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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんには払えない。
25/30

ミスター・ヴェルデグリーン

 お昼前。

 宿木橋のゲイバー「緑の兎」は開店前の時間であるはずだが、営業していたのだった。

 ただし、お弁当屋さんとして。

「おや。後輩さんではありませんか」

 中寉さんが三角巾にエプロンをして長机の向こうでお弁当を売っている。その隣でやっほーと手を振るのは蒔田さん、「緑の兎」が誇る、可愛いお兄さん二人である。

 中寉さんは学生とバンドマンとバーの店員を掛け持ちしつつ王子様までやっているので、今年の卒業も「六月ごろには」諦めたということである。いろいろやりすぎだが、諦めがいい人ではある。彼が所属するどのコミュニティでも人から愛されているのは何よりであって、とりわけ料理はバンドと同じかそれ以上にファンが多いそうだ。

 後輩くんも既に味わった通りこの人の作るごはんは本当に美味しいから、むべなるかなという感じ。週に二日はこうして大学を休んでランチのお弁当を拵えて販売していて、これが宿木橋界隈のみならず、冨緑のオフィスで働く人々からも人気になっているもので、毎日限定五十食は十二時を回るとすぐに完売してしまうのだそうだ。

 宿木橋界隈のドン、「緑の兎」のオーナーでもある人は、そのお弁当を食べるのが大好きなのだけど、販売時間に買いに来ることは出来なくて、なかなかありつくことが出来ない……、しかし今日に限っては十一時過ぎにパートナーが知人二人を連れて来た。ならば、うん、お金渡すから買って来てよ、そう言われておつかいに出て来た後輩くんが、いま、中寉さんと蒔田さんに出迎えられたところ。

「ははぁ、オーナーのパシリだ」

「あるいは、先輩のパシリかも知れません」

 パシリではない! と先輩が憤然とするところがありありと想像出来る。先輩は後輩くんをパシらない。そういうところがとても公平な人である。

「お弁当を四人ぶん買って来るようにと言われました」

「オーナーと、先輩と、後輩さんと」

「あと老師も一緒か」

 凱龍さんはオーナーのパートナーをやり、オーナーの手となり足となり働き、バンドのメンバーをやりつつ、蒔田さんの中国語の先生をしている。だから蒔田さんは凱龍さんを「老師」と呼んで尊敬しているのだ。凱龍さんがおじいちゃんであるという意味ではない。

 肝心のお弁当の中身は、キャベツの千切りを添えた鳥モモ肉の味噌焼きと、小松菜の胡麻和え、それから里芋の煮っ転がしが一個分、きっとお手製のものであろうおつけもの、そしてごはん。これで六百円だというから、即完売も納得である。

「オーナーによろしくお伝えください」

 中寉さんの言葉に見送られつつ後輩くんがお礼を言い、身を翻したタイミングで、正午になった。後輩くんがオーナー氏との面会場所にお弁当を持ち帰るまでの短い道のりで、明らかにお弁当目当てと思われる、宿木橋ではあまり見かけないタイプのオフィスパーソンと何人もすれ違った。恐るべき人気ぶりである。

 さて、凱龍さんのパートナー、宿木橋の首魁のオフィス、……それは宿木橋の外れにあって、先日電車をなくした後輩くんが先輩に連れられて歩いた道沿いに立つ古い七階建てビルの屋上なのである。

 ペントハウスってこういうのを言うのかしらんと思う場所であり、七階であるから別にそんな大した高さでもないのだけれど、猪熊探偵事務所が入っていたビルとタメを張るぐらいの外観の古さと裏腹な、屋上の階段室を出たところのちょっとした芝生、手入れのいい花壇などは、そのまま「プリンス・ガーデン」として用いてもいいレベルの空間……。

 さながら天堂のようである。

 ハウスそのものはこじんまりとしているのだけれど、オーナーはアクティブにあっちこっち飛び回る人ではないそうで、広さはそんなには要らない。むしろ、猪熊駅で痴漢を鮮やかに撃退した通り、凱龍さんが綺麗な顔とは裏腹な激つよ格闘家で、脱ぐとすごい(そういえば、「ヴェル・デ・ラ・ビット」のライブでも笛を吹きながら人間離れした動きを披露していた凱龍さんの足には筋肉の線が入っていた)人で日々にトレーニングを欠かさなくて、ハウスの狭さを嘆いているそうである。

