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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは眠れない。
3/30

Fake Love Affair @ Lake Side Villa

 後輩くんがこの種のホテルに来るのは、これが初めてのことであった。

 一つの建物に対して小さな入り口が沢山あって、駐車場にはスリットの入った黄色のビニールシートが暖簾のようにぶら下がっている。何故だろう、落ち着かない気持ちで考えを巡らせきょろきょろしているうちに、建物の中へ入り、薄暗いロビーに着いた。部屋番号と価格と部屋の写真を知らせる四角いプレートがバックライトで照らされてずらりと並んでいる。あれ、灯りが消えているのは「使用中」ということだろうか。全部で二十ほどある部屋のうち、五つは埋まっているようだった。

「どこでも構わないね?」

 先輩はそう断って、八千円とちょっとという価格の部屋のプレート、の右下に埋め込まれていた呼び鈴風のボタンを親指で押した。たちまち、プレートの照明が消える。後輩くんは慌てた。

「あの、僕いまお金二千円ぐらいしか持ってないんですけど」

 その二千円だってフルに使っていいわけではない。お父さんが転がり込んで来てしまったので、このところの後輩くんは慢性的かつ深刻な金欠なのである。お父さんは絶望しているばっかりで、寝る場所のみならず食べるものも後輩くんに依存しきっているので。

「心配要らない。私の勝手で連れて来ているんだ。それにね……」

 先輩はそう言いながら、……マンションの管理人室のそれをもっとずっと陰鬱にしたみたいな印象の小窓に向けて、学生証らしきものを取り出して提示した。残念ながら名前を確認することは、後輩くんにはできなかった。

「二千七百五十円です」

 暗闇の向こうから、女性の声が聴こえた。こういうところで学割が効くとは思っていなかった。先輩はスマートフォンのバーコード決済を終えて、この場にはとてもそぐわない、知的で優美な笑みを浮かべて言う。

「さぁ行こう、後輩くん。せっかく来たのだから、存分に楽しまなければね」

 後輩くんは頭がくらくらした。

 どういうことなのだろう、……どういうことって、そういうこと(・・・・・・)と解釈してしまっていいのだろうか?

 そういう、というのはつまり、後輩くんがこれまでの人生においてただの一度も経験したことがなく、比較的楽観的に人生を生きていて、だからこそ周囲で厄介ごとがたびたび起きても比較的前向きに乗りこなして来た後輩くんであっても「僕はそういうことと縁の遠い人生なのかなぁ」ということを、高校に入ったぐらいの時期からだから、もうかれこれ五年ぐらい前には諦めてしまって久しいこと。

 入学してまもなく日輪山ハイキング倶楽部なんかにひっかかってしまったものだから、後輩くんは大学生の貞操観念がどれほど緩いのかどうなのかを知るすべもない。ゆえにこそ、インセルに与することもなく、日々に夜の猪熊駅のペデストリアンデッキでべたべたちゅっちゅしているカップルを見てもさほど胸をざわつかせずに済んでいるのであるが、これっぽっちも羨ましくないかと言えばさにあらず。

 しかし(ここで後輩くんは大急ぎで言うのだ)後輩くんは何らの差別意識に依拠するわけでもなく、自身のパートナーが同性であるかもしれないとは、一度も想定したことがないのである。

 先輩はどっちか判らない。

 自分と同性かもしれない、異性かも知れない、あるいは、先輩自身の自覚がどっちであるのか、……どっちだったらどうと言うことも、実のところ後輩くんには出来ないのだけれど、そもそもこういうことを油断して口に乗せることはもうすべきではないし、要するに、ええと、どうしようまだ何も心の準備出来てないんですけど、かといってピャーッと逃げ出したいかと言われると決してそういうわけでもないんですけど。

 先輩さっき、「よく来る」みたいなこと言ってたな……、そんなふうには決して見えないのだけど、そうだったとして後輩くんに何が言えるだろう……?

