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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんには払えない。
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 先輩は笑みを消すとたちまち儚げな表情になった。それは後輩くんの腕の中に収まったとき、つまり先輩がソーシャルディスタンスの内側に来たときだけに見せる顔だ。

「……困ったことになってしまった」

 先輩は後輩くんの肩におでこを当てて、言った。

「赤目の土竜を、既に抱えられていたんだ……」

「え……?」

「敵もさるもの……、というやつだね。私が九隅大と東英大の合同プロジェクトに動き出してすぐに、赤目を抑えていたらしいんだ。間抜けな話だよ。ヒナコくんに話を通して、メディアを動かすところまではスムーズに来ていたんだが」

 さっき後輩くんが目撃したニュースは、先輩が種を蒔いたものだったのだ。ここをきっかけに、カルトの常軌を逸した勧誘に怒りの目が向くのならば、世界は少しぐらいはマシな形になるだろう……。

 しかし先輩の目論見は脆くも崩れた。

 先輩にとっては晩ごはんになるアルミ鍋うどんを平らげて、状況の整理。

 百万円は、先輩の師匠、赤目の土竜をこちらに抱えて、大日氣弥益側の真剣師を倒してこちらの主張を通すためのものであった。

「なんとか……、なんとかならないんですか、先輩はその人の弟子なわけですよね……?」

「弟子だよ、そして彼は私の師匠だ。しかし、勝負の世界でそんなこと、チリほどの価値も持たない事実だ。命より重いと言う人さえいる、お金を賭けての真剣勝負をするのだから」

 頼みの赤目の土竜が既に大日氣弥益の側に付いているとなれば……。

「だ、誰か他にいないんですか。その、赤目の土竜さん以外にも、なんかすごい将棋の強い人、白目のオケラさんとか目黒のさんまさんとか」

 後輩くんの問いに、先輩は力なく首を振るばかりだ。

「……赤目の土竜は初代泉水王だ」

 アマチュア最高峰の大会が泉水王冠、「泉水王」となった棋士はプロと対等に扱われるという。最近では石谷正午四段が泉水王となったことをきっかけに、編入試験を潜り抜けてプロ棋士になった、由緒ある大会。

 先輩とベッドに並んで座る。初代泉水王冠、優勝、赤目燈流(とうりゅう)で調べたら、棋譜もすぐに出て来た。後手番の赤目は四間飛車から三間飛車に振り替える「4→3(ヨンサン)戦法」から攻撃的な布陣「石田流」を組み上げ、大駒をバッサバッサと切り捨てる強烈な捌きで、鮮やか過ぎる勝利を収めていた。

 後輩くんも先輩との対局を通して、少しずつ腕は上がって来ている実感はあるが、あくまで「街に十人はいるクラス」である。先輩は謙遜も含めて「県代表になれるぐらいにはなりたいが、実際は市代表ぐらいのレベルにあれば御の字」と言う。しかるに、この赤目の土竜の指し回しは……、相手の勝負手にもなんら動じない鉄のメンタル、一度噛み付いたら決して離さない蛇の執拗さ、凄味のようなものがある。

 味方であったならどれほど頼もしいか知れない。

 言うまでもなく、敵としては一番厄介な相手である。

「恐らくだが……、大日氣弥益の側(あちら)はお見通しだったのだろう。所詮は大学生に過ぎない私たちが頼れるものなど()の将棋ぐらいしかないこと、私の師匠が赤目の土竜であること……。ならば、赤目の土竜を抑えてしまえばこちらが手を出せなくなることも当然織り込み済みだろう」

