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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは眠れない。
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暗黒のキャンパスライフ

 先輩は、話が上手とは言えない後輩くんが羅列した事実を簡潔に整理した。

「向かいの老夫婦の使っていた蝋燭というのは、宗教儀式の側面を持ったものだったようだね。無論、大袈裟なものではない、……悪魔を召喚するとか、そのために生贄や、カエルのスープなんかを用意するタイプのものではなく、彼らにとってはそう、ルーティーンワーク、朝晩の『おつとめ』とでも呼ぶべきものだったのだろう」

 後輩くんはしばし先輩を見詰めた。やっぱり可愛い顔の人だな、と改めて思って、耳のみならず目までも癒される気持ちになってくる。

 先輩はようやく缶コーヒーを空にして、右太腿の傍に置いた。細い足だが、痩せている、という感じはしない。太腿には健康的な肉感があった。

 先輩が後輩くんを見ていた。通常、先輩のお尻に潰されて在るのだろう煙草のソフトパックを取り出して、いいかい、と訊くように。

 先輩の太腿を見つめていたことを変に受け取られては困ると、慌てて後輩くんは頷いた。

「君が幼少期に病気をしたとき、そのご夫婦は熱心におつとめをしたのだろう。そして、容易く想像出来るのは、お二方は君の受験が自分たちのせいで頓挫してしまったと、……実際にはそうではなかったとしても、思って、罪の意識に苛まれていたに違いないということだ」

 先輩は、見て来たように言う。

 後輩くんも、憔悴しきったおじいちゃんとおばあちゃんが、自分の横たわる病院のベッドの下に、這い蹲るようにして謝る姿を見ていない。首を固定されていたので見ることが出来なかったのだが、音を覚えている。

 ごん、ごん、ごんという音だ。

 見ていないので、確かめようもない。しかしあれは、おじいちゃんとおばあちゃんが、皺の刻まれたおでこを、リノリウムの床に叩き付けている音ではなかっただろうか。

「それ以降、お二人がその宗教儀式により熱を入れるようになったのだろうと想像することは容易い。こういう言いかたは失礼に当たるかと思うけれど、それでも敢えて言うならば、人は自分の没頭出来る行為が何かの影響力を持つものであると信じたいものさ。事実としてお二人は、自分たちのおつとめによって幼少期の君を救ったという実感がある。これは良い影響、そして君を事故に遭わせてしまったのは、悪い影響。……であるならば、良い影響のほうを及ぼすために、一層熱心になることは、ごく自然な成り行きだ」

 二人は、後輩くんが全治一ヶ月の大怪我をしながらも後遺症とは無縁でいられたのは、自分たちの祈念のおかげかもしれない……、と思うことにしたのだ。

 後輩くんとしては、結構きついリハビリをこなした末のことなので、それはちょっと嫌だな、と思う話ではあったが。

「無論、そのこと、……つまり、お二人が何らかの宗教的行為を心の支えとすることについて、私が何かを申し述べるということはしないがね。私自身宗教に関して、何か特別な言葉を持つわけではない」

 先輩は、天に向けて細く長く煙を吹き上げる。童顔であるもので、とても悪いことをしているように見える。

「しかしね、……『後輩くん』と、私は君を呼んだ。君が何か、感じの悪い、鼻持ちならない態度の人物であったならば私も君の不眠の原因に思いを馳せようとは思わないし、邪推めいた真似をすることもないのだけど、私は君を、まさしく後輩くんと呼びたく思うのだよ。そうなると、『先輩』としてはね、放っておくことは、私の探偵(・・)としての矜持に関わるので」

 いま、なんかサラッとすごいことを言ったな、と思った。思っただけで、後輩くんはぼんやりと、「恐縮です」なんて言葉を口にしただけだ。

「もっとも、頼まれてもいないのに余計なお世話を焼いているだけのことかも知れないが。まあ、君が不快でなければ付き合ってもらえたらいいなと思うよ、後輩くん」

 先輩はほんの少し、自嘲するような笑みを浮かべた。そうするときの先輩の顔には、後輩くんよりずっとずっとたくさんの時を重ねた人だけが手にし得る何かがあったように思えたが、気のせいだろうか。

