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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんには払えない。
29/30

駒は語る(後)

「お? お? どうした後輩、いまのはなんだ」

 先輩は、赤目の土竜の悪手を咎めなかった。じっと相手の狙いを消す手は、堅実だが慎重過ぎて、なんならこれも筋が悪いと指摘されてしまうのではないか。赤目の土竜は自ら作り出した盤面の傷を塞ぐように一歩退き先輩はその勢いに乗じて前のめりになることはない。

 罠、だったのだろうか……?

 なにか妙だ、と思ったのはこのときが最初。数手先、後輩くんは立ちくらみを起こしそうになった。今度は先輩が「なんでぇ?」って口走りそうになる手を指してしまったのだ。横顔の表情は変わらない、ということはそれが悪手であるという自覚が先輩にはないのだ。赤目の土竜が持ち駒として一枚持っている歩を置くだけで、たちまち先輩の銀は死んでしまう。銀は機動力に優れているが、真横と真後ろには動けない駒なので、両サイドを歩に挟まれるとみすみす相手に取られることとなってしまう。これは「銀ばさみ」と呼ばれる、初心者がよくやるミスの形である。

 しかし、赤目の土竜は先輩の銀には目もくれない。心底から安堵して、うっかり後輩くんはたたらを踏んでしまいそうになった。

 いやしかし、冷静になってみると、先輩も、赤目の土竜も、盤上の距離感がおかしい気がする。攻めるべきときに攻めないと形勢を損ねるというのは、将棋をやる人間にとっては常識である。双方ともこれ以上ないほど形は出来上がっていて、あとはどこからどう攻めるかという状況が出来上がっていながら、踏み込まない。あるいは、踏み込むチャンスを見付けても、そこに手が伸びない。じっと長考して、いよいよ攻めの取っ掛かりが出来たかと思っても、婉曲な手を指す。

 二人の対局が始まって、三時間が経過していた。

 ヴェルデグリーン氏は「ねみい……」と呟いて、所長の椅子にふんぞり返って居眠りを始めてしまった。所長もいかにも眠そうだが、こちらは探偵で夜更かしには慣れているので、「コーヒー淹れるけど後輩は呑むかい? あとそっちのあんたは?」と動く余裕がある。行員は一度、対局前に後輩くんがお茶を支度するときそうしたように、所長を追って給湯室に向かい掛けた。しかし、ろくでもない考えを抱くような連中ではなさそうだ、という感覚を得たのか、すぐに盤面に視線を戻した。盤上で何が行われているのか判っていないなりに、きちんと見ていようと思い決めたらしい。

 時おり、彼は後輩くんを見る。少し心細いような覚束ないような顔をして。局面はいまどっち有利なのだ、赤目の土竜はちゃんと勝てるんだろうか、……それを知りたがっているに違いない。

 その問いに答える言葉を、後輩くんは持たない。はっきり言ってどっちか判らないと言うほかないのだ。そして、そんなことを言うぐらいならば黙っていたほうがなんぼかマシである。

 後輩くんなりに、必死に考える。邪推、あるいは妄想だけれど。

 可能性があるとしたら、……いまは無言で向き合っている対局者二人が、一瞬二人きりになったエレベーターの中で何らかの会話が行われたことだ。

 互いに百万円を担いでいるという感覚があればこそ、手抜きなどするはずがないという予想を当然する。後輩くんは後輩くんで、先輩が何らかの「盤外戦術」を行う可能性について示唆したことを知っていても、それが具体的にどんなものであるかは想像できず、また先輩の性格上、ダーティーなことはしそうにないと思っていた。そして先輩が一方的に有利になる結果にはいまのところ、なっていないし、後輩くんの目には赤目の土竜が動揺しているようには全く見えないのが奇妙だ。そしてまた、仮に八百長的な敗北を喫したなら、赤目の土竜という真剣師の名が地に堕ちることとなる。そうなれば、事はこの一局だけでは留まらない。

 じっとしていられなくなった後輩くんがおトイレに行き戻ってきたとき、局面が進展していた。

 赤目の土竜が、攻めに着手したのだ。後輩くんだったら、思わず頭を抱えてしまいそうな、……反射的に「ありません」って頭を下げてしまいそうな、盲点の角打ち。ここで間違えると五手後に急所を衝く桂馬が跳ねて来て、これを受ける手がない。

