味噌汁とコロッケ
しかし後輩くんの帰るべきところは、いまのところ猪熊探偵事務所の資料室なのである。
藤村からの警告を真に受けているからには、勝手な行動なんて出来るはずもなく、無力な鳥のように先輩によってあっちのカゴからこっちのカゴへ運ばれる以外にありようがない。
今朝、大学に向かって並んで歩くときにはあんなにご機嫌だったのに、
「では、またね」
という声だけ残して去っていった先輩に向ける言葉が後輩くんの口からは出てこなかった。
夕方からバイトに行って、五時間たっぷり働いて、くたくたの帰り道。……猪熊探偵事務所のビルと後輩くんのバイト先は歩いて五分も掛からない。ごみごみといかがわしい雑踏を、身を捩るようにして辿る足取りは重いのだがお腹はすかすか、財布の中身もだいぶ軽い。コンビニで買って帰ってもいいのだけど、もう先輩もいないはずの暗くて底冷えする部屋(鍵を、後輩くんは委ねられていた)で一人でもそもそパンを食べて過ごすのはちょっと悲しすぎる気がした。
お昼の、中寉さんのお弁当はおいしかったはずなのにもう味を思い出すことも出来ない。何かちょっといいものを食べて、身体に、心に、栄養を摂り入れることを考えなければいけないと思った。そうすれば少しぐらいは気持ちも前向きになれるかもしれないから。
そう思って、遅い時間でもやっている定食屋さんに入った。たぶん、水商売の人たちのためのお店なのだろうなと思って紺色ののれんを分けて引き戸をからからと開けて入ると、白っぽい壁に赤いテーブル、四つ足の、まあお世辞にも立派とは言えない丸椅子という店内には、水商売の人というか、「水商売を底から支える人たち」といった感じのお客さんばかりだった。ガードマンや、黒服っていうんだろうか、とてもお洒落なスーツを着た人もいる、コートを羽織ったバーテンダーっぽい人も。みんな黙って黙々と食べつつ、高いところに据え付けられたテレビでやっている刑事ドラマを上目遣いに見ていた。それぞれ全く別の境遇、会話もないし共通の話題もなく、誰も一言も発さないのだけど、いまこの瞬間だけは、みんなで同じお店のお客さんになっている。
愛想なんて無駄なもんはウチには一個も置いちゃいないよ、とでも言いたげな、無表情な女性がお茶を置きに来た。後輩くんのお母さんぐらいの年齢だろうか。
「あ、……ええと、……コロッケ定食をお願いします」
「わかめかなめこかとうふ」
「へ?」
「味噌汁は、わかめか、なめこか、とうふ」
知らないお店に来て、こういう戸惑いを受けるのは悪いものではない。
「あ……、じゃあ、なめこでお願いします」
「コロ定なめこいっちょー」
後輩くんはお茶を啜って、……すぐに先輩のことを、考え始めてしまうのだった。
このお店、先輩は知ってるかな、来たことあるかな……。先輩に、中寉さんたちのお店、あのおしゃれな喫茶店、そしてうっかり泊めていただいてしまったお魚の居酒屋さん……、後輩くんが一人で生きている限り訪れることのなかったであろうお店に、先輩に連れて行ってもらった。あの人のために、僕に何ができる? ボートレース場には先輩が一人で辿り着いてしまったし、もう、先輩が知らなさそうで後輩くんだけが知っている場所なんてこの世にはほとんどないんではないか。
テレビでは、立てこもっていた犯人が投降したところだ。まだ刑事ドラマでよかったな、探偵ものだったなら、ちょっと見る気がしなかったかもしれない……、そんなことを思いながら眺めているうちに、愛想のない店員さんがおぼんごとコロッケ定食を置いてくれた。ごゆっくり、の言葉の代わりに、「お茶のおかわりはあそこ」と顎で示し、伝票を置く。
「ヒャッ……」
という声が出てしまったのは、コロッケがでかかったからである。
めちゃめちゃでかかったからである。
後輩くんの手を広げたのと同じくらいのサイズのものが、千切りキャベツにだーんと寄り掛かっている。それにごはんと着色料感の強いきゅうりのおつけもの、そしてなめこのお味噌汁。気圧されながらも「いただきます」と手を合わせて、そっと箸を当てる。
あ、これすごいやつだ。
指に伝わってくる感触ですぐに判った。
アッツアツでサックサクのやつだ。じゃぎぎ、と箸で少し切れ目を入れて、まずはソースをかけずに一口。しっかりとした下味、特に胡椒が効いて、じゃがいもはごろごろと存在感があるし、玉ねぎもにんじんも、調和を乱さない程度に主張する。何より驚くのは、挽肉ではなく豚肉の切れ端が結構な割合で入っていることで、なるほどこれは肉じゃがと同じ材料、味付けをちょっと変えてパン粉の衣を付けて揚げたものなのだ。
