襲撃
まだ電車も動いていない午前四時。
空に少しの赤みも射さない猪熊駅前、赤目の土竜こと赤目燈流が、あの将棋盤を背負って行員の呼んだ車に乗り込んだ。
「まあ、しっかりやれ」
彼は孫である先輩に向けてそう言ってから、後輩くんを手招きする。
「やんちゃで手に負えんとこもあるが、まあ、よろしく頼むわ」
ぽんぽん、と肩を叩いてそう笑うときには、あの切れ味鋭い真剣師としての迫力はどこへやら、優しく人好きのするおじいちゃんである。真剣師・赤目の土竜としての顔に震え上がった後では落差に風邪をひいてしまいそうであるが、誰しもがこうした二面性を持っているのである。一目見て判ったような気になってはいけない。そもそも後輩くんは何度も何度も見ているのに、いまだに先輩のことが判らない。
それでも好きで好きで仕方がないのだ。名前も、年齢も、性別も、判らなかろうが、それがどうした。
でも、好きな食べものが最近判った。先輩はどうやら炭水化物が好きである。ごはんとかうどんとかラーメンとか。でも、そればっかり食べているのは身体によくないから、節度を持って。
すっかり打ち解けた所長とヴェルデグリーン氏は二十四時間やっているファミレスに行くと行っていた。もちろん、先輩はもう百万円をヴェルデグリーン氏に返却した。もうすっかり軽くなった身体、夜明け前の街に消えていった人のことを、後輩くんも「おじいちゃん」と、やがて呼ぶことになるのだろう。
「……あの、先輩、……その、どうして黙ってたんですか、赤目の土竜さんが、おじいちゃんだったってこと……」
後輩くんの言葉は白い息になって流れる。先輩はコートのポケットに突っ込んでいた両方の手のうち、左手を出して、そのまま後輩くんのポケットに突っ込む。
「言わなくても伝わっているかなあと思っていたんだが。幼いころから私の側に居て、将棋を教え込んで、私をあっちこっちに連れていって、あれほどの高級駒をくれる人だよ? 他人であるはずがない」
盤外戦術の件も訊いてみた。あの中盤の停滞はなんだったのか。
「ああ、うん。エレベーターで二人きりになったときにね、私がサインを送るまで出来るだけ勝負の結論を先伸ばしにして欲しいと頼んだんだ。私の肚が決まるまでの、僅かな時間でいいからと」
わざわざ取られるところに置いた銀を、あえて取らない、……棋譜だけ見たら、本物の真剣師と、その弟子である人の闘いの中にそんなシーンが現れたら、なにか特別な意味があるのではないかと勘ぐりたくなってしまうところであるが、実際理由があったのだ。
サインとは何だろう、……思い返してみるに、トイレに立ったことだ。盤に戻ってきたタイミングで先輩は語り始めた。禁煙の決意、そして、……後輩くんへの告白。
「私は、ああ、まあ、ちょっとずるいところがあることは自覚しているけれども、でもねぇ、君への告白を自分の勝負を有利にするための材料に用いたりなんてしないさ。あの角切りは君との対局を通して辿り着いた研究の一手だったんだ。……それでもね、私が何か重大なことを企んでいるということを、彼に報せるだけで十分に効果はあったろう。真剣師としての彼が私の提案を呑むかどうかは半々だった。その場では返答を得ることはできなかったからね」
言われてみて、後輩くんは背筋が凍る思いがした。
闇の世界において赤目の土竜という老人はプロ中のプロ。そんな人が、孫が相手だからという理由で手加減して甘い手を指した揚げ句に負けたなどと知られたなら、赤目の土竜に真剣を依頼する人間などいなくなってしまうだろう。また、大日氣弥益側に狙われるのが、こんどは彼になってしまうことさえ想像に難くない。
かといって、先輩の指した悪手は、咎められればたちまち負けてしまうことになっただろう。赤目の土竜が先輩の求めに応じたからこそ、あの中盤の停滞が生まれた。
しかし。
「……棋は対話なり……」
後輩くんは呟いていた。ポケットの中の先輩の手が寒そうなので、先輩より少しぐらいは暖かい指先をそこに差し込む。先輩の冷たい指先がたちまち後輩くんの指を握って来た。
