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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんには払えない。
22/30

探偵事務所

 張り詰めた空気、なんて表現があるけども、それを通り越して、空気中を無数の微細な針が漂っているみたいだ。あっちこっちに刺さって弱い部分に刺激を感じるのだろうか。

 後輩くんは顔面の皮膚がひりひりを通り越してぴりぴりと張り詰めて、なんならおでこの傷がぱかっと開いてしまうんじゃなかろうかぐらいの懸念さえ抱いた。

 ここは猪熊駅北口徒歩五分。

 猪熊探偵事務所のオフィスである。

 薄暗くて、埃っぽくて、更に今は、いつも以上に煙たい空間。触り心地のちくちくした空気は一方で、窓の外から無遠慮に飛び込んでくる青とピンクのネオンサイン(隣のパチンコ屋さんのもののようだ)の中を硬さを伴って漂う。後輩くんが刺激感を覚えるのは、主にタバコの煙のせいかも知れない。目がしばしばする。

 そんな部屋の片隅で、先輩は無表情にタバコを咥えて、静かに吸い、吐き出して、銀色の、べこべこになったアルミの灰皿に灰を落とした。

 先輩と向き合っているのは、体格においては、小さな先輩よりもっと貧相な印象もある老人。

 七十代も半ばにはさしかかっていようか、痩せていて、枯れていて、髪ももう耳の周りに少し残っているだけ、……そしてそれもだいぶ乱れている。肌艶もよくなく、一眼見ただけでは「おうちがないのかな……」なんて想像をしてしまいそうにもなる。

 けれど、その人は……、恐ろしいほどの鋭い眼光。

 痩せているのは極限まで自身の余物を削ぎ落としているがゆえのことであろうという想像も容易い。

 小さな身体から漂うのは、殺気、あるいは妖気とでも呼べそうなもの。

 老人の名は、赤目(あかめ)燈流(とうりゅう)という。

 真剣師……、と呼ばれる人だ。

 真剣師とは何であるか。

 それについていま、のんびり語る余裕は後輩くんにはない。目の前で先輩が、立派な脚を備えた分厚い将棋盤を挟んで、真剣師と向き合っている。

 将棋盤の傍には、剥き出しのお金が置かれている。

 百万円。

 ひゃくまんえん……。

 よく見て数えなくても幾らあるか判るお金には、全く親近感を抱けない後輩くんが、なぜこんな大金の置かれた場にいるかと言うと……。





 一週間前……。

 九隅文科大学と東英大学。言ってしまえば「私学文系の両雄(・・)あるいは双璧(・・)もしくは龍虎(・・)」である両大学のサークルを管理する学生側の代表者、学生自治会の会長同士の、歴史的な会談が、両大学から均等距離にあることがあらかじめ確認された白沖川の河川敷にて行われた。

 一月の、よく晴れてとても寒い日のことである。

 なお最寄駅である白沖駅前には喫茶店もあるし、ファミリーレストランもあるし、なんならカラオケも居酒屋もあるのだけど、両大学の自治会会長が「均等距離」という点においては文字通り一ミリも譲らなかったのである。結果として寒空の下で会談が行われることとなった。

 なおこの場所が均等距離であることを証明したのは第三者である一之江医科歯科大学に通う後輩くんの高校の同級生さんである。利害関係者が絡むと計算の際に不正を行うのではないかと、要らぬ疑念を排するため……、というよりは、みんな筋金入りの文系なのできちんとした計算が出来なかったため、依頼されたのである。

 後輩くんは九隅大生として、ずいぶん苦労して入ったこともあるし、一定の「愛学精神」みたいなものは持ち合わせてはいるものの、とはいえウチの大学の人らの東英大コンプレックスはちょっとおかしいな、と思うところもあった。初めて知り合った東英大生である外目黒さんや汐崎くん、同大学OBの寺前さんも、こちらが九隅大生であると知ってもまったくフラットに接してくれたので、気にしているのはこっちだけなんじゃないかしらんと思っていた。