 先輩は語る。





 後輩くんのおうちの向かいにお住まいのおじいさんとおばあさん、……彼らが傾倒しているのがどんなタイプの宗教であれ、孫のように可愛がっている後輩くんを不幸な出来事から救いたいと思っている気持ちについて、私は評価する言葉を持たない。

 ただ言えることとして、彼らは大きく一度成功して、一度失敗している。無論、後輩くんの自覚のない範囲でも細かく成功や失敗はあったものと思うがね、しかし、大きくは後輩くんがまだ小さなころの病気を治したという一回、そして後輩くんが事故に遭ったことで受験に失敗したというもう一回。

 彼らが宗教儀式により熱を上げることになるのが自然だ。宗教というものは、信心の対象が不義理をするとは思わないものだからね、……そう、つまり、何か良くないことが起きた際には、信徒である自分たちの行いが悪かったのだと、彼らはより強く思うことになる。一度成功しているから、余計に頑なに信じることになったのだろう。

 しかし、彼らの神さま、いや仏さまかな、蛇とか狐とかかも知れないけど、それはいい、……いずれにせよ、彼らの崇拝する者は、再び可愛い後輩くんに試練を与えることとなってしまった。ご母堂のウィルス感染、そして後遺症による、二回目の受験の失敗だ。

 ああ、言うまでもないことだけど、これはあくまで、君の語った通りの結果を踏まえた上で、彼らの感性を想像して話をしているだけだよ。繰り返しになるが、ここにおいて私の宗教観というものは、何ら意味を持たない。私の家には仏壇もロザリオもないが、そうしたものを持つ家に対して意見を持っているわけでもないので。

 で。後輩くんの不眠の理由について、二つぐらいの段を飛ばして私の想像するところを言ってしまうと。

 いま、君の住まいには君以外の誰かがいるのではないかな。

 それは君のお父さんである可能性が高いように思うけれど、どうかな。

 ……うん、当たったようだね。

 不躾(ぶしつけ)なことを訊くなと思ったら、黙っていてくれて構わないけど、一応質問だけはさせてもらうと、後輩くんの住んでいるのは猪熊駅の近く? それとも一つ隣の山王台かな……? なるほど、猪熊駅の向こうの、つぐみ台の斜面か。静かなところに住まいを見付けたね。

 あの辺りは独居者向けのアパートやマンションばかりだよね。家賃は安いが、失礼ながら当然のように狭いのだろう。そこへ、お父さんがいま、転がり込んできている。

 物理的な圧迫感と、これまた失礼な物言いになってしまうけど、後輩くんのお父さんぐらいの人となるといびきをかくケースも少なくない。同じ部屋にそういう存在が生じてしまったら、なかなか思うように眠ることは出来なくなってしまうものだろうと想像出来るからね。

 しかし後輩くんとしても、まあ自分のお父さんのことでもあるから、なかなか出て行けとも言い難いし、何より君は、お父さんがご実家を出てこちらへ転がり込んでいたことに責任を感じているのだろう……。





 先輩はさっき、「探偵」だと言った。大して誇る様子もなく、例えばちょっと変わった鉛筆の回しかたが出来るとか、特別美味しい卵焼きのレシピを持っているとか、せいぜいそれぐらいのスキルであるかのように。

 しかし先輩は何気ない足取りで後輩くんの悩みの核心まで辿り着いてしまった。呼吸数も心拍数も、少しも変えることなく。その上で、肩を落として言うのだ。

「ごめんね。踏み込みすぎたかも知れない。私ってこういうところがあって、……余計な詮索というか、邪推というかをしてしまう癖があるんだ」

 本当に申し訳なさそうに、大いに恥じ入った様子で。

「いえ、あの」

 後輩くんは慌てて首を振った。

「僕は、全然平気です。逆にあの、先輩はいいんですか。先輩は、探偵でいらっしゃるのに、その、僕は先輩のお仕事にお金をお支払いしてもいないのに」

 元々小さいのに、肩を縮めてもっと小さくなっていた先輩がほんの少し内向きの力を緩めたのが判った。その頬が、少しばかり柔らかさを取り戻したようだ。そうして、じわじわと微笑みを浮かべる。照れたように笑う先輩は、悪戯好きの男の子にも見える。