 狭いエレベーターの箱から出て、先輩はすいすいと部屋を探し当て、キイを回した。こういうところなのですか、そうですか、とこの状況下でも頭を(もた)げる好奇心に負けてキョロキョロする後輩くんは、先輩の灯した照明によって部屋の全貌を知ることになった。

 ゆったりとしたダブルベッド。

 合皮に違いないが、大きめのソファ、ローテーブル、……の上には灰皿と、ホテルの銘の入ったマッチ。

 正面の壁がステンドグラスである、と(いぶか)しんだが、その向こうはどうやらこの部屋と同じぐらいに広いバスルームになっているようである。後輩くんはそのことに気付いて、顔がかぁっと熱くなり、代わりに指先がしゅーっと冷たくなるような心持ちになった。

 先輩が慣れた様子でバスルームに入って行ってまもなく、だばだばとお湯の注がれる音が響き始めた。先輩は鼻唄混じりに戻って来て、ソファに腰を下ろし、突っ立ったままの後輩くんを愉快そうに眺めた。

「五分もすればお湯が溜まる。そうしたら、これを使ってゆっくりお入り」

 膝に乗せた紺色のリュックサックの中から、何やら紫色のパッケージの、手のひら大の紙包を取り出して、後輩くんに差し出す。横文字が書かれているが、いまの後輩くんの頭ではそれがどこの国の言語であり、どんなことが書いてあるのかを読解することはできなかった。

「あの、えっ、あの、これ、どっ」

 口から出てくる言葉も、そんな具合に、どこの国の言葉だと思うようなものである。先輩は後輩くんを嗤うことはせずに、

「バスソルトだよ、ラベンダーの」

 とすらすら言って、それから思い出したように立ち上がる。ステンドグラスの向こうは予想していた以上にいきなりお風呂であるようだが、そちらに設けられていないぶんの洗面台がベッドルームの片隅にあって、先輩は電気ポットをそこへ持っていき、お湯を沸かし始めた。

「ラベンダーには昔からリラックスの効果があると言われている。君の不眠の原因の半分は、すぐ近くでお父さまが眠っている……、決して閑静とは言い難い状況であるという理由が半分。そして残り半分は、精神的に草臥れ過ぎているというものだろう。であるならば、……どうだい後輩くん、ここは静かだろう。本来はテレワークや自習室として貸し出されているわけだが、バスルームも使えるし、寝たければ寝ればいい。いまの君に必要なのは、なによりも心をほぐして休む時間だと思うんだ」

 後輩くんは、膝から力が抜けて、危うくその場にしゃがみ込みそうになってしまった。自分は何を期待していたんだ、いや、何を恐れていたんだ……。

 テレワークや自習室……、と先輩は言った。なるほど、ウィルス禍とあってはこうしたホテルで積極的な交流もし難いものであろう。客足が遠のいて経営状況が悪化しても仕方がない。それならばと、大学の近くであるという立地から、こうした活用をしたっていい。遊休させておくよりはマシのはずだから、緊急事態が遠く去っても、用途を残しておくことに何の不思議もない。

「あの、じゃあ、いただきます、お風呂……」

「うん、ごゆっくり」

 先輩は背中を向けた。どっちなのか判らない、けれど、後輩くんはこの期に及んで先輩を警戒する気持ちにはもうなれなくて、さっさと服を脱ぐことに躊躇いはなかった。極端な話、先輩相手ならば後輩くんだってどうにか出来てしまいそうであるので……。

 バスルームの広さに、ちょっと感動する。まるで温浴施設のようだ、いや、ある意味ではそうなのかと思いつつ、身体と髪を洗って、円形のバスタブに浸かってから、慌てて先輩がくれた入浴剤の封を開けて、湯に放った。たちまち湯に美しい青紫色が広がり、優しい花の馨りがふわりと漂い始める。自分には不似合いな上品さに戸惑いつつも、後輩くんは感動をもよおし、……それからやっぱり困惑する。先輩はいつでもリュックサックの中に入浴剤を入れているんだろうか、いやそうではなくて。

 どうしてここまでしてくれるんだろうか?

 さっき顔を合わせたばかりの自分へ、先輩の向けてくれる優しさは、少々大き過ぎるような気がしている後輩くんである。探偵だと言っていたが、探偵は不眠症の相談応需なんてしないだろうし、後輩くんは探偵に依頼したつもりもない。ただ愚痴をこぼして、聞いてもらっただけ、……本当ならそれだけでもお金を払わなければいけないところなのに、先輩はこのホテルのお金だって後輩くんのぶんまで支払ってしまっている。

 いったい、なぜ?

