あなたの隣を歩くには
外目黒さんとユノちゃん、そして素晴らしい写真を撮ってくれた汐崎くんと別れて、シャトルバスで水鳥川駅前まで戻ってきた後輩くんと先輩である。
「さて。……ああ後輩くん、声はもう平気?」
まだちょっとかすかすしているが、「はい」というお返事はいつもとそれほど変わりなく響いたはずだ。
「うん、では、これからいよいよクリスマスの本番と行こうじゃないか」
にっこり微笑んで、先輩は元気よく駅の階段を上り始める。
「あ、あの、先輩、どこへ……」
先輩はさっさと券売機で切符を買ってしまう。先輩はICカードを持っているので、紙の切符は必要ないはずだ……、と思ったら、後輩くんに差し出される。普通の乗車券ではない、路線図が記載されてちょっと大きな、フリー切符である。都心部ならばどこで乗っても降りても追加料金が掛からないというもの。
「まだお腹は空いていないだろうね?」
「へ、あ、はい」
「では行こう。何の気兼ねも要らないさ、後輩くんの後輩くんのおかげで遊びに行けるのだからね」
一昨日は、あんなにやきもちを焼いていたのに。
クリスマスが明日で終われば、次のイベントごとはお正月。やきもちで本当におもちが焼けるのなら、先輩はひっぱりだこの存在になりそうだ。本人はちっとも嬉しくないだろうけど。
都心に向かう電車は混んでいた。後輩くんと先輩は奇跡的に並んで座れる席にありついたけど、三つ目の駅でおじいさんとおばあさんが乗ってきたので譲って、そのあとは立ちっぱなし。いいことをするのは気持ちがいいと胸を張って、都心のターミナルの一つ、北城駅で電車を降りた。
九隅文科大学があり後輩くんが住む猪熊を含めた北方面へ向かう電車は大半がこの北城から発車する。
若者の多い富緑や山王に比べると、少しだけ空気に侘びさびがあって、駅舎もどことなく古く、演歌や歌謡曲の題材にされることも多い。こういう駅から伸びる路線と、山王・富緑から伸びる路線とでは何となく雰囲気も違って、垢抜けない印象のようなものを抱かれがちであるもので、まさにその沿線上の名門大学であるところの九隅大が、都心に居を構える東英大学に対して屈託したものを抱く理由の一つがここにある。
先輩はまだ「どこに行く」とは言っていない。後輩くんは二度訊いて「いいところだよ」「着いてからのお楽しみさ」とはぐらかされてしまったので、もう諦めた。
北城は駅のすぐ近くに活気のある商店街があって、そこは観光名所であるとともに人々の暮らしを支える場所にもなっている。十二月二十四日という日付を「イヴ!」よりは「年の瀬!」という意識を持って見る人たちでごった返しているはずであるが、先輩はそちらへは向かわない。かといって、すぐ近くの動物園に行くつもりもないようだ。改札すら出ずに、電車を乗り替える。複雑怪奇な都心の交通網には疎い後輩くんであって、もう自分がどのあたりにいるのか全く把握できなくなっている。少なくとも富緑に向かっているわけではないようだ。
「今日みたいな日は、どこへ行っても混んでいるだろうからね。……後輩くんは人混みが得意ではなさそうだなと思っているのだけど、合っている?」
もちろん、大いに苦手である。何せ、赤州の田舎の生まれ育ち。上京してきて驚いたことは、どこへ行っても人が多い、多すぎるということ。
「うん、そうだろうと思っていた。なので今日は人の少ないところでのんびり過ごすつもりなのさ。……まあ、その場所に移動するためにわざわざ混んだ電車を乗り継ぐのは本末転倒な気もするけれど」
電車から更に地下鉄に乗り換えて数分揺られた先、先輩は遂に後輩くんを導き改札を出た。東京の、都心も都心、かなりにど真ん中のようである。
見上げて口の開くようなビルが碧天を突いて建ち並ぶ、どうやらオフィス街。平日日中はビジネスパーソンで賑わっている街なのだろうが、今日は日曜日、故にひっそり静まり返っているし、人通りもほとんどない。開いているのはコンビニと、ファミリーレストラン、牛丼屋さんにカレーショップ、……ドラッグストアはシャッターが閉まっていた。先輩は迷うそぶりもなくひょいひょいとビルの谷間に肩を寄せ合って古い家の建ち並ぶ通りを抜ける。こんな街にも、多くはないとはいえ人が住んでいるらしいことに後輩くんは驚いたが、その先に小さな喫茶店が姿を現したことにはもっと驚いた。しかも、こんな街の日曜日に、きちんと営業している。
古ぼけたビルの一階。
