駒音
探偵事務所というものが一般的にどういうものであるか、後輩くんは知らない。
ただなんとなく、探偵さんというのは渋い中年で、かっこいいバーのカウンターでウイスキーを飲み、依頼者と実り少なく禁じられた恋をし、それを躊躇いなく捨てて生きる人たち、という気がしていた。
概ね創作物の影響を強く受けた、薄っぺらな想像である。後輩くんが初めて接した「探偵さん」は、自分より背が低くて、見た目年齢も若い、男性か女性かも判然としない、先輩である。
「ここを自由に使ってくれて構わない」
事務所の、オフィスとは別に設けられた、いかにも日当たりの悪そうな部屋(「資料室」と札が掛けられていたが、ガランとしていて「資料」らしきものは見当たらない)隅っこにパーテーションが立てられ、その向こうには折り畳みベッドがあった。
「他の人々は仕事で遅くなっても、みな億劫がらずに帰るのだけどね。私は、……その、なんていうか、家ではないところに泊まるというのを、ちょっと楽しんでいるので、所長に許可を得て、ここを第二の生活拠点にしてしまったんだ。もともと使っていない部屋だったし」
ということは。
このベッドで、普段先輩がパジャマ姿でお休みになっているということだ……。この枕に頭を乗せて!
後輩くんはすぐこういう気持ち悪いことを考えがちだ。
「トイレは廊下の向かい、銭湯は、ビルを出て駅に背を向けて通りを奥に進むとある。シャワーだけでいいなら、裏通りのカプセルホテルの向かいのコインランドリーにコインシャワーが併設されているよ。で、冷蔵庫がこれ。あんまりたいしたものは入っていないけど、好きに使ってくれたまえ」
テレビはなく、読みかけのものか、それともまだ手を付けていないものか判然としない本や雑誌が、壁際窓の下に置かれたローテーブルに積まれている。これは現状から導き出したなんとなくの想像に過ぎないが、ひょっとしたら先輩は、あんまりこまめに片付けとかをしないタイプなのかもしれない。知的な人であるから勝手に繊細なイメージを抱きがちであるが、天才の部屋が散らかっているとしても不思議なことではない。文豪の中には髪型もだいぶ散らかっている人だっているではないか、先輩は癖のないストレートヘアで天使の輪っかがよくできるので、なんの文句を言う必要があるものか。
「朝八時になると所長が、そのあとにはオフィスのメンバーが続々と出勤してくるが、君はここにいて構わないからね。他のメンバーが私の許しなくここに入ることはないし、君は堂々と過ごしていたまえ。私は朝に迎えに来るから、一緒に大学へ行こう」
先輩には、お世話になりっぱなしだ。しかるに、先輩は後輩くんが恐縮するところを見るのはあまり好きではないようである。後輩くんには自身にどれだけの価値があるものやらという感覚で、相変わらず僕なんかが隣を歩いていていいんだろうかという気持ちをしばしば催してしまうのだけど、先輩は「堂々としていなさい」と言うのだ。
そして、……のみならず、この人は、両手を広げて請うのだ。
「後輩くん」
後輩くんよりちょっと小さな人、性別の判然としない人、しかし後輩くんが心の底から尊敬する人は、後輩くんが古いディーゼルカーが坂道の駅で発進するみたいな感じに、ぶるん、……ぶるるるるるるるぶおおおおおん、と大袈裟にカロリーを費やしながらのろのろ立ち上がって、そのお側まで歩み寄り、自身の両腕の中に身体をすっぽり収めてしまうまで、じっと待っている。
両手が、ぎゅーっと背中に回った。
先輩と後輩くんは、まるで恋人同士みたいに一つの輪郭になる。
寒がりというか冷え症の先輩は、後輩くんがこうするのが暖かくてとても嬉しいと言う。後輩くんは寒がりでも冷え症でもないが、先輩と出会ったのが夏前でなくてよかったと思う一方で、本当に本当にもうこんなのいいのかなと、恐ろしくなってしまう。でも先輩は、あんまりいつまでも後輩くんが待たせてしまうとあからさまに寂しそうにするし、場合によってはご機嫌斜めになってしまう。
そして、言うまでもないことだが、後輩くんは先輩をぎゅーっと抱き締めることが、とても嬉しい。
