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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんには払えない。
24/30

朝の船

 後輩くんが探偵事務所に寝泊まりするようになって、三日も経つころにはもう、事務所の人たちは後輩くんの存在にものめずらしさを感じなくなったようだ。

 猪熊探偵事務所には所長とアルバイトの先輩のほか、正社員として採用されている探偵さんが二人いて、それが黒河さんと山城さん。そしてパートで事務や掃除をしている長谷沼さんがいて、これで全員。

 所長は後輩くんのお父さんと同じぐらいに見えるから、五十代半ばぐらいだろう。黒河さんと山城さんはどちらも四十代で、黒河さんのほうがどうやら少し上。長谷沼さんは所長と同じぐらい、つまり先輩一人、すとんと年齢が落ちるのだ。

 先輩は所長や他のみなさんからは「山椒」と呼ばれている。あるいは、「おチビさん」とか「君」とか。山椒というのは、小粒でピリリと辛い。ここにおいても、後輩くんは先輩の名前を自然な成り行きで知ることはないのだった。

 なお、後輩くんは皆さんから「居候」と呼ばれるようになった。

 その朝も、オフィスに一番乗りで出勤してきたのは所長だった。

「よう、居候」

 後輩くんは七時半には起きる。大学の講義は二限からだけど、先輩がここへ来たときに寝癖でぐしゃぐしゃというのは避けたいので、所長が出勤してきたときにはもうすっかり身支度を整えているのだ。

「おはようございます。……どうしたんですか?」

 所長は寒い朝なのにほっぺたを赤らめて、コートを小脇に抱えていた。息も心なしか弾んでいるようだし、よく見るとスラックスの膝が擦り剥けている。

「おー、それがよう……」

 言いながらオフィスの鍵を開けて一番にするのが、テレビを点けること。原口ヒナコさんの時間だ。

「はぁ……、かっわいーいなぁヒナちゃんは。居候はヒナちゃんに会ったことあるんだろ? なぁ、やっぱ可愛い? いいにおいする?」

 彼は、この国の人にイメージされるところの中年男性、という容姿をしている人だ。すなわち、小太りで、髪のほうがだいぶ残り少なくなっている。毎年の健康診断では血圧・血糖・中性脂肪あたりの数値に神経を尖らせていて、だから健康にいいとされるお茶を飲んでいるけれど、食事や運動が習慣付かない……、というタイプの。

 とはいえ、元々は警備の仕事をしていた(この人の経歴については、天沢有華を保護するときに先輩から聞いたので覚えている)ので、見た目よりはなかなか動ける人である。

 ヒナコさんの出番が終わってから、やっと所長はズボンの膝について語り始めた。

「それがよう、痴漢だよ、痴漢」

「えっ……、だっ、ダメですよそんなことしたら!」

「ば、バカ! 俺じゃねえよ! そうじゃなくてよ、電車の中でしてる野郎がいたからさぁ、ちょうど猪熊で降りたから、とっ捕まえて駅員に突き出そうとしたら逃げやがってさ」

 探偵とは正義の仕事である。てめぇ待ちやがれ! と追い駆けようとしたら、まあ元はどうあれ運動不足が祟って足がもつれて転んでしまったのだと言う。中年男の悲哀である。

「それで、その痴漢はどうなったんです」

「俺の膝の心配はしねえのな……。まあ、たまたま通りがかった背の高っけぇ中国人のオネエちゃんが、ありゃ功夫かな、パパッとのしてくれてよ。被害に遭ってた子もしっかり証言するっていうから、俺はこうして出勤してきたわけ。……なあ居候、俺って痴漢しそうに見える?」

 傷付きやすい年齢の人に可哀想なことを言ってしまった。とはいえ所長はこのとおり、気さくで愛すべきおじさんである。なお、事務所オフィスのほうがとてもタバコ臭いのは、半分ぐらいこの所長のせいである。

 少しして、黒河さんと山城さんが相次いでやってきた。後輩くんは朝ごはんの支度をしているところだった。給湯室に電子レンジがあるので、前夜のうちに買っておいたチョコチップパンをほんのり温めて、インスタントコーヒーで食べる。