 しかるに、東英大学の側にもグラデーションがあった。学生自治会ぐらいになるとかなりに「濃い」人たちの集まりになる。

 大日氣弥益をはじめとする人々から学生の平和な暮らしを守るために手を取り合いましょうよ、という提案についても、その妥当性こそ評価されたものの、

「九隅文科大学みたいな(・・・・)ところと手を組んでやるのが本当にいいんですかねぇ」

 とニヤニヤ笑って肩を引き胸を反らす、なんていう尊大な態度を見せたのだ。まるで「おたくは単なる私学だけどウチと釣り合うのは国立ですよ」なんてことまで言わんばかり。

 もっとも、フィクサーとしての任を帯びて東英大に赴いていた先輩は、これぐらいの反応は想定していたので動じない。四面楚歌の局面でも全く動揺することなく、泰然としているのが先輩である。将棋でも後輩くんが「これは痛いはず!」という手を指しても、穏やかな微笑みさえ浮かべて「うん、いい手だね。君が勝ったならこの一手がMove of the gameになる」なんて言う、そして後輩くんを捻って負かす。向き合っていると底知れなさを感じてくらくらするものだ。

「そこを敢えて、両大学に橋を渡す立場に、あなたがたはなるのだ。その偉大な仕事の価値を、あなたがたは理解できているはず」

 僅かに、東英大学自治会の会長の表情が動いた。将棋においても、隙を見つけると一気に畳みかけてくる先輩は、この会長氏が潜在的に名誉欲とマウント取りたい欲を抱いていることを見抜いたのだろう。

「九隅文科大学は、この件におけるイニシアティヴには何ら興味を抱いていない。公的には……そう、そちらから、我々に呼び掛けたという形にしてもよいのではないのかな」

 この場には、フィクサーの先輩と、助手であるところの後輩くんしかいない。ただ同席しながら、後輩くんはずいぶんハラハラさせられているところである。「相手に花を持たせることにしたよ」なんて先輩が言えば、九隅大自治会の会長は青筋立てて怒りそうだから。

 しかし、先輩は読み切っていたらしい。

「……いいや、いいや。私たちも別に、その、なんだ、この件で自分たちがいいカッコしたいとかそういうわけではないんですよ、そこんところは誤解されたくないですねぇ。なんかそれだと、我々がなんというか、そちらに譲ってもらったみたいになってしまうし、あとあと貸しを作ったみたいに言われることになったらそれはそれでねぇ」

 先輩は黙ったまま弁解口調の自治会会長氏を見ている。しばし、沈黙の押し合いが会長氏と先輩の間で行われた。

 やがて、折れたのは相手のほう。

「……では、まあ、共同に声明を出すという形でよろしいんですかね」

 やや、溜め息混じり、しぶしぶ、という気配もあったが、自分の大学の学生をやっかいごとから守ってあげたい気持ちはこちらもあちらも同じなのだ。目的を果たすために譲歩出来るのが、賢い人間のありかたである。……そもそも、私学文系の双璧の、レンガの一つであるから、あんまりせせこましいことを考えるべきではないのだ。

 こうして先輩は両大学の自治会を結び付け、白沖川の河原にてスムーズな会談が行われた。……いや、スムーズであったかと言うと、声明に記載する大学名はどっちを先にするかということでまた二十分ほど押し問答があったり、あやうく交渉決裂一歩手前まで行ったりしたのだが、両学の長い歴史に比べれば、こんなの一瞬の出来事である。

「では、今後は両大学間で緊密なコミュニケーションを計りつつ、サークルを隠れ蓑に学生に不利益となる活動を行う連中に関しての情報を共有していくということで。両大学とも異論はないね」

 かくて、この年度の後期もほぼ終わろうかというタイミングに、九隅文科大学・東英大学に所属するサークルは一斉に身体検査が行われることとなった。

 先輩のアイディアにより、東英大のサークルは九隅大自治会が、九隅大のサークルは東英大自治会が……。

 先輩はのちに語る。

「自分の大学サークルに、予想していたよりも多くの問題が見付かったらどうなると思う? ……うん、最悪の場合、問題を隠蔽することも考えられる。であるならばね、せっかく呉越同舟を果たしたのだから、……そして私たちはこの期に及んでも呉越の関係でしかいられないのだから、それを活用すべきだと考えたんだ」