 先輩がぬるめに入れてくれたハーブの湯に包まれて、二十分も温まってから後輩くんが遠慮がちにステンドグラスの扉を開けると、部屋の照明が落とされていた。先輩は相変わらずこちらに背を向けていて、ベッドの上にはバスタオルとバスローブが用意されていた。浴衣なら夏祭りの夜に着たことがあるが、バスローブに袖を通すのはこれが初めての経験である。

「水分補給をして、髪を乾かしたら、こっちへおいで」

 先輩はさっき沸かしたお湯で、紅茶を愉しんでいるところだった。手元にはタブレットがある。本でも読んでいたのだろうか?

「後輩くんは、将棋は指せる?」

「はい?」

「それか、囲碁、あるいはオセロでもいいけど」

 ソファの向かいに膝を揃えて座り、後輩くんはぎこちなく頷いた。将棋は指せる。

「そうか、では私と一局楽しもう」

 先輩のタブレットが、木目の将棋盤に変わった。

「……でも、あの、僕ぜんぜん強くないですよ」

「構わないよ。私だってプロになろうなんて思ったことは一度もないもの」

 尺度が違い過ぎる気がする。しかし、後輩くんは先輩と頭を下げ合って、タブレットを交互にタップすることで駒を動かした。

 今日初めて会った人に愚痴をこぼし、一緒にちょっとした散歩をして、いまはファッション……、カップルズ……、どう言っても自分にはそぐわないタイプのホテルで、将棋を指していて、その人が振り飛車、しかも四間飛車に構えることは、なんだかそれっぽい気がした。

 四間飛車は比較的受けの将棋で、こちらが攻める手を使ってのカウンターや、大駒を軽やかに捌く手が、いかにも先輩らしい気がしたのだ。初めは緊張していた後輩くんの指先にも徐々に熱が通い、時には指のしなるような妙手好手の応酬があった。先輩は、あるいは手加減をしてくれているのかも知れないが、少なくとも後輩くんにはそれを感じさせない指し手として後輩くんと対峙してくれたすえ、百六手目に現れた十一手詰めを美しいその目で見抜き、後輩くんの玉を詰ませた。

「負けました」

「ありがとうございました。……なるほど、後輩くんは強いのだね」

 一蹴した相手に賞賛の言葉を向けるのは、一つ間違えたら意地が悪く響きそうなものだけど、後輩くんは清々しい気持ちであった。まだ「手加減された」という実感はなかった、しかし明らかに先輩は強くて、この相手に負けるのならば本望だし、褒めてもらえると素直に嬉しい。

「先輩は、きっとしっかり将棋をお勉強なさってるんですね」

「どうかな……、盤上の遊戯は平和でどれも好きだけどね。……おや」

 先輩の言葉の途中なのに、あくびが込み上げて来てしまった。失礼なことをと恥じ入ったが、

「ちょうど良いタイミングだ、後輩くん。計ったように眠気が来たようだね」

 先輩はにこりと微笑んで言った。

「お風呂に入って温まった身体が、時間を掛けて冷めて、伴って体温も下がる。頭の疲れているいまが好機だ、ベッドに横になりなさい」

 いま、先輩は保健室の先生みたいだな、と後輩くんは思った。優しくて博識、そうして、備えているものを誰かの健康のために惜しみなく振る舞う。後輩くんがベッドに横たわって、スマートフォンを気にした。あんまり長いこと眠ってしまっては、また夜に眠れなくなってしまうのではないかと懸念したのだ。

「どのみち、夜に眠ることは難しいのだろう」

 先輩はベッドの端っこにちんまりと腰掛けて言った。

「それは……、そうかも知れません」

「であるならば、いま睡眠時間を稼いでおくことに損はないんじゃないかな」

 家のこと、父のこと、考えなきゃいけないことはたくさんあるのに、ほったらかしにして昼寝なんてしちゃっていいのかな、とは思う。

 けれど先輩は甘い声で囁くのだ。

「そうした睡眠こそ、もっとも甘美なものさ。……まだ知らないならば、君はこれから知るんだ、惰眠とはお行儀よくナイフで切り分けておちょぼ口に食べるものではなくて、貪るものなんだよ」

 それは、悪魔の囁きかも知れない。大事なことから全部背中を向けて、いっときの欲に身を委ねてしまうことを勧めるのだから、……事実として、先輩にはねじ曲がった角とか黒い矢印型の尻尾とかが似合いそうな気がする。けれど、そんな悪魔ならわりといいな、なんて思い始めた。重たくなって来た瞼を閉じた耳へ、

