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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは判らない。
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「いいですか」

 後輩くんには先輩のことが判らない。しかし、判らないのは僕だけじゃないのかという疑問が、少しばかり、ある。

 当然のことながら、先輩の名前を知っている中寉さんと蒔田さんは、先輩の性別だって知っている。のみならず、先輩の名前を知らない外目黒さんもユノちゃんも、今日水面から後輩くんの隣にいる姿をきっと見たはずの寿羅くんだって、先輩が「どっちか」であることは判っているはずなのだ。しかるに、後輩くんだけは知らない。

 無論、名前を知ったからと言って先輩の性別が判明するわけではないが。……レンとか、ユウとか、カオルとかイオリとかアユムとか、どっちか判らない名前なんてたくさんあるわけで。でも、少なくとも後輩くんは先輩がどっちであるか、裸で接した──語弊がある。先輩と実際にそうしたわけではなく、真っ暗なお風呂で一緒に入浴したというだけ(・・)である──機会があってもなお、判らない。知ろうとして、躊躇って立ち止まってやめて、結論を先延ばしにして至った場所がいまの後輩くんである。

 知らないから、先輩があらゆるものであるかのように思える。

 男の女の大人のこどもの可愛さ危なっかしさ凛々しさ狡猾さ勇ましさか弱さ単純さたおやかさしなやかさあどけなさ食えなさ厄介さ頼もしさ、全てを併せ持っている人として映る。

「後輩くん、どうした……?」

 先輩が男性であろうと女性であろうと関係ない、という境地に、後輩くんはもはや至っていると言ってもいい。一方で、どうしてもどっちか(・・・・)であることを知ってしまうに至って、いまは見えているものが見えなくなってしまうのだろうかという怖れを、後輩くんはいま初めて抱いた。

 先輩はどっちか判らない。

 判らないまま、ここまで好きになってしまった。好きという気持ちが天使的にピュアなものばかりではないことは、実体験こそないものの後輩くんだって二十歳を過ぎてしまっているので当然知っている。先輩が好きだということは、いまこの時間、きっとこの国の多くの恋人たちが昨日今日の日付にかこつけて行っていることも、ほとんどが「好き」の延長線上にあるものであろう。

 先輩のことを、いつか、そういう対象として捉えてしまう後輩くんがいる。

 あるいは、もう、とっくに。

「……あの、くっついていると、とても暖かいですね」

 いま自分の身体の中にどれぐらいのアルコールが残っているのか、後輩くんには判らない。

 後輩くんはお酒に容易く翻弄される体質のようだけれど、その一方で、すぐに頭が痛くなったり気持ちが悪くなったりという傾向はあまりないようだった。先月宿木橋で迷子になったのは、宿木橋の道が判りにくかったから、もしくは──あまり認めたくないが──後輩くんが少々方向音痴だからであろう。

 ロマンティックな言葉をお酒に頼って口に出来たらいいのだけれど、どうもそれはもう、上手く行きそうにない。どうしてさっき、目を醒ましてしまったんだろう。ずっと眠ったままでいられたなら、先輩の名前を言われても聴き逃していただろうし、もっと他に、いろんな悪戯をしてもらえていたかもしれないのに。

「そうだね、君と一緒だと、寒くない」

 同じ触り心地の毛布をかけた肩が、後輩くんの肩に沿う。先輩が、後輩くんが同性であっても異性であっても構わずこうするのだろう。まだもう少し、知らないでおきたいと願うのが、先輩の半分を失ってしまいそうで怖いなどという勝手な理由だと知られたら、きっとずいぶん怒らせてしまうことになるだろう。先輩は先輩のまま出会ったときからずっと変わらない。男性だったら男性で、女性だったら女性で、その両方の要素を持つなら、あるいは持たないなら、「先輩」として居ただけのつもりだろうから。

「このまま、朝まで」

 先輩の、後輩くんにかける体重が少し重くなった。

「ここにいてもいいよ。うとうとして、寝たり起きたり。それも悪くない」

 アルコールのせいには出来ない、日付のせいにするのもきっとよくない。そもそも、何かのせいにすることがいいはずがない。だから怒られるのだとしたら自己責任で、後輩くんは先輩の肩に手を回してみた。