「おはよう居候さん」

「おはよう」

 所長は中堅企業の中間管理職(おそらくそれ以上の出世は見込めない)という見た目だが、この二人もそれぞれ単独で見ると、後輩くんのイメージするところの探偵にはそぐわない。黒河さんは背がひょろりと高くて眼鏡をかけ、それこそ白衣を来たら似合いそうな色の白い人。メガネの奥の細い目は、いつもきょろきょろと落ち着きがなくて、声が高い。一方で山城さんは、ダンディ、という言葉がしっくり来る。ちょっと危うい不良感があり、しかし声が温かく低くて、スタイルも抜群によく、これまで三日間、コートもスーツ上下と毎日違って、なんだかモデルさんみたいだ。

 斯様にそれぞれを見ると探偵っぽさはぜんぜんないのだけど、二人揃うとたちまち、互い補い合う息のあったコンビっぷりを発揮するのだと先輩が教えてくれた。黒河さんが見た目の通り知能をフル回転させる一方で、山城さんはちょっと危ない場所にも臆さず突っ込んでいく。一度など、仕事の中で山城さんが警察に誤解されて拘束されて、所長が大汗かいて慌てているのを横目に黒河さんが真犯人に辿り着いて救出する、なんてこともあったそうだ。

 加えてこの事務所には、

「やあ、おはよう、居候の後輩くん」

 先輩がいる。

 有能な探偵さんの揃う、猪熊探偵事務所。

 ちょっと煙たいことを除けば、悩みごとを抱えている人はよくわからない神様に頼むよりここに来てしまうのがいいのではないか。

 オフィスで朝礼(と言っても所長が、最後にやってきた長谷沼さんが敷き詰められたタイルカーペットをやっている横で「まあ、今日も怪我なく丁寧にやってくれや」ぐらいのことを言うだけなのだが)に同席したあと、後輩くんと先輩は大学に向けて出発する。みなさんに「行ってらっしゃい」と見送られるのは、なんだか嬉しいような気恥ずかしいような。

 先輩と一緒に大学までの道を辿るのは幸せな時間だ。そして先輩もどうやら、後輩くんが他の誰かのところに行ってしまう可能性を低く出来るので、この暮らしの形を気に入っている様子が。講義の始まる二十分前に着いて、えっちらおっちら階段を上り、最上階の喫煙所へ。

 めちゃめちゃに寒い、けれど日のある時間はいつも陽射しが降り注ぐ。言うまでもないことだが、こんな朝にわざわざこんな場所に来るものずきは先輩と後輩くんぐらいのもので、つまるところここはいつも二人きりなのである。

 先輩は後輩くんにぴったりとくっ付いてタバコを吸う。とても嬉しそうな横顔が、愛おしい。この人と、あとどれぐらいこうしていられるのか判らない(何せ年齢が判らないし、何年生なのかも後輩くんは知らないのだ。ただ判っているのは二回目の四年生をやっている中寉さんに「先輩」と呼ばれているということだ)けど、願わくば、少しでも長く続きますように。

 仮に今度の三月で先輩が卒業してしまうのだとしたら。

 こうして毎日のように一緒に顔を合わせることは出来なくなってしまう。先輩後輩くんと呼び合う間柄は変わらないだろうけれど、住む世界は変わってしまうから。

 先輩の隣でこうして過ごすためには、二人の片方が、やがて両方が、大学生ではなくなってしまった後も、二人で「何か」であればいいのだ。

 それが「何」であるか、いまの後輩くんにはまだ判らないけれど。

「後輩くんは、……私これ最初から今まで一貫して思っているし、これからも思い続けることになるはずなんだけど」

 言葉が後輩くんのほっぺたをくすぐった。赤くなっているのは元から、……だって寒い。先輩の鼻だって少し赤い。

「不思議な子だね。君はとても素直なのに、そして考えていることがわりと表情に顕れやすいタイプだと思うのに、まるで全容を把握出来ている気がしないんだ」

 それって、先輩の自己紹介じゃないんですか、と思った。先輩ぐらい判らない人を、後輩くんは知らない。

「でも、君の横顔が可愛いことは知っているよ。君とくっ付いているととても暖かいということも」

 困ったことに、先輩には後輩くんが可愛く見えるようになってしまったらしい。その赤い瞳が僕によって曇ってしまうなんて、と後輩くんはどう償ったらいいのか判らなくなりそうだ。先輩という知性が損なわれてしまうのは社会の損失であり、そんな事態を招いた僕はだいぶ罪人だと、後輩くんは本気で思うのである。