「いまの君に必要なのは、なにも考えない時間だよ。……ゆっくりとおやすみ、私は静かにしているからね」

 規則正しい自分の呼吸と混ざる漣として、穏やかな声が……。





 外はもうすっかり宵闇だった。国道から大学方面を見やると、一段低いところにある猪熊沼はジョギングコースの常夜灯であろう光の粒で輪郭を形作ったブラックホールのように静かな黒で、後輩くんが先輩と出会った五階建ての校舎は駅方面の灯を遮って佇立する長方形だ。

「楽しかったね」

 と言った先輩に、乙女のように頬を(あか)らめて、「はい」と後輩くんは頷いた。何をしたということもないのだけど、赤面を禁じ得ないのは、そう不自然なことでもない気がした。

 後輩くんはこの通り、時間も忘れてすっかり眠りこけてしまったのだけど、それは三分の一ぐらいは先輩も同じだったようだ。後輩くんは目を覚ましたとき、あっ、と声を上げそうになったのである。

 先輩も寝ていた。

 後輩くんが寝ている間の先輩の行動が、ありありと想像できてしまった。まず、先輩は本を読むことに飽きて、せっかくだからお風呂に入ろうと思い付いたのだろう。服を着たまま入浴するわけにはいかないから、先輩が男性であれ女性であれ、服は脱ぐ。ここには先輩のお金でやって来ているのだから、後輩くんが側にいようと入りたいときにお風呂に入っていい。また、先輩が躊躇いなくそうすることを選べたのは、先輩が男性であることの証左ではなかろう。そもそも密室に一緒に入れるぐらいには、先輩に対して後輩くんが危険な存在ではないと見做されているのだと解釈すべきだ。

 さて先輩は広いお風呂でゆっくりくつろいで、そのあとは、バスローブを身に纏って、髪をタオルドライして、水分補給をして。

 しばらくして、きっと先輩は眠くなってしまったのだろう。後輩くんはわりと寝相がいいしスリムであるし、ダブルベッドだ、小柄な先輩が横たわるぐらいのスペースは十分にある。想像するに先輩はベッドを眺めて、すぐにそこへ横たわることはしなかったはずである。しかし、見れば見るほど、ベッドが魅力的に思われてきて、……後輩くんを起こしてしまわないならばいいか……、と考えが傾き始めて。

 最終的に、掛け布団の中にまで収まることはしなかったにせよ、既に後輩くんが横たわっているベッドの上に、並んで寝そべり、たちまち眠りに落ちたのだろう。

 灯はごく小さなものが一つ点いているばかりである。

 当初からそういう向きだったのか、それともお互い寝返りの結果こうなったのか判然としないが、とにかく後輩くんが目を覚ましたとき、二人の鼻の頭と鼻の頭の距離は十センチを切っていた。

 薄く唇を開けて、……すー……、……すー……、と、室内の空調の音にも掻き消されそうなぐらい、微かな音の寝息。

 起きているあいだ極めて鋭敏に働いていた脳の機能を回復させるためには、これぐらい深くて静かな睡眠が必要なのだろう。

 目を伏せると、いっそう幼くなってしまう顔だ。こちらが一年生であるものだから「先輩」と呼ぶことに躊躇いはないが、やはり歳下なのかもしれない。無論後輩くんは、歳が上とか下とかで態度を変えることはしないし、この不思議で、捉えどころがなくて、しかし間違いなく特級の賢さを持つ人のことを尊敬するのだけれど。

 まだこの段階までは後輩くんもねぼけていたかも知れない。

 可愛いな……、と思ってから、そんな可愛い人と、同じベッドに裸同然の格好で横たわっているのだという現実を把握して、肌の隅々までかっと熱くなり、毛穴という毛穴が覚醒した。

 例えば、先輩はバスローブ姿で布団を被らずに横たわっているので、後輩くんはその気になれば、……それは自ら人間としての程度を著しく下げることが出来ればという意味であるが、先輩の性別を確かめることが可能な状況だった。直接本人の身体を観察するまでもなく、先輩の脱いだ服を覗き見たっていい。男性としては小さく細く、女性としてはごく規模の小さな身体ということになるが、……後輩くんは今、「どっち」だったらいいと思ったのだろう? 先輩が女の子だったら、男の子だったら……、どっちだと嬉しくて、どっちだと残念な気持ちになるのだろう?