「そう。角を切り飛ばす手ではなかった、あの銀の白い首を差し出す手こそが、私の勝負手だったし、……赤目の土竜は赤目の土竜であるがゆえに私の言葉に耳を澄ますことを選んだ。当然ながら彼はそうしたところで私に負けるはずがないという確信があったのだろう」
ぴったり隣に並んで、もうとうの昔に見えなくなった赤目の土竜が乗ったタクシーの背中を眺める先輩の横顔を見る。
まつげが長いんだ。鼻がそんなに高いわけではないけど、きれいで。
先輩のどこからも、何かを拾うことが出来ない。でも、この人が好きで。
「あの……、先輩」
ん、と後輩くんに顔を向けた。同じものを見てくれる人の目が、少し赤みがかった不思議な色の瞳が、後輩くんを捉えてくれる瞬間が、この世界にある。求められていないのに、許可も得ずに、キスをした。
そのくせ、
「僕でいいんですか。僕なんかでいいんですか、ほんとうに」
許しを乞うように。
「君でなければいけない。私も、まあね、人間であるし、成人しているわけでもあるから、人を好きになったり、それからありがたいことに人に好きになってもらえたりという経験がある」
後輩くんよりも前から先輩を知っている中寉さんが言っていた。
あの人はあの通りの見た目ですからわりとしょっちゅうそういう相手が現れて、でも、先輩はいつもけんもほろろに断っていました。
だいぶ頑固で、人を受け付けない……、という表現もしていたっけ。
そういえば、後輩くんは中寉さんに訊かなかった。先輩に告白していた人っていうのは、男性だったのか女性だったのか。
どっちもありそうだな、と後輩くんは思う。
可愛い男の子が好きな男性女性、かっこいい女の子が好きな男性女性、どっちからも。そしてそれは──結果はどうあれ少なくとも思いの丈を伝えるだけなら──自由だ。
「でも、ピンと来なかった。悪い人じゃないと思っても、私がこの人のことを幸せにしたいかどうか、ということに関して……。そう、この人に幸せにしてもらいたいではなくて幸せにしてあげたいということを私は考えるんだ。探偵だから、……ということもあるだろうし、単純にそういう性分、性癖なのかもしれない。そして、前提として君が幸せではなさそうに見えてしまっているというのはだいぶ失礼なことでもあるのだけど」
後輩くんは我が身を振り返ってみて、……まあ、何だかんだ生きてるしな、しんどいこと多いけども人生だもんな、ぐらいの感じである。
先輩という人と出会えて、先輩を介して友達も増えた。僕という人間は、しっかりめに幸せではないだろうか?
ああでも、幸せにしてもらえるんだと言われると、それは遠慮することでもないだろうし。
一度得てしまった幸せは、決して手放したくないと思うのが人情だ。人間って、既得権益にはとっても敏感で執着心を発揮してしまうもの、だから後輩くんはもう先輩が、自分以外の誰かの隣を歩くことに冷静ではいられない。
ああ、だから、幸せになりたい、不幸せになりたくない。
幸せになりたい。
「これから先もずっと、私の隣を歩くときの、君のね、嬉しそうに笑っている横顔を私は見たいんだ。それを見るときの私の喜びが、君に想像できるかな。私が笑顔にしたいと願って、実際にそれを叶えることが出来た相手が、私の隣を歩いているときの、嬉しさ、誇らしさ……。私と一緒に歳を重ねていく課程で、何度も何度も何度もその喜びを味わいたいって私は思う。その喜びこそが、君が私にくれたものだ」
あなたがあなたであるだけで、愛したくて愛したくて仕方がなくなってしまうように、僕が僕であることがあなたの喜びに繋がってしまうのだとしたら、この早暁の一歩さえ、二人が二人で歩む人生の欠かすことは出来ない。
「とりあえず、帰ろうか。あの眼鏡の、銀行員みたいな人が勝負の行方を持ち帰ったなら、もう私たちが狙われる懸念はないから、君をアパートに帰してあげられるけど、でも、……今日ぐらいはまだ事務所にいてくれるよね?」