 先輩が煙草に火を点けた。

 すう……、と紅い光を先に灯して、静かに煙を吐き出す。妖しい唇、後輩くんの、大好きな人の、……闘っている横顔には、異様なほどの美しさがあった。

 後輩くんの反応を見て、所長も行員も、事態が動き始めたことを察知したのだろう。無駄口は一切叩かず、判らないなりに盤面に視線を注ぐ。

 赤目の土竜による、怒濤の攻めが始まった。

 一瞬の停滞は何だったのかと思うような、真剣師としての本領である。銀が、桂馬が、角が、そして飛車が、……本当に一度に一手しか指していないのかと思うほど、びゅんびゅんと飛び掛かってくる。その過程で──将棋は得点制競技ではないが──ポイントは確実に赤目の土竜に入っていく。AIに訊けばはっきり後手(赤目)有利と言われるだろう。

 とはいえ、まだ大きな差ではない。隣の所長が心配そうに後輩くんの顔を見た気配がある、向かいで腕組みをしている行員は身を乗り出しているが、先輩はしっかりとガードを固めつつ、手厚い対応を見せる。

 先輩は攻めにも迫力があるけれど、本質的には受け将棋で、非常に粘り強い。後輩くんだったら冷静さを失してミスが出そうなところでも、決して間違えない。気がとても太いのだろう。

 攻め手と受け手、受けるほうが不利であるとか怖いとか、そういう感覚が先輩には全くないのではないかと思う。藤村菊地に襲われたときも、小さな身体で物怖じせずに立ち向かっていったし、心臓に毛が生えていたとしても不思議はない。

 先輩の玉はまだ当分詰まない。先輩にはそれが解っているから、受けばかりではなく攻めに手を割く余裕もある。赤目の土竜が指した飛車を、隙在らば抜き取ろうという恐ろしい意図を持った攻防の角を打ち込んだところで、一手、赤目の土竜が退かざるを得なくなった。長らく「赤目の土竜が攻める、先輩が受ける」の繰り返しだったが、ここへ来て初めて先輩が受けではない手を指せるようになった。将棋においては「先手を取る」という言葉で表現される。ここでいう「先手」は最初の振り駒で決まった先手後手とは違い、手の主導権とでも言い換えられようか。

 盤上、先輩の美濃囲いは食い荒らされる一歩手前。相手と自分の持ち駒を確認し、盤面を広く見渡す。自玉の、相手玉の急所はどこか、渡してはいけない駒は何か、……自分が勝つためにあとどれほどの手が必要で、それは自分が負けるまでに要する手と比べて早いか遅いか……。十分ほど長考を挟んで、先輩は一度、ソファから立ち上がって部屋を出ていった。おトイレに行ったのだろう、五分ほどで戻ってきて、しばしぼうっと中空を見上げた。先輩が、赤目の土竜が、所長が、吐き出した煙は雲のようにオフィスの天井に漂っている。

「……後輩くん」

 先輩が不意に言った。

「私、そろそろ煙草をやめようかなあと思っているんだけど」

 意表を衝かれた。え、なに、何の話ですか急にって気持ちで、しばしリアクションを取れないでいるうちに、先輩は桂馬をぴょんと跳ねた。先程打った角と連携して相手玉のコビン(斜め上)を狙う意図を持った手だ。

「私は、長生きをしなければいけないと思ったんだ。これまで……、あの、こういうこと言うと君に怒られてしまうかもしれないけども、十七のときに吸い始めてね」

「じゅッ……こっ、こらっ」

「しょうがないでしょ。だって、この人がすぱすぱすぱすぱ吸っているところをずっと見てきたんだから……」

 先輩が肩を竦めた。赤目の土竜は二人の言葉が耳に入っているのかいないのか、盤面を注視して動かない。

「でも、……うん、お互いのことを考えてもね、そろそろここらがやめどきなのかなって気がするんだ」

 先輩は、百万を賭けた戦いの最中とは思えない茶目っ気のある笑みを浮かべて見せた。ああ、何て可愛いんだろう僕の先輩! 後輩くんの、先輩と一緒にいて何度も何度も蕩けてきた心の輪郭が、またぞろ危うくなるような、とろりとした笑み。後輩くんはこの間、隣の資料室のベッドで、狭いところにわざわざ好きこのんで入ってきた先輩にねだられるたびにキスをして、またそのたびにその笑顔を見せてもらえて、この人とこれからずっと、……一般的に「先輩と後輩」ではない関係になったとしても、ずっとずっとずーっと一緒にいたいなあ! って心底から思って、だけど先輩が幸せそうに目を閉じたから、その安らかな眠りの邪魔になりたくなくて、喉元まで出かかっていた言葉を紡ぐことは出来なかったのだ。