 で、後輩くんが四人ぶんのお弁当を提げて階段室から覗くと、芝生の上にテーブルとチェアを並べて、先輩に凱龍さん、そしてオーナーが談笑しているところだった。先輩は探偵でオーナーはこの街の顔役、当然ながら普通に生きているだけでは触れることのない、いかがわしくて危なっかしい方面にも効く「顔」をお持ちの人であり、凱龍さんはパートナーであるとともに護衛という側面も持つ人であるそうなのだが、そういうハードボイルドな三人の集まりであるとは到底思えない、牧歌的な空間である。

「あっ来た! 待ってたよ、お腹空いてるんだ。早く座って」

 オーナー、三十歳にはなっていないのではないかな、と後輩くんは想像する。目がぱっちり丸くて、描き出す表情がとても無邪気なのだ。年齢の順序はめちゃくちゃだが、後輩くんや先輩、あるいは中寉さんよりもこどもっぽく、顔いっぱいで笑って見せるのは、その年齢の人が形作る表情としてあまりにイノセントである。

 年末にユノちゃんを見た。あれぐらいの女の子を持ってきてやっと、同じぐらいではあるまいか。ユノちゃんだってそろそろ、あんまり思いっきりでかい声出したり笑ったりすんの恥ずかしいな……、やめとこかな……、みたいなこと思い始めるぐらいの時期であろうに。

 お名前は、ロッツェ=ヴェルデグリーン氏。

 外国人である。金髪で、フワフワした癖のある毛、流暢にこの国の言葉を喋り、凱龍さんとは凱龍さんの母国語で話をしている。この街の深いところに根を張り巡らせ、養分を吸い上げ、しかし何か悪いことが起きればたちどころにそれを直してしまう人。

 良きにつけ悪しきにつけ、後輩くんの人生に関わるタイプの人間ではない。

 ヴェルデグリーン氏は、東洋人としては長身な凱龍さんと並ぶと身長は同じぐらいで痩せ型、観光客のようにも見える。人のよさそうな笑顔で、気さくで人懐っこくて、なんだかあっちのほうの国のチョコレート菓子のコマーシャルにでも出てきそうな甘さが表情から滲み出ている。小さいころは子役でもやってたんじゃなかろうかと思う端正な顔を見て、いい人なんだろうな、と後輩くんはすぐにヴェルデグリーン氏のことを好きになった。

 しかし、後輩くんは同時にぞっとした。

 ひょっとしたらこれが、ヴェルデグリーン氏の恐ろしさではあるまいか。いい人でいるだけでは、言ってしまえばいかがわしい街の顔役なんてやっていられまい。こういう街が、ある種の闇と隣り合わせであることは後輩くんにも想像できるが、その街を取り仕切っている人でありながら「いい人だなぁ」なんて印象を短時間で植え付けてしまうあたり、やっぱりちょっと、ただものではない。

 お弁当を嬉しそうにしばし食べて、

「ん、そう、あいつら、大日氣弥益のやつらね。店の中で勧誘してるシーンを見たって、(ことつぐ)とか(みつる)とか、あと他の連中も言ってたよ。どこでもそういう店じゃないからって摘み出してくれたそうだけどね」

 承は中寉さんたちのお店の上之原さん、碩はミツルママのこと。ミツルママが「おだまり! とっとと出てお行きッ」と言うのは想像しやすいが、上之原さんはどんなあしらいかたをしたのだろう?

「……連中は、マイノリティの街には入ってこないものだと思っていましたが」

 先輩が静かに問う。大日氣弥益は反LGBT、そうした人たちに向けて「ヒセーサンシャ」(漢字を当てることは、もちろん後輩くんにも可能だけれど、したくない)などとヘイト振り撒く人々である。悲しいことではあるが、そうであるがゆえにこそ、一定の支持を集めてしまい、またゆえにこそ活動を続けることが出来ている団体である。

「教義と経営方針は違うでしょ。俺だってビジネスだったらレイシストとも手を繋ぐよ。……こういう考えかたには賛否両論あるだろうけど、必要だからしてるんだし、帰ってからよーく手を洗うということは言い添えておくけどさ」

 ヴェルデグリーン氏が言うには、大日氣弥益の人々、と大雑把な括りにして考えるのは危険だということだ。

「末端の信徒たち、……勧誘活動の熱意は濃淡あるだろうけどさ、無邪気な連中と、中枢にいる奴らが、必ずしも同じ感覚でいるとは限らないってことは頭に入れといた方がいいよな。解ってるだろうけど、中枢にいる連中がやってるのはビジネスだよ。そうだろ? いもしない『大日氣弥益』をさ、大の大人が、……それも、事業で、土地買ってモノ建てて商売しようって人間が、形而上の概念を本気で崇め奉ってるんだとしたらだいぶヤバいし、外から見てそいつらをピュアな感性の持ちぬしだって思っちゃうのもヤバい」