 後輩くんは今日この先輩と知り合った。まだこの人のことを、何も知らない。

 男なのか女なのか、年齢は幾つなのか、名前は、出身地は?

 休みの日はどうやって過ごしているんですか。好きな作家は誰ですか。

 好きな食べもの、嫌いな食べもの……。

 そういったことに、自分よりもずっと詳しい人がいるのだと後輩くんは思った。今日より前にこの人と知り合った人はみんな例外なく、先輩について、後輩くんよりもずっと「先輩」なのだ。

 きっと。

 きっと、その中でも先輩に一番詳しい人がいるんだろうな。

 僕の知らない先輩をたくさん知っているんだ。僕が「先輩」と呼ぶしかないこの人の、名前も、性別も、年齢も、誕生日だって知っていて、毎年その日にはこの人に気の利いたプレゼントを贈ることが出来るんだ。なにをあげたらこの人が喜ぶか、よーく知っているから。

 そう、想像した瞬間に、後輩くんの肌はちょっとひりひりするぐらいに熱くなり、口を閉じて呼吸していることが苦しく思われてならなくなった。先輩を起こさないようにじりじりと寝返りを打ち、背中を大きく膨らませてから萎める、……ゆっくりと三回、それを繰り返す。鼓動は、ベッドを揺らし、その震動のせいで先輩を起こしてしまわないか不安になってしまうほどに強まっていた。

 五分ぐらい、じっとしていただろうか。

 何の前触れもなく、ベッドが軋んだ。ごく小さな声で先輩が「ああ……、いけない……、私が寝てしまってどうするんだ……」と独り()ちる。後輩くんは目を閉じ、それすらも聴いていませんという顔で、狸寝入りを頑張る。

 先輩が気を遣ってそうっとベッドから降りた。それから、抜き足差し足で遠ざかり、……シャワーを浴び始める。薄目を開けてステンドグラスのほうへ振り返る。先輩の性別は判らない……。

 確かめる術がもしあったとして、判明した次の瞬間に自分がどう感じるのか、全く想像が付かない。自分と同性だったらがっかりするのか? 異性だったらしょんぼりするのか? 僕はこれまで人と、どんなふうに出会い、親しくなってきたのだろう? 全体的に、だいぶ判らなくなっている。またうとうと眠りに逃げ込んで、

「やあ、後輩くん。そろそろ起きてもいいんじゃないかな」

 さっぱりとした声の先輩に起こされた。先輩は、もう黒のタートルネックにスキニージーンズであった。後輩くんはもそもそと「おはようございます」などと言いながら、先輩に促されてシャワーを浴びる。ほんのついさっきまで、先輩もここで裸だったんだな……、と想像する自分が、ものすごく変態みたいで嫌だった。

 煩悩を振り払うように冷たいシャワーで顔を洗い、服を来て、現実というものを認識したとき、昼寝の効能が顕れ始めたか、後輩くんの頭はずいぶん久しぶりに(もや)が晴れていた。バスルームをそっと出て行ったとき、先輩はタブレットで本を読んでいるところで、もちろん後輩くんが服をきちんと着終えるまで振り向くことはない。男性なら紳士、女性なら淑女と呼ぶべき人である。

 後輩くんは先輩を心から尊敬していればそれでよかった。

「ありがとうございます。とても……、とても気持ちのいい眠りでした。その、……初対面なのに、こんなにお世話になってしまって……」

 どうお礼をすればいいんだろう、後輩くんが言葉からはぐれたとき、先輩はちょっとはにかんだ様子で肩をすくめた。

「構わないよ。私がしたくてしたんだから」

 穏やかで温もりがあって、何より潤った声だ。だからこそ、性別が顕れにくいのだろうと、道理は理解できる。

 たぶんこれから後輩くんは、この人と会う機会があるたびに、どっちだろう……、と考えてしまう自分が、後輩くんは明瞭に想像できた。「やめよう」とどんなに自分に禁じても。