 自分の身中にどれほどの「虫」がいるか判然としないのであるから、相手方を調べるときには血眼になろうというもの。

 結果として……。

 九隅大学に於いては「日輪山ハイキング倶楽部」を含む十三サークルが、一方で東英大学にも五サークルが、大日氣弥益に限らず宗教勧誘やマルチ(マルチまがい)商法などの勧誘活動拠点として用いられていることが判明した。なお、九隅大学のほうが露見した数が三倍近く多いが、分母たるサークル数も三倍近くあるので、実際の割合はほぼ変わらないという結果が出た。双方の自治会の人々は大いに深刻な表情を浮かべ合い、危機感を募らせた。

「ここまで『侵蝕』が進んでいるとは思わなかった」

 これが、両自治会会長の共通の意見であった。





 先輩は抜かりない。

 サークル身体検査の結果、「日輪山」を始めとする二大学十五サークルはいずれも、申請したものとは乖離した活動を行なっていることを理由に公認の取り消しという措置が下された。公認の取り消しは九隅大の場合、サークル棟を含む活動拠点からの退去や、キャンパス内施設のサークルでの使用禁止が命じられる。自治会としては、ライバルと手を取り合いはしたもののテーブルの下で靴の踏み合い脛の蹴り合いみたいなことをしている状況で、自分たちの身の中から「ほーれこんなに!」と掘り出された虫であるから、対応が厳しくなることも先輩は織り込み済みであったが、更にもう一つ。

 公認取り消しという厳しい措置を取られた元サークルの人々からの逆恨みは、相当なヴォリュームのものとなるであろう、という想像も当然、先輩はしていた。

「誰の仕業かということは、遅かれ早かれバレてしまうだろうが」

 先輩は王子様部の部室に後輩くんと共に身を寄せていた。日輪山の人々は喫煙所にいれば近寄らないが、流石に年明け一番寒い時期に屋上に上るような真似は、愛煙家でありつつも寒がりの先輩は、積極的にはしたくない。最近では朝一のタイミングで目覚ましの一本を吸いに上がるだけという日も少なくない。

「ゆえにこそ、少なくとも私や君の名前を自ら出すということはしていない。……公認取り消しの主語は私たちではなく、それぞれの大学の自治会だからね」

 筋としてはそうであるが、相手方にそのとてもあたりまえな理屈が通じるかどうか……。

 賢い先輩であるから、後輩くんの懸念は当然把握している。

「最近、君のお父さんの様子はどうなのかな」

 あれは、クリスマスの奇跡だった。転がり込んできて約二ヶ月あまり、無為徒食もいいところだったお父さんが、自分で仕事を見付けた。……大学生の、つまり自分の息子娘という世代の若者たちに混じってケーキを売っていたのだ。

 お父さんの仕事はこれに留まらなかった。

 どこからか自転車を調達して来て、年末は宅配の仕事に飛び回る日があったかと思えば、お正月には近所のドラッグストアで品出しのアルバイト、更に先週からは駅から徒歩五分のスーパーに採用されて、鮮魚売り場でパートさんをやっている。元が魚屋さんであるから、魚の取り扱いはお手のもの、仕事ぶりによっては正社員として登用されるケースも考えられる。

「すまんかった」

 お父さんは、後輩くんに深々と頭を下げた。

 後輩くんはこれまで何も言わなかった。お父さんがどれだけ傷付いているかなんて、容易く想像が出来たから。……だってそうでしょう、自分の奥さんが、どんどん、どんどん壊れていくのを止めることが出来なかった。毎日休まず朝から晩まで頑張って働いて築き上げて来たもの、守り続けて来たものに、変なお札を貼られて、よくわからない人たちが押し掛けて来て、とうとう跡形もなく奪い取られてしまったのだ。

