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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは判らない。
19/30

フラジャイル

 家の中で炭を焚くとえらいことになる。

 実家が魚屋さんで、お母さんの作ったお魚のお惣菜が看板の一つだったけれど、焼き魚はあまり作っていなかった。理由はシンプルで、おうちに焼き魚のにおいが染み付いて取れなくなってしまうから。……炭なんて使ったら余計に、どうなってしまうか判ったものではない。家庭で魚の炭火焼きを作ろうと思ったら、もう、それ専用のはなれでも作らなければならない。

 後輩くんはだから、こんな滞在一秒につき幾らか取られそうな高級そうなビルの最上階で炭火焼きの魚を振る舞われるとは思っていなかった。

 換気設備がしっかりしているのだろう、全く煙くないのだが、網焼きにされた鱈の、踊るような塩焼きは、紛れもなく炭火で焼かれたものだ。

「どうぞ、お好きなだけ……。今日はごらんのありさまですから……」

 この人、カタギの人だよね……? 清潔感あふれる白の衣、非常に鋭い双眸の、板前さん? 料理長? 語彙を後輩くんは持っていなかった。ただ、この料理屋さんの長を務めているに違いない、その三十代は間違いなく行っているのであろう人は、よれよれコートを身体に巻きつけた後輩くんを連れて店に入った先輩を、最上の客としてもてなし、個室へと導いたのである。

 後輩くんは言葉からはぐれっぱなしだ。

「私はクリスマスに美味しい魚を食べたっていいと思うんだけどな。あるいは……」

 ふっ、と先輩は苦笑する。

「今日に限って、七面鳥でも焼いてみるとかね。いやしかし、そんなお店だったら私もわざわざ来ないか。ああ後輩くん、おあがりよ。ごはんやお味噌汁のおかわりもあるからね。今日がクリスマスイヴであろうとなかろうと、君とユノちゃんと、あと寿羅くんのおかげでだいぶ懐が暖かいからね」

 これはのちに、後輩くんがおそるおそる調べて判明したことであるが、「百薬」という名のこの居酒屋さんは、一食一万円からというお店なのである。

 熟年向け食遊情報サイト『iRORi』において「美味い魚を肴に酒を呑むなら」というランキングでトップに選ばれたのだが、「狭い店ですので……、あんまりたくさんのかたにいらっしゃって頂いても……」という理由で惜しまれつつもランキングから除外されたという。知る人ぞ知る、という店なのであるが、毎年クリスマスイヴの夜だけは、「クリスマスに焼き魚はねぇ」なんて理由で客が入らないのだそうだ。

 いかにも仕事に妥協のなさそうな板前さんが下がって、ようやくほんの少し緊張が緩む。「歩いてきたからおなかぺこぺこだ、晩ごはんを食べたい。飾り気のないものを、全部まとめて持って来て欲しい」という先輩のリクエストに応じて出てきたのは、ワカメと大根のサラダ、鰤の刺身、鱈の塩焼き、そしてお味噌汁とごはん、お新香。

 なんて書くとちょっと贅沢な普通の晩ごはん、という印象を抱かれるかも知れないが、後輩くんも一応は魚屋さんに生まれ育ったから、これがとんでもないしろものであることは味わう前から判る。

 ワカメと大根のサラダの、大根から触れなければいけないか。いや、そんなことをしていたらごはんが冷めてしまう。ただ、ごはんからしてもう、驚くほどの甘さ旨さであって、後輩くんはうっかり目が潤んでしまいそうになった。

「了の作るごはんと同じぐらい美味しいだろう」

 先輩はサラリとそんなことを言う。後輩くんは、もう、小さく頷くことぐらいしかできない。中寉さんが聴いたら、あのほんわかマイペース無表情の人もさすがに声を荒らげて「僕を! 何と! 比べるおつもりですか!」ぐらいのことは言いそうである。

 後輩くんとそんなに年齢の変わらない先輩が、なぜこんなお店を知っているのか。

「このお店のオーナーが、私の最初の依頼人でね。ずいぶんと評価してくれて、いつでも遊びに来るよう言ってくれたので、こうして気兼ねなく遊びに来ているというわけさ。もっとも、ご実家が魚屋さんの君を連れて来るのはなかなか勇気が要ることだけど」