「それだけ判っていれば十分なのかもしれないと、最近私思うようになってきたんだよね」

 悪戯っぽく笑って立ち上がる。その両手が開く前に、後輩くんが膝の上に招き寄せて抱きしめた。先輩はちょっとびっくりした様子で、でもすぐに落ち着きを取り戻して、後輩くんの髪に頬をすりすりした。

「ふふ……、君は意外と大胆なところもあるよね。気合が乗っているのときの後輩くんって凛々しくてかっこいいんだ。ふだんはほんわかしていて、大人しくて、遠慮がちで。だけど、君の中を流れる血はとてもあたたかい」

 判らないなぁ、と先輩の胸のあたりが自分の顔のすぐそばにあるのだけれど、そこにあるかもしれないものの存在感を認識することは後輩くんにはできなかった。女性であったならばなんというかこうだいぶ小さいということだし、でも男性と考えるにしても胸板薄いなあということになるわけで、どっちにしても指摘することが正しいとは思えない。

「だって、その、ここはこの時間、誰も来ません」

「この時間に限らずだね、……君ここで私以外の誰かを見たことある?」

「一度もありません」

「了はそもそも体力的に辿り着けないし、もうちょっと体力がある人間もこんなところまでわざわざ昇ってはこないものだからね。……それで?」

「……僕はもうすぐ二限の講義に行きます。なので……」

「うん」

「……行く前に、先輩をぎゅってしておきたいなって思いました」

「それだけ?」

「あとは……、あとは、出来れば、キスをしたいって思いました」

 先輩がくすくすと笑う。嬉しがっているようにも見えるし、からかっているみたいにも聴こえるし、どっちか判らない、あるいは他の理由かも知れない。

「いいよ。……キスをすることにハマってしまったのはどうやら君もだね」

 後輩くんだって百六十五センチしかないのに、もう五センチは低い先輩であるもので、……言葉選びには気を遣わなければいけないが、コンパクトな人で、膝に乗せてお尻を落としてもらうと、顔の高さを合わせることはそう難しくない。

 この体勢は、危険だなあ……。先輩がどっちか判らないけど、男の人であれ女の人であれ、大変危険だなぁ……。

 それは二人の唇が重なろうか、という瞬間だった。

 階段室のドアが、きゅいいと音を立てて開いたのは。

 そういう、あんまり開け閉てされ慣れていないがゆえに軋むドアであったことは、この仲良しな二人にとっては幸いなことであったと言えそうだ。

「おや。珍しいね後輩くん、こんなところにわざわざ」

 なんて先輩は後輩くんの隣に座って(二秒前にびよんと跳び上がったのに!)暗い画面のスマートフォンを上下逆に持ちつつ何食わぬ顔ってこういう顔ですと辞書に載せたいぐらいの表情で言う。

 後輩くんは気の利いた言葉は一個も浮かばない。どっどっどっどっと心臓の音がうるさい。姿を現したのは、長身の、黒い、全く癖のないストレートヘアの、……どこかで見たことがあるような気がするけれど思い出せない、ミステリアスな雰囲気をお姉さんである、と思いかけて違和感がある。上下隙なく男物のスーツ、きりっと白いワイシャツに、紺色のネクタイ、……喉仏。男の人だ。

「おや珍しい人が来たものだ。……後輩くん、気付かないのかい? 学祭のとき、了のバンドで笛を吹いていた……」

 言われて、思い出した。

 女装メイド男子バンド「ヴェル・デ・ラ・ビット」の、「笛のお兄さん」だ。

「あっ……」

 あのときは中寉さん含め全員がメイドさんの格好をしてパフォーマンスをしていたので、私服で目の前に現れられると気付かないものだ。

 女装バンド、というとおもしろ方面かと思いきや、骨太でめちゃめちゃ格好いい音楽をやるのが「ヴェル・デ・ラ・ビット」であって、ボーカルが中寉さん、キーボードは蒔田さん、ギターは金髪のイケメンお兄さんであって蒔田さんのパートナーである大月さん、そして笛(間違いなく笛である。横笛である)のこの人は、確か(しょう)凱龍(がいりゅう)さんというお名前。