 深い闇の底にまで落ち込んで、立ち上がる気力を奪われてしまったとして、何ら不思議はなかった。

「いま俺が働いてるとこ、社員寮があってな。ほれ、お前の大学の、沼挟んで反対側なんだけども」

 なお、これは例によって難解な赤州弁なのだが、標準語にしなければ伝わらないのでフィルタを掛けている。

「本当は、正社員じゃないとダメなんだが、会社のほうが父さんに、『よかったら入らないか』って言ってくれてなぁ。早ければ来月からでも世話になれそうなんだ」

 つまり、父はもうすぐ部屋を出て行く。これが、昨日の夜の話。

「おお……、それはとてもめでたいことだね」

 先輩は大いに祝福してくれた。大日氣弥益が後輩くんの生活を侵蝕し、実家が壊れ、お父さんが転がり込んできたこと……、ここ数ヶ月後輩くんを直接的に圧迫して来た事象が一つ、解消したのである。

「では、ますますここからが踏ん張りどころだ。伴って、リスクは出来るだけ排してしまうのがいい。というわけでね、後輩くん。君、しばらく私のところへ身を隠してもらおうと思うんだが、どうかな」

 先輩は賢いだけではなく、強い人である、とてもとても強い人である。強いというのはどういうことか、……端的に言うとそれは、気合いの強さ、心の強さである。

 後輩くんはこれまで、先輩の強さを何度となく目の当たりにして来た。

 猪熊沼の外周ジョギングロードで藤村と菊池に絡まれたとき、トミチューで有華から後輩くんを救い出すとき、……そして年末にボートレース場に行ったときは、表情も変えずに大穴の舟券を買ってしまった。普通の人間でも緊張を催してしまって、冷静で居られなくなりそう、弱い人ならもうビビって逃げ出したくなってしまうであろうシチュエーションでも、先輩はサラリとやってのける、それが強さである。

 強い人というのは、だから、いきなりそんなことを軽々と言ってしまうのだ。なぜって、必要だから。

「らっ……、なっ、えっ?」

 ここは王子様部の部室であるので、すぐそばでは王子様部の主たる活動であるところの「ハイソサエティお茶会」が催されている。学祭のときのように庭園(グラウンド脇の芝生)でゲストをもてなすものではなくて、ただメンバーが集まって紅茶を賞味しつつ「いやはや」「はっはっは……」「これはしたり」「さしもの私も仰天いたしました」「あらあらまぁまぁ」みたいな会話を楽しむ場である。本人たちが楽しくて、また誰にも迷惑をかけない平和的な活動なのであるが、今日の参加者であるメルネス王子様とプロヴェンツァーレ王子様とメイドのマリアネッラさん、ええとつまり、中寉さんと加蔵さんと蒔田さんの三人が声の届くところにいて、先輩が後輩くんに、ごく簡単な言葉に訳したなら「ウチで私と一緒に暮らさないか」という内容になる台詞を発したのを聴いて、言葉がパタリと止まり、俄かに静寂が訪れる。

「シンプルな話さ。私は君を守ると言っただろう? であるならば、君から目を離さないのが一番いい。無論、最低限のプライヴェートは確保するが、多少窮屈になってしまうことには目を瞑って欲しいものだ」

 ぎぎぎと首を軋ませて王子様たちのほうに顔を向けたら、無表情ながら生まれつきの赤い目元でじいーっとこっちを見ているのは中寉さん。蒔田さんはわざとらしくそっぽを向いている。メイドさんに扮して圧巻のパフォーマンスを行い、昨秋の学祭の夜もキャンパスを熱狂の渦に巻き込んだ「ヴェル・デ・ラ・ビット」のボーカルさんとキーボードさんは対照的な、しかし揃って美形である。なお、いまここにいないギターのお兄さんと笛のお兄さんもそれぞれすごいルックスをしている人たちであるが、これは余談。プロヴェンツァーレ王子こと加蔵さんはじっと俯いて時間が過ぎるのを待っている様子だ。