先輩はいつもいいにおいがする。男性的なような、女性的なような……。タバコの煙を吸い込んだ服のにおい、だけど柔らかなシャンプーの甘さがあって、いま、夜は八時、こんな時間でもぜんぜん苦さがない。
そう感じるのは、僕がこの人のこと、本当に大好きだからなんだろうな……、と後輩くんは解釈しているし、先輩が後輩くんにこうされることを望むのは、たぶん、きっと、先輩も後輩くんのことを好きだと思ってくれているからではないのかと思う。
「……後輩くん」
しばし後輩くんの肩に埋もれていた顔を先輩が上げた。
「はい……、あの、……はい」
ぐっと緊張感を高めたすえに、まだ、どうしたらスマートになるのか判らないまま、遠慮がちに、……遠慮が勝ち過ぎて、少し遠く感じられる。勇敢さの足りない後輩くんの代わりに、腕の中で先輩が、ほんの少し背伸びをする。
一日に数秒、後輩くんと先輩は一つになって、離れる。
先輩はまた後輩くんの肩に頭を預けて、短く溜め息を吐く。後輩くんは毎度のことながら膝が震え、鼓動がどくんどくんどころかばっちんばっちん鳴っていることを自覚していて、さぞかし先輩はうるさく感じていることだろうと懸念が止まらない。
こんな具合の二人だ。
クリスマスちょっと前に中寉さんから、「お二人は付き合っているのですか」と質問された。そのときはまだ、こうした身体的接触は一度もしていなかったし、同じベッドで寝た、真っ暗な中で一緒にお風呂に入ったと言っても、それはなんというか、行為が関係性の証明にはならないだろうという解釈だったので、すんなり否定することが出来た。しかるにいま、同じ問いを向けられたとして……。
「うん、ありがと後輩くん。お茶を淹れるよ」
するん、と先輩は未練のない動きで後輩くんの腕の中から遠ざかる。もうちょっとこのままでいてもいいですかと問うたら、先輩は何て答えるだろう。あるいは、もう一度キスしませんかと誘ったなら。
後輩くんがそんなことを言えない人間であることを一番解っているのは哀しいかな後輩くん自身であるし、そのとても有名な事実はもちろん先輩だってご存知だ。ビルの給湯室に案内されて、お湯を沸かし、傷んだソファに向かい合って座って、先輩の私物でありここに備えているという紅茶をごちそうになるときには、いつもの先輩と後輩くんに戻っている。いつも、というのは、将棋を指したり、他愛もないことをお喋りしたりするときの二人である。
「ああそうだ」
ティーカップの中身が半分まで減ったところでぽんと手を叩いた先輩が、「ちょっと待っていたまえ」と言って寝室(元資料室)を出て行き、オフィスのほうへ行く。戻ってきたときには、手に大きめの本のようなものと、何かの箱……、ソファのローテーブルに置かれて、それが何であったか後輩くんは理解した。
本のように見えたのは折り畳み式の将棋盤、箱は駒の容れものである。
「いつもタブレットだからね。……せっかくここに君がいるのだから、たまには本物の盤を挟んで向き合おうじゃないか。盤はご覧の通りの安物だけど、駒はそこそこのものだよ」
そう言って蓋を開け、紺色の巾着から、しゃらりきらりと木の軽やかな音を立てて駒を溢した。
後輩くんは本物の駒に触れるのは中学の部活のとき以来であるが、先輩の駒が逸品であることは一目で判った。
「こ、これっ……、先輩これ、黄楊じゃないですか……!」
先輩は満足そうに微笑む。
「解るかい? うん、そうだよ。君なら解ってくれるかもしれないと思っていたんだ」
将棋の駒は、それ自体が文学作品の題材になるぐらいで奥深く、価値のあるものだ。材質や文字など、価値はピンからキリまで。材質において黄楊は高級品である。
後輩くんが部活で使っていたのは、文字通り吹けば飛ぶようなベニヤの駒にスタンプで「歩」とか押してあるだけの、まあ安っぽいものであったのだが。
この手でこんな高級品に触っていいものか、後輩くんは震え上がった。
記された文字も、盛上と呼ばれる技法が用いられている。すなわち、文字を掘り、掘ったところに漆で色を蒔絵筆で色を入れて浮き立たせているもの。真横から見ると文字が微かに盛り上がっているのが判る。
つまり最高級の素材に最高級の字を入れて作った、文字通り最高級の駒なのだ。
安くとも数十万は下らない。いや、ひょっとしたら数百万というしろものかも知れない。
