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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは眠れない。
4/30

先輩と既成事実

 先輩の性別は判らない。

 けれど今日の昼、先輩を初めて見たとき、黒猫かもしれないと思ったことを後輩くんは思い出した。そう長くもない左腕を後輩くんの腕に絡めて(これが正真正銘初めての「接触」である)引き寄せると、後輩くんの、もちろんそんなに頑丈ではない身体を上体の支えにしながらぴょんと両脚を放り出すように藤村の腹へスニーカーの底を食い込ませる。続けて、躊躇いがちに後輩くんのリュックを掴もうとした菊池に、ごく低い位置から飛び付いて尻餅を突かせた。

 何という俊敏さであろうか。

 スリムでコンパクトで曲線的な身体にどれほどの筋肉が備わっているのやら、まるで判然としないが、その全てが弾力に費やされているのではないかと思うほど、しなやかなバネである。もちろん力の大きさには限りがあるようで、蹴られた藤村も転ばされた菊池もすぐに立ち上がって襲い掛かって来るのだが、先輩は後輩くんを社交ダンスのパートナーのようにくるくる回しながら、巧みに、着実に、反撃の一手を繰り出している。

 後輩くんはラブホテルでの盤上対話を思い出していた。先輩の操る駒はまるで、軽やかなダンスステップを踏んでいるかのように心地よく後輩くんを翻弄してくれたのだ。

 それでも幾度かは、後輩くんが指した手に、ぴたりと動きが止まる瞬間があった。盤上に顔を寄せて覗き込んで、「……へぇ……」と呟く声には、手の届かないところを刺激されたような、それがちょっとだけ癪に障ったような、ごく素直な気持ちが顕れていた。そして後輩くんの好手を、「これはとても筋がいい」「強い手だ」「基礎がしっかりしている以上のものを感じるよ」と褒めてくれたのだ。

 ちょっとやそっとのことでは揺らがない先輩。後輩くんはただ先輩と踊っていればいいのだった。先輩は時に応じて、後輩くんの腕や腰に掴まって、ポールダンスのような軽やかな空中舞踏をする。一撃一撃はとても弱いのだろうけれど、蓄積すれば明日の朝に鈍痛となって襲い掛かって来ることは必至である。先輩は平和的に、あくまで二人が気持ちを切らせる程度の打撃しか加えないと決めているのかもしれない。

 さもなくば、先輩の筋力ではそれが限界なのか。

 だとすると。

 ……二人はやがて気付くのだ。この小さな人は、力が弱いぞ、蹴られてもそんなに痛くないぞ、ということに。

 後輩くんを支柱に振り上げた幾度目かの蹴りが、藤村の腕に捉えられた。あっ、という声も上げずに先輩が反射的にしたのは、後輩くんが倒れぬよう転ばぬように両手を後輩くんから離すことだ。蹈鞴(たたら)を踏んだ後輩くんの腕に、汗ばんで不快な菊池の手が絡み付いた。後輩くんが短く悲鳴を上げたとき、先輩はジョギングコースにうつ伏せで押し付けられていた。

 やはり、先輩は筋肉に乏しいのだ、大の男と言っていい藤村に捉えられてのし掛かられれば、もう身体の自由は完全に奪い去られてしまう。

「ぐ、ぐ、ぐっ、梃子摺(てこず)らせてくれたな……、あんなに何度も何度も蹴られれば、こっちだって手加減は出来ないに決まっているだろう!」

 先輩は細腕をぎりぎりと捻り上げられて、声も出せない。後輩くんも後輩くんで、自分よりも体格に秀でた菊池に両手を拘束されて身動きを取ることは能わず、

「ちょっと! やめてください! 先輩は関係ないでしょう!」

 発せる限界のヴォリュームで非難の声を上げることがかろうじて出来るぐらいである。

「こいつは俺たちの、大日氣弥益さまへの思いを軽んじた、のみならず、のみならずだ、君を汚したのだ! 正直に言いたまえ! 君! 君は俺たちの仲間だろう、これからも一緒に大日氣弥益さまへのご奉仕を続けたいんだろう! 俺たちと共にボランティアに励むことこそが、君と君のお母さまの望みであるはずだ! そうなのだ! そうだな!」