このままでもごはんに合う。
しかるに、卓上のウスターソースをかければ唯一無二のおかずの王様だ。
コロッケはばかでかい、けれどキャベツの量も十分だから、罪悪感に苛まれることもない。おつけものについては論じる言葉は要らないだろう。具をオーダーできるお味噌汁は、たぶんあのお母さんに訊いても答えてはくれないだろうけど、こだわってオーダーが入るごとに作っているのだろう、味噌の香りが高く、旨味が強い。
いいお店を見つけてしまった。
嬉しくなると同時に、寂しくなる。……先輩を誘うための言葉が、いまの後輩くんには一個もないのだ。
先輩を怒らせてしまったことはこれまでもあった。
見た目のあどけなさに反してとても大人っぽい先輩、でも心の中はやっぱり見た目相応なのか嫉妬深いところがあって、先輩が自分以外の誰かと仲良くしているところを見るとどんどん不機嫌になってしまう。ただそれは、後輩くんが責められるべきことではない、先輩もご自身で「悪い癖だと思っている」と言っているぐらいだし。つまり、後輩くんは先輩を怒らせたことが今日まで一度もなかったのだ。
これが人間関係の平均と比べて、幸運なことなのかそうではないのか、後輩くんには判然としない。先輩と後輩、友人関係、恋人同士、親子、師弟……、どんな間柄であっても喧嘩を一度もしないふたりなんて存在しないはずだし、それはかえって不自然である。
とはいえ、後輩くんと先輩の関係はほかのどんな二人の関係とも変わらないことを証明するように、こういう状況に陥ると、とても胸が苦しくなって、悲しくなって、泣きそうになってしまう。寂しいとも違うし、怒っている気持ちもないとは言えない、でも悲しい、だけじゃない、ヘソを曲げそうになっている、いじけた自分を見下ろしている、頭を抱えて、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいって唱え続ける自分もいる。手に負えない感情の群れが後輩くんの中で好き勝手に吠え続けていた。
コロッケ定食の佳境に差し掛かったところで、刑事ドラマが終わり、ニュースが始まった。さすがにお腹いっぱいになってしまって(考えごとのせいで急激に食欲が失われてしまったことも否定し難い)箸のスピードが落ちる。トップニュースは正月にあった地震についてだったけど、割く時間はどんどん短くなっている。続いては、国会での論戦の模様、……野党議員の強い口調の質問に、支持率低下に喘ぐ首相がしどろもどろになりながらも定型文で返している。政治とカネの問題、……こっちもお金の問題だ。
チャンネルは毎朝テレビだ。生真面目な顔の女性キャスターが「続いても、国会での論戦から。……こちらの映像をご覧ください」と言ったのに続いて、画面が再び議場に切り替わる。
文部科学省の人(役職を見てもどれぐらい偉い人なのか、後輩くんには判りかねた)を、多くの人にとってどこの党の何という人であるかも判然としないぐらいのマイナーな若い代議士が、極めて冷徹な口調で問いを向けている。
しかし後輩くんはその議員の名前を知っていた。
「現在、多くの大学においてサークル活動を隠れ蓑に、宗教団体への勧誘が行われている、と。こちらの資料の通りなんですが、国公立私立の差なく、確認出来ただけで全体の半数ちかくの大学でそうした団体の活動が行われているということなんですが。ええ、遺憾ながら私の出身大学もこの中に含まれています」
砂子大樹衆議院議員。
顔を見ただけで判るのは、彼が九隅文科大学を卒業した人としては一番若い政治家であるからだ。現在九隅大学に通う学生たちの誇りの、結構大きな部分を担う人である。
……後輩くんもだいぶ九隅大生として毒されて来たのかもしれない。おらが村の有名人を見て応援したくなってしまうのは、だいぶ田舎者の発想であるが、九隅大生はみんな多かれ少なかれこういうところがある。
それはそれとして、後輩くんはぽかんと口を開けたまま画面を見上げているしか出来なかった。
「一部団体においては、民友党の皆さんと大変仲がおよろしいと。しかしながら、強引な勧誘をして、団体の会員数を増やしている、また、ええ、『益』とか『福』といった言葉を使うんだそうですね、高額なグッズを学生やその家族に販売しているということなんですが、これについて文科省の見解をお聞かせ願いたい」
痩せ型で細眼鏡の、どことなく爬虫類を思わせる砂子議員の質問に、文科省の役人さんは大いに表情を強張らせて、
「ええ、大学の、大学内におきます学生の、行動に関しましては、学生自身の良識に委ねるべきことでありまして……」