先輩のおうちが裕福なのであろうことは、これまでのお付き合いの中でなんとなく窺い知れている。田舎の小さな魚屋さんのこどもである後輩くんがこの通りなんともせせこましい人物であるのに対して、先輩はせこせこしたところがまるでないし、立ち居振る舞いの悠然たる様子も生まれ育ちが影響しているに違いないと想像できた。
いやしかしそれにしても、こんな高級駒を持っているなんて……。
「この駒はね、私の師匠から貰ったんだ」
師匠。
将棋がめちゃめちゃ強い先輩だ、ゆうに有段者レベルはあるはずだし、いまからでもプロを目指せばなれてしまうんではないかというレベル。しかしご自身は「将棋で食べて行く気はないなあ。あくまで私にとっては楽しくて平和な遊戯であって欲しい、『鬼の棲家』に入って鎬を削るなんてとてもとても」と言う。鬼の棲家、とは奨励会に所属するプロ棋士候補生たちがプロを目指すための最終関門「三段リーグ」の異名だが、過酷さはよく知られている通りだ。そもそもその「棲家」に立ち入ることが常人には出来ないのであるが、先輩はなんというか、しゅるんと忍び込んでしまいそうなところがある。
しかし、プロ棋士を目指さなくても棋士に師事することは出来る。先輩はどこのプロの弟子になったのだろう?
「いいや、……アマチュアの人だよ。プロを目指したこともない人物だ。ただ、べらぼうに将棋が強くてね。私は駒の持ちかたからその人に教わったんだ。そしてね、……中学三年のときか、『これをやる』と言われた。あとは自分で強くなれ、とね。それきり師匠とは指していないし、タブレット一個あれば誰とでも指せるので、駒を手にすることは滅多になくなってしまった。でも、盤に駒を置いて指す将棋には特別な味がある。だからね、後輩くんをここに招いたあかつきには、きっとこの駒で指したいものだと思っていたんだ」
こんな高級な駒を使いこなしていた師匠、そしてその人物から駒を受け継いだ先輩、の対局相手として重宝されている後輩くん、という図式である。後輩くんはまだ先輩のことを何も知らないのに、こんなの、光栄過ぎて震えそうになるし、
「では、対局ろうか」
と促されて駒を並べるときには本当に手が震えて、危うく駒を取り落としそうになった。
二人で駒を用いて対局するのが初めてなのだから、初期位置に駒を並べるのも当然初めてのことだ。打ち合わせがあったわけでもないのに先輩も後輩くんも駒の並べかたは、二つある流儀のうち「伊藤流」であった。いまは「大橋流」のほうが主流である中で、二人揃うというのはなかなかない。
伊藤流とは、飛車、角、香車という遠距離攻撃が出来る三種の駒を定位置に並べる前に、その射程を歩で塞ぐという並べかたで、後輩くんはそこに奥ゆかしさのようなものを感じているのだが、攻め手の鋭い先輩がそれをすると、研ぎ澄まされた刃の正体を鞘の中に隠しているみたいに見えるのだった。
駒台代わりに駒の箱を裏返してそれぞれの右手元に置く。歩を五枚取って、先輩が振り駒をして、先輩が先手番、後輩くんが後手番。
よろしくお願いします、の礼から、ハグとキスよりもずっと前から二人の心通い合うコミュニケーションと手段であった将棋の対局が始まった。
先輩のことが好き。だけど、先輩のことをまだまるで知らない。いつか、知ることが出来るのか、それはいつのことなのか。
はたして本当に知りたいのか。
「私の師匠は旅から旅に、請われるままほうぼうへ行っては将棋を指すことを生業にしていてね、……私も小さいころは夏休みや冬休みのたびに、師匠についてあっちこっちへ行ったんだよ。北から南、……うん、赤州に行ったこともあるよ」
先輩はお喋りしながらでも、決して間違えない。寧ろ後輩くんのほうが、先輩の滑らかで耳に心地よい声に夢中になり過ぎて間違えそうになる。先輩は四間飛車、後輩くんは三間飛車、力戦調となる「相振り飛車」の戦いになった。先輩は振り飛車党、後輩くんも最近になって振り飛車の勉強に打ち込んでいて、二人の対局において相振り飛車が発生する確率がこのところ高くなっている。
「私が探偵を志したのは、この駒のためなんだ」