「趣味みたいなものなんだ。悪い癖と言えばそれまでだし、大概の人には気分を害されてしまうのだけどね」 

 こんな人が親戚にいたら素敵だろうなと後輩くんは想像した。

 この人の年齢は相変わらず判らない、学年的には先輩であるとしても、年齢的にはまだ僅かにこの人のほうが歳下である可能性が残っている。だものだから、後輩くんはこんな子が自分の甥か姪、あるいは従弟妹だったらどんなに楽しいことだろうかと想像した。

 年に何度も会うわけではないけども、会えたときには毎度魔法のように、なんだかモヤモヤしていることをこの秋空のように綺麗さっぱり洗い流してくれるのだ。きっと後輩くんはその少年もしくは少女のことをとても尊敬し、その子と会うことを何日も前から楽しみにしてしまっていたはずだ。

 先輩は気にしているようだ。事実として、内心の領域に踏み込まれている感もある。中には嫌がる人もいるかも知れない。しかし後輩くんが感じるのは、楽をさせてもらっているなという気持ちばかり。愚痴を聴かせるのはやっぱり気が引ける、初対面の人ならば尚のこと、……でもこの人は、僕が下手な言葉で長々語るまでもなく、正確に汲み取ってくれている……、ありがたいな……。

「あの、先輩は、あの……、僕がお金を払ったら、僕の悩みを浚ってくれますか?」

 先輩は首を傾げて少し考え込む。

「……私は、誰かからお金を頂戴出来るほど優れたスキルを持つ探偵ではないのだけど」

 謙虚である。

「あと私、アルバイトだし」

「あ、探偵さんってアルバイトの人がいるんですね」

「それはね。だって私、本業は学生だから。であればこそ、君に『先輩』と呼んでもらっているんだよ」

 微笑みにはあどけなさが伴った。探偵、という端的に言ってカッコいい職業とは裏腹の無邪気さを、先輩は時々覗かせて、インソムニアな後輩くんを癒してくれる。最近の後輩くんにとって「癒し」って、とてもレアなのだ。朝、寝不足で藁の肉骨の中を泥の血が流れているのかと思うような目覚めの身体を叱咤して、それでも大学まで出てくる力となるのは、小さなテレビから聴こえる朝のニュースのエンディングで、「今日も一日元気に行きましょう!」という「毎朝テレビ」の女子アナウンサー・原口ヒナコの声ぐらいだった。

「察するに、……そもそも不眠症も悩みだろうけどね、むしろ不眠症を引き起こしている『原因』のほうを排除して欲しいということだろうね」

 はい、と後輩くんは頷いた。先輩の賢察の通り、狭いワンルームに父が転がり込んできて、物理的・精神的な圧迫感と、いびき、ねごと、歯ぎしり……、こうしたものは、一度気になってしまうと安眠など望むべくもなくなってしまう。

 ならば大学の友人に頭を下げて泊まらせて貰えばいいと思うかも知れないが、そうも行かない事情があるのだ。

「君がこの場所で昼寝をしていたことと、関係があるのかな」

 先輩の問い掛けに、後輩くんは目を瞠った。先輩は別に嬉しそうな顔もしなかった。

「後輩くんの話の中にもあったけれど、あの宗教を信奉している人たちは、煙草を嫌うそうだね。喫煙所に近付くこともしない、敬虔な人になると、喫煙者とは面と向かって話すことすらしないんだってね。喫煙者と触れ合うなんてもってのほかだとか」