 藤村のやかましい声に塞がれながらも、先輩がとても汚い言葉を呟いたような気がして、後輩くんはびっくりした。英語の、Fから始まる言葉だったような気がした、しかしそれにしてはちょっと長いか、……ファナティック、と言ったのかも知れない。

 身を(よじ)っても傾けても菊池の腕を振り解くことは出来ない。藤村は後輩くんが彼の言葉に同意しない限り、先輩を離しはしないだろう。絶望めいたものが後輩くんの肌へ、くちゃくちゃの見えない皺を寄せさせるようだった。

 それは痛烈なまでの悲しさ、情けなさ。自分の中にある感情、この数時間で芽生えてしまったばかりか、もう既に花を咲かせてしまった感情が、内から膨張して、崩れそうな後輩くんの輪郭を支えているみたいだった。

 本来ナイーヴなところがあって、でも人よりも結構打たれ強いんだぞ僕はぞ、と自分に言い聞かせて生きている後輩くんである。だからこそ、これまで見て来た通り、少々の苦痛ならば気合いで乗り切ってしまう。

 しかるに、それはあくまで理不尽の針が刃が自分に向かって来るときに限って発揮される強さだったのだと、後輩くんは今、この瞬間に初めて学んだ。

「は、な、せ」

 ギリギリと腕が捩れる。

「先輩をぉ……、離せぇ……」

 不意に想定よりも後輩くんの抗いが強まったからだろう。菊池が「う、動くなよ、じっとしてろよ」と戸惑ったような声を上げた。

 僕は先輩のこと好きになってしまったんだ。

 先輩はまだ、どっちか判らないけれど。

 ひょっとしたら僕以外の人たちには、例えば藤村さんや菊池さんには、先輩がどっちだか判るんだろうか? 僕だけ、どこか重要なところを見落としていて判らないだけなのかな。僕はいつか判るときが来るんだろうか?

 どっちだったもしても。

 僕は先輩が好きなのだと思う。どっちだから嬉しい嬉しくないという気持ちを抱くことさえ想像できないまま、後輩くんは腕のもげそうな激しい痛みの中で、はっきりとそれを認めた。こんな立場で、こんな状況でと嘲笑されることに後輩くんは恐れを抱くことはなかった。

「菊池、しっかり捕まえておくんだ、もうすぐ残りの二人も合流する、そうしたら……、『櫻木山合宿』を敢行する! あそこへ行けば、喫煙邪と姦淫した罪も(すす)がれる!」

 前期が終わって、夏休みに入る前、……そのころにはもう、「日輪山」が宗教団体の下部組織であることははっきり判っていたので、合宿参加を強要されたけれど「アルバイト先が人手不足で、僕が入らなければいけないので」と断った(バイト先に「大日氣弥益の信徒」がいなくてよかった)のである。

 宗教団体の合宿、偏見に基づく想像するだけで、ぞわっと肌が粟立った。

 いったいどんな合宿なのか、想像するだに恐ろしい。いまは「大日氣弥益」なるものが目の前に実体を持って居たなら、温厚な後輩くんでも結構な暴言を向けずにはいられないだろうけれど、その合宿から帰るころには「大日氣弥益さまバンザーイ」なんて、いまの藤村のようにやたらキラキラした目で言うようになっているかもしれない……、後輩くんは幾つかの映画から得た知識を根拠とした恐怖心が背中をムカデのように這い上がるのを覚えた。