 この鰤の刺身の一切れだけで……、と後輩くんは思う。身の弾力、脂の乗り、何より鮮度、非の打ちどころがない。後輩くんは先月中寉さんの鰤の照り焼きを頂き、今夜は鰤の刺身を頂いた。どちらが、というものではなく(「比較対象に並べないでください!」と言われてしまうだろうし)この世の鰤の愉楽を二ヶ月続けて味わってしまって、罪深さに慄きそうだ。後輩くんの舌と喉が仲違いしている。舌はもっと味わいたいと執着するのに、喉がそれを許さないのだ。

 鱈の塩焼きに至っては、もう、こんなの食べたことありません、というレベル。淡白な魚である……、という定義を、魚屋さんのこどもとして幼少期から魚を多く食べてきて、当然冬場には鱈も数え切れないほど食卓に並んできた家庭に育った後輩くんでもしていたのである。だからほとんどの場合、煮付けや鍋で味を吸わせて供されるのが鱈である。しかるに、これは……。まず、身の引き締まりかた。そんなはずあるまいが、ついさっきまで生きていたものを〆てさばいてすぐ焼いたのではと誤解したくなるほどに身が強い。味付けはといえば、塩と、わずかに柚子の皮を削ったものだけ。かぼすが添えられているが、それはあくまで味のバリエーションとして。塩が上等なものであることは言わずもがな、身そのものの味をはっきりと感じられる。鱈ってこんなに勇ましい味わいだったのかと、目から鱗が落ちる気持ちだった。

 先月に生まれて初めての飲酒をアイラモルトで経験した後輩くんの手元には、また経験のないものが置かれた。静けさを感じられる透明なガラスの猪口へ、先輩が同じく透明な徳利から注ぐのは、これは、まず、間違いなくお酒である。

「あの」

 幾らですか、という言葉が口をついて出てきそうになる。

「構わず飲みたまえ。でも、ゆっくりね」

 後輩くんは人生において、こんな形で飲酒を経験することがあるなどとは、全く想像してこなかった。これはなんとなくの話だけど、先月、先輩と一緒にアイラモルトを呑むことがなければ後輩くんはウイスキーを知らないまま今後何年も何十年も過ごすことになっていたのではないか。こうしたお米のお酒も、その他焼酎、他にも数あるスピリッツや、それを素材とした可愛らしかったり格好良かったりするカクテルも。ただお父さんが呑んでいるところを見慣れているからという理由でビールを選んでいたに違いない。

 初めて呑んだ清酒は、……思っていたよりもずっと刺激が少なく、優しさすら感じられた。色白でふくよかな、とても物腰の穏やかな女性ににっこり微笑まれたみたいな、照れくささが頬に宿って熱くなる。

「後輩くんはお酒を呑むとすぐにほっぺたが紅くなるんだね」

 先輩は楽しそうに後輩くんの頬を指でなぞった。料理を楽しんでいるあいだは向かいに座っていたのに、お酌をしてくれるためにこっちへ来て、ずっと隣にいる。

「今日は楽しかった。とてもとても楽しかったよ、後輩くん。私はクリスマスなんて大騒ぎするようなものではないとずっと思っていたけども、今日初めて悪くないなと思った」

 あまり人生に関係のない日だと、後輩くんだって思っていた。そういう日は他にもあって、ハロウィーンとかバレンタインもそうだ。ひがみっぽく言うなら「商業主義に踊らされてるだけだよ」なんて思うのだけど、今日ほどちゃっかり楽しんでしまったクリスマスもない。

「身体の中に燃料を入れたからぽかぽかしてきただろう。では後輩くん。いまから少しばかり風の当たるところへ行くよ」

「はい?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべると、どこかしらやんちゃな素顔が覗く。先輩に導かれるまま、こんなに素敵なのに後輩くんたち以外は二組しかお客さんのいなかったお店を横切ると、大きな窓がある。さっきこのお店の入り口まで後輩くんたちを運んだエレベーターは「12」という数字を表示していた。後輩くんは、こんなに高いベランダに出るのは初めてだ。先輩と一緒にいると、初めての経験をたくさんすることになるみたいだ。