 抗う力をわずかでも感じたなら、すぐに「ごめんなさい」って言うつもりだった。

 先輩は、頬に笑みを含ませただけ。

「こうしたら、もっとあったかいかなって思ったんです」

 後輩くんの蛮勇も、口をついて出た言いわけも、先輩はその笑みだけで片付けてしまう。

「そうだね」

「でも、先輩のほうがあったかい気がします」

「私にしては珍しく、ね。この季節、家で眠るときは、肩が寒いからパジャマの上に肩に羽織る毛布を着けて寝ているんだよ」

 先輩の寝顔をそっと伺う。穏やかに微笑んで、目を伏せている。このまま眠ってしまうことにさえ少しの躊躇いも、危機感もない、平和そのものの表情だ。知的な瞳がまぶたの向こうに隠されることでいっそう幼く見えてしまう人は、右手を後輩くんの前に掲げる。

「私にしては珍しいぐらいに、手も暖かいと思うよ」

 呼ばれるままに、後輩くんは左手で先輩の手に触れた。指を絡めて、先輩の言葉の通り指先までほんわかと暖かいことを先輩と同じように喜ぶのだ。先輩が寒い寒いと震える季節に、僕が側にいれば暖めてあげられると思って。

 それから、二人で少し寝たと思う。思う、というのは、不安定な姿勢でいるものだから、どちらかが舟を漕げば自然ともう片方の目が覚めるということを数えきれないほど繰り返して、でも二人とも繋いだ手を解くことももっと寝やすい姿勢に変えることもしなくって、結構な時間を過ごしているうちに、なんだか夢と現実の境界線があやふやになってしまったから。

 なので、これが本当にあったことなのかどうかはっきりとしないのだけど。

 何回目か、下手したら十何回目かの中途覚醒で、先輩と目が合った。どっちがきっかけで二人が目を覚ますことになったのかは判らない。でも、ごくわずかな部屋の光を集めて先輩の目が光っているのを見て、後輩くんは先輩が起きていることを知る。

 後輩くんはごく浅く短い眠りの中でずっと、先輩が近くにいることを感じていたせいだろう、夢の中でも先輩がいたみたいな気持ちである。先輩もそうでありますように、なんて、傲慢な願いは抱かないけれど。

 先輩が数時間前のように後輩くんのおでこにおでこを当てた。後輩くんの傷跡がご自身の美しいおでこに移ってしまったらどうするのか。もしそんなことになってしまったなら、後輩くんは自分のおでこに消えな傷が刻まれたときよりもずっと悲しみに暮れることとなるだろう。

 しばらくぶりに先輩とつないだ手が解けたのはそのときだ。後輩くんの前髪が退かされる。先輩の細くて白い首が覗けた瞬間があった。性別の顕れる場所が目の前に近付いて、反射的に顔を背けることも出来ず、後輩くんは咄嗟に目を閉じた。とはいえ後輩くん夜目が効くほうでもないから、開けていたところで先輩がどっちかを判ることは出来なかったかもしれない。

 先輩は小さな微笑みを後輩くんのおでこに残して、元の通り後輩くんと手を繋ぎ直して、すぐにまた規則正しい寝息を立て始めた。先輩がそうするなら、僕もそうするのが筋だろうと思って、そもそももう目を閉じていたので、後輩くんも同じリズムで呼吸をする。

 本当にそんなことがあったのかどうか。

 先輩と手を繋いで眠るクリスマスの夜に、後輩くんは先輩を両手で思いっきり抱き締める夢を見た。





「先輩、コーヒーです」

「……ん、ありがとう……。さっむいね……、当たり前だけど、判っていてこうしているのだけど……、さっぶい……」

 先輩の寝起きは何度も見たことがある。癖のない黒髪は意外と乱れるのだ。けれどシャワーを浴びてドライヤーを掛ければ元通りで、だから「寝癖頭の先輩」をじっくり見るのはこれが初めてのことだ。

 後輩くんも後輩くんで、前髪こそいつも通り降りているが他の場所はわりとしっちゃかめっちゃか。まる一日シャワーを浴びていないので、そろそろちょっと心配である。

 ホテルという場所の居住性のよさを改めて思い知ったところだ。

 まだ六時にもなっていない。そんな時間に、二人して、昨日地上の宝石箱を見たベランダに出ている。当然のことながら寒い。寒いのに、二人とも目が醒めてしまったので起きて、ぼんやりした顔をどうにかするために出てきたのだ。