 けれどそんなものは、先輩を傷付けられた怒りを前にすれば、ごくちっぽけなものに過ぎなかった。

 後輩くんの左の肩の、奥のほう、思うに極めて重要なジョイントに当たる部分が、みしっ、と陰気な音を立てた。正直なところ、その音を感じた瞬間には、(みなぎ)っていた勇気が萎みかけたのである。それでも止まらないでいられたのは、後輩くんがこのときばかりはモンスターだったから。

 とても素敵だと思ったんだ。「喫煙邪」の先輩と濃厚な接触をした結果、毒されて、もうまともな人間には戻れない僕、……脆弱な人間を超えてしまった僕! そんなばかばかしくもヒロイックな気持ちに駆られて、痛みさえ忘れる瞬間を超えたところ。

 人と人とが衝突する、低くくぐもった鈍い音がした。

 遅れて聴こえてきたのは、

「いッ、たいなぁ……」

 はっきり、女性であると判る声。

 後輩くんは先輩にのし掛かっていた藤村が、彼の後方からやって来た女性ジョガーとぶつかって、というかほとんど()ねられて、ジョギングコースで仰天しているのを見た。

 ジョガーは黒髪をヘアバンドで纏めた、颯爽、なんて言葉がしっくり来る美人であった。彼女は黒にグレーのラインが入ったスウェット上下、汗に湿った顔を、蛍光イエローのタオルで拭って、

「あー? ……ねぇ、あんたたち何してるん。あっわーかった痴漢だ! 変態だ! 通報だ! 警察沙汰にしてやる!」

 極めて短絡的に決め付けて、憤然とする。かなり短気な人のようであるが、なるほど確かに、……後輩くんよりも更に小さな先輩に対して、藤村は暗がりに連れ込んだ末に狼藉を働こうとしていると誤解されても仕方がない。

「なんっ、なんだと! 違う、俺たちは痴漢などでは……」

「あーうるさいうるさいお黙んなさい、痴漢は大概そう言うもんなんですー。ったく、あんたたちみたいなのがおるからねぇ、私だっていっつもこういう……」

 サコッシュから取り出した手のひら大のもの、後輩くんははじめ、それを独特な形のスマートフォンであると誤解した。彼女が右手にしたそれになんらかの力を込めると、ばちちちちちん! と音を立てて火花を散った。

 スタンガンである。

「藤村っ」

 後輩くんのほとんどもう感覚のなくなっていた腕から菊池が手を離した。自由を取り戻した後輩くんが真っ先に先輩に駆け寄るのを見て、藤村に打つ手は残されていない。

「くそっ……、お、覚えていろ! 俺たちは諦めないからな!」

 三流の悪役という立場に相応しい捨て科白を残して、国道方面に向けて逃げ帰って行った。

「先輩、先輩っ、……大丈夫ですか、先輩!」

 先輩はぺちゃんこになっていた。無理もない、百八十近くある藤村に押さえ込まれたのだ、……どこか怪我をしていないか、いや後輩くんはほとんどもう、先輩が死んでしまったのではないかということまで恐れて、心臓が内側に向けてきゅーっと縮こまるような感覚にひとしきり震えたタイミングで、くるんと寝返りを打った先輩はむくりと起き上がった。どこも傷んでいないという顔を後輩くんに見せて、

「すまない」

 と痛そうに顔を歪めた。

「君はあの連中に、痛い思いをさせられたのではないか」

 痛い思い。いまうっかり忘れてしまえるぐらいだから、きっとどうというほどのものでもなかったのだろう。

「君には指一本触れさせないなどと大口を叩いておきながらこのザマだ。……本当にごめん」

 後輩くんは声を失った。

 今日ずっと、賢くて、冷静で、感情の動きを伺わせることの一度もなかった先輩の声が、微かに震えているのが判った。そのことを掴めるぐらいにはもう、この人のことを知っていた。

 もちろん、まだ知らないことだらけだけれど。

「いえ。……いえ、先輩、いいえ、僕は、……僕は、今日一日だけでどれだけ先輩に救われたでしょう、どれだけ先輩に守ってもらったでしょう……、僕は……」

 後輩くんの言葉の途中、

「ファルヴィニッヒ先輩」

 女性ジョガーが長い単語を口にした。ドイツ語のような、そうでもないような。後輩くんは英語と、第二外国語でフランス語をやっている。

 先輩は顔を彼女に向けて傾けて、

「ありがとう、恩に着るよ、原口くん」

 と返した。

 後輩くんは呆然として、……あっ……、と飛び上がりそうになった。

 いまの、……いまの! いまのは、先輩の名前!