 幸か不幸か、後輩くんのお父さんは煙草を吸わない人だった。

「……なんでも、煙草は、悪魔の草を燻した煙を身体に取り入れる行為だとか……」

「『悪魔』か。君を困らせている宗教は仏教系のように見えて他の宗教からいろんなところをいいとこ取りしているらしいね。まあ、確かにこんなもの、命を縮めてまで吸うものだろうかと思うこともないではないが、人が好むものを悪様に罵る感覚には共感し難い。……ああ、話が逸れてしまったね、そう、喫煙者ではないのであろう君が、学内で昼寝の場所を探そうと思ったならば、図書館、視聴覚室、あるいは薮内教授が講義をしている教室に紛れ込むとか」

「薮内教授」

「法学のね。快眠効果は折り紙付きの講義をしてくれる教授だよ。とにかく、色々な選択肢はあるだろう。そしてこの屋上には、他のところにもベンチがある。いや、人目を憚らないのならばお行儀よくベンチを用いるまでもない、そこらへんに新聞紙でも敷いて寝そべってもいい。でありながら君がわざわざこの喫煙所の、灰皿前のベンチで不足している睡眠を賄おうと思ったのだとすれば、……一つは、キャンパス内の他の場所にベンチがあることに気付かなかったか、もう一つは、この喫煙所がある種のバリア効果を発揮してくれることを期待したか」

 先輩はちらりと階段室のほうへ目を向けた。後輩くんが嫌な予感を催しつつもその視線を辿った先、一人の男子学生が、こちらを見て立っていた。肩幅が広くて大柄で胸板も厚い、しかしムキムキマッチョマンというほどではなく、顔立ちは涼やかで、髪はサラサラ。異性にも同性にも好かれるタイプの学生である。

 先輩が悠然と、ここへ来て三本目の指に挟んだ瞬間、男子学生はギッと音が聴こえて来そうなほどはっきりと顔を顰めた。折悪しく風が吹き、彼が立つ場所は先輩の風下になった。彼は逃げるように階段室へと姿を消した。

「後輩くんは、彼から逃げるべくここへ来たんだね」

 さすがに三本目は吸いすぎだと判断したのか、先輩が煙草をソフトパックに戻した。

「藤村さん、っていう、……あの人も先輩です」

 この九隅文科大学は学力の高さのみならず、サークル活動が盛んなことでも有名である。

 一つのジャンル三つも四つもサークルがあることも珍しくないし、他大学ではなかなか見かけないタイプのサークルも存在する。運動系ではテックボールやフィーエルヤッペン、文化部では、全国排水口研究会やプライベート信号観察同好会、王子様部など。

 田舎から出て来て右も左も判らぬ後輩くん、さすがに友達百人出来ると思って来てはいないが、独りぼっちは心細いし、サークルが盛んな大学に来たのだからどこかには入っておこう、しかしどこに入ろうかときょろきょろしていたところに、

「お疲れ!」

 とまるで二年前からの知り合いであるかのように声を掛けて来たのが「日輪(にちりん)山ハイキング倶楽部」の代表である藤村だった。

「日輪山? ……ああ、二駅隣の小山のことか」

 とにかくサークルの数が多いので、先輩でも把握しきれていないらしい。日輪山ハイキング倶楽部は週に一度、標高三百メートルの日輪山を散策することで運動しつつ、登山道のゴミ拾いをして地域に貢献することを活動の趣旨としたサークルであった。

 悪くなさそうだな、と思ったのだ。あんまり激しい運動はしたくないし、かと言って排水口をじーっと見ているのも気が滅入りそう、テニスサークルとかはガラじゃないし、と思っていたところだったので、手頃感もある。だから後輩くんは、他のサークルを見て吟味するということはせず(事実として「○○山ハイキング/ウォーキング/ランニング/トレッキング/散策/観察/漫遊/倶楽部/会/同好会/部」はおよそ近所の山の数だけあったのに)日輪山(略)倶楽部に籍を置くことを決めてしまった。

 当初は、取り立てて問題が起こることはなかった。週に一度のハイキングはちょうどいい運動量であったし、藤村をはじめ五人いる先輩たち(藤村以外の四人は後輩くんより歳下だったのだが)は皆清廉な人物たちだったし、低山も低山とはいえ日輪山の山頂からの景色は秀麗であり、また登山道の環境が自分たちの仕事で整備されていくというのは精神的にも充実感のあることであった。