 二重扉を開けて出たベランダは、十二月二十四日の午後七時過ぎであるし、高いところであるから、当然のように寒い。ぴゅーぴゅーと風が吹く。先輩は僕より寒がりなはずだぞと思うけれど、後輩くんは先輩よりも高所恐怖症である。だもので、二人は輪郭を一つにして、ぶるぶる震えながらそうっと、吸い込まれるように脚下の景色に目をやった。

 後輩くんはそんなものを知らない、持ったこともないのに、そこにあるのはダイヤモンド、ルビー、エメラルド、真珠、琥珀、翡翠、瑠璃。多少なりとも縁があるとすればダイヤモンド、……将棋の囲いに「ダイヤモンド美濃」というのがあるからというのが理由だが、それを言うなら金と銀も持ったことはある。

 けれど後輩くんは、自分から隠し持っている宝石箱を先輩の目の前でぶち撒けたような、不思議な錯覚に陥った。きれいでしょう! すごいでしょう! そんな言葉を口にしてしまいそうになったけれど、もちろんこの宝石の絨毯を、あるいは宝石によって象った星座を、天の川を、作り出したのは後輩くんではない。むしろ先輩である。

「悔しいけど、すごいな……」

 先輩が白い溜め息を吐き出した。立ち位置は、このあいだ宿木橋からホテルまで、そして今日、あの素敵な喫茶店からこのビルのふもとまで歩いたときと同じで、後輩くんの右隣に先輩。だけどこうして並んで歩くときには先輩の顔を見たことがなかったことに、後輩くんは気付いた。

「この景色、……私が作り出したものだったら、どんなに誇らしいだろうって、いま、思ったんだ。後輩くんは私と一緒に歩くとき、とてもいい顔をしてくれるから」

 先輩は、後輩くんの顔を見ていたようだ。えーこんなの見るよりももっと見るべきものはいっぱいありますよ、見て面白いもの、気持ちがよくなるもの。自分がそういうものではないという自覚を持つがゆえにこそ、これはちっとも謙遜ではない。

 ただもう、なんというか、こんな顔で服で先輩の隣にいて申し訳ないです、という気持ちだ。あなたの持つ美しさ可愛らしさを引き立たせることが出来るなら、僅かばかりの救いになる……。

 いていいですか、と訊けるほど、後輩くんは勇敢ではない。また、「いいよ」という答えを得られることを確信した上で訊くほど傲慢でもない。後輩くんという人は、ごく静かに、謙虚に、先輩のことを好きでい続けるばかりの平凡な人物である。もし仮に、先輩とつり合いの取れるような人、……後輩くんはそれは例えば先輩のような人、そうでなければ中寉さんの醸す空気感に蒔田さんの美貌、白湯川さんの礼儀正しさ、ミツルママの愛嬌に上之原さんの身長を全部備えた男の人か、原口さんの凛々しさと外目黒さんの華やかさ、そしてユノちゃんの無邪気さを一つの器に混ぜて生み出したような女の人……、が現れて、先輩を攫っていってしまう日まで、きっと後輩くんは静かでい続けるだろう。

「後輩くんは温かいな。私は、話したことがあったっけ、冷え症だからね、すぐ身体が冷えてしまう」

 今日も厚手のコートとマフラーと手袋、寒さ対策を万全にしていた。

「ボートレース場って、風があって、水の近くですし、寒かったでしょう」

「そうだね、まあ懐は暖かかったけど。……ほら」

 後輩くんは氷に触ったみたいに思った。寄り添う先輩の左の手の甲が、後輩くんの右の中指の背に触れたのだ。

「びっくりした? すぐこんなに冷えてしまうんだ。後輩くんは血行がいいのかな、体温も高いようだ。この季節に君がそばにいてくれたらずいぶん助かるんだけどな」

 では、夏は?