 当然のことながら、大日氣弥益とは中枢の人らが作り出した偶像である。それはお札であったり祭壇であったり数珠であったりに形を変えて、市井の人々の中に浸透して行く。後輩くんのお母さんがそうであったように、一般家庭に染み込み、毒していく。手口はごくシンプルな新興宗教のスタイルだ。こういうのは、この国においてのみそうなのか、アジアでそういう傾向が強いのか、それともヴェルデグリーン氏のほうでも同様で、人間が本質的にそういうものに騙されやすい生きものなのか、後輩くんは大雑把なことは言えない。

「でもさ、末端の連中は、それぞれに、えーとなんて言うんだ……、そう、ご利益が欲しいと思うわけじゃん。勧誘して、あるいは金出して、貢献したらそれでなんかこう、いいもんが手に入るって感覚でしょ。ちーいさなとこ、自分の中で、損することで得してるっていうサイクルをやっててさ、損より得のほうが多いって思い込めるから、ハマっていくんだよね」

「ご自身には、そういう傾向はおありでない?」

 先輩は慎重に訊いた。

「人を不幸にすると死んだ後どうなるかって感覚を持ってたらこういう仕事はしないなぁ。ああでも、俺がこの仕事をしているおかげで他の誰かが助かってる、……罪を犯さずに済んでるって考えたら、これも善行かもね」

 笑顔に少しの陰もないだけに、ヴェルデグリーン氏からは「本物」の感じが漂う。今日は一月にしては気温が高くてぽかぽか陽気、だからこうしてお外でお弁当ランチが出来るわけだけど、彼は深くて密度の高い夜闇を輪郭の中いっぱいに充満させているのかもしれない。

「末端相手にしててもしょうがないからさ、元栓締めて、差し当たり、君たち二人に手を出させないようにするのがいいよね。君らも別にさ、大日氣弥益の組織丸ごとぶっ潰しちゃえって言うんじゃないでしょ?」

 後輩くんは震え上がった。先輩はもう少し冷静で、

「そうしてやれたらいいなとは思いますが」

 と苦笑を浮かべる余裕もある。

「大日氣弥益が、私の後輩くんのおうちにしたことは、ほんの一例です。こうしたこと、……ろくでもない宗教の介入によって当たり前の家族の平穏が乱されることは、おそらくこの国のあちこちでこれまでも繰り返し起きてきたんでしょうね。私が知らなかっただけで」

 うん、とヴェルデグリーン氏が頷く。

「だとすれば、一件『報復』してやったぐらいじゃ何も変わらないってのは判るよね?」

「ええ、それはもちろん」

 話しているのは先輩とヴェルデグリーン氏の二人だけで、後輩くんと凱龍さんは黙っている。お弁当を食べ終えてしまうと二人はすることがなく、凱龍さんに至ってはご自身のパートナーと先輩がどういう話をしているかも判らないので、浮かべる表情の選択にも苦慮している。

「ですが、……ウクライナから、あるいはガザから遠く離れたこの国で、ポケットの小銭を募金箱に投じ入れることに、価値がないとは思えません。地続きのところで言えば能登半島の先のほうまで届きますようにと」

「自己満足の偽善についてはノーコメントだなぁ。……うん、けど、百円玉一枚でも出さないよりはマシっていうのは確かだろうね」

 そっけない感じに笑って、ヴェルデグリーン氏は全員の空になった弁当箱を集めて袋に詰める。相当偉い人であっても、そういうことを率先してやるのはすごいな、と場違いなことを後輩くんが思いながら眺めていると、

「誰がやるの」

 ヴェルデグリーン氏はビニール袋の口をぎゅっと縛って問いを向けた。

「私にあてがあります」

 先輩が静かに答える。

「金は用意出来るの?」

「あいにく、ご覧の通りただの学生ですので」

「幾ら必要?」

「一本。赤目(・・)は常に一本です」

 一本、とは、赤目とは。ヴェルデグリーン氏はおや、と目を丸くした。

「赤目のことを知ってるのか」

 先輩は静かに微笑んで、頷いた。

「赤目の土竜(モグラ)は、私の師匠ですので」

 ことここに至って後輩くんはようやく、将棋の話をしているのだと気が付いた。

 赤目の土竜というのは聴いたことがなかったが、先輩にあの高級駒を授けた人は、そういう名前だったのだ。凱龍さんはもっと判らないだろう。美しい顔に浮かべた真面目な表情こそ変えないが、目は泳いでいて、なんだかだんだん気の毒になってきた。後輩くんはスマートフォンの翻訳サイトを開いて、大急ぎに文章を打ち込む。