 何とかならないのだろうか、こっちは弟子が頼んでいるのだから……。

「容易く想像できるだろうが……、裏の将棋は時にその筋の人たちが絡む。先に交わした約束は絶対的に強いものなんだ。真剣師にとっても、裏切りは命に関わるからね」

 ならば、もう絶望的なのではないか。

「いいや」

 先輩はスマートフォンの画面を落とし、顔を上げた。先輩の向こう側を、ネオンがちかちか彩っている。後輩くんが見るのは、美しい横顔、長い睫毛、そのシルエット。

「まだ手はある」

 後輩くんには、とても信じられなかった。

 だって、赤目の土竜こと赤目燈流について語る言葉はどれも、……「地の底に眠る最強」だとか、「無敗必勝」だとか、「変幻自在鬼の捌き」だとか……。

「無敗必勝、か。確かに赤目の土竜はそう言っていいだろう。彼がプロに興味を示さず、アマチュアとして明るい活動していくことも選ばず、真剣師として生きていくことを決めたのは、それが一番実入りがいいから。そして、よくなるだけの強さを持っているからだ。……しかしね、負けたことがないわけではない」

 以前、先輩が将棋のことを別な言葉で表現したことがある。

 二人零和有限確定完全情報ゲーム。

 運の要素を完全に排し、プレイヤー同士の実力が残酷なほどに明確化される種のゲームをそう分類する。将棋は、その代表的な例である。双方が自身の実力を発揮しきったなら、その結果はすなわち二人の実力を反映したものとなる。

 ジャイアント・キリングの起きにくいゲームであると言い換えても良い。それでもなお、番狂わせが起こるのは、将棋を含めそれらのゲームが、時間制限であるとかメンタルバランスであるとか、ルールとは別な部分に勝敗を左右する要素が存在するからだ。

 特にメンタル面の影響は強い。……先輩は後輩くんのやっている将棋アプリの戦績を時折チェックしてくれていて、時々は棋譜を見てアドバイスをくれることもあるのだが、目に見えて指し手が乱れているときには、オンライン対戦が終わった直後に「なにかあった?」と電話をくれる。

 ただ、赤目の土竜のメンタルは鋼のそれである。それほどの人物でなければ闇世界の真剣師など務まらないのだろう。

「……後輩くん、ちょっと、私と一局指してくれないかな」

 立ち上がって、例の駒を持ってきて、先輩は言う。後輩くんは仕事上がりだけれど、先輩にそう誘われたのならば考えるよりも先に身体が動く。

 先輩に嫌われたんじゃなくてよかった……。

 心底からそう安堵しながら、駒を並べる。先輩が先手。

「ねえ後輩くん、……賭けをしない?」

 先輩は初手を指す前に、そう提案した。

「……僕には賭けの材料になるようなもの、一個もありませんけど」

「それは、なんでも構わない。そうだな、例えば、……私が勝ったら、今夜はここに泊まらせてもらおう。そして、ベッドをシェアさせてもらうことにする。帰るのが億劫になってしまった」

 それもまた、賭けの材料でもなんでもない。後輩くんには先輩と一緒に過ごす時間が長いことは喜びでしかないので。

「そして、君が勝ったら、……そうだな、私をあげよう」

 先輩が、そう言うなり、初手、2六歩。

 その手は、先輩にしては非常に珍しい。

 後輩くんの前に高い壁として立ちはだかる先輩は、これまで一貫して振り飛車を指してきた。振り飛車というのは、将棋の駒において最も高い攻撃力を持つ「飛車」を元いた位置から左方向へ振って駒組をする戦法である。

 力技ではなく優雅な指し回しがなんだかとても先輩らしい。後輩くんもずいぶん憧れて、最近では自身も振り飛車の勉強をして、先輩に挑みかかっている。

 しかし、初手2六歩というのは、居飛車、つまり飛車を元々の筋から動かさずに戦うという宣言である。

 後輩くんが先輩に相手をしてもらうようになってから、先輩が居飛車を指すのは、これがまだ三回目か四回目である。つまり非常にレアである。もちろん毎回先輩が勝つのだけど、先輩はたまに居飛車を指して後輩くんに完勝しつつも、なんとなく納得しない様子で首を傾げて、「やっぱり私の居飛車は迫力がないなぁ」なんて言うのである。

「……それでは足りない?」

 遅れて、後輩くんは先輩が何を言ったのかを認識し始めた。なんかくれるって言ったな、なんて言ったんだろう、居飛車宣言が意外すぎて、なんか……。

 私をあげよう。

 後輩くんは3四歩、ナナメにどこまでも睨みを効かせる角の道を通す手で、後手番のときに後輩くんの最初の手は、九割どころか九割九分こうである。だから手拍子というか、呼吸のように指してみて。