 今後仮に、先輩から「友人」という言葉で紹介される人と出会ったなら、後輩くんはその人に向けて意味のない嫉妬の炎を燃やさずにはいられなくなってしまうかもしれない。

 後輩くんの心の内壁に、じめじめして、べとべとして、とても嫌なにおいを発するものがこびりついてしまった。

 どんなに拭ってもかたい糸を引いて落ちない汚れ、後輩くんに可能なのはそれがかぴかぴに乾き切ってひび割れるぐらいに時間が経つことを待つことだけ。しかし不意に触れた指にはびっくりするほどべったりと色が付いて、それを洗い落とすまでに要する時間、後輩くんはずっと、そのころにはもう遥か遠くにいるはずの先輩のことを思い出すのだ。

 例えば今、先輩がスマートフォンをいじっている。たぶん、誰かにあててのメールを書いているのだと思う。後輩くんはまだ先輩のアドレスを「@」の一文字しか知らなかった。

 先輩は後輩くんのそんな思いを感知する義務はない。

「国道から街道に回って商店街を抜けるよりも、猪熊沼のほとりを通ったほうが駅までは近いよ」

 そう言って、一定の間隔で光に照らされたジョギングコースを先導した。

「……先輩は、お一人でこんなところ歩かれるんですか?」

 男性であれ女性であれ、先輩のように小柄で細身で可愛らしい人がこんなところを一人で歩くのは物騒であるように思うのは、何も後輩くんだけではないだろう。しかし、男性に対してだったら失礼と受け止められるリスクもある発言だ。いいや女性だって、襲い来る暴漢(よくよく考えたら「漢」の字は男性という意味である)を容易く退けられる人は幾らでもいるだろうから……。

「私、あんまり喧嘩強くなさそうに見えるかい?」

 傷ついた様子も見せずに言う先輩に、後輩くんは大いに反省したのだ。

「こう見えても、私は探偵だよ。アルバイトではあるけどね。依頼人が危険な目に遭うかもしれないとなれば、もちろん一番はボディガードに依頼するところではあるけれどもね、最低限の護衛ぐらいは出来るつもりでいるよ」

 後輩くんを振り返って、ちょっと得意げに笑う。

「私は強いんだよ。……信じられないかな? いざってときには君を守って見せるよ、誰にも指一本触れさせはしない」

「僕を……」

 ぼやぼやっとした声を出してしまった。

「……え、でも、あの、僕は先輩に依頼をした記憶はないんですけど……」

「そうだね、君にはそうした自覚はないかも知れない。しかし、私としては、君を守るための理由はもう既に得てしまっているのだよ。ゆえに……、可愛い後輩くん、私は前方並びに後方より君を求めてやってくる人物たちから、君を守ってあげなければならない」

 びっくりして、先輩の向こうを見る、後ろを見る。

 藤村ともう一人、「日輪山ハイキング倶楽部」のメンバーが、どうやら道端の暗がりに息を潜めていたのだろう、不意に姿を現した。なぜこの時間に後輩くんがこんなところを通ると知っていたのか。

「彼ら、私たちがホテルに入るまでずっと尾行していたよ。そしてどうやらこの時間まで待ち構えていたのだろう。ねぇ後輩くん、サークルのメンバーはこれで全員?」

 後輩くんはぶるぶると首を振った。

「まだあと、二人います」

「そう。ということは残りは国道のほうにいるんだろうね。ご苦労なことだ」

 先輩が言い終わらないうちに、

「君、なんで我々を避けるんだ、よりにもよってそんな、喫煙ジャと一緒にいるだなんてあんまりじゃあないか」

 藤村が、時間帯を考えればずいぶん大きな声を出した。長らく待たされていたものだから、フラストレーションが溜まっているのだろう。

「喫煙ジャ? ……ああ、邪悪の邪かな。まあそう言われても仕方のない嗜好品ではあるが、マナーを守って吸う限り諸君にとやかく」

 言われる筋合いはない、という先輩の声は、

「俺は、俺たちは、君のお母さんに頼まれて、君を守るように言われてるんだ。君が万が一にも悪の道に堕落しないように……、大日氣弥益さまの教えに(そむ)くことのないように!」

 という藤村の朗々とした科白、……いささか陶酔ぎみの大音声に塗りつぶされた。これまで温厚な表情を崩さないで来た先輩も、ちょっとムッとしたことを唇を尖らせることで表現した。