ドアベルを鳴らして入った店内には焙煎されたての珈琲豆の、ぎゅうっと染み込む甘苦い香りが満ちている。カウンターとテーブル合わせても十席もなさそうな、小さなお店。カウンターの中には五十代ほどだろうか、やや白いものの混じった口髭を蓄えた紳士、……眠っている。
「店長」
先輩が声を掛けると、その人はとろりと目を開けて、鳶色の瞳で先輩を見とめる。
「……やあ、君か」
相好を崩して、先輩の「お久しぶりです」という挨拶に、ゆったりと頷き、オーダーを待たずにミルで豆を挽き始めた。先輩に促されてソファに身を委ね、……後輩くんはなんだかきょろきょろしてしまう。宿木橋のバー「緑の兎」もお洒落であったが、ここもまたシックな雰囲気である。平日は近隣のオフィスで働く人たちの憩いの場になっているのかもしれないが、今日は他にお客さんの姿はなく、しかしきちんと──店長さん、寝ていたけど──営業している。隠れ家のような喫茶店である。
ハンチングを脱ぎ、壁のフックに掛けた外套の内ポケットから煙草を除かせて、「いい?」と先輩が訊いた。もちろん、後輩くんは頷く。ボートレース場ではユノちゃんが一緒だったからずっと我慢していたのだろう、紙巻きタバコに、今日はマッチで火を点けて、目を伏せて浅めに吸い込み、天井へ吹き上げる。一連の所作は、背の低くてとても童顔な人のものではあるけれど、なんというか、ばっちり決まっている。後輩くんは──大日氣弥益関連の出来事が起きる以前から──タバコというものに縁がなく、憧れたこともなかったが、先輩が吸っているところを見ていると、僕も吸ってみようかな、なんて気持ちになってしまう。
「……こちらはね、私が人生で初めてアルバイトとしてお世話になったお店なんだ。高校に入って、一年生の夏休みから二年生の冬休みまでね。そのあとは受験があるから辞めてしまったのだけど」
先輩は静かに言った。
当たり前であるが、先輩だってどこかで生まれてどこかで育った末にいまの先輩になっているのである。つまり、後輩くんが誰かの、例えば寿羅くんの「先輩」であったことがあるように、先輩も誰かの後輩だった時期があるのだし、探偵事務所で働き始める以前にどこか全く違うアルバイトをしていた経験があって、なにも驚けない。
後輩くんはゆっくりゆっくり豆を挽く店長さんの、白いワイシャツに黒のベストという服装を眺めて、なんだか胸からほっぺたにかけてがきゅうっと、珈琲の酸味を感じたようにしみるような気持ちになった。そのころの先輩、どんなに可愛かったんだろう。
「でも、高校生のアルバイトなんてものは、部活動の延長線上みたいなものだからね。……店長にもお店のお客さんたちにもご迷惑ばっかり掛けてしまっていたと思う。いま思い返しても赤面してしまうような失敗ばかりだったよ」
そう甘い苦笑とともに振り返ることが出来るのだから、きっと大切な記憶なのだ。
先輩は、じゃあ、このへんのお生まれなんですね。
そのことを訊く前に、
「さて」
先輩はハンチングの跡が少し付いた髪に手櫛を通して言う。記憶を慈しむ顔から、現実を見据えるクールでクレバーな表情へ変わる。その変遷は、先輩が幼く見えても確かに重ねてきた年輪の表現だと後輩くんは歩持った
「今朝、私は君に会うためにあの場所へ赴いた。君に目的が一つあって行ったと言ったよね。それは言うまでもなく、あの場所に今日行けば君に会えるだろうと思ったからだよ。そして君に訊きたいことがあったんだ、……寿羅くんのことではないよ、外目黒さんとユノちゃんのことだ」
水鳥川で先輩は、「目的が一つでも、成果が二つ以上あっていい」と言った。その上で、外目黒さんやその推定パートナーである汐崎くんと縁が出来たことを喜んでいた。
「君は猪熊駅で外目黒さんたちを見たとき、ちょっと様子がおかしかったのでね。あの日のうちに訊いておけばよかったのだけど、まあ君が今日寿羅くんに会うために水鳥川に行くことは判っていたからね。お察しだろうけど、『小熊寿羅』で検索して彼、いや彼女がボートレーサーであることを知って、ボートレース場に行ったら外目黒さんたちがいた。私は君に会って、君が外目黒さんとユノちゃんの何を見てあんなに驚いていたのかを訊くつもりでいたし、それが判れば彼女と縁が作れるなと思っていたのだよ、……だから、君を追いかけて今日、あの場所へ行ったらそこに彼女がいたというのは、まさしく一石二鳥。一つの目的を果たそうと行動したら二つの成果を挙げることが出来たと言ったのは、そういう意味さ」