 私をあげよう。

「……ええぇ?」

「わ、びっくりした。君はときどき出し抜けに大きな声を出すよね……」

「す、すみません、あの、でも、いえ、その」

 どういう意味ですか。

 先輩が飛車先の歩をもう一つ前に進めて来た。こうされたら、後輩くんは受けの手を指さなければいけない。棋は対話なりという言葉があるが、先輩はどうあっても居飛車でずんずん攻めるぞという決意表明をし、後輩くんに受けを強要する。しかし、同時に、自身の戦術の幅を狭めている。

 後輩くんは後輩くんで、お付き合いの守り固めに手を費やすことになるし、直線的な居飛車の攻めは迫力があるけれど、定跡に基づいて受けを誤らなければそうそう潰されることもないし、振り飛車は相手に攻めてもらったほうが指しやすい。

 ので、序盤も序盤だから当たり前ながら、まだ顔の見えないほどの距離を隔てて話をしている段階であり、有利も不利もない。

「……そのままの意味さ。私ばかり君からいいものを得ているのは、不公平だと思ってね……」

 先輩は、静かに駒を持ち上げ、そっと置く。居飛車から、角を上がり、穏やかに左美濃という囲いを組む。

 後輩くんも振り飛車での美濃囲い、双方の玉同士が歩を挟んで遠く、同じ形の守備陣を構えて向き合っている。

 いいものを得ているのは、僕のほうじゃないのかな。だって先輩ぐらい可愛い人綺麗な人カッコいい人は、先輩が男性であれ女性であれそうはいない。この人と向き合って、あるいは並んで歩いて、喋る、同じものを見て、……それだけで幸せだったのに、抱き締め合うことを、唇を重ねることさえ!

「実際のところ、……私たちがいま、こうした関係にあることに勘付いている人はいないんではないかな」

「え、あの、中寉さん気が付いてますよ」

「えっ」

「はい。あと、寿羅くんも」

「えっ。……あ、……そう、そうなの? なんで? ……いやしかしそれは別にいいんだけどもまあ行為について想像されることがもしあったとしても邪推の域を出るものではなくって」

 言いながら先輩が指した手は、少し甘く見えた。指を離してからそのことに気付いて、はっきり頰を強張らせる。将棋はつくづくメンタルの影響が強く顕れるゲームである。

「……とにかく、だ。私は君から、とても多くのものをもらっているよ。のみならず最近は、その、……君に抱き締めてもらうのが、嬉しい。温かくて、……何かこう、栄養的なものが、あるいは脳のほうで幸福を感じ増幅させるものが、ぶわーっと出てくるんだ、君にああやって、ぎゅっとされると。キスされたときは、なんかこう、……ものっすんごい甘いミルクティを飲んだときみたいだ。私、知ってるだろうけど大体コーヒーも紅茶も砂糖もミルクも入れない、でもたまにそういうのを飲みたいなと思う瞬間もある、……君からしか摂取出来ないカロリーを、栄養素を、私は君から得ているんだ」

 そんなごたいそうなもんがこの身体から……?

 とはいえ後輩くんも、一応の知識として持ってはいるのだ。好ましく思っている相手とハグすると、なんとかというホルモンがホワーンと分泌されて、大変幸せになれるという。そのなんとかが何であったかはまるで思い出すことができないのだけど、でもとにかく、そういう科学的な裏付けがあるのだ。まあ世の中には好きな人にぶたれて幸せになる人もいるかもしれないけど。

 あ、そうか。

 そうか、そう……、そうか。

 後輩くんの銀に追われて、先輩の角が引く、攻め手が弱まる。

 僕が先輩のことを好きだと思うから、先輩とのハグが、キスが、嬉しくって仕方がないように、先輩も僕が思うのと同じぐらい、僕のことが好きなんだ……。

 先輩は判りやすく動揺している。けれど、一気に乱れて崩れてしまうような先輩ではない。深呼吸を一つして、後輩くんを焦らすように、じっと守りの一手。一枚の歩の有無だけで状況が一変してしまうのが将棋であって、先輩は自身のミスによって生じた綻びを丹念に縫い直すことに決めたらしい。