「君と卒業後も一緒にいたいからさ。一日でも長く一緒に生きていきたいと思うからさ」

 先輩は赤目の土竜が指した手をちらっと見た。それは妥当な受けの手、先輩の角が自陣に突っ込み、機動力攻撃力を増した「馬」に変ずることを防ぐ手だ。後輩くんであってもそうするし、将棋の心得がある者ならば多くがそれを選ぶであろうという手だ。またその手は同時に先輩の銀にぶつかるので、手番を取り返すことになる手でもある。将棋の終盤において、この「手番を握る」ことはとりわけ重要である。

 仮に、先輩が先程の攻防の角、そして桂馬のジャンプの後に、当然の対応としてなされる赤目の土竜の受けに対してそれを()ね退けるだけの手が指せないのであれば、桂馬のジャンプはするべきではなかったということになる。

 穏やかな笑みを浮かべたまま、先輩は角を敵陣に突っ込んだ。

 たちまち相手に取られてしまうところに、……自害の角である。

 あ、……あっ、あっ、

「あーっ!」

 声が、出てしまった。ヴェルデグリーン氏──靴こそ脱いでいるが、両足を所長のデスクに乗せてふんぞり返っていた──がどんがらがっちゃんと音を立てて椅子から転がり落ちる。だいぶ迷惑な人であるが、その音にビックリしてコーヒーカップを取り落としてしまった所長も所長である。リノリウムの床に落ちたならまだいいが、ソファの周辺だけブロックのカーペットを敷いているもので、朝が来て事務のほかオフィスの掃除などもしている長谷沼さんが見たら目を三角にして怒りそうなでかいコーヒー染みを作ってしまった。

「あっ、……あーあーあーなにやってるんですか所長はもう本当に所長はもう」

 後輩くんは大慌てでモップを取りに走りつつ所長をなじる。

「や、やかましいやい大体お前さんがだしぬけにでけえ声を出すから」

「あいてててて……、なんだいうるさいなぁ……」

 ヴェルデグリーン氏がお尻を擦りながら立ち上がった。頭をぶつけなくて何よりである。行員はいかにも迷惑そうに見ている、先輩は苦笑していた。

 そして。

 赤目の土竜は盤面を凝視して、固まっている。

 先輩の指した手は、大問題の悪手だったはず。だから後輩くんは声を発してしまった。あまりにも無茶、無理攻め。

 角で歩を一枚もぎり取ったものの、その角はたちまち守りの桂馬で食いちぎられる。その後から先輩の桂馬が飛んで桂馬を食い千切り返すが、先輩の攻めはそこまで。先輩が得るのは桂馬と歩、対して赤目の土竜の手には角が渡る。一般的に、飛車と角の二種の「大駒」をそれ以外の「小駒」二枚と交換するのは「二枚替え」と言って、小駒二枚を手にするほうが有利だとされるが、最弱の駒である歩が混じるような取引は大駒を手放すほうが損とされる。

 確かに将棋格言に「二枚替えなら歩ともせよ」というものがある。駒の価値では損をしているとしても、二枚手に入るほうがよい、という意味である。

 が、それにも限度というものがある。駒得・駒損は形勢に直結しうる重大な要素だ。角を手放した先輩が、自ら不利になるに等しい一手、……敗着級。

 しかし。

 しかし、赤目の土竜はその角、いまは相手陣内の三段目に入ったので「馬」に変じたそれを、取ることができない。

 先輩はそのことに気付いていた。遅れて赤目の土竜も気付いた。

 盲点。

 後輩くんも、ようやく、気付く。

 その角を取った瞬間、後手・赤目の土竜の玉に詰みが生じる。

 赤目の土竜が、顔を上げた。

 先輩は、穏やかに微笑んで、師の顔を見ている。

「師匠。私には、愛する人が出来たんだ。……そこにいる後輩くん。私の、大切な大切な人だ」

 赤目の土竜、……そんな顔だっただろうか、そんな目だっただろうか。ぽかんと口を開けて、後輩くんのほうに顔を向ける。所長のこぼしたコーヒーを、所長と一緒になってモップで拭く後輩くんの顔を見て、頭のてっぺんから足の先まで見て、それからまた、弟子に視線を戻した。先輩は相変わらず優しい笑みを浮かべている。