 後輩くんは厨房の隅っこで電気ポットを見付け、初対面の日にラベンダーのバスソルトやハーブティーのティーバッグが出てきた先輩の鞄からは、今日はインスタントコーヒーのスティックが出てきたので、それを二人ぶん作った。冷え症であり、かつ、猫舌の先輩はふうふうふうふう吹いてばかりでなかなか唇を付けられない。

 空はまだ青ざめている。

 空というスクリーンに冬の太陽の弱々しい指先が触れて、わずかに色を変えはじめたぐらいの時間帯だ。地球が丸いことが、少しだけ実感できる。

「……後輩くんは、初日の出って見たことあるかな」

 チャレンジしたことはある。家の近くが海だったので。また、好都合なことに東向きと西向きのそれぞれの浜へ、家から自転車で片道二十分も走れば行けたので。

「大晦日の夕方に、沈む夕陽を観に行って、同じものが出てくるのを翌朝観に行こうとしました。……小学校三年生のときだったかな、四年生だったかもしれません。でも、結局朝起きられなくて」

 原因は、テレビだ。大晦日の夜だけは遅くまで起きていても怒られないもので、ずーっと起きていて、そのまま寝落ち、気付いたときには翌朝八時……。

「実は私もまだないんだよね。この通り、寒いのが苦手なものだから、……徹夜は何度もしたことがある、特にいまのアルバイトを初めてから増えたし、高校のころは、……まあその、夜に仲間と遊び回るのが好きだったほうでね」

 意外である。こんな小さな先輩なのに。

「一度ぐらいは見てもいいかなと思っているんだ、初日の出。君がまだもし見たことがないのなら、大晦日の夜に待ち合わせて、一緒に観に行かないか。もっとも」

 ビルの影が、わずかに濃くなった、気がした。

 遅れて、それまで世界に存在しなかった色彩が不意に空へと広がった。それは微かだけど、確かに赤。朝が色に化身して、滲みながら一秒ごとに広がっていく。一欠片の雲も見えない冬の空は、透明度の高い海のようで、先輩と後輩くんはまだ残る星のまたたきを、なにやら海底から海面を見ているような気持ちで捉えていた。

 朝は、ベッドから降りてカーテンを開けたときに始まるのではないことを後輩くんは初めて知った。

「……何の話をしてたんだっけ」

 先輩がやっと最初の一口を啜った。

「初日の出のお誘いをいただいたところでした。ええと、謹んでお受けいたします」

 ふはっ、と先輩が湯気混じりの笑いを漏らした。後輩くん自身、横綱に昇進したみたいな言いかただなとは思った。

「……あの太陽と同じものが海から上がってくるのを見るだけだよ? それでもいい?」

 とてもかけがえのないことだと思える。地球が丸くて、ほどよい距離から毎日、太陽の光を満遍なく浴びる。まあ、季節によってはいやー勘弁してくださいよぉって思ってしまうこともあるけれど、太陽がなければあらゆる命が行き詰まってしまうことは判っているので、……まあ拝むまではしないにしても、ありがたいことだなぁと思う。

 太陽ぐらいに大きな大きな話をするならば、この星を太陽が照らし続けてくれていたからこそ、後輩くんは先輩と一緒にいられるのだ。人類というか生きものの辿ってきた約三十五億年といわれる歴史の末に二十年前に生まれて、紆余曲折あったすえに「先輩の『後輩くん』」としていまここに居る。太陽が翳る日がもしあと一日でも多かったら少なかったらあらゆることは再現不可能かもしれない、そう考えればまあ、年に一回か二回ぐらい太陽とじっくり向き合う時間を作るのは、いいことのように思われるのだ。

「行きたいです。同じものであっても、見たいです」

 あと、もっとシンプルに言うなら、先輩と一緒に過ごせる時間はちょっとでも多いほうがいい。年明け早々(あるいは、年越しから)一緒にいられるのは、なんだか、縁起がいい気もするし。

 先輩は満足げに頷いて、

「そういえば……」

 ふと、後輩くんの横顔に目を向けた。

「……いや、気のせいかな……」

「……なんでしょうか」

「ああ、いや……。普段私はあまり夢を見ないほうなんだけど、今朝に関してはまあ、あんまり深い眠りではなかったし、寝ながら起きていたみたいなところもあったと思うのだけど……」