「……まあ私は、君が望むのならばね、別に、なんだってさせてあげてもいいと思っているんだ。仮にこの将棋で、君が勝てなかったとしてもね」

 後輩くんの、歩を持ち上げようとした右手の中指がびりっと痺れた。乾燥しがちな季節であるが、将棋の駒が静電気を帯びるはずもないが。

 その刺激感のせいで、一瞬思考が途絶えた。正確には、先輩の言葉のほうに気を取られてしまったというべきか。だって、……だって、つまり、いまこの人が言っていることっていうのは……。

 あの素敵な魚の居酒屋「百薬」で迎えた早暁、先輩に、許可を得たなら……、みたいな話をされたことをぼんやりと覚えている。でもって、後輩くんが許可を得るまでもなく、先輩のほうから無許可で後輩くんに唇を重ねてきた。だいぶもう、恋人同士みたい(・・・)である。中寉さんや寿羅くんが、そして、ほかのみなさんにも(下手したら一回しか会っていない東英大学の寺前さんまでも)そう確信されている一方で、当人たちはまだ「許可」とか「承諾」なんて言葉でお互いを括り合うことをやめないでいるのだ。

「……あの、先輩は、……これ、仮に、ですけど」

 後輩くんは将棋に割くべき集中力の何割かを、対局相手に奪われていた。

 不用意な一手を指しても顔を顰める気にならない。寧ろ、惚れぼれするような応手よりもその指先に目が行ってしまう。綺麗な指だな、女性的かと言われるとそうでもない気がする。相変わらずどっちか判らない人の、判らなさを愛でて楽しんでいる段階である。ひょっとしたらもうまもなく失われること神秘的なところ、……逆に言えば、後輩くんは先輩が判らなくなくなったとき、今より一歩先の関係になっている。

 それこそ、中寉さんたちが想像するような行為を経て。

 盤面は徐々に傾き始めていた。先輩は集中力を掴み直し、後輩くんは八十一ある升目の七割ぐらいしか見えなくなってしまっている。こうなると、いかに不慣れな居飛車であっても先輩が後輩くんを負かすのなんて赤子の手を捻るがごときもの。

 駒台を手で覆って、

「……参りました」

 と言うときには、さすがに後輩くんもちょっと残念だった。あそこで油断しなかったら、ひょっとしたら、今夜……。

「うん、……一つ、再認識出来たことがある。……後輩くんも私も、人間だということだ」

 先輩は言った。後輩くんに手を伸ばして、髪を撫ぜてくれながら。

「人間であればこそ、心があって、その心が揺れ動くときには、程度の差はあれあちこちに影響が顕れてしまうのだ。……そしてそれは、赤目の土竜も例外ではないはず」

 ……そうだろうか? 赤目の土龍の棋譜からは、一貫した冷徹さが読み取れた。長年闇世界を跳梁してきた真剣師が動揺することなど、はたして本当にあるのだろうか? あるのだとして、それはどんなことなのか、誰ならば出来ることなのか。

 後輩くんの想像が全くまとまらないうちに、

「赤目の土竜こと、赤目燈流との真剣は、私が請け負う」

 先輩は、静かに、たしかに、そう宣した。

 最後は惨敗、という言葉がしっくり来るような盤面から顔を上げて、凛々しい顔を見る。

「……いや、あの、無茶だと思いますよ?」

 だって、先輩だってメンタルにはブレがある。さっきのミスは、相手が後輩くんレベルだからどうにかリカバリーが効いたけれど、それこそ赤目の土竜相手ならば敗着級の手である。

「私が最後に師匠と対局したのはもう何年も昔のことだ。……私を置いて旅に立つ彼が、私にこの駒を委ねて行った最後の対局……、忘れもしない、今も棋譜を通しで諳んじることができる」

 先輩がちらりと盤面に目をやった。

 後輩くんは慌てて全ての駒を初期位置に戻す。

「7六歩」

 先輩が先手なのか、それとも赤目燈流が先手なのかは判らない。ただ、先手は飛車を振り、後手は居飛車を宣言し、先程の先輩と後輩くんの対局のように双方が対照的な飛車の位置で戦う「対抗形」と呼ばれる形になった。