 けれど、いつも白い頬が少し紅い。

「私は後輩くんと、家庭を築こうと思っているんだ。あなたを倒して、後輩くんを守る。そして、その誓いを立てるつもりでいた。……どうかな、師匠、認めてくれる?」

 所長は「ああくそこんなとこまで染みてやがる」と、明朝に長谷沼さんに叱られることを恐れてカーペットタイルを無理矢理何枚か引き剥がして給湯室に持っていった。ヴェルデグリーン氏は、後輩くんが飲みかけで黒河さんのデスクに置いたコーヒーをくぴりと飲む。

「……よう、アンタ」

 嗄れた声で、赤目の土竜が、唖然とする行員に向けて言った。

「悪いな。ワシに指せるのはここまでだ」

 彼の、シワの刻まれ、少なからずのシミの浮いた右手の甲が、駒台の上の持ち駒を覆うように置かれた。

 投了のサインである。

 行員は顔面蒼白となって、それから、盤面と赤目の土竜の顔を二度、三度と視線で往復して、……そして、両手をだらんと下げて、大きく嘆息した。あるいは彼も、立会人を任されるからには、「観る将」の素養はあって、この盤面を評価するぐらいの能力はあったのかもしれない。

 後輩くんは呆然としていた。今のが先輩の「盤外戦術」だったのだろうか?

 そうだとしても、である。そうだとしても、先輩の角の突入によって勝負が決したのであって、先輩の告白によって定まったのではなかった。

 むしろ、その前だ。数手に亘った戦局の停滞、双方ともいたずらに結論を先伸ばしするような悪手の応酬。あれが何だったのか、後輩くんにはいまだ答えが出ない。

 ただ、それはそれとして、だ。

 答えを出さなければいけないのは、ほかならぬ後輩くんなのである。そのことを後輩くんは自覚した。モップを手にしたまま、突っ立って。

「後輩くん」

 ぼんやりものの後輩くんの先輩が、ソファから足を下ろして靴を履いた。紐を結ぶ手間を省いて、ややつんのめりながらやって来る。あと一歩で立ち止まる予定だったのかもしれないところで転びそうになった先輩の小さな身体を、後輩くんが抱き止める。モップがからんからんころんと床に転がって音を立てた。

「私は君を守ったよ、後輩くん。褒めてくれてもいいんだよ、私は君の先輩だけどね、ふふん」

 ああ、僕は、この人に守られている。それは紛れもない事実、だけれど僕は、この人を愛している、だからこの人を守りたい。

「私が君を、これからも守ってあげる。……だから、どうしても一緒にいよう、ずっと、ずっと、ずーっと!」

 後輩くんの胸に言葉が詰まって、苦しくて苦しくてどうしようもない。

「はい」

 と一度言っただけでは到底抜けないつかえ。

「はい。……一緒にいてください、先輩、僕と、一緒にいてください、お願いです、ずっと」

 恥じらいもなく、先輩を抱き締めて、さらさらの黒髪に頬擦りをする。「キスして」と先輩がねだった。「ここで?」「そう、ここでさ。私が求めたときにはいつでもそうしてくれなくってはダメだよ」と言うので、その唇に唇を重ねることさえ後輩くんは厭わなかった。この小さくてスパイシーで、なおかつ強くて危なっかしい、妖しくて素直でへそまがり、最強に厄介な人と、後輩くんは、やがて、まもなく、家族になる。

 ぎゅー、と後輩くんの背中に強い力を掛けてから、やっと離れた先輩は、

「おじいちゃん、久しぶりの対局楽しかったよ」

 赤目の土竜に向けて振り返った。

 老人は、ソファの上であぐらをかいて煙草を指に挟む。火を点けようとして、……すぐにやめた。

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