 ファルヴィニッヒ。

 先輩は外国人だったのだ。そうだ、これまで名前性別年齢が判らないと思っていたが、国籍だって。髪が黒いものだから、自分と同じだとばかり思っていたが。

 先輩のことを一つ知った。それだけで、この夜の沼のほとりだって、後輩くんには素敵な場所になる。

 それにしても、女性ジョガーは先輩の知り合いだったのだ。原口さん、はて、どこかで見たことがあるような人であるなぁ、と跪いた彼女の横顔を見て思う。

 ちなみに後輩くんは字面だけ見るとどんな立派な家の子かと思うようなフルネームを持っている。実家でやっていた魚屋の屋号が「魚神(うおかみ)」だったもので、小学校四年生のときにはクラスメイトから「ポセイドン」という渾名を授かったことがある。正直あまり嬉しくはなかった。それはさておき、さっき先輩がスマートフォンを操作していたのは、この人を呼ぶものだったのかもしれない。

 ならば、この原口さんという人もまたファルヴィニッヒ先輩と同じ探偵なのだろうか?

「しかし、……彼は一緒ではなかったのかな。一緒にいたのではなかったのかい」

「大学出たばっかのとこで転んで『骨が折れたので先に行ってください』って、それっきり」

「彼の場合は本当に骨が折れていたとしてもおかしくないのでそれはそれで心配であるが。とはいえ、ありがとう」

 先輩はどうやら、後輩くんとホテルを出る前にはもう藤村たちが待ち伏せしていることをお見通しだったということだ……。

「んで、……あなたが『後輩くん』?」

 原口さんに顔を覗き込まれて、後輩くんはこくんと頷いた。

 たぶん歳上なのだけど、可愛らしい、なんというか、見る人のことを元気にするような命の煌めきがある。なぜだろう、胸の奥底がくすぐったいような感覚があった。どこかで会ったことがあっただろうか……? ぼうっとしていた後輩くんに、原口さんはにっこり笑って次のような自己紹介をした。

「私、毎朝テレビでアナウンサーをしてます、原口ヒナコっていいます、よろしくね」

 ぎょ、と目を瞠った。

 あんまり人の顔をじろじろ見るもんではない、それぐらいの常識は備わっているつもりだったが。明かりに乏しいところであるもので気付くまでにずいぶん時間がかかってしまったが、いま化粧っ気なく、髪は大雑把に括り飾り気も一切ない、ちょっと訛りのある女性は、しかしなるほど、確かに後輩くんが眠気にのしかかられて支度しながら流し見ているニュースの締めくくりの八時十四分に、「それでは、今日も元気出して行きましょう!」と明るい笑顔を向けてくれる人と同じ顔をしているのだった。

「えっあっあの、あっはい、あの、毎朝……、毎朝拝見してます……」

「えー嘘ほんとにマジですか」

 後輩くんは真っ赤になって顔を伏せる。どうしてテレビ画面の向こうの人が目の前に現れるとこんなに恥ずかしい気持ちになってしまうのだろう? 後輩くんは小さいころに児童向け教育番組にエキストラとして出たことがあるのだが、憧れていたうたのお姉さんや体操のお兄さんを見ても、なんだか照れたような気持ちになってしまったことを思い出した。