 中盤しばし、両者が対峙し、組み合う瞬間を探って睨み合う時間が挟まった。後輩くんは先輩と指すとき、いつもこのあたりで間違えてしまうのだ。じりじりして、……痺れを切らして攻めの手を振り上げて、剣道で言うならば面取り一本を狙いに行くと、ガラ空きになった胴を狙われるというような塩梅。

 しかし、先輩との戦いに慣れると、普段やっている将棋アプリでの対局がぬるく感じられるようになる。最近勝率が上がってきたのは、こういう局面での立ち回りかたが身につきつつあるからか。

「5五歩、同歩、同銀……」

 局面が動き始めた。将棋の記録、棋譜において「同」とは、一つ前に読み上げられた升目にいた駒を取ったことを意味する。盤面のど真ん中、天王山とも称される5五のマスに進んだ先手の歩を、後手の歩が取り、更に先手の銀将が取り返した。先手は歩を一枚犠牲にして銀を前に進めることが出来たし、相手に与えた歩はすぐに銀で取り返しているので文句はない。後手も、持ち駒として歩を一枚得て、前のめりに出てきた銀は確かに脅威ではあるが、膠着状態の中でこの銀をターゲットに攻めていくという取っ掛かりが出来たという見かたも出来る。双方ともに不満のない開戦である。

 どっちが先輩なのだろう。

 どっちが赤目の土竜なのだろう。

 棋譜を並べる後輩くんの指先に、双方ともに本気だということが伝わってくる。先輩は棋譜が完全に頭に入っているようで、三秒に一手というペースを全く乱すことなく読み上げていくが、たびたび長考が挟まっていたに違いないことは局面からも明らかだ。先手有利に傾いて、そのままずるずる行くかと思えば、後手が好手を繰り出し、先手が退かざるを得なくなる。勢いに乗じて後手が攻勢に転じるが、今度は先手に攻防の好手が顕れる。

 どちらが先輩であったとしても、強い。

 後輩くんが確かに感じ取れるのは、どちらが赤目の土竜であったとしても、一切の手加減が(少なくとも、後輩くんの棋力においては)垣間見えないということだ。AIの評価に掛けても有利不利の判定はごく僅差であるとされそうだ。相手の狙いを消し合い、一瞬迸りそうになる血を押し留め、静かにじっと力を溜める。無視出来ない一手、敢えて手番を譲る手、自ら疵を創り出すように見えて、恐ろしい罠を張り巡らせた手。

 八十一マスに区切った線に、二人の棋士の怨念めいたものが脈打って赤く光っている。

 拮抗していた力関係が崩れたのは、百三十一手目。

「3二龍」

 先手が龍の命と引き換えに後手玉の守りの金将を齧り取ったところだ。

「同銀」

 龍は後手番の駒台に飛車となって乗る。先手は、後手が守りの手を指さなければこちらが詰ませてしまいますよ、という条件の整った「詰めろ」を掛けた。一方で、飛車を得た後手番はこの「詰めろ」を受け切られた後には相手から得た飛車を用いての猛攻の目があって、こういうのは受け甲斐ある局面、なんて言われかたをする。いずれにせよ、先手が勝負手を切ってきた。

 先手は一手も間違えられない。

 王手のしかた、動かす駒の順序、全てを読み切れていなければ、そもそも龍を切った手が敗着となる。

 正直に言うと後輩くんは、後手玉に詰みがあることを読み切れてはいなかった。ただ盤面、先輩の言葉に導かれて動く駒を見ていて、戦慄する。

 激戦、……一手、一手が、まるで一太刀、一太刀、……震えるような鋭い攻め、先手は後手の急所を的確に、執拗に攻めている。盤に立つぴしりぴしりという駒音はまるで、後手の骨が軋む音のようだ。

 自分がこの後手を持っていたなら……、後輩くんは想像して身震いしそうになった。……恐ろしい! とても間違えないではいられないだろう。とにかく一撃でも当たったら命取り。