後輩くんは寿羅くんの縁で自分がギャンブルをやっていることを先輩に知られて、評価を下げられたくないなと思った。だから彼女たちが波主守を持っていることに気付いてもリアクションしないよう勤めた。……努めたところで、先輩にはほぼ筒抜けだったようであるが、それはそれとして。
ただ、これは先輩に手間を掛けさせてしまったことを後輩くんがお詫びする必要はない。先輩も寿羅くんと後輩くんの関係を勘繰ってご機嫌ななめにならなければ、ラーメン屋さんを出たところで後輩くんが何に対して反応していたのかを訊けていたはずなので。
だから、どちらが悪いという話ではない。
「……先輩は、外目黒さんと縁を結んで……」
丁寧に、本当に丁寧に挽いた豆を、鼻の長いケトルでゆっくり抽出した末に、店長が二人の前へカップを置いた。先輩がもうとうに消していたタバコのにおいが残っていたテーブルの上に、……これは大袈裟な表現ではなく、蠱惑的な褐色の香りが花咲いた。豆がいいこともあるのだろうが、淹れかたに気持ちが行き届いていたからだろう。
先輩は一口呑んで、嘆きの吐息を唇から漏らした。
「……このお店の珈琲を呑んでしまうと、しばらくは缶コーヒーなんて飲む気がしなくなってしまうんだ……。しかし、呑みたくて来てしまう……」
後輩くんも、そっと一口……、目の奥にまばゆい光が当たったような、後頭部の内側がじぃんと熱くなるような、あるいは、視力がよくなったような。珈琲に「コク」とか「まろやかさ」とか、あるいは味として「苦味」「甘味」「酸味」があって、香りもいろいろあって……、ということを、後輩くんも知識としては備えていたつもりだったけれど、それら要素がごたまぜの集合体ではなく各個が確固として独立したものであったことを初めて知った。 芳醇とか馥郁といった香りの表現についても、この一口を含んだだけで理解したような気持ちになってしまう。
「……ん、話を戻そう。ええと……、そう、私が外目黒さんと縁を設けたいと思った理由についてだったね。極めて失礼に聴こえてしまう可能性もあるけれど、端的に言うと誰でもよかったんだ、東英大生であればね。無論、彼女は気の優しい子のようだし、見た目よりもずっと穏和な人のようだから、彼女であるに越したことはないけれど。……ねぇ後輩くん、彼女とユノちゃんが持っていたあれは、何というものなのかな。きっとボートに関係する何かなのだろうけど」
後輩くんは、波主守の話を先輩にした。寿羅くんから貰ったものを、自分が持っていることについても、もう包み隠さず。先輩はおへそを曲げないでいてくれた。いや、曲げないように努力をしてくれたと言うべきか。
先輩は深呼吸をひとつして、タバコを一本挟んだ。それからお手洗いに行って、戻ってきて座るなり、
「私ね、……大日氣弥益の連中に対して、何らかの痛い思いをさせてあげてもいいのではないかと思っているんだよね」
まっすぐな目をして、先輩はずいぶん過激な言葉を口にした。痛い思いをさせようとして、ある程度はさせたけれど、反撃に遭ってご自身のほうが痛い思いをする羽目になった人なのに、全くめげている気配がない。
「とはいえ、だ。我らが九隅大は確かに伝統の学舎ではあるが、一つの大学だけではね。あちらは大規模な宗教団体、政界にも信者がいると言われている。いや、言われているどころではないと思う。政策決定のプロセスに深く関わっているまである、まあこれは一旦脇に置くとしてね。……つまり、こういうことだよ。後輩くんの味わった苦痛は後輩くんの個人的なものだけれど、同様のケースは、ありとあらゆる場所で起きているということさ」
後輩くんは迂闊にも、先輩からそう言われるまで気付かなかった。大日氣弥益あるがゆえに、後輩くんに纏わりついた不幸な出来事は確かに、後輩くんの個人的なものではあろう。
けれど、後輩くん以外にも大日氣弥益で苦しんでいる人はいる。家族が入信したせいで苦しんでいる人、自身が執拗な勧誘に辟易している人、……先日の有華だって一つの例と挙げることも出来る。
「あちらは大規模に繋がっている。共通の電気信号を備えて、同じ指令によって動くことが出来る。だけれど、君のようにその害を被った人たちはどうだろう。それぞれ全く別な場所で、別な形で、そして何より孤立して苦しむことを強いられている。……しかし、君同様に苦しんでいる人はあちこちにいると思うんだ……、たとえば、九隅大と同じほど名門の、……と九隅大に籍を置く者として言わせていただくけれどもね、東英大学にだって同様のケースを見ることが出来ると思うんだ」