「原口くん、アナウンサーになったのだからそれらしい話しかたをしてはどうかな。それとも、私を『ファルヴィニッヒ』の名で呼ぶなら君のことも『スタンドリッジ卿』と呼んだほうがいい?」

 先輩が後輩くんの肩に手を置いた。それはごく自然な動きであったが、色々なことが次々と起きてしまうもので、後輩くんはあっちこっち熱い、変な汗が出てきた。それにしても、

「あーそれならそっちのほうが……、久しぶりにスタンドリッジって呼ばれんの嬉しいですなぁ……」

 スタンドリッジとは? さっき原口ヒナコさんだと自己紹介したではないか。

「源氏名だよ、後輩くん。私の『ファルヴィニッヒ』もそう」

「げんじな……」

 本名ではなかった……。

 捉えたと思ったらまたぬるんとすり抜けられてしまう。再び、「人間なんだろうな、たぶん」というレベルにまで先輩が遠ざかってしまって、後輩くんはすっかりしょげかえってしまった。

 いやでも、一つ判ったことがあると言うことも出来る。先輩は源氏名を持っている、探偵のほかにそういう仕事をしているということだ。いや、探偵としてのコードネームかもしれない、ゼロゼロセブン、みたいな。

 そして、……ファルヴィニッヒはたぶん、男性の名前であろう、きっとそうであろう。

 先輩はつまり、男性なのだ!

 いいや、待て。スタンドリッジは名字である、だとするとファルヴィニッヒもきっとそうだ。

 となると、結局何一つ判らないということには少しの変わりもないではないか……。

 遠回りの末に、元のところへ戻って来てしまったようだ。

 しかし、無価値ではない。一周すればした分だけ、カロリーが燃える、体力も付く。

 後輩くんは今日、先輩と出会った。それだけで素敵な一日であると、誰に求められることもなく、後輩くんは胸を張って言うつもりだ。

「あの、……原口さん、危ないところを助けていただき、ありがとうございます」

 二人はどうやら仲良しであり、メール一本で助けに来てくれる関係であるらしい。この人が来てくれていなければ、いまごろどうなっていただろう……? 二週間後、どこも見ていない瞳を輝かせて「大日氣弥益さまバンザーイ!」と迷いなく言うハメになっていたかも知れないのだ。先輩の友達、というとても羨ましい立場にいる人である、しかし先輩が信頼している人でもある。ならば、後輩くんだって原口さんのことを好きになる。いや、もともとだいぶ好きだった。

「いっすよ。日課のジョギングのついでっすから。女子アナもね、体力勝負なとこあるんで!」

 毎朝テレビのニュースの収録は都心のスタジオで行われているはずである。朝六時からのニュース出演のために、いったい何時ごろにスタジオ入りしているのか後輩くんには計り知れないが、わざわざ都心から離れた(ぎりぎり「田舎」という言葉は使わないまでも)猪熊でジョギングを行うとは、ずいぶんものずきな話だ。

「原口くんはときどきキャンパスに来るんだよ。所属していたサークルのOGとして顔を出しにね。……今日君が来ているとは嬉しい誤算だったよ、本当にありがとう」

 先輩の言葉に、ニンッと笑って、

「お安い御用。このスタンドリッジは世のため人のため先輩のために働きますとも!」

 立ち上がって、むんっ、と胸を反らす。

「ほんじゃ、私はさっさと走り終えないと寝る時間なくなっちゃうんでこれにて! あ、後輩さんは今後とも朝のニュースよろしくお願いしゃすね!」

 言葉遣いはやわらかな訛りがあってざっくばらん、しかし明日の朝、テレビを点けたらまた別人のような顔の原口ヒナコさんがいるのだろう。それを見たとき、自分がどんな気持ちになるのか……、後輩くんにはまるで想像できなかった。

「本当はもう一人呼んだのだけどね……、さっき原口くんも言っていた通り、あまりに体力も筋力もなくって、小さな子が……、いや、その子も四年生だから『小さな子』なんて言ってはいけないのだけど、見た目が可愛い坊やなものだから……」