「……ああああの、先輩」

「……私と一緒に暮らすのは嫌?」

「あのいえそういうことではなくってですね!」

 後輩くんは、先輩が大好きである。本当にもう、大好きで仕方がない。だからこそ、自分の中でこの人をいとおしく思う気持ちが膨れて弾けたとき、それを表現する方法をずっと探して来て、とうとうそれを、まだついこの間という感覚だけど、クリスマスの夜に見付けてしまった。

 この腕に、自分より一回り小さな先輩を閉じ込めて、しばし、ぎゅっ……、と抱き締める。

 後輩くんはそれだけでもう、胸がいっぱいになってしまう。ごめんなさい、ごめんなさい、こんな僕なのに、あなたのことを好きになってしまいました……、それ以上を望むなんて贅沢すぎると解っているのに。

 しかし、先輩はそれだけではきっと足りないのだ。

 だから……、つまり、先輩も後輩くんのことを好きだと思ってくれている可能性(・・・)が高い、あくまで可能性の存在については否定されるものではない、はずだ。先輩はだって、あのクリスマスの夜も、一緒に初日の出を見るために会った、十二月三十一日の夜と一月一日の朝にも、そして、まあ、言ってしまうと会った日にはだいたい一度は、その感情を表現してくれる。

 その唇は何度も後輩くんの唇に預けられた。

 なお。

 なお、である。この期に及んで、である。

 後輩くんは未だに先輩の名前も年齢も、性別も、判らないままでいるのである。にもかかわらず、本当にもうしっかりとした身体的接触をしてしまっているわけで。中寉さんと蒔田さんは、そして二人を介して加蔵さんも、後輩くんが先輩の名前を知らないままでいることはご存知だろうとは思う。そんなぼんやりした状況のまま、今に至っている。中寉さんは呆れているのか引いているのか、はたして。

「あの、お気持ちはとってもありがたいんですけども、先輩のおうちにお世話になってしまうというのは、あんまりにも、そう、あんまりにもですね恐縮すぎて、ただでさえ僕は先輩からいっぱい助けていただいているのに、そのうえ生活空間まで物理的に圧迫するようなことはなんていいますか申し訳なさがパンパンに膨れてパンクしてしまいかねないので」

 中寉さんが小さく「いくじなし」と言った声が聴こえた。大きなお世話だい、と思うが、まあ後輩くん自身も煮え切らない自分であることは自覚している。とはいえ、先輩の生活空間で先輩と二人きり。ちょっと前までなら将棋指しておしゃべりしておやすみなさいが出来たけれど、もう、そういうわけにはいかない。本当にそれだけで終わってしまうことは、双方にとってきっと、義理が足りない。

「ふむ……、私は別に気にしないが、そうか、後輩くんはそういう奥床しいところのある子だからね、無理強いは良くないな」

 さっきの強さについての話の補足、……合理的な人が強い、と言うことはできるのではなかろうか。先輩は、そういう意味ではとってもとっても強いのだ。

 と。

 部室のドアをノックする音が、妙な張り詰めかたをしていた空気を緩めた。「はぁいー」とメイドさんコスプレの成人男性ながらまったく目に耳に鬱陶しいところのない蒔田さんが反応よくドアまで行って、開ける。

 ドアの向こうから、

「んぎょッ……」

 みたいな音を発した、どこかで聴いたことのある声。メイド服を着ていても、そしてどんなに美しいお顔をしていたとしても、蒔田さんは男の人であることははっきりしているので、びっくりするのは仕方がない。そこまでは許されよう。

 相手は、何かとても失礼な言葉を発そうとした気配がある。しかし、それを、どうにかこうにか飲み込んで、

「……こ、ここに、あの、我々の後輩くんがいるのではないかと思い、参上した。我々は旧『日輪山ハイキング倶楽部』の者である!」

 と、藤村が精一杯に声を張った。メイプルシロップをたっぷりかけたワッフルみたいな顔をしていた先輩が、すんっと表情を探偵モードに切り替えて、

「とうの昔に、君たちの後輩くんではない、私の(・・)後輩くんだが」

 と、低く怖い声で言った。先日寿羅くんが言っていた「彼氏ヅラ」ってこういうのかしらん、と後輩くんは想像する。

「僕にとっても後輩さんは可愛い後輩さんですが」

 中寉さんが口を挟み、

「了は黙っとけ今は……」

 蒔田さんが咎めたすえに、

「あーその、日輪山の人たち、どうぞこちらへ。王子様部ではいらしたお客様のことはきちんとおもてなしする約束ですので。ファルヴィイも、構わないね? プロヴェンツァーレ、席詰めて」