まだ序盤、だから、駒音は穏やか。室内のエアコンがことことことことと音を立てる中に、温まった壁やスチールの棚が緩む音の中に紛れて、ぴし……、ぴし……、静かに鳴る。駒は超一流だが、盤は折り畳みで三千円程度のものであるから、駒のベストな音が響いているとは思えないが、それでも将棋指しはみな、この音が好きなので将棋を指している側面がある。タブレットでもなかなか洗練された音が出せるのだが、やはり本物には敵わない。
「君に指摘された通り、この駒は高級品だ。本黄楊の盛上駒と来れば、判る人間にはその価値は判る。そして、またこういうことも想像してもらえるだろうけど、人の欲を掻き立てる。また、人の欲というものは、……これも君ならば容易く想像出来るだろうね、そう、しばしば事件の種となる」
二人の駒組は円熟していた。レスリングならば双方が腰を落とし両手を掲げ合い、組んだ瞬間に優位に立とうと画策しているところだ。もう組んでいいのか、いいはずだ、しかし組むのならば絶対に自分が優位な形でなければ……。
「年末に君を、私の最初のバイト先に連れて行ったね。概ね知っていると思うけど、私は珈琲が好きでね、ああいうお店を、いつの日か自分でやりたいものだと思っていたほどなんだけど、……人の生きる道っていうのはなかなかままならぬもので、私はこの将棋の駒に導かれるようにこの探偵事務所で働くようになったんだ」
す、と先輩の歩が前進し、後輩くんの歩とぴったり向き合った。開戦は歩の突き捨てから、と言う。後輩くんは二秒目を伏せてから、その歩を取った。
「この駒が、盗まれたのだよね」
「え」
後輩くんは思わず顔を上げてしまった。
タブレットでは双方五分とか十分とか持ち時間を定めて対局するのだけど、今回はアナログであるし、チェスクロックも用意していない。
だから時は水の中の油のように、ゆっくりと蕩けて浮かび、また沈む。
「完全なる私の不注意だ。私が師匠からこの駒を譲り受けて、……私は自分がそういう駒を所有していることを、ついうっかり同級生に話してしまったんだ。まあ、自慢したかったんだよね。私がそういうものを所有していると知れば、周囲がどう思うか、想像が及ばなかった」
先輩は当時、高校の将棋部には所属していなかったそうである。理由は容易く想像出来るが、高校の部活動レベルではこの人に太刀打ちできる子はいないだろう。県代表レベルで互角に渡り合えるかな、というレベルだ。
「これは天童の明禄という人が手掛けた駒だ。作られたのは今から五十年ほど前。第一回の龍神戦の第二局で使われたことがある。つまり長森房雄初代龍神と、小此木満第十七代棋賢の触れた駒である、ということだ。……両雄とも我々が生まれるずっと前に鬼籍に入られたわけだが、そういう意味でも価値のあるものだ」
先輩の師匠が幾らでこの駒を買ったかは想像も出来ないが、今の時代、……将棋がブームになっていることも追い風に、本当に眼窩から眼球が飛び出して、それをよたよたと拾いに行かなければいけないぐらいの金額になっているのではあるまいか。
「私なりにね、考えた結果だったんだ。高価なものでもあるし、ああいったものは好事家たちも在所を把握している。私の家にあると知れば、売れと言ってくる人もいるし、それこそね、盗まれる危険もある。……だから、学校に貸与するという形で預からせて、守らせるという形を取ることは名案だと思ったんだよね……」
ところが、そうは行かなかった。先輩が安全と見做した高校で、明禄作の駒が盗まれてしまったのだそうだ。
「管理を担当していた将棋部の顧問の先生、……人のいい生物の先生だったけど、憔悴という言葉では追い付かない、気を付けて見ていないと冗談抜きで首でも括ってしまうんじゃないかと思うほどでね……。でも、その先生が悪いわけじゃないし、もちろん犯人でもないことは明らかだった。根拠? うん、そうだな……、その先生の憔悴っぷりがまず一つ。私にはあれが演技であるとは思えなかった。そしてもう一つには、……その先生は将棋を指す人だったから」
後輩くんの指先に優しい眼差しを向けて先輩は言った。後輩くんはちょっと訝る。将棋を指す人なら、この駒の価値が判る。詳しい人であればあるほど、これを欲しいと思うものではないだろうか……?