 四年生のことを、そんなふうに言うということは、先輩はいったい何歳なのだろう。原口さんが大学を卒業したのは一昨年であるから、そう考えると……。

「それにしても、だ。後輩くん。……本当に怪我はないかい? 私としたことが、依頼人を負傷させるなんて……、本当に申し訳なかった……」

 先輩はまた頭を下げた。後輩くんもまた慌てて首を振る。

「それに、……きっと不快だっただろうね。方便とはいえこんなのと既成事実を設けてしまったことを話してしまった。喫煙者である私と密接な関係にあると知れば彼らが手を引くかも知れないと思ったんだが、事前に許可を得ておくべきだった……」

 既成事実、という言葉が、猪熊沼の水面に浮かんでいた。レイクサイドヴィラのネオンが、下品にぴかぴか光っている。

「いえ、あの」

 人生において、現実、虚構、いずれにおいても、誰かとそんな事実を設けた経験が一度もない。無論、後輩くんだって成人しているので、本来ああいうホテル的施設がどんな具合に活用されるものであるのか、……先輩が男性であれ女性であれ、後輩くんは概ね頭に入っているところではある。

「……先輩が、お嫌でなければ、僕はいいです。あの、……貴重な体験でした。僕はこれまでああいうところへ行ったことがなくて、というのは、一緒に行ってくれるような相手もいませんでした、ので、先輩に連れて行って頂けたことが、とても、その、よかったなって思うんです。だから、もし、あの、もしも、先輩がよければ、今度は、今度のときは、僕のぶんは僕が自分で出しますので、またいつか、一緒に」

 素直な気持ちを口にするとき、後輩くんは自分の姿が先輩の目に、どうか気持ち悪く映りませんようにと願わずにはいられなかった。怖くて、先輩の顔を真っ直ぐ見ることが出来ない。

「そうだね」

 先輩は声で後輩くんの視線を引き寄せて、にっこり微笑んだ。

「いつでも、また行こう。しかし、そこのホテルでなくってもいい、……ああしたホテルは他にもあるし、私の家でもいいわけだ」

 先輩から和やかな返事が返ってきたので、後輩くんは大いに安堵する。安堵してから、ばっ……、と音が鳴るんではないかと思うぐらいに頬が急激に熱くなった。

 先輩の、先輩のおうち。そうだ、この人だってどこかに住んでいるのだ、後輩くんと同じように、暮らしているのだ。

 今日、後輩くんはこんな人に出会った。仲良くなれたらいいな……、とぼんやり願い始めて、でも、後輩くんは性格上、あんまりだいそれたことは思えないほうであるものだから、友達になれたら嬉しいな……、ぐらいのことを、謙虚に思う。

 自分の日常に、この人がいたなら。

「今後恒常的に私たちが一緒にいれば、彼らも君から手を引くかも知れない。私は月曜から金曜まで毎日大学にいるし、休み時間は欠かさずあの喫煙所に行くよ、……雨が降ったとしてもね。君が私に会いたくなったら来るといい、平和なキャンパスライフを送るためにもね」

 先輩が、細い指の手をふわりと差し出した。

 ちょっと、はにかんだように、

「その、……偽りのない『事実』を作ったほうがいい気がしたんだ。さっき見ていて思ったけど、君はどうやら嘘をつくのはあまり得意でないようだったから」

 遠慮がちに微笑んで。

 後輩くんは。

 指一本一本に菜箸でも入っているのかしらんと思うほどに硬くなった指を、どうにか、こうにか、先輩の指の間に差し入れる。それはなんだかスパゲティフォークでスパゲティを掬うみたいなやりかたで、……それでも先輩の柔らかくて思いのほか温かな手のひらが自分の手のひらと触れ合い、親指の付け根がぴったりと重なったときには、耳の下がじぃんと熱くなるほど照れ臭い悦びが胸に溢れてしまった。後輩くんという人物は、この通り幸せのハードルをとても低く設定している。そのほうが不幸に耐えやすいし、小さなことで大袈裟なぐらいに喜べて、得だと思っているので。