 しかし、この後手番、さすがである。これが先輩なのかそれとも赤目の土竜なのかは未だ判然としないが、ガードを固めて、全てを受け止める。盤面を挟んだ二人にはもう当然、この攻めが止まったら後手番の勝ちであることは読めている。

 そして、百五十二手目。

「同玉」

 先手の、細くとも繋がり続けてきた攻めが尽きた。

「……まで、後手の勝ち」

 棋譜を並べているだけの後輩くんが、どっと疲れてしまうような熱戦だった。大激戦、血の滲むのような、知と理のぶつかり合い。

「このときの、後手が私だ」

 ずっと立ったまま棋譜を読み上げ続けた先輩は、さすがに疲労した様子でベッドに腰を下ろした。

「そして、相手が赤目の土竜。……私と彼の、最後の対局だ」

 勝ったんだ……、先輩は、本当に赤目の土竜に勝ったことがあるんだ……。後輩くんは目が潤みそうなほどに誇らしく嬉しい気持ちになって、続いて、うわあでも、と冷たい汗が滲むのを覚えた。

 このときの成功体験を基に、「また赤目の土竜に勝てる」と思っているのだとしたらば、それはだいぶ危ういことだぞ、と。

 先手番の赤目の土竜の指し回しは、やはりどう考えてもほぼほぼ最善手の連続である。それに対して後手番の先輩がより高い精度で最善手を繰り出し続けたから勝てたわけだけども、それがどの程度再現性のあるものか。

 百万円を背負って戦ったことなど、先輩には一度もない。

 翻って赤目の土竜は、それが当たり前の世界で将棋を指してきたのだ。プレッシャーに対する免疫が全然違う。

 あるいは。

 ……これが最後の対局になる、と思っていればこそ、赤目の土竜は弟子に対して情けを掛けたのではないか。先輩は赤目の土竜よりも精度の高い指し手だったけど、赤目の土竜のほうが、意図的にその精度を、棋譜に現れない繊細な調整で落としていた可能性は否定できない。

 であるならば、この一回の勝利は根拠としてあまりに薄弱だ。

「盤外戦術は、私の好むところではないが」

 先輩は長い棋譜の読み上げにも声に潤いを帯びたままで、後輩くんの隣に腰を下ろした。

「……キスして」

 ざっくりとした求めかた、……求められてなかったなら、していいですかって訊こうかどうしようか、迷っているうちに何分か消費していたはずだ。こういう先輩でよかった。

「ありがとう。……私にはちょっとしたアイディアがある。別に斬新ではない、ごく陳腐な方法だけどね、……しかし、赤目の土竜には覿面に効果を発揮するものであると確信している」

 後輩くんは、じゃあ期待してます、なんてことは言えないのだ。誰かを好きになること、イコール、心配の種が増えることという側面があったなんて、実際に好きな人が出来てみないと判らない。

 先輩は、何をしようと言うのだろう。

 こてん、と後輩くんの肩に頭を委ねて、先輩は思案に沈んでいる。後輩くんはおずおずとその肩に右手を回した。

「私は、……後輩くん、君と約束したね。君を守るって」

 先輩の右手が、後輩くんの右手の甲に乗る。左手は、しっかりと指を絡めた。ひんやりとした指、冷え症の寒がりさん、後輩くんが一緒にいるときは、こうして温めてあげることが出来る。

「君は私が探偵として、人間として、……君から先輩と呼ばれる者として、心底から守ってあげたく思う人なんだ。こんな気持ちを抱いたのは初めてだよ、それまでの私は、私にとって正しいと思うことのために行動すればよかった。それが君と出会って、……明確に、私の正義とは仮令相容れなかったとしても、君を守るという目的のためならばどんなことでも厭わずする気持ちになったんだ」

 心配過ぎる。

 でも、あとはもう、先輩を信じるか自分を信じるかの二択でしかない。

 先輩の顔を伺ったら、先輩と目が合った。全くもう、こんなに綺麗で可愛くて、どっちか判らない顔をして、でも、守るなんて言う。

 僕だってあなたを守ってあげたいって思うのに……。

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