そう思ったけれど、後輩くんは先輩が攻めに勢いを付けるべく銀の頭を叩いてきた歩を、安易に取り返すべきかどうか、少しく考える。この歩を取れないようでは……、いやしかし。三手、五手、七手先まで思考の叢を掻き分けたすえに、銀を左後ろへ下がる。この歩を取ると、まず間違いなく先輩は技を掛けてくる。七手先にこの銀が縊り取られる未来が見えて、灯かりを点けているのに薄暗く感じられる天井に向けて細く溜め息を吐き出した。
将棋に通暁している人であればあるほど、価値が判る。しかるに、あるがゆえにこそ、恐ろしくて手が出せない……、という側面もあるだろうと後輩くんは気付いた。
「将棋部の顧問の先生、それから部員たちも疑われた。しかし私は初めから彼らを調べるだけ時間の無駄だと確信していたんだ。……校内のことではあるけど、ものがものだけに警察の介入しそうな気配だった。言い忘れていたけど、夏の終わり、九月の出来事でね、私は当時二年生だったけど、将棋部には三年生もいたし、先生がたも受験の準備でてんてこまいを始める支度に余念がない時期だ。そんな中に警察が入ってきて、好き放題捜査をして、校内が慌ただしい空気になってしまうことは避けたかったし、……あとそもそも、私が学校に駒を預けるようなことをしなければ避けられた事態だったからね……」
後輩くんにある筋を読み切られたと判断するや、二の矢をつがえて放ってくる。その一矢が顔や腹や心臓に突き立たないように身を捩っているうちに、次第、無理が生じ始める。
「後輩くん、余裕があったら考えてみたまえ。……駒を盗んだのは何者だろう? 君も三年前には高校生をやっていたのだから、高校の設備に関してはまだ記憶に新しいことだろう。この駒は将棋部の活動場所である生物室の隣、準備室の鍵の掛かる棚に仕舞われていた。その月の終わりに迫った高校の文化祭において展示する予定だったんだ。その棚の鍵は、顧問の先生しか開けられない。そして、鍵に壊された形跡はなかった。……質問はいくらでも受け付けるよ」
後輩くんは、乾いた唇を湿すために、もう冷めてしまった紅茶を一口啜った。
「……その、顧問の先生は、将棋部以外に部活は見ていましたか?」
「さあ、どうだったかな。私も熱心に部活をやっていたわけではないので詳しくはないが、おそらく見ていなかったと思う」
「じゃあ……、あの、盗まれたのは、九月のいつぐらいですか? 先輩が駒を学校に持ってきたのはいつぐらいでした?」
「持ってきたのは九月になったばかり、まだ五日を過ぎていなかったよ。そして盗まれたのは、その翌週。九月十日の夜に先生は駒のあることを確認していて、翌日の帰りに棚を開けて確認したら、忽然と姿を消していたそうだ。また先生は棚の鍵をご自宅や車の鍵と同じキーホルダーに付けて、校内にいるときはいつも白衣のポケットに入れていたそうだ」
いいかい? 先輩がポケットを指差した。そこにはタバコとライターが入っている。どうぞ、と後輩くんは頷く。先輩がタバコを吸うところを見るのが、後輩くんは好きなのだ。
ライターの赤い光が閃いて、先輩の指先に宿る。
「……先生たちの中には週末にチョークの粉であちこち汚した白衣でも平気な人がいたが、その先生は毎日白衣を替えるぐらい神経質を自認している人でね。よく覚えているが、授業中でも将棋を指しているときでも、左の前ポケットを上から握る癖があった。そこに大事なものが入っていることを、ご自身で意識したかったのだろうね」
しまった。考えに集中しすぎて局面の把握が完全でなかった。先輩の銀の攻めによって、後輩くんの桂馬が助からない。
「……つまり、その先生が鍵を持っていて、その鍵を白衣の左前のポケットに入れていることは、わりとみんながご存知だった……?」
「ある程度先生を意識して見ていれば、想像することは可能だろうね」
先輩は受けも攻めも間違えない。そして一度攻めに手が付いたとき、受けに問題がないと判断すれば一直線。
しかし先輩は、後輩くんの陣形に綻びの出た瞬間であるのに、一分ほど考え込んだ末に力を溜めるような手を指した。ということは、まだ先輩の攻めは細いということか。