 字面から想像出来る通り、外国人である。

 そして、この人も宿木橋の住民、……この美貌からも容易く想像出来る通り、パートナーがちゃんといるそうだ。

 凱龍さんは懐からスマートフォンを取り出して、短くぺらぺらっと母国語を吹き込む。凱龍さんはこの国の言葉が喋れないのだ。

「おはようございます。本当はもっと早く来たかったのですが、野暮用に巻き込まれて遅くなってしまいました。ダイニチキヤマス(これは大日氣弥益のことだろうけれど、翻訳が追いつかないようだ)の手のものについてお話に来ましたが、恐らくこれから二人は授業でしょうね」

 先輩と後輩くんは顔を見合わせる。

 どうする、と目で訊かれる。後輩くんは勤勉に出席を重ねて来ているほうだし、試験直前の一コマぐらいサボっても大勢に影響は出ないはずだ。

「話を聞かせてもらいたい」

 先輩の声を、スマートフォンが凱龍さんの言葉に翻訳する。ここからしばし、二人が機械音声で会話をするのを、後輩くんは黙って聴いていることとなった。

「あのトミチューの少女から私たちの街の首領が聞き出した話を元に、私が直接『櫻木山』に入って見て来たものについてお話しします」

 凱龍さんの言葉に、先輩も驚きを隠さなかった。トミチューの少女というのは、有華のことである。

「あなたが、一人で?」

「はい。『活動に興味がある』と偽って、門戸を叩きました。あの少女を勧誘したという『地区長のヒロ』という人物にも接触出来ました」

 凱龍さんが一度翻訳アプリから離れてご自身のカメラロールを開く。……中寉さんたちとお揃いのメイド服で撮った写真があって、凱龍さんはそれに後輩くんたちが気付いたことに気付いても、表情は変えなかった……、いや、変えないように努力してるんだな、ということは感覚のあまり鋭敏ではない後輩くんにもなんとなく伝わって来た。ライブで女装するの、本当は恥ずかしいのだろう。

 それはさておき、現れたのは、なるほど、大学生には見えないが、まだ三十にもなっていなさそうな男。グレーのジャケットに、クリーム色のシャツを合わせている。髪が短く、身体付きもがっしりしていることも相俟って、スポーツマンの印象だ。爽やかで、かつ、清潔感もある。女性からも男性からも好かれるタイプだ。後輩くんも、先入観抜きにしたら、「先輩の隣にはこういう人が似合うんだろうな」と思うだろうし、先入観があるいまは「先輩の隣にはこういう人が似合うんだろうなぐぎぎぎ」と思うのである。

 とはいえ、後輩くんも先輩も見たことがない男ではあった。仮に顔を合わせることがあったとして、何かを言えるわけでもない。

 凱龍さんが翻訳機に戻る。

「私が行ったとき、彼らは二つのことを隠そうとしていました。一つはその、『櫻木山会館』という場所に、地下室があるということについて」

 地下室。

「関係者以外立ち入り禁止、私は迷ったふりをして入ろうとしましたが、すぐに制止されました。のちにあの少女に訊いたところ、『地下にはおしおき合宿のための部屋がある』という話でした」

 櫻木山合宿、という言葉を、切り札のように藤村が使っていたことが思い出された。地下室というのが、なんとも嫌な感じである。どうしても、牢屋みたいなものを想像してしまうではないか。

「そしてもう一つは、……これは直接あなたたちに関係することです。つまり、……彼らはいま、あなたたちを探しています」

 日向にいるのに、にわかに雲が陽射しを隠したように、すうっと空気が冷たくなった。想像していたことではあるけれど、現実的にそう突きつけられると、息が詰まりそうになる。

「……私たちの居場所なんて探すまでもないだろうね。藤村くんや菊池くん、『日輪山』の人々はもう脱会したのだろうけど、他にも息のかかったサークルはいたようだし」

 先輩はそう独りごちた。凱龍さんは、続けて言葉を訳す。

「あなたたちはどうするつもりですか。彼らの組織は大きく、そして大変に執念深いでしょう」

 喉が硬くなったように、後輩くんは思われた。ひょっとして、えらいものと向き合うことになってしまったんじゃないのか僕たちは……、今更である。

「……後輩くんは」

 先輩は静かに言った。

「『私が守る』と言ったら、それを信じてくれる?」

 後輩くんの膝の上に、嬉しくって仕方がないという顔で乗って甘えていた人と同一人物であるとは思えない、凛として強い眼差し、……先輩が男性に見える瞬間だ。後輩くんは先輩の男性性も、女性性も、……そうであると一般的にされるもの、両方が好きだった。