「へえ。赤目に弟子がいたのか、それもこんな近くに……。あのじいさんそんなこと一言も俺には告げなかったよ」

「もしご存知でいたなら?」

「もちろん、お前に俺の『駒』になってもらってた。ああそうか、それを避けるためにかぁ」

 後輩くんはようやく、先輩の師匠である赤目の土竜なる人物が何者であるかを理解した。

 真剣師だ。

 真剣師とは、金を賭けて将棋をやる人。

 プロではない、そして賭け将棋は他の賭けテーブルゲームと同様、違法である。先輩がそんなアングラな人から将棋を習い、駒を授けられるほど認められたのならば、……ああ、強いわけだ。

 そして気合いが違うわけだ。

「解説が必要かな、後輩くん。私はミスター・ヴェルデグリーンに、借金のお願いをする機会を与えられてここに来たんだ」

 真剣師と将棋を指すためには、それは賭けごとであるから、当然真剣師と対局する側もお金を用意しなければいけないし、真剣師に依頼する側もお金を積まなければいけない。

 しかし、何故いまここに「赤目の土竜」なる先輩の師匠が出て来たのか。

「私は師である真剣師に、大日氣弥益の一派との戦いに臨んでもらおうと思っているんだ」

「将棋で?」

 だいぶイノセントな声が出てしまった。

「俺は駒の動かしかたも知らないんだけどさ」

 ヴェルデグリーン氏が解説に解説を加える。

「いまの世の中でさぁ、俺なんかは、まあ『裏』のほうで暮らしてる人間だけど、人死になんてことはそうそう起こすわけにはいかないんだよ。それは後輩ちゃんも判るよね」

 それは、まあ。

「けど、今回みたいな意見の対立があったときどうするか。大概、解決するのは金だよな。札束で相手の横っ面引っ叩いて言うことを聞かせる。ここまではいい?」

 あんまり、いい気はしないけれど。

「でも、それでも言うこと聞かないって言ったら喧嘩になる。喧嘩になっても、暴力沙汰は出来ないってなったら?」

「盤上で代理戦争をするわけだ」

 先輩が言葉を繋いだ。

「あちらの用意する棋士と、こちらの用意する棋士とで対局をさせる。勝ったほうの棋士が賭け金を総取り、……そして、相手の要求を飲む。今回の場合、大日氣弥益の一派に強引な勧誘活動を止めさせ、私たちに危害を加えないよう約束させる。……こちらが助力を(たの)むとすれば、私の師である赤目の土竜しかいないんだ。ずっと、師匠に依頼するためのお金をどう工面するか考えていたんだけどね、……ミスター・ヴェルデグリーンにも頼まなくてはと思っていた矢先に、凱龍くんが呼びに来てくれたんだ」

 先輩はまだ出会って間もないころ、こんな言葉を口にした。

 盤上の戦いは平和。

 ……いや、いやいやいや。

 確かに血は流れないかもしれないけれど、こちらの「代理」で戦うのが、その、赤目の土竜なる先輩の師匠の真剣師で、そこにかかる費用が一本(・・)

 一本って、……たぶん、百万円のことじゃないか。

「だっ……、だっ、ダメですよそんなの!」

 額がもう途方もない。

 しかも、借金なんてとんでもない!

 先輩は顔色を変えなかった。

「赤目の土竜は負けない。しかし見せ金としての百万はどうしても必要なんだ」

「でも!」

 後輩くんは自分の上げてしまった声を自分の耳で聴いて、指先が冷たくなった。腕から耳にかけてはザラザラした感触を味わい、頭をぎゅっと締め付けられるような感覚に陥った。そう言えば、一月にしては暖かくても寒風に晒されておでこがちりちり痛い。先輩に対してこうまではっきり反対する言葉を口にしてしまうのは、これが初めてのことだった。

 いけない、と思っても、

「負けたらどうするんですか。そんな大金、どうやって返すつもりなんですか。僕なんかのためにそんなことするのやめてください!」

 畳み掛けるように強い勢いで言葉が迸ってしまったし、気付いたときには椅子から立ちあがっていた。こんな後輩くんであったことはこれまでに一度もなく、先輩もきっと想像すらしたことはなかったはずだ。