 しかるに日輪山倶楽部は、健康的なハイキング同好会とは全く別の顔を持っていた。

「宗教の勧誘だね」

 先輩の問い掛けに、後輩くんは項垂(うなだ)れた頭をもう一段沈ませるぐらいしか出来なかった。

「どこの大学もそうだけど、表向きは楽しそうなサークルに見えて、実は何らかの団体の下部組織として学生の勧誘を主目的として活動している……、というケースは珍しくないようだ」

 仮に後輩くんが他の、例えば「田茂木山ウォーキング愛好会」の説明を聞きに行ったとして、「実はいま、日輪山(略)にも誘われていて」とでも言ったら、あるいは田茂木山から「他にも誘われてる?」とでも訊かれて正直に答えていたなら、

「ああ、日輪山! あそこはやめといたほうがいいよ、だってあそこは……」

 ぐらいの情報は得られていただろう。後輩くんが軽率だった。

 後輩くんはしばらく、セーターの上から自分のおへそのあたりを見ていることしか出来なかったが、先輩に対しての態度としてはあんまりであると思い直して顔を上げた。

「……ごめんなさい、僕、話があっちこっち行っちゃって。父が実家から転がり込んできたのも……」

「宗教に依るところが大きいようだね。多分だけど、ご母堂がウィルス感染して、君の二年目の浪人生活が決まったあたりから、君の生活は一変したのだろう」

 後輩くんは、また項垂れるしかなかった。

 向かいの老夫婦はこれまで、好ましいご近所さんであった。しかるに、自身が後輩くんに掛けてしまった「迷惑」(とは、後輩くんは思わないのであるが)の末に、後輩くんのお母さんが感染し、後遺症で味覚障害を発症するに当たっては、精神的にかなり追い込まれ、目付きが変わってしまった。

 自分たちが小火を出さなければという自責の念の暗さと重さは、彼らを一層の信心に駆り立てる。自分たちの信仰をより高く篤いものにしなければ、不幸な一家を救うことは出来ない。

 宗教、……「宗教団体」に籍を置く人々にとって、最も篤い信仰表現とは何であるか。

 寄付、そして勧誘である。

 実のところ、個人的な祈祷なんてものは、仏壇やら祭壇やら、そうした物理的な商品を販売して以後は、継続し、定期的な新しいものに買い替えていってもらえればそれでいいのであって、彼らを営利団体であると見做(みな)せば、顧客を増やすための営業活動と容易く言い換えることが出来る勧誘が、一番高く評価されるのだ。

 通りを挟んで向かいの魚屋の一家に、共に同じ神あるいは仏に祈りを捧げることで救われようと手を差し伸べることは、老夫婦にとっては一ミリの疑いも挟む余地のない真理なのだ。

 当初、父母は拒絶したはずである。ウチはそういうのは結構です、と。

「けれど、後輩くんのご母堂は受け容れたのだね。恐らくは、……これは喜ぶべきことではあるけれど、後遺症の味覚障害が快癒したから。それは医療の努力であったり、時間経過による自然回復であったり、そうした説明をするよりも、疲弊していた君のご母堂はおじいさんおばあさんの信心の賜物であると解釈してしまったのだろう。……無論、それは尊重されるべき各人の自由ではあるのだが」

 先輩の言った通り、夏前に味覚障害から解放された母は急激に老夫婦の信仰に同調し始めた。

 初めは彼らの集まりに足を運ぶところから始まり、朝晩の風が涼しくなるころにはもう、後輩くんの実家には大袈裟な仏壇がドーンと置かれることとなった。魚屋の店頭のあちこちに、商売繁盛と虫除けの効があるとかいう、一枚二千円もするお札を十枚も二十枚も貼り出し、「普通のお客さんが何だって思うじゃねえか」と父が剥がしてしまうと、髪を振り乱して怒り狂った。