 後輩くんは寝るたび夢を見る。この一晩も、夢と現実のあわいをゆらゆら漂っていたような心持ちで、だからずーっと先輩と一緒にいた感覚がある。とても贅沢な目覚めだった。

「……半ば以上、私が夢を見ただけだと思っているし、現実であったとして問題だとも思っていないんだけども」

「はい」

「でも、一応確認のために訊いておこうと思うんだ。……後輩くん、君、私にキスした?」

 危うくコーヒーを霧にして目覚めの街に向けて吹き出してしまうところであった。

「いや、……うん、ごめん、やっぱり私の夢だろう。後輩くんが断りもなくいきなりそんなことするはずもないものね……。というかこの間の学祭のときもそうだけど、あれだな、後輩くんは、リアクションが、言葉は悪いけども滑稽なところがあるよね……」

 先輩、だいぶ好き勝手なことをおっしゃっている。けれど、だいぶ事実であるとは思う。

「あと、そう、君の気合が乗ったときの思い切りのよさみたいなものは、私すごく尊敬しているんだ。『日輪山』の彼らに立ち向かったときの君も、昨日の寿羅くんに声援を送る君も、とても素敵だったと思うよ」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて、「失礼」と、後輩くんの前髪を退ける。

 その瞬間、後輩くんは自分の見たものと同じような夢を先輩も見たんじゃないか……、という確信に至った。先輩こそ、事前に後輩くんへ承諾を求めずにあんなことをするはずがない。

「君のおでこに、この傷があることに気付いたのはいつだったかな……、そう、あのホテルに君を誘って、お風呂上がりの君を見たときだね」

「先輩は、何もおっしゃいませんでしたね」

「おいそれと触れられるほど気の太い私ではないし、君の話を聴いていれば、よっぽど呑気な愚か者でなければ事故のときに負った傷であるに違いないと判るからね。……傷は、ここだけ?」

「残ったのはここだけです。ほかは、頭の中も含めて問題ないと言われました。いえ、思考そのものが問題ないかどうかは僕自身には判らないですけど」

「それはなにより。自分の考えることがよく判らないのは私もそうだよ」

 先輩は優しい笑みを浮かべて後輩くんのおでこの傷跡を親指で撫ぜた。

 優しくて温かな指、……そうか、これだったのかもしれないなぁ、後輩くんは自分の夢の正体を見た気がした。そうかぁ、の後に続くのが「よかった」なのか、「残念」なのか、後輩くんにはすぐには結論が出せそうにない。

 それはそれとして。

「ねえ後輩くん、今日の水鳥川は、なんだっけ、最終日だから……」

 優勝戦、という言葉が先輩は出てこない。ユノちゃんのお父さん、持筑選手は昨日後輩くんたちが帰った後の「準優勝戦」を五号艇ながら快勝して、優勝戦進出を決めている。あの二人と汐崎くんはきっと、今日も水鳥川に行くのだろう」

「ホテル、早い時間に行けば『休憩』が空いてるんじゃないかな。お風呂に入りたいし、まだ眠り足りないだろう。一眠りして、寿羅くんのレースとユノちゃんのお父さんの優勝戦の応援に行かない? ……私たちが過ごすクリスマスと考えたら、とても似合っていると思うんだよね」

 先輩はおへそを曲げやすい人だけど、もともとちょっと曲がったおへその持ちぬしであることが否めない気もする。

「はい、じゃあ、行きましょう」

 今日も、先輩と一緒に過ごせる。まだ「デート」なんて言葉を選ぶことは出来ないけれど……。

 七時過ぎ、仕込みのためにお店にやってきた大将さんに二人で大いにお礼を言って、水鳥川駅近くのホテルに空きを見つけたので、三時間たっぷりと睡眠を摂った。時間短縮のためにという大義名分を得て、また真っ暗なバスルームを二人で分け合った。

 眠りに落ちる寸前に、先輩の言葉が蘇る。

 後輩くんが断りもなくそんなことをするはずがないものね。

 ……許可を求めたら、先輩は「いいよ」って言ってくれるんですか?

 それ以上、深い考察をするには至らなかった。バタンキューという言葉がしっくり来るし、それだけに三時間後の目覚めは大いにすっきりしたものだった。

 まだ何も判らないし、結論なんて一個も出ていないけれど、後輩くんはこんな言葉を用いたいと思う。

 めでたしめでたし。

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