 訊けなかった。後輩くんはひとまずこの国には(他の温帯にある国々と全く変わることなく)まだかろうじて四季があるという事実に縋りたくなった。来年もまた冬がきっと来る。側に人なんて置きたくないと思う夏が、少しでも短いことを、また今年みたいにとんでもない暑さが延々続くようなことがないことを、心から願った。

 先輩といるとき、熱を生み出さずにはいられないこの身体だ。それがちっとも清らかなものでなかったとしても、先輩の冷たい手を温めることが出来るなら。

 初めて先輩を見たとき、猫みたいだなと思ったことを思い出す。あの日の先輩は上から下まで真っ黒で、しなやかで、猫っぽかったのだ。猫も寒がりである、そして猫舌である。けれど猫は触れるといつだってほんのり温かいもので、……後輩くんが握った手はまるで氷みたいだ。

 先輩はものも言わず、地上の宝石を眺めていた。自分の手が汗ばんでいないかどうか、後輩くんが激しい緊張の中でぐるぐると考えて頭をパンクさせそうになりそうなほどの時間、ずっとそうしてから、

「入ろうか。よかったら、もう少し呑まない? 一応私、ここのオーナーには『恩人』という扱いを受けているからね、多少のわがままは聴いてもらえるよ」

 するんと後輩くんの握った手の中から、後輩くんよりも小さな手を抜いて、優しく微笑んだ。後輩くんの身体も少し冷えてしまっていたところだったから、気遣ってくれたのかも知れない。あるいは、……と後輩くんは後悔する。冷え症の話を切り出されたときにすぐ、入りましょうかって言っていなければいけなかったのではないのか。寒いって言われたんなら、一番にしなければいけないのは、そういうことだったんではないのか。いや、そうに決まっている、そうとしか考えられない。どうして僕はこう、愚かなんだろう……?

「さっきのは、私がキープしているお酒だけど、どうやら今日は面白いお酒も入っているようだから、クリスマスだけど思う存分日本酒を楽しもうじゃないか。君も私も騒がしいお酒にはならない質のようだしね」

 個室に戻ると、お皿はきれいに片付けられて、掘り炬燵に布団が掛けられていて、足を突っ込むと、もう暖かくなっている。高級なお店ってこういう心配りがすごいんだなぁと、後輩くんは判ったような気持ちになって、そこへ更に新しいお酒が運ばれてくるにいたっては、なんだかもう、異世界に迷い込んだかのような感覚に陥ってしまった。

 隣には先輩がいる。差しつ差されつというのか、先輩にお釈をしてもらったら、不器用なりにお返しをする。徳利から注がれるお酒のリズムは鼓動や呼吸に似ていて、後輩くんのほうがちょっと速くて不安定だ。大将さん(という呼びかたではたしていいのか、後輩くんはもう、信じるしかない)が「よかったら」と言って持ってきてくれたのはイカの塩辛と鰯の酢締めに山椒の葉を添えたもの。それが綺麗さっぱり二人のお腹に収まるころには、飴色に煮込まれた鰤大根が出て来た。言うまでもなく、イカも鰯も鰤も、別にそんな極端に高い値の付く魚ではないわけで、だからこれをそう表現するのは少々せせこましいのだろうけれど、それでも後輩くんは夢の中にいる心地だった。どこからどこまでが本当で、どこからが現実なのか、境目がとても曖昧で……。





 炬燵で寝るのは、身体に良くないとされている。

 寝落ち、という言葉がしっくり来る状態であった。幸いにして身体は冷えていない。まだお酒の精霊が頭の周囲をふわふわ舞って、後輩くんから理知的な考えを掠め取ってはくすくす笑っている。

「ああ、起きてしまった。……よかったね後輩くん、起きるのがあと五秒も遅かったなら、私は君の寝顔に悪戯をしているところだったよ」

 ごく近いところに先輩の顔があり、先輩の言葉からはお酒のにおいがふわりと漂った。いつからだろう、後輩くんの肩には赤と黒の、毛足の長くて温かな毛布が掛けられていて、同じ柄のものは先輩の肩にもあった。

 先輩は、妖精のように悪戯が好きな人だと思っている。とてもとてもあどけない容姿をしている、のに、頭の中身はとても大人っぽい、けれど、童心を忘れないと言えばいいのか、やんちゃなこどものように人をびっくりさせて楽しんでいるのではないかと思わされる。けれど先輩の悪戯には悪意がない。優しくて、誰もが笑顔になれるような、毒のない、平和な悪戯。