 藤村たちを招じ入れる。

 先輩は一瞬争いかけたが、短く溜め息を吐き、黙って頷く。ファルヴィニッヒ(あるいはデルフィネス)という名前がある時点で先輩はこの部屋でくつろぐ権利を有するわけだが、同時に部の規則にも縛られないわけにはいかないのである。

 藤村と菊池はずいぶん草臥れた様子だった。彼らの置かれた状況を鑑みれば無理からぬことではあろう……、サークルの活動を休止せざるを得なくなり、学内での勧誘活動を行う拠点を取り上げられてしまった。もちろん、同情に値することではないのだが、情の一度は通ったことのない相手ではないもので。

「あなたがたは、もう活動出来なくなったそうですね」

 中寉さんが冷静に茶菓子としてのバームクーヘンをすすめる。

「自治会に睨まれてしまっては、もうおしまいだ。……いや、しかし……、あれは十月か、諸君らとやりあってすぐにでも取り潰しを食らうだろうとずっと戦々恐々としていて、もはや活動は出来ないに等しかったから、遅かれ早かれという話ではあった」

 藤村は痛みを眉間に覗かせながらも、口許には気丈な微笑みを浮かべて、あくまで紳士的な対応に始終する。

「俺たちも又聞きの話でしかないですけど」

 久しぶりに口を開いたのは加蔵さん。筋肉質で身体も大きく、「肉体派あるいは実力派」の王子様だが、声は穏やかだ。

「あなたたちの団体では、勧誘が一番評価されるそうですね。だとすると、それが出来なくなったとなると……」

「ああ、その通り。団体に、大日氣弥益様に対して、大変申し訳ない状態である。こうなったときに我々がなすべきは、二つに一つ。一つは、『櫻木山合宿』に代表される研修を受けること」

 櫻木山。有華に声を掛けて、トミチューでの勧誘活動に従事させていたという「地区長のヒロ」の拠点である。

「あの、……藤村さん」

 後輩くんは、直接面と向かって話すのは去年の十月以来という相手に、勇気を奮って言葉を向けた。先輩が一緒であるし、何より藤村と菊池が二人がかりで戦いを挑んだって容易く一蹴できそうな加蔵さんがいるというのが大きい。あと、中寉さんと蒔田さんは顔がいい。

「櫻木山合宿っていうのは……、具体的にはどんなことをやる場所なんですか……?」

 藤村と菊池の頬がはっきり強張り、青褪めた。

 それでも、藤村は無理をして笑う。

「君が知る必要はない。……我々はもう、君を我々の仲間にすることは出来ないと判断した。寧ろ、ああ……、君を引き入れようとしたことが、現下の状況を招いてしまったと考えれば、君のお母さまに頼まれようと声を掛けるのではなかったとさえ思うよ」

 藤村の言葉には、その表情に漂う痛みも合わせて、ひとひらの嘘もないように思われた。

「……もう一つの選択肢というのは?」

 中寉さんが問う。

「よく判りませんが、過酷な合宿というか研修に参加する以外に、なんらかの謝罪の方法がおありなのでしょう?」

 しかし、藤村は答えなかった。その選択肢がどんなものであれ、中寉さんが何かの神様を信じそうには思えないから、それでいいのかもしれない。

「……我々は、ああ、まあ、君に何と思われようと、それとは関係なく。君が私たちの後輩であった時間のあったことは事実であるから、少しの情もないわけではない。正直に言えば、恨んでいるが、……そこの人には『逆恨み』と言われてしまうかな」