「藤村さん。僕は、……あの、僕は、もう成人してますので、母が何を思おうと、それに従う義務はありませんし、自分が崇拝するものは自分で決めます」

 ごく真っ当なことを、後輩くんは言った。

「何という言種(いいぐさ)か! 君がいま生きているのは何故だ、君がいま大学生をやっているのは、誰のおかげだ!」

 どうも、大日氣弥益を崇めている人たちは家族というもの、家庭というものをえらく大事に思っているふしがある(人の家庭を崩壊させておいて、とは思う)のだが、それは恐らく身内が一番手っ取り早く信徒となってくれるからだろう。個人から家族へ、家族から親族へ、家系図の枝分かれを伝って、染みて、殖えていく。

「それこそ何という言種かな」

 先輩が反応した。

「後輩くんが今ここにいるというかけがえのない事実が、まるで後輩くんのご母堂の功績であるかのように言うんだね。後輩くんは立派な成人として、自身の足でしっかりと大地を踏み締めて立っている。雨にも風にも塗炭の苦しみにも負けずにね。暴言を吐くが、その苦しみの一端を担っているのは他ならぬご母堂ではないか。何と仰ろうが後輩くんの行動を束縛出来るものであるだろうか、いやない」

「なんという暴言!」

「暴言を吐く、と予めお断りしたはずだ。それからね、諸君。ここにいる後輩くんはもう既に、君たちの仲間に戻ることは出来ないのだ。私たちがどこに入り、どこから出て来たか、諸君は見ていなかったわけではないだろう?」

 藤村たちがリアクションする前に、後輩くんが「あっ」と声を上げてしまった。

「さっき我らが学舎の屋上にて君が見た通り、私は喫煙者だ。そしてこちらの後輩くんと私が、……私たちは成人しているわけだからね、そして君らの中にも成人済みの者はいるだろうから、あえて直接的な言葉を避ける必要もあるまいが、当然察することが出来るだろうね? 私たちが、あそこで、何をしていたか。……そうさ」

 先輩の意地悪な笑みが夜の沼のほとりに煌めいた。

 藤村が、さぁっと青褪める。

「後輩くんはもう既に、『喫煙邪』であるこの私と、濃厚に触れ合った後だということさ」

 先輩は、夜の闇に青とピンクのネオンをびかびか光らせている「Lake Side Villa」を仰いだ。センスのかけらもないネオンはべったりと凪の猪熊沼の水面にてらてらと光を投じている。

 先輩の口にした言葉の意味が「日輪山」の連中に浸透する前に、後輩くんがパニックに陥った。

 えっ、えっ、待っ……、え、マ……?

 後輩くんは濃厚どころか先輩に指一本触れていないのである。鼻先十センチで寝顔を見つめはしたものの、互いにバスローブの向こうはすっぽんぽんというシチュエーションに陥りはしたものの、後輩くんは未だに先輩の性別を確かめられてはいないように。

「ち、違う、違うっ、あそこのホテルは我々九隅大生のためにコワーキングスペースを提供している、そのために入ったんだろう、……君、否定しないか! 君はそんな邪なことはしないだろう。我々と一緒に爽やかにハイキングとボランティアで汗をかく、清らかな魂の持ちぬしだったね! 喫煙邪と姦淫に耽るような堕落した者ではないだろう! お母さまは泣いておるぞ!」

 藤村の言葉は右から左で、後輩くんは真っ白な頭の中に活字で言葉を並べていた。

 ……しかし、である。しかし、である。成人した、つまり人間として生物として一定の成熟をした人間には当然のように成熟した性欲というものが備わっているのが当然であるわけで、敢えてそれを矯めようとするのはそれこそ宗教的な戒律でも持ち出さなければ割りに合わないわけである。受験というのはある意味では宗教的な側面を持つものであってその期間に限り欲を押さえ込もうと皆がする僕もした、そこから解放されたいま、僕が、同性であれ異性であれ可愛らしくていい馨りのする先輩とああしたホテルに行っておりこうさんにお昼寝だけして出てきましたなんて、どう考えても。

 僕は大日氣弥益の信徒であるのかありたいと思ったことが一度でもあるのか、……いや、ない、断じてない。それならば。

「は……、はい、あの、僕は」

 耳から煙が出ていないだろうか。

「僕は、先輩と、とても心地よい時間を、あのホテルで過ごしました!」

 なんてことを。

 ああ、でも、後輩くんはこのとき、言葉を発するというそれだけのことに、ずいぶん強い快感を覚えたのである。藤村が声にならない声を上げて頭を抱えた。

 先輩はポケットに手を入れて、

「残念だったね、そういうことなのだ」

 大いに上機嫌だ。

「恐らく諸君らは、……いや、諸君らの独断ではないだろうな、後輩くんのご母堂からの依頼だろうが、後輩くんに自分たちの仲間を引き合わせて『家族』にしてしまうことまで狙っていたのではないかな。生憎だね、後輩くんは私と関係を結んだ、私たちは家族になるんだよ!」

 あるいは、大いに得意げに、と言ったほうがいいだろうか?