 結んだ手を見て、先輩が呟く。

「……君には恨みという感情があるのかな。ないわけではないのだろうけど、少なくとも半日ほど君と一緒にいて、君がそれを表出させることはついに一度もなかったね」

 滑稽な不幸話をしたから、先輩にそんなことを思わせてしまったようだ。

 恨みがない、はずがない。ただ、恨んでも散らかった現実が片付くわけではないので、そんな暇があるならば、というだけのことなのだ。

「思うに、君はとても善良なんだ。その善なる気持ちに触れて、私の心が動いた。……こう見えても吝嗇なほうでね、缶コーヒーぐらいならいざ知らず、君と滞在したホテル代を私が出したと原口くんが知ったらきっと驚くよ……。そう、私は君のために何かをしてあげたい気持ちになってしまったんだ、探偵として、というよりは、一人の人間としてね」

 形が整っているだけではない。はっきり、温もりが感じられる笑みが、後輩くんに刺さった。心の在処は頭ではなく胸の辺りであって欲しいと願うのは文系人間の証左だろうけれど、後輩くんははっきり、心臓がちくりと痛むのを覚えたのである。

 それはもう、どう読もうとも鼓動の請う音。

 恋の音。

「だから、ねぇ、後輩くん。私にもう一度チャンスをくれないか。私に君を守らせて欲しいんだ。こんなにも頼りない私ではあるけれど、……彼らから、そして、君を、君の恨まぬ害意から、私が守ってあげたいんだ」

 だから、もう、後輩くんは自分より少し小さなこの先輩が、男性であれ女性であれ、何も変わらないと思った。それは肉体の性がどっちで、こころの性がどちらで、先輩がありたいようにあるものも、結果としてそうであらなければいけないものも、何であれ変わらない。

 後輩くんはこの先輩が、どっちかわからないけど好きになってしまった。

 その事実は、少なくとも後輩くんにとってはものすごく大きくて、でも先輩にバレないようにポケットの中にしまえるぐらいにはコンパクトなものなのだ。

「僕も、……あの、もうちょっとしっかりしなきゃいけないって、思いました。僕のせいで先輩がさっきみたいな目に遭うっていうのは、僕にとってすごく辛いことなんだって今日、学んだので」

「君は優しいんだね。あれぐらい大したことではない、だって私は探偵なのだからね。荒事に慣れているとは言わないが、仕事に伴って少々危険な目に遭うことは織り込み済みさ。……ああ、いつまでも待たせてしまってすまなかったね」

 後輩くんがずっと左手で抱いていたリュックサックを受け取り、ひょいと背中に回して、

「では行こう。……今夜は眠れそうかな、後輩くん」

 ついさっき痛い目に遭ったとは思えない、軽やかな足取りで歩き始める。爽やかで、とっても格好いい後輩くんの先輩である。

 眠れるだろうか。この時間も含めて、先輩と過ごした今日がずっと幸せな夢みたい。現実的に考えたなら、がっつりと昼寝もしてしまった後であるから。

 でも、先輩のことを考える、そんな自分と向き合う夜が、そう悪いものだとも思われない。

「眠れなくても、きっと大丈夫だと思います。寝なきゃ寝なきゃって追い込まれた気持ちになることも、たぶんもうないと思いますし」

 後輩くんの言葉に、先輩は嬉しそうに微笑んだ。そういうとき、ちょっと少年のようになり、

「なんなら、これからちょくちょく時間を見つけて、また一緒にホテルへ行こう。君の寝息を聴きながらだと、読書が捗るみたいだからね」

 と言うときには、こちらの心の揺れなんて全部お見通しの、手に負えないぐらい強い女の子に見えた。

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