 怒ったのではない、恐ろしかったのだ。

 先輩が僕なんかのために、僕の家なんかのために、傷付くことがあったら、……百万円! 目の飛び出るような借金を抱えることになっては。

 先輩はじっと後輩くんを見ていた。その目には微かな冷たさがあったかもしれない、失望が滲んだかもしれない。

 先輩が後輩くんのためにしようとした行動はこれまでことごとく後輩くんを癒やし(みた)して来た。先輩の知恵と勇気によって、控えめに言ってもマイルドな地獄であった闇の底から救い上げられた結果として、いま、気持ちも体力も安定した状況となるに至っている。後輩くんのいまがあるのは、紛れもなく先輩のおかげだ。そのことに感謝をしている。先輩を、心の底から尊敬しているし、ああ、もう、大好きだと思っている。

 だから。

 ……という、自分の気持ちを理解してもらうことは、難しいだろうか。

 先輩は、一度くっと顎を引いて、どうやら静かに溜め息を吐いたようだ。先輩は、後輩くんより先輩だし頭もいい、けれどこれまで見て来た通り、普段の態度ほど穏和な性情をしているわけでもなければ、気が長いわけでもない。感情の快不快はあまり我慢せずに表現する。後輩くんの言うことだから、という理由で迸らせることを止めたのかも知れない言葉が、先輩の、タートルネックの向こうで蟠っているのを見た気がした。

 先輩はしばらく後輩くんを見詰めていたが、やがてふっと力を緩めたようにヴェルデグリーン氏に言った。

「後輩くんのためにするわけではないので。……どうでしょうか、私はこれまで、あなたのために幾つかの働きをして来たつもりです、ミスター・ヴェルデグリーン」

 ヴェルデグリーン氏は、まるで最初から後輩くんなんてそこには居なかったとでも言うように、

「ん、いいよ、……龍」

 と凱龍さんを呼ぶ。反射神経よく立ち上がった凱龍さんは、ペントハウスに走って行き、戻ってきたときには、その手に分厚い封筒が一つ。

「ありがとうございます」

「うん」

 後輩くんの世界には存在しないやり取りだった。

 後輩くんがこれまで手にしたことのある、まとまったお金というのは、大学の学費で、それにしたって年間に百万は掛からない。月々のバイト代は手取りで十三万ほどで、これは自分の時間の三分の二を費やしてようやく手に入れられるものだし、そのお給料の枠の中で、月三万の家賃を筆頭に諸々の固定費も食費も光熱費も賄った上で暮らしている、……そんな中にお父さんが転がり込んできて、だからどれだけ苦しい思いをしたかということについては、先輩もよくご存知のはずだ。百万円なんて額を、人から、しかもこんな恐ろしい世界観の人から借りるなんて、後輩くんには考えられない。

「で? ……段取りとして、まず向こうの連中に話をつけなきゃならない。それはまあ、俺がサービスでしてあげるけども」

「お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」

「場に心当たりはあるのか?」

「赤目は場所にこだわりません。あちらが呼ぶ場所に、どこでも行くでしょうね」

「そう。赤目の土竜が負けることなんて万に一つないだろうが、……探偵」

 ヴェルデグリーン氏は、晩ごはんの誘いでもするような軽々しい口調でいる。

「もしも赤目が負けたらどうする? 俺は(びた)一文まけてやるつもりはないけど」

 先輩はあくまでお行儀よく、礼儀正しさを崩さず、

「どんな手段を用いても、きちんと利息を付けてお返しします」

 と言い切った。

 先輩は後輩くんのほうを見なかった。ヴェルデグリーン氏も見ていない。後輩くんのいない世界がここに存在して、でも、先輩は後輩くんの大事な人である。その先輩に、立ち入ることを拒まれたような気持ちである。余計な口を挟むなと命じられて、疎外感なんて言葉が生易しく感じられるぐらいの、孤独に足が震える。

 それでも二人は一緒に宿木橋を後にした。しかし、後輩くんと先輩は一言も口を聞かなかったし、視線も交わらなかった。

 後輩くんは先輩と知り合ってから、今日ほど先輩が遠く感じられたことはない。

 大好きな人は、氷のように冷たい鉄の扉の向こうにいるみたいで、後輩くんにはもう、先輩を抱き締めたときのぬくもりも、唇の柔らかさも、思い出すことが出来なかった。

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