「ばかな……、こ、これでは地区長に申し訳が立たない! 君が我らの仲間になることは既定路線だったのに!」

「ほう、地区長」

 先輩は、これは頭の良い人の特徴だろうけれど、人がぽろっと零したものを決して見逃さない。

「諸君らの団体の構造には明るくないが、なるほどね、君らが単に信仰心から信徒集めに尽力するとは思い難い。バックには君たちの活動を支援する人々がいるということは想像出来ていたけど、この地域の統括は地区長という役職なのだね、そして、諸君はその人物から報酬を受け取っているということなのだろう。やがては私の可愛い後輩くんも、その信徒集めに手を染める羽目になっていたかもしれないね」

 そういう構造なのだとすれば、それはもう、宗教ではない。集めた人が、きっとやがて、他の何かに繋がる。いや、当初からそれを目的とした一群の人々の集まりであることは疑えない。

 容易く看破していく先輩に、端正な顔を醜く歪ませた藤村が奥歯を食い縛って「ぐぬぬ」と呻きを漏らした。人って、本当に「ぐぬぬ」って言うことがあるのだと後輩くんは知った。

「おのれ……、我らの正体を看破るとは……」

「毎年新入生が入って来るたびに冊子で注意喚起されているからね。もっとも、あんなの律儀に読むのは年中活字に飢えている私みたいなものずきぐらいだろうけど。……後輩くん悪いけど持っていてくれたまえ。タブレット以外は大したものは入っていないけど」

 先輩は細い背中の温もりが移ったリュックサックを後輩くんに抱かせて、藤村に、背後のもう一人に、視線を配った。

「さて……、三流の悪役だったなら、こう言うところだ。『正体を知られた以上はただで帰すわけにはいかない』とね。しかし、諸君にはもう少しばかりのセンスを期待したいところだ。いずれにしても、……私の依頼人である後輩くんには指一本触れさせないけど」

 後輩くんがリュックサックを抱く指先に、じりっとした力を入れてしまうぐらいに、その瞬間の先輩は格好よかった。後輩くんより背が低い、童顔で、いまこの瞬間も性別が判然としないのに、痺れるぐらいに。

 ハッタリや虚勢であったとしても、後輩くんはこれまでの人生でただの一度もそんなに格好よくなれた瞬間はなかった。

「どうするんだ藤村! あいつらきっと、我々の活動を言いふらすつもりだぞ、学生課や自治会の連中の耳に入ったらサークル棟を取り上げられちまう」

 菊池、という「日輪山」の副代表が切羽詰まった声で言った。初めての登山のときには気遣いの言葉をずいぶん掛けてくれて、いい人だなと思ったのに、彼の目はもはや後輩くんを自分たちの成果物ぐらいにしか見ていない。

「ぐっ……、ぬっ……、ぐうぅ……っ」

 藤村が呻き、奥歯を軋ませながら地団駄を踏む。サークル活動の許可、並びにサークル棟割り振りは学生課と大学自治会が采配していて、問題ありと見做されたサークルはたちまち活動休止措置が下され、サークル棟からも追い出されてしまうのだ。毎年百近いサークルが神出しては鬼没する九隅大学であるからサークル棟の競争率は高い。ひとたび追い出されたサークルは、再び居室を得られる可能性はほぼない。

 大日氣弥益の信徒を増やす活動が出来なくなれば、彼らの信徒としての評価は著しく下がることになろう。藤村は、顔を真っ赤に腫らしたり青褪めさせたり大忙しである。小さな身体ながら先輩は一人で三人相手を、指一本も使わず追い詰めてしまった。

 しかるに、窮鼠猫を噛むという諺を、先輩が知らないはずがない。

 ああ、だから……、だから僕にリュックを委ねたんだな、と後輩くんはいまさら納得する。藤村が拳を振り上げながら突進して来たのを目の当たりにした瞬間に。

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