あるいは、先輩の守備にどこか隙があるということか。
「……違うかも知れないですけど、……その、全然自信ないんですけど……」
後輩くんは思い切って受けの手を抜いて攻めに転じた。角を切り飛ばして、得た銀で討ち取った桂馬を玉頭方面の攻めに加勢させる。桂馬はトリッキーな動きであると同時に、スピード感のある攻めには欠かせない。
「先生のポケットに鍵が入ってることを知ってる人なら、先生のポケットの中身をすり替えるとか、鍵の型を取って相鍵を作るとか」
うん、と先輩が頷いた。「そこまでは合っている」
であれば。
「先生の同僚、つまり、別の先生のどなたかが犯人です。同じ理科の先生、物理か地学の先生かなって気がします」
「うん、では理由を訊こう」
攻めは、勢いと気合いが大事。
「鍵が壊された形跡がなかったということは、先生の持っていた鍵で開けたということです。同じ教科の先生同士なら、その生物の先生が大事なところを握る癖があること、……そこに鍵があることにも気付いていたと思うんですよね」
先輩は冷静に受けに回りながら、後輩くんに続きを促す。受けに回ったときの先輩は、文字通り鉄壁の守りだ。
「一ついいかい? ……高校の理科の教科は、生物、地学、物理、もう一つあるが、君がそれを挙げないのは意図的なことかい?」
後輩くんは頷いた。
「化学の先生は違うと思いました。……僕の高校だけじゃないと思うんですけど、理科の先生っていうのは、だいたいいつも白衣でしたよね。理科室の水道の勢いが強いのと同じ『学校あるある理科編』だと思います」
「あの独特な天板の黒い机なんかもそうだね」
ケミサーフという素材で、黒いと薬品が溢れたときによく見えるのである。
「みんな同じ白衣なんですけど、よく見るとちょっとずつ個性があって。新品ならいざ知らず、汚れかたに個性が出てくるものだと思います。化学の先生の白衣はやっぱり薬品で汚れていたりしました。他の三科目の先生たちの白衣とはちょっと趣が違うかなって。逆に言えば、他の三科目の先生の白衣なら、一瞬入れ替わることがあってもおかしくないですよね。仮に物理としますけど、いえ物理に恨みとかないですけど、顧問の、生物の先生が何らかの理由で置いた白衣のすぐ側に自分の白衣の、左前ポケットに同じぐらい重さのキーホルダーでも入れて置いておいたら、きっとすぐには気付きませんよね」
先輩の守りの金を剥がした。これは後輩くんとしてはなかなかの快挙である。
しかし先輩は顔色一つ変えない。これまで以上に表情を穏やかにして、
「素晴らしい、さすが私の後輩くんだ」
優しい声で後輩くんを褒めてくれると同時に、思いもよらぬ攻防の角を打ち込む。後輩くんはそれを上回るほどの攻めの手を繰り出すか、あるいは一旦受けに回らなければいけない。
「顧問の先生が毎日おろしたてのような真っ白な白衣で来ることを知っていれば、特徴を近付けるのはそう難しくないね、準備の日に新しい白衣を着ていけばいいんだから。……事実として、先生にこんなことを訊いた先生がいたそうだよ。『先生の白衣はなんて柔軟剤を使っているんですか? いやね、先生のにおいに興味があるんではなくて、ただいいにおいだなと思って』とね。その先生は物理の先生だった。鍵の形を取って、付属中学、……ああごめん言い忘れていたね、うちの学校はそう、中学もあったんだ……、その中学の、技術教師に頼んで合鍵を作った。あとはタイミングを待つだけ」
「その、中学の技術の先生も犯人ですか?」
「もちろん、共犯だよ。物理の先生単独では作れなかっただろうし、外へ持ち出して合鍵を作るだけの余裕はなかった。そして、取った型を鍵屋さんに持っていって合鍵を作ってくれなんて言ったら……、ねぇ」
後輩くんは屈した。一歩引いた瞬間から、傘に掛かって攻めて来られる。後輩くんの囲いにはあっという間に火がついてしまった。
「概ねさっき後輩くんが考えた通りだよ。白衣を入れ替えて合鍵を作る、シンプルな話さ。ただ、ものがちょっと特殊な価値を持つものだから、ついつい人の目はその価値を理解している者のほうへ向いてしまうんだ。……その物理教師と中学技術教師も、将棋のことはまるでわからないけど高く売れるらしいぞというぐらいの安易な理由で盗もうと思ったらしい」