「どんな」

 自分の声にしてはぼんやり輪郭が蕩けて、遠く聴こえた。

「悪戯ですか」

「そうだな、どんなのでもいいんだけど」

 先輩は身体がぽかぽかしていた。後輩くんとぴったり寄り添って、同じ温もりを、二人で共有している。今が何時なのかも判らない、お店はすっかり静まり返っている。ひょっとして、もう閉店の時間を過ぎてしまっているのではあるまいか。だとしたら、お店の人にご迷惑になってしまっているのではないか。そんな真っ当な成人の考えるべきことを、後輩くんは頭の半分で考えている。大人であるという点においては後輩くんよりずっとずっと確かで秀でている先輩が、もうとうに気にしたはずのことではあるけれど。

 先輩は後輩くんの髪を撫ぜた。指に絡ませて遊んでいる。後輩くんはいつでも前髪を下ろして、おでこを隠している。

 おでこにはちょっとした傷痕がある。もうとっくに塞がった傷なのだけど、冬になるとそれが、ちょっと疼く。また見た目には少しばかり迫力があるので、隠しておいたほうがいいと判断して、だから後輩くんは前髪を下ろしている。

 高校三年生の最終盤までは、おでこを出す髪型だったのだけど。

 その傷の原因を、先輩に訊かれたことはない。訊くまでもなく明らかだからだろう、……もちろん、あの事故に遭ったとき。消防車に撥ねられてくるくる宙を舞った末に負った傷だ。おでこでよかった、と思う。もうちょっとずれていたら頭だったし、あとほんの少し下だったなら両眼を損傷していたかも知れない。

 だから、よかったんだ。

 僕は、幸せなんだ。

 後輩くんはあの夜の出来事を、自分の人生を、先輩に笑ってもらえるためならば幾らだって戯画にして描いてみせる。くよくよしたって始まらない、だから後輩くんは「笑ってくださっていいんですよ」的なことを先輩に言ったし、あのときはまだ、後輩くんのおでこに傷があることを先輩は知らなかった。先輩が知ったのは、一番早くて、初めて一緒に「Lake Side Villa」に行ったときだろうし、あるいはもっとずっと最近になるまで知らなかったかも知れない。

「……君のこの傷が」

 先輩は、初めて自身が後輩くんの傷について認識していることを言葉にした。けれど、その言葉は幻のように掻き消えた。先輩は静かに顔を寄せて後輩くんのおでこに、ご自分のおでこをこつんと当てた。先輩も前髪はいつも下ろしている。美しい富士額で、いかにも賢そうなおでこをしている人だ。後輩くんは少し酔いの醒めたような感覚と、同時に何種類ものお酒を浴びてしまったみたいな、強烈な陶酔と……、これが現実であったらどうしよう、夢でありませんように、矛盾した考えに駆られて目を回してしまいそうになった。

 後輩くんは先輩が好きである。

 先輩は、どうなのだろう。

 まだ訊いたことがない。後輩くんは自分の心を器に喩えて、満ちて溢れて零れたときに、言葉が自然と出てきてしまうんじゃなかろうかと思っていた。

 それがいつのことなのか、……もうすぐそこかも知れない、永遠にそんな日は来ないかも知れない。悠長なことを考えているうちに、機会が永遠に失われたとして、後輩くんの苦情は誰にも聴き入れてはもらえないはずだ。さっき考えたみたいな、中寉さんや蒔田さんたちのいいところを併せ持った、ものすごーく先輩に相応しい人に先輩を拐われて、幸せそうな先輩を遠くから見詰めて、心の底から「よかった」なんて言える自信が後輩くんにはこれっぽっちもなかった。

 先輩は目を伏せている。睫毛の長い人だ。その睫毛が目に入るような気持ちになる。

「……後輩くんは、まだ私の、名前を知らないね」

 美味しいお酒を呑みましたね、そんな言葉を、おでこが離れてまず、後輩くんは口にしそうになった。

「はい、先輩のことを、僕はぜんぜん知りません」

 極端なぐらいに律儀な気持ちに、後輩くんはなっていた。やがて永久に失われるかも知れないと思うと、先輩と過ごす一秒さえ大事にしないとバチが当たりそうな気持ちになったのだ。

「でもって、私も君の名前を知らない。妙なものだね、君と一緒に知り合った人たち、……有華や、外目黒さん、ユノちゃん、汐崎くん……、と言った人たちについて、私たちはもう多くのことを知っている。しかし、私たち自身ときたら、お互いのことをまだまるで知らないんだ」