 毎朝毎夜「おつとめ」の声が響き、店にやってくるのは老夫婦と、老夫婦が紹介した彼らの集まりの幹事、つまり団体の職員ばかりになった。それで店が傾けば母も我に返ったかもしれないが、団体の人々は店に次々と注文を寄越すようになり、売り上げは以前と変わらないか、少し良くなった。こうなると母は益々信心にのめり込んで、もう止まらなくなる。

 家庭が変容していく中、家に落ち着ける場所などなく、それでも後輩くんは図書館や放課後の教室、場合によっては既に就職している友人宅などをフル活用して勉強に励んだ。その結果として、めでたくも今年からこうして九隅大生となるにいたったのだが、

「あなたが合格したのは私たちが毎日祈ったからよ。だからあなたもこれからは私たちと一緒に大日氣弥益さまに祈りを捧げなさい」

 ……と、母に言われた。

「ダイニッキイヤマスさま、というのだね、彼らの信仰対象は」

「らしいです。僕がこっちに出て来てから、父はずっと辛抱してたそうなんですけど、夏に実家に帰ったとき、もう我慢ならないって、死にそうな顔でした」

 家は、既に後輩くんのいられる場所ではなくなっていた。

 向かいのおじいさんおばあさんはもちろんのこと、彼らが呼び招いた市内の信徒たちが入れ替わり立ち替わりやって来て、もう魚屋の看板は下ろされ、信徒の交流の場、飲食の場に成り代わってしまっていた。

 そして、母は言ったのだ。

「あなた、ちゃんと毎週のおつとめはしてるんでしょうね。先輩の皆さんの言うことをしっかり聴いて、大日氣弥益さまの弟子として恥ずかしくない人間になりなさいね」

 先輩は表情を変えずに、拳の中へ溜息を吐き出した。

「……なるほど。この大学にいる信徒に君のことを教えて、囲い込ませたんだね」

 後輩くんは、こくんと頷いた。そんなことまでするのか、と呆れて、なんというか、無力感のようなものに襲われてしまったのである。僕の人生、この先どこへ行っても、大日氣弥益の信徒たちが待ち構えているのではないかと錯覚して、……実際、さっきここでうたたねしているときにも、信徒たちの群れに追いかけられる夢を見ていたのだ、

 そうした事態の末に、……先月末、つまり後期が始まってすぐ、父が逃げ込んできた。なんでも母が家を団体に施設として寄付すると言い出したのだそうで、後輩くんはもう、遥か遠い世界の話を聴かされているかのようであった。家を団体に寄付すると、なんだか、通常二千万はするというありがたい宗教グッズが三割引きで買えるようになるとかで、またそのグッズをありがたがって近隣の信徒が集うので長い目で見れば潤うとかで。父は妻に全く聴く耳を持ってもらえないと、絶望して後輩くんを頼ったのである。

「……いくらなんでも……」

 先輩は口から拳を外して、そう呟いた。ね、ですよね、いくらなんでもあんまりですよね……。

 先輩はその言葉の続きを口にしなかった。代わりに立ち上がって、

「後輩くん、四限は?」

 瞳に、先ほどまでよりきりりとした銀色の光を灯して言った。その表情だけなら、後輩くんは先輩を男性だと思ったに違いない。

「さっき掲示板を見たら、休講でした」

「では、アルバイトとか」

「今日はお休みです」

 でも、家に帰ったって不景気な顔のお父さんがいるだけだから、気持ちが休まるわけではない……。それならば、いっそ、ここで締め出されて凍えていたほうがまだマシかもしれないなんて考えも頭を過ぎった。学内を一人でうろついていれば、たちまち「日輪山」の連中に見つかって付き纏われることになるのだし。

「なら、うん、私に()いて来たまえ。君をいいところに連れて行ってあげよう。喫煙者である私が一緒ならば、サークルの人々も近付いては来ないだろうし……、そうだ、喫煙者と長く一緒にいれば、君から距離を置きたいと考えるようになるかもしれないぞ」