先輩の推理によって浮かび上がった二人は、すぐに責任を取ることとなった。動機などについては、先輩の元まで詳しく届くことはなかったそうだが、なんだか使い込みがあったとか。まとまったお金が必要だった二人には渡りに舟……。
「私に取っては苦い思い出だよ。私の軽率さが、二人に罪を犯させてしまったのだからね。……顧問の先生にはずいぶん感謝されたけど、正直あまり嬉しいことではなかった」
当時高校二年生の先輩に、ふくらはぎがつるほど背伸びをして、やっと肩を並べられたぐらいの後輩くんである。やっぱりすごい人なんだなぁ、と、みるみるうちに崩されてしまった囲いに力ない笑みが浮かびそうになる。
「バイト先だったあのお店の店長の耳にも、この一件は届いてしまってね。……ある日やってきたのが、クリスマスに結果的に泊まることになったあの店のオーナーで、店長の親友。なくしものをしたので探して欲しいと言われて、まあ、ちっともたいしたことではないのだけど、探しているうちにそれも盗まれていたことがわかってね。跡を辿っていったら、半グレというのか、タチの悪い連中に鉢合わせてしまって、ちょっと危ない目に遭った。私も、これはちょっと、自衛のためにも本腰入れてやらないといけないと思ってね、大学進学と同時にこの事務所に雇ってもらうことになったというわけさ」
以降は事務所所属の探偵として、まああまり物騒ではない依頼、……身辺調査とか、あるいは何でも屋的な仕事も請け負っているらしい。先日の有華の件のように、イレギュラーに飛び込む依頼にも対応する。
あのお魚の美味しいお店のオーナーという人物が、宿木橋にたくさんのバーを持っている人で、王子様部並びに宿木橋界隈と縁が出来たのも、先輩が探偵だったから。ちなみに中寉さんと蒔田さんが働く「緑の兎」もその人のお店だそうだ。
この縁をきっかけに、先輩は宿木橋で起きた事件もいくつも解決したそうである。
「そんなすごいことではないよ、私なんて探偵としては三流だからね」
話を聴いているうちに、あっさり後輩くんの王様は先輩に召し取られてしまった。先輩の何が強いって、謙虚なところが。
「……ところで、ねぇ、後輩くんは賭けごとが好きだね?」
ちょっと心外だ。ボートレース以外はやらないし、それだって寿羅くんという縁があるから。
むしろ、賭けごとが癖になりそうなのは先輩のほうである。真面目な人生を歩んでいた人に、とんでもないことを教えてしまったと後輩くんは後悔しているのだ。
「こういうの、後出しはよくないとは思うんだけどね、でも、一応私こうして勝ったわけだから、ねえ、後輩くん、ちょっとぐらいのわがままは聞いてもらえるだろうね?」
先輩ははにかんだ笑みを浮かべて立ち上がって、後輩くんに向かって両手を広げる。
まったくもう、なんて人だ。後輩くんはいいところまで行ったのに結局負けてしまったので、気持ち的にはやや凹んでいるところなのに、そのうえで大いに困り、弱る。
だけど、負けて凹んだところが喜びで埋まって、盛り上がる。
「うん、ありがとう。……そうだ後輩くん、今後は対局で負けたらそのときは、相手の望みを叶えてあげるというのはどうかな。まあ、うん、お金のかからない、これぐらいお手軽なのがいいだろう。君にはもっと強くなってもらいたいからね、そのためにも効果的だと思うんだけど、どうかな?」
連戦連敗で身包み剥がされる、なんてことになりかねない話なのだが、先輩はその可能性には全く気付いていないようである。後輩くんだって盤を挟んで向き合えば、どんなに大好きな人だったとしても本気で倒しに向かわなければいけないし、そうでなければ先輩は早晩後輩くんと将棋を指してくれなくなってしまうだろう。
しかし、後輩くんがもし勝ったなら、……先輩にどんなことをお願いしたらいいのやら。
思い付いたのは、先輩に質問を向けてみることだ。先輩は僕のこと、好きですか。僕は先輩の恋人ですか。
どんな言葉が返ってくるだろう……? 恐れる必要なんてない。だって後輩くんが先輩に勝つ日が来るのは、まだまだ当分先のことになるだろうから。