 奇妙な関係のまま、もうじき三ヶ月になる。このまま僕らはどこへ行くのだろう? 賢い先輩の目には、目的地がはっきり見えているのだろうか。後輩くんにはまるっきり霧の向こう。

「でも、私と君はわりと仲良しだね。私たちは先輩と後輩で、そこに探偵と助手という側面も加わったけども、ともあれ良好な関係を築いていると言って差し支えないだろう」

 はい、と後輩くんは全面的に同意する。名前を知らなくてもそんなことが可能なのだという事実は、ちっぽけだけど新大陸発見ぐらいのインパクトが後輩くんにはあった。

「知りたくない、わけでは、ないんだろうね?」

「それは、はい。知りたい気持ちのほうが強いです。でも」

「知ってしまうことに抵抗が芽生え始めてしまっているのだろう。皐醒がこの間、うっかり君の名前を私に言ってしまいそうになって、慌てて了に口を塞がれていた。ついでに鼻の穴に指を突っ込んでしまったせいで喧嘩になっていたけど」

 中寉さんと蒔田さんのコミュニケーションは、何時間でも見ていられる、彼らは先輩と後輩くんの名前を知っていて、ということは性別も察しが付いているか知っているか。うらやましくなんてないんだ、ちっともないんだ。

「どこで、いつ、どんなタイミングでそれを教えるか、私はこのところ考えているんだ。……そう、クリスマスイヴなんて、滑稽なぐらいにうってつけだとは思わないかな。だから私はね、君があと五秒目を醒さなかったらきっと、君の寝顔に向けて私の名前を告げていたと思うよ」

 後輩くんはその声で目を醒しただろうか?

 それとも、ぐうすか眠り続けていただろうか?

「そしたら……、僕はどうしてたらよかったんでしょう。僕の名前は、いつ先輩に言えばいいんでしょうか」

 後輩くんの問い掛けに、悪戯っぽい笑みを浮かべて、テーブルに肘をつく。

「さあ……? まあ私、探偵だからね。その気になれば君の名前ぐらい、自力で調べてしまうことも出来るのだけど、……でも、敢えてそれをしないでいる」

 いい? と先輩が灰皿に目をやって訊いた。もちろん。灰皿に吸い殻はないけれど、先輩のセーターからは少しだけタバコのにおいがした。後輩くんが眠りに落ちたあと、どこか別なところで吸ってきたのだろう。ひょっとしたらあのベランダで。夜の街を見下ろしながらタバコを吸う先輩の横顔は後輩くんの夢の中の景色よりもずっと美しかったはずだ……。

「……起こそうかどうしようか迷ったのだけど」

 先輩は唇の隙間から煙と言葉を漏らす。

「起こしたら、もう帰らないわけには行かなくなる。君が寝たままでいてくれたなら、『後輩くんが寝てしまったから』って、明日の朝まで一緒にいられると思った」

 後輩くんはようやくスマートフォンで時間を確かめる勇気が出た。

 もう日付はクリスマスイヴではなくなっている。先輩と終電を逃すのは、一ヶ月ぶり二回目。

「今夜は、ホテルはどこもいっぱいでしょうね。その、……いっぱいだと思います」

 先輩は煙のぶんだけ苦い笑みを浮かべて頷いた。その横顔は、後輩くんがイメージするどんな探偵よりも探偵的な知性と渋みを備えている。

「だから、朝までここにいさせてもらうよ。……私たちが今夜最後の客だ、大将は一本裏の通りに部屋を借りていてね、明日の朝の仕込みまでそちらにいるそうだよ。鍵は預かっている」

 少しも有害でない男性性(・・・)を備えているような気がした。形はずっと同じなのに、男の人に見えるとき、女の人に見えるとき、大人に見えるとき、こどもに見えるとき。

 あ、と思った。

 ごくちょっとしたこと、だけど気付いた瞬間、後輩くんは思わずびくんと震えてしまって、先輩も驚いて「大丈夫?」と訊いた。そのとき先輩は女の人の顔だった。

 先輩のことがまだ何も判らないからそう見えるんだ、ということに後輩くんは気付いたのである。

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