それは、もちろん。アパートにはまだ後輩くんのお父さんがいる。先輩を連れていくことは出来ない。今夜はもう、先輩とずっと一緒にいたい。夜が明けても、出来ればこの先もずっと、離れる時間は少しでも短くありますように……。
でも、事務所に向かって歩き出す前に、
「ところで、ねえ、後輩くん、私はずっと君に訊きたかったことがあるんだ」
先輩がそう言って、ポケットの中、後輩くんの右手の指を握る力を強めた。
「……ずっと、その、訊こうと思っていて訊けなかったことなんだ。どうもね、私も、……礼儀とかマナーとかエチケットといったものについては一応身に付けているつもりではあるのだけど、それでも、人の心の深い部分に対してどうやって踏み入ったらいいのだか、判らなくて。とてもセンシティヴな話でもあると思ったし、どう訊いたらいいのかなって……」
それは、先輩にしては珍しく歯切れ悪く、手探り、でも、とても丁寧に言葉を探している。
同じぐらい、あるいはもっと臆病に、後輩くんも先輩に、もういい加減そろそろ訊かなければいけないことがあった。もちろんそれは、先輩自身のこと。
どっちだっていい!
とは思っている。思っているのだけれど、先輩とこれから先、家族になるとして、……家庭を築くとして。
先輩の言葉を思い出す。
あんな大切な言葉を後輩くんは知らない。まだ当時、後輩くんは先輩にうっすらとした片想いをしているだけで、先輩がそれに応じてくれると思ってはいなかったし、先輩にふさわしい自分になれるなんて想像も出来ていなかったものだから、その言葉を自分のものとして受け止めることは出来ていなかった。
けれど、先輩が僕と同性だったとして、僕と異性だったとして。
もうそのどちらでもいい。どちらかを失うことになっても、先輩がいなくなるわけではない。あるいは、その失われるはずの「どちらか」さえ残る可能性だってある。先輩はだって、甘い魔法で出来ているみたいな人だから。
「私は、……その、ね。変だって思われるかもしれない、ひょっとしたら怒らせてしまうかもしれなくて、だからいま、祖父との対局よりも緊張しているんだけど、……君という人が好きな気持ちがあって、だから君と一緒に生きることを選んだんだ、それは、君が君であり、君以外の誰でもないからこそ、そう思うんだ」
「あの、……あの、はい、それは、僕もそうです。僕は先輩が好きで、僕が先輩のこと好きなのは、先輩が誰かだからじゃなくって、先輩だから、先輩が他の誰でもないから」
先輩の頬が染まる。
唇が少し、戦慄く。
それは僕自身が浮かべるべき顔だと後輩くんは思った。ここではじめて後輩くんは、先輩が何に困ってそんなに不安そうな顔になるのか、その理由を探ろうとしたのだ。先輩が困る理由がどこかにあるなんて、これまでただの一度も思ったことはなかったから。
だって、先輩は僕のことをきっと何でも知っている。
名前いがいは。
二十歳です、ということは、明言しなくたって「二浪の末に九隅文化大学に入った」という事実から明らかだろうし。だとしたら、何を問い損ねて今に至っているのか。
「……後輩くん、君は……」
という言葉を最後に、後輩くんは先輩の声を聞き取ることが出来なくなった。
代わりにになにかの音がするというのではなく、そのせいで先輩の声が聴こえなくなってしまったのではなく、全く何の音もしなくなってしまったのだ。視界は目を開けているのに瞼の裏を見ているみたいに暗闇がちかちか閃いて、先輩の顔があっという間に見えなくなってしまう。ただ、先輩が、……声は一切聞き取ることは出来ないのだけど、だから音の圧として感じたのだけど、後輩くん、後輩くん、……呼んでくれているのが判る。
名前ではなくて、「後輩くん」と。
後輩くんに、愛すべきものとして授けてくれた名前を。
ああ、だから後輩くんは、後輩くんは、自身の意識の少しでもあるうちに、こう叫ぶのだった。
「逃げてください、先輩!」