という、内容のあってないような回答に始終した。
画面がスタジオに戻る。
「ここからは社会部の宮部記者に加わっていただきます。宮部さん、大学内での宗教勧誘といいますと、私たちのころ、つまり十年前にもありました、あるいは二十年前、三十年前からもずっとありましたね。やはり学生さんたちの自治自律に委ねるしかない部分なのでしょうか」
宮部記者はあまりテレビ慣れしていない印象の、四十代ぐらいの男性である。目が泳いでいて、危なっかしく見える。
「あの、はい、そうですね、こうしたことはずっとあります。あるんですが、このところ一部の団体においては信徒の拡大にこれまで以上に注力していて。あの、こちらをご覧ください」
画面が切り替わる。薄暗い部屋、顔の映らないアングル、組んだ指が落ち着きなくもぞもぞ動いている。
女性インタビュアーの声が聴こえる。
「学内で、どのような形の勧誘活動をしていたんですか?」
聴き覚えのある声だった。画面の中の人物は指を一度ぎゅっと結び合わせて、
「自分たちは、団体の幹部からの指示で、地方出身の学生を囲い込んでいました。えー新歓、新入生歓迎会で、その学生に声を掛けて、サークルに勧誘して。その新入生は、家のほうがもう我々の信徒になっていて、でも本人はまだだと言うので」
と答える。後輩くんは飛び上がりそうになってしまった。
ボイスチェンジャー越しの声であるが、間違いない、
インタビューを受けているのは藤村だ。画面には彼の言葉と同時に、「この学生は、登山サークルを装って勧誘を行っていた……」という斜体をかけられた明朝体のテロップが出る。
「団体の指示で、サークルを組んで、勧誘を行っていた。非効率的なようにも見えますが」
これ、原口さんだ、原口ヒナコさん。
「人は一人だけで生きているわけではないですから。一人を勧誘することが出来れば、その一人がまた二人三人に繋がっていきます……」
つまり猪熊沼で衝突した二人が、インタビュアーとインタビュイーとして向き合っているのだ。
後輩くんはあんぐりと口を開けたまましばし固まっていた。どういう経緯でこの問題がテレビに、そして国会に取り上げられることになったのかは判らない、この事態をどう受け止めたらいいのかも判らなくて、でも、後輩くんはただ顔色をなくして「おおごとがじゃ……(赤州弁で、大変な事態になってしまいました、ぐらいの意味)」という言葉を頭の中でぐるぐる繰り返しているばかりだった。
大日氣弥益の人々が、この事態を察知して後輩くんと先輩を狙おうと考えたとして、なんの不思議もない。逆恨みであったとしても。
……そういう事態を回避できる唯一の手段が「赤目の土竜」こと先輩の師匠を味方に付けて、相手に勝つこと……。
後輩くんはヴェルデグリーン氏のような人を知らない、世の中の裏側を知らない。何も後輩くんばかりでなく、ほとんどの人が知らないし、知らなくっても困らない、知らないでいたほうが幸せな人生だ。しかるに、きっと先輩は後輩くんより少しは知っている。
知っていて、それが最善だと思ったから、その手段を択ぼうと決めたのだ。後輩くんのためではない……、しかし、そうであったとしても、なかったとしても、一時的にせよ百万円という借金を背負うことを気軽に決められたはずがない。
定食屋さんを出て、事務所への道を歩く足元で、スニーカーの底がとぼとぼと鳴る。……でも、でもさ、でも。そういう、未練がましい音だった。
自己弁護を廃して、冷静に、公平に見て、倫理を跨いだ向こう側を垣間見ただけの立場ではあるにせよ、僕はそこまで間違ったことは言っていないはずだ……、という思いもまだ残っているのだ。じゃあ、代わりにどうすればいい? 僕が、先輩が、危険な目に遭うことに肯定的になんてなれるはずもない。やりかたについて論じられる次元ではもう既にないことを、どうやら後輩くんは理解しなければいけないようだ。
狭いエレベーターに乗り込んで、事務所のフロアへ。もうみんな帰った後だと思ったら、オフィスに灯りが点いていた。黒河さんと山城さんのコンビなら、軽妙なボケとツッコミの応酬がどんなときでも聴こえてくるはずなので、所長だろう。所長はあまりそうは見えないけれど、仕事には真面目でとても優秀な探偵さんである。そっとノックをすると、「おう」という返事があった。
「バイト上がりか、お疲れさん」
「所長は、今日はずいぶん遅くまでいらっしゃるんですね」
「ああ、そろそろ片付けて帰ろうと思ってたとこ」
この探偵事務所のメンバーはみんな喫煙者だけど、中でも所長が一番のヘビースモーカーで、この人がいるかどうかは煙の量で一目瞭然だ。