 そこの人、こと先輩は中寉さんばりの無表情で返事はしなかった。

 藤村は構わず続ける。

「我々は、君に忠告しに来たんだ」

 大変に物騒な言葉である。思わず、後輩くんは背筋を伸ばした。

「我々はもう、君から手を引いた。恨んではいない、……寧ろ、自分たちのしていたことの強引さを自覚し、いまは恥じているほどだ。だから、そう、君と、そちらの人があまり嫌な思いをすることのないように、伝えなければいけないと思ってね」

 どこまでも紳士的な言いようであった。

 先輩が、ちらりと視線を藤村に向ける。藤村は、真っ直ぐに後輩くんに向けて、こう言った。

「しばらく、単独での行動は避けたほうがいい。我々以外の同胞たちが、諸君らを付け狙っている。……幸いにして春休みが近い。出席日数が足りているなら、試験以外では大学に足を運ばないというのも手だ。そこの人は探偵なのだろう、そしてあなたがたは『王子様』なのだろう。だったら、どうか我々の後輩だった人のことを、守ってあげて欲しい」

 言葉の終わりに、深々と藤村は、そして菊池も、頭を下げた。

 それは彼らの、彼らなりの、心の底からの誠意であったと解釈してよかろう。

 




 猪熊駅北口から少し歩いて、けばけばしい看板が夜に輝きを増すいかがわしい通りに建っているのは、一階に強精剤を中心とした品揃えの薬店があり、二階にはアダルトDVDやエッチ漫画をメインに取り扱う書店があり、三階には個室DVD鑑賞屋さんが入って、四階には濃厚な接触を伴うタイプの、ええとつまり、まあ三階までのお店ならばひょっとしたら後輩くんも将来的に(終電を逃してしまった、みたいな理由で)お世話になる可能性もないではないけれど、積極的に踏み入ることはないだろうなぁと想像するタイプのお店が入った雑居ビル。一階のお店で得られるタイプのエナジーを同じ建物内で全部消費できそうな建物である。

 後輩くんが先輩と乗り込んだ狭いエレベーターはこれまで二人で訪れた幾つかのホテルのそれを彷彿とさせるが、古さが段違い。五階の扉が開いて、薄暗く冷たい廊下に出るや、後輩くんは世界から色が失われたみたいに思われて、自分の目がおかしくなってしまったかなと懸念したが、さにあらず。単に廊下も壁も濃淡のグレーで、窓の外は隣のビルの壁で、だから黒で、蛍光灯がぱらぱら瞬くせいで、なんだか色彩のない世界に迷い込んでしまったみたいな気持ちになったのだ。

 ついでに言うと、隣に立つ先輩は髪が黒くて肌が白くて来ている服も黒いコートに黒いマフラーに黒いセーターに黒いデニムと黒一色なもので……。それでも、先輩は瞳がほんのり赤みを帯びている。

「……本当にいいのかい?」

 藤村の忠告に対応するとして、家に押し掛けられることまでは心配していなかったのだが、先輩は(更には中寉さんたちも)万全の態勢を敷くべきという意見だったので。

 しかし、後輩くんはやっぱり物理的な圧迫感をこの人に味わわせることは出来ないと思った。自分の精神衛生上もあまりよくない。今まで以上に不眠症になってしまって試験がズタボロなんてことになっては、二浪して入った大学なのにあまりに馬鹿らしすぎるではないか。

 そんなわけで、折衷案、……これはこれでまた違う形のご迷惑を掛けてしまうことにはなるのだが、まあ仕方がない。「三方一両損」という言葉を中寉さんが使っていたが、それはちょっと違う気もした。

 すりガラスのはまった傷だらけのドアのノブに、先輩が銀色のキイを差し込む。ノブを回して開けるときには、ギギィと、ドアの規模に対して大き過ぎる音が響いた。先輩が壁のスイッチで明かりを灯すと、まるでついさっきまで相当なヘビースモーカーがすぱすぱやっていたのではないか、とてもタバコ臭い。ここへ来て、後輩くんの目は俄かに色覚を取り戻した。壁がうっすら黄色いのだ。

 これは、なかなかの環境である……、と後輩くんはちょっと笑ってしまった。

 ここが先輩の職場、「猪熊探偵事務所」である。

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