 だものだから、

「先輩の言葉は、いつだって信じてます。ますけど、あの、僕は先輩が心配です。だって、僕のっていうか、ウチのせいで、先輩を巻き込んじゃって……」

 ことによっては、藤村菊池の襲撃とは比べものにならないぐらい危険な目に遭う可能性だってある。

 先輩は、ふっと微笑んだ。

「君も知っている通り、私には腕力はさほどない、……けれど知恵ならそこそこあるほうなのでね、あと、幸いにして友達は、そんなに多くないけれど、恵まれている」

 言われてみると、王子様部の人たち、みんないい人だ。猪熊探偵事務所の人たちもみんなそう。先輩経由で知り合った人の中には「なんでこんな人と付き合ってるんだろ」という人が混じっていない。

 そういう人だと、きっと先輩のほうから切り捨ててしまうのではあるまいか。

「凱龍くんが『櫻木山』なる場所に、行きたくて行ったと思うかい?」

 凱龍さんが櫻木山について語る間、その何とも麗しい眼元には憂いの雲が掛かっていた。この人が(バンド活動でメイド服を着ている以外の時間)どんな仕事をしているのかまるで想像できない、……スーツ姿をだけどロングヘアでこの国の言葉を扱えない人を雇う企業ってあんまり多くなさそうだが、なぜこの人が嫌な思いを押して、後輩くんと先輩のために妙な場所に赴いたのか。

 第三者の存在が示唆されていることに、後輩くんはようやく思い至った。やはり鈍感である。

「凱龍くんのパートナーは、了たちの『緑の兎』やミツルママの『さよならメルセデス。』をはじめとする宿木橋の多くのバーや、都内に複数のライブハウスやダンスホールを持っている、なかなかの人物なんだ。今回我が九隅文科大学と東英大学がタッグを組むに当たって、それを察知した大日氣弥益側が反応を示さないと思うほど私は呑気者ではないし、私たちの動きは凱龍くんのパートナーにも当然把握されている。そろそろこうして船がやって来るかなと思っていたところだ」

 二限が始まって、もう二十分ほどが経過していた。今日の四限まで入っていた授業を全部キャンセルすることは、後輩くんにはさほど難しいことではなかったし、バイトは夜だ。

「では、ちょっと慌ただしいが、宿木橋まで足を伸ばそう。……交通費は気にしなくていいからね」

 後輩くんは恐縮するばかりであるが、それはそれとして、凱龍さんの、先輩並みにどっちか判らない容姿を見ていて、ふと思ったことがある。自分のスマートフォンで、次のように訳した。

「あの、すみません、すみませんが、ええと」

 翻訳アプリは言葉のケバまで律儀に拾ってくれる。後輩くんはそういう言葉をだいぶ多く使ってしまうほうだ。

「今朝、あなたは、駅で、ある種の、悪い男をやっつけましたか」

 後輩くんの言葉に、少し照れ臭そうに凱龍さんは頷いた。

「女性に狼藉を働いていた人物を撃退しました。そのため、駅で幾つかの手続きをこなす必要になり、ここへ到着するのが遅れてしまったのです」

「後輩くんはなぜそんなことを知っているの?」

 先輩は首を傾げていたが、所長の正義の心に免じて、答えはそっとポケットの中に隠しておくのがいいだろう。この穏やかで美しい人は、どうやらとっても強いようだ。つくづく、先輩の周りにはどこかしら憧れてしまう要素を備えた人が多く集まる傾向にあるらしい。出会ってから知り合った外目黒さんとユノちゃんもそうである。

 その中にあって僕だけ何もないな……。

 けれど、きっと先輩が膝に乗って来たりハグやキスをねだったりするのは、僕だけなんだ。

 そう考えるときに胸に浮かぶのが、申し訳なさじゃなくって誇らしさになったとき、後輩くんは先輩に「好きです」って言えるんじゃなかろうか……、そんな気がした。

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