますよ。後輩さんは召し上がれないものはありませんか」

 ごはんを作ります、なんて言われるのはものすごく久しぶりのことで、ぽかんとしてしまった。そうだ、ここへ来たのは「晩ごはんをごちそうします」と言われていたのだった。

 しかし、こういうバーで「ごはんを作ります」というのは意外な言い回しである。この店のマスターであるらしいウエノハラさんは平然とした背中で酒瓶の数を数えている。どうやらお店の奥にはきちんとしたキッチンがあるのだろう、中寉さんはひょいひょいとそちらへ引っ込んで行き、蒔田さんは料理は彼任せにして自信は後輩くんの隣に腰を下ろした。

「すっごいね、後輩くんほっぺた真っ赤になってる」

「そうでしょか」

「きっとあんま強くないんだね。可愛いんだ」

 蒔田さんは、不思議な男の人だと後輩くんは思う。なんとも形容しがたい和やかな雰囲気を纏っている。こんな男の人に優しく微笑まれたら、多くの女性は心臓にレモン果汁を垂らされたみたいな気持ちになってしまうのではないだろうか、……いや、女性ばかりではなく、少なからずの男性だって。

 中寉さんもそういうところがある。男性でありながら、その枠に収まらない可愛さを備えているのだ。あるいは、男性は大人になるに連れて脱ぎ捨てなければならないと信じこまされてしまいがちな「可愛い」の衣を今も大事に纏っていると見てもいい。

 後輩くんが考えてみるに、幾つになっても、男であっても、誰かの口から発される「可愛い」という言葉を自身の栄養にして悪いはずがない。可愛いということだけに価値があるとは思わないけれど、可愛いことそのものには価値があるはずだし。

 仮に先輩が男の人であったとして、後輩くんは、先輩がそう言われることを嫌と思わないかどうかをよーく見極めた上で、きっと「先輩は可愛いですね」と言うだろう。

 いや。

 それは、ひょっとしていつ言ってもいいことなのではないか。

 実のところ、これが人生初めての飲酒であり、蒔田さんに指摘された通りどうやらあんまり強くないらしい。しかし、なんだかほわほわして、暖かくて気持ちいい。お酒っていいものですね、と先輩に言おうとして顔を向けたところで、店のドアベルが鳴ったわけでもないのに冷たい隙間風が入ってきて、頬を叩いて行った……、みたいな錯覚に後輩くんは陥ってしまった。

 いや、もっと鋭い旋風、あるいはカマイタチ……。

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