 いたずら小僧の顔だった。男の人だろうか、と思って立ち上がった次の瞬間、歩き出した先輩の髪から、甘い果実の馨りが後輩くんの鼻腔をくすぐった。煙草を吸う人のものとは思われない、快く優しく、なにより清らかな馨りだった。

 人のにおいを嗅いで、なんらかのインプレッションを抱くというのは、いかにも問題がある気がした。しかし、具体的に何がどう問題なのか、後輩くんにはピンと来ない。先輩の年齢や性別がまだちっとも判らないからだろうか? しかし、男性のにおいだったらいいのか、それとも女性だったら? どちらであれ、においに「いい/悪い」と申し述べるのは、なんだか変態的であるから、すべきではない。

 地上五階の屋上から降りたキャンパスには、早めに三限が終わった学生たちがぼんやりとろとろ歩いている。先輩は時折後輩くんがちゃんと随いて来ているか確かめながら、しかし躊躇いのない足取りでずんずん進んでキャンパスを出た。

 九隅大学は最寄駅である猪熊駅まで徒歩十分ほどの距離であるが、周囲はとてものどかであり、近くにその字面のわりには澄んでいて美しい猪熊沼があって、この沼の輪郭はぐるりとジョギングコースになっている。

 先輩はガマの穂が揺れるジョギングコースを、てくてく歩く。後輩くんは、どこへ連れて行かれるのか、困惑しながら随き従う。

 キャンパスから駅方面にまっすぐ向かうとき、左後方にあってどんどん遠ざかっていくのがこの猪熊沼で、後輩くんの、いまはお父さんがしょんぼりと無為の時間を過ごしている部屋は駅の向こうだから、まるであさっての方向へ歩いていることになる。……歩いて疲れれば嫌でも眠れるということかもしれないが。

 沼の向こうには、住宅地を挟んで、スムーズに流れる日は年間に何日もないというぐらい交通量の多い国道が走る。沼のほとりから見やると、そちらの空は少し黄ばんでいるように見えた。二階建ての紳士服店、ガソリンスタンド、中古車販売店や駐車場の大きなファミリーレストランなどが、その他、後輩くんの意識には引っかからないマンションや事務所などと背中を並べている。

「見えてきたよ、あそこだ」

 ごはんを食べようという話か、と後輩くんは納得した。あるいは先輩の慧眼は、睡眠不足の後輩くんがこのところいまいち食欲も湧かず、ごく簡単なもので事務的に済ませてしまっていることを見抜いていたのだろうか。運動をして、ごはんを食べて、そうすればおのずと眠くなると言いたいのかも知れない。いや、先輩はもうちょっと賢いことを言うつもりだろうか、眠りにいい食べもの、栄養成分……、後輩くんは色々なサプリも試したが、どれもあまり効果実感を得られていなかった。

「後輩くん、後輩くん、そっちではなくて、そこ、もっと手前」

 先輩の声に視線を導かれて、ファミリーレストランから視線を緩める。国道からこちらへ枝分かれした道にどんな名前があるのか知らないが、五階建ての、白いビル、屋上には「Lake Side Villa」と、古めかしい筆記体のネオンで書いてあるのが読める。

 レイクサイドヴィラ、湖畔村である。何もかもが間違っていると思ったので、後輩くんは自分がそこに目をやってしまったことも間違いだと思った。

 のであるが。

「あそこに入ろう」

 先輩は朗らかに言って、もう既に、再び歩き始めている。

「……はい?」

「私、時々行くんだ」

 いえ、あの。

 先輩がそうした施設をご利用になられることは、僕には何の問題も見出せませんし、そう、わりと地域経済活性化の面とか、あのわりと結構ボロそう、いえ歴史あるタイプの、特別な宿泊施設の経営を支えるという意味とかで、きっとプラスになるんだろうなと思うんですけど。

「はい?」

 ……としか、後輩くんは言えなかった。

 ホテル・レイクサイドヴィラ。

 どういった点で特別かと言えば、おおっぴらに料金表を張り出し、「なるほど、こういう場合の『休憩』にも『Rest』って言葉を使うんだなぁ」という感慨を抱かしめるという特別さを持ったホテルである。

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