「……よう、今日、アイツと宿木橋のドンに会って来たんだってな」
言うまでもなくヴェルデグリーン氏のこと。後輩くんを守り、そのための方策を練ることは、先輩の個人的な趣味ではなくて、探偵としての仕事の一環だということに、後輩くんは思い至った。そうか、……後輩くんは顔を顰めたいぐらいの後悔を催した。本当に余計でしかないことを言ったものだ。
「あれだろ。将棋でカタ付ける、そのための百万を借りてきたって言ってたぞ」
「……はい。あの」
所長は後輩くんの中にあるものを手のひらに掬うみたいに容易く観察出来るようだった。
「そんな怖がらんでもいいだろ」
厳しくて優しい笑みだった。
「そりゃあな、俺もまあ、探偵やっててさ、知ってるだろうけど、仕事の大半は浮気調査とか素行調査とかでな、お前さんたちぐらいのころに憧れてたハードボイルドな世界観に触れることなんざ滅多にねぇし、……このトシになってくるとよう、もう、あんまり危なっかしいことしないで、大人しく平和に生きていけたらいいわって気持ちにもなってくるもんだわ。仕事ばっかりが人生じゃねえしな」
笑う顔に年輪が覗いた。後輩くんが、まだあとこれまでの倍ぐらい生きて初めて、そういう表情を浮かべられるようになるかどうか。
「でも、あいつはまだ若いからよ。仕事に情熱を傾けて、どんな険しい道でも自分の信じるもんのために頑張るんだって姿勢はさぁ、見てて、いいもんだよ。ミスったときの尻拭いは上のモンに任せて、ぶつかって行きゃいいんだもんな」
後輩くんは、まだ判らない。所長ぐらいの歳になったらそういうもんだと思えるようになるんだろうか? どうも後輩くんみたいにせこせこした考えかたで、お財布のサイズも人より小さいようなタイプの人は、そもそも歳を重ねてもこの所長さんみたいなおおらかな考えを抱くには至らないような気がする。
一方で先輩は、きっと、とても大きな人になるんじゃないか。先輩はだって、あの百万円がなくなるなんて思っていない。その事態っていうのはつまり、先輩という人の正義を枉げることに繋がってしまうから。
先輩は後輩くんには真似できないぐらいまっすぐだ。真似できないからといって、その邪魔をしていいはずもなかった。
「じゃあ、また明日な」
火の元をしっかり確認してからエレベーターに乗り込んだ所長に頭を下げて、資料室に入り、ベッドに腰掛けて、がっくり。
そうだよなぁ……、先輩だもん、僕なんかが考えるよりもずっとずっと深いところまで考えていたに決まってる。反射的に声を上げるよりも先に、先輩がどんな考えを持っているか、全部は判らないにしても能うかぎり深くまで読み取ろうとしなければいけなかった。
どんなに溜め息の数を重ねたって、口にした言葉をなかったことにはできない。先輩は自身の一貫して正義に基づいて行動してきたのだし、そこには後輩くんへの愛情が、きっとあった。正義は常に他の無数の正義と対立しうるものではあるけれど、先輩にとってはきっと、後輩くんの平和な暮らしを守ることが紛れもなく正義だったのだ。
「ああ……」
という嘆きの声と、
「っくちゅん!」
というクシャミが、ネオンの色によって青やピンクに変わる部屋の中で混ざり合った。
ずっ、と鼻を啜る音、続いて、
「……ああいけない、寝てしまった……。こんなところで寝ては風邪をひく……」
先輩の声。
後輩くんはどこからその声がしたのか、しばし判別しかねた。先輩の姿は見えない。見えないけれど声はする。
「先輩……、先輩……?」
きっと怒っているに違いないと思っていた。だから、嫌われて、ひょっとしたらもう、口も聞いてもらえないんじゃないかって。……わりと何事も最悪な方面に考えを深化させてしまいがちな傾向が、後輩くんにはあるのだった。
「……お仕事お疲れさま、後輩くん」
先輩の声は背中からした。先輩はベッドの向こうの床に座っていたらしい。後輩くんが帰って来たらびっくりさせてやろうと思っていたのかもしれない。なんだかニヤニヤして、でもそれは、照れ隠しみたいな趣で。
「私としたことが、居眠りをしてしまったよ。……ごはんはもう食べたの? そう。私まだなんだよね。アルミ鍋うどんの買い置きがあるから作ろうと思うけど、一個まるまるだと多いから、君にも一口分けてあげよう」
先輩はいつもと同じ声で、ニヤニヤしながら言う。後輩くんはどんな顔でいればいいのか判らない。ただ両手はすっかり冷えてしまっている先輩をコートの上から抱き締めるということを、意志より早く決断してしまった。