大日氣弥益の手のものたちは、大学サークルにも化ける。知識なく友人もいない学生を囲い込み、言葉巧みに信徒にせんとする。後輩くんは「日輪山ハイキング倶楽部」に引っ掛かってしまったが、学内で「日輪山」が唯一の大日氣弥益勧誘機関であったとも考えにくく、全容はいまだ、判然としない。
だからこそ、先輩は私学文系という括りにおいては双頭とされる東英大学に着目した。外目黒さん、という「縁」が出来たからだ。
「君と合流する前に、ちょっと話してみたんだけどね」
外目黒さんの大学には、どんなサークルがあるのかな。……ほら、うちの大学に珍妙なサークルがたくさんあることはご存知だろうと思うけど、クセの強いものばかり見てしまっていると、はて、真っ当な大学はどんな感じなのだろうと気になってね。
サークル……、んー、あんまそんなトガッてるのはないかなぁ。
ほう、となると、悪い連中も少ないということかな。……いや、うちの大学にはサークルを隠れ蓑によからぬ活動をする者が紛れていてね、一昨日の、私の後輩くんも、その被害に遭ったことがあるんだ。
あっ……、あー、いる、いるいる、そういうの。ウチも、あたしの彼氏が危うく引っかかりそうになったんですよ、ボランティアサークルでよさそうと思って説明会行ったら、なんか宗教の勧誘されて、慌てて逃げて来たって……。
「あのカメラの汐崎くんも、巻き込まれかけていた。恐らく探せばあっちこっちの大学で出てくるのだろうし、……残念ながらこれまでに相当数の被害が出ているのだろうね」
先輩は渋い顔になって言った。先輩が以前指摘してくれた通り、大学側からはオリエンテーションの際に配布する書類や掲示板などにおいて注意喚起してはいるのだけれど、それらがどこまで効果を持っているかというと、ああして「日輪山」が学生課から活動許可を得てしまっていたことからもかなり覚束ない。そもそも学生個々人への注意喚起が必要なのは、学生課のフィルタが機能していないことの現れでもあろう。
だから先輩は、異なる大学に所属する学生同士、危機感を共有し、後輩くんのように嫌な思いをする人が出ないようにしようと思ったのだ。たくさんの大学の中でも「私学文系」という括りにおいては最上位に位置する九隅文科大学と東英大学とがリンクしたなら、追随する大学も多く出てくるだろうし、学生に警戒感が蔓延すれば、大日氣弥益の人々にとっては痛手となる。
壮大な計画だ。そして、確かにかなりの効果はありそうである。後輩くんはこれまで自分以外の「被害者」の存在を想像すらして来なかった(なぜって、自分のことだけで精一杯だった)けど、冷静になって思いを巡らせれば、同じような苦しみを味わっている人があちこちの大学に(もちろん、本当は大学のみではないことはわかっているけれど)いるという事実は、痛ましくつらく、同時に心強い。
しかし、後輩くんは慎重である。
「でも、……でも先輩、あんまり話を大きくして、彼らから目を付けられたら……」
臆病である、と言い換えることも出来ようか。先輩は既に藤村菊池に目を付けられているし、これは恐ろしい想像だけれど、トミチューの有華に声を掛けて勧誘活動をさせていた「地区長のヒロ」あたりにも、人相などはもう割れてしまっているものと思われる。……なにせ、政界にまでその爪を食い込ませているのが大日氣弥益、巨大で得体の知れない組織である。私立探偵のアルバイトで、自負なさっているほど腕っ節の強いわけでもない先輩が、どんな目に遭わされることになるやら……。
恐ろしい以上に悲しいことは、後輩くんは今日ボートレース場で見た通り、先輩のことを守ってあげられるほど強くも速くもないし、体力もないのである。まだいまほど男女に目が向けられていなかったころの時代の創作物に、「男はタフでなければ生きていけない」という言葉があるが、タフで且つ優しくなければ、誰かに恋をする資格もないのかもしれない。
しかし、そうなると筋骨隆々たる人しか恋をしてはいけないということになってしまう。人間はそのころから多少は進んで、いまは「男は」という言いかたは誰も敢えてしないだろうし、一方で普遍的なこととして、優しくなければいけないことは事実。
「もちろん、私も痛い思いをするのは好きではないからね。あらゆる行動は、安全を確保してから為されるべきだ。具体的にはね、後輩くん、君と私の安全な場所というものを、私は用意できる、……まあ、それについては急ぐべきことではないかもしれないが」
先輩が言ったことの意味を、後輩くんは正しく測ることは出来なかった。ただ、先輩の目には悪戯っぽい光がちらちら瞬き、それが大人しい照明の喫茶店の中にあって、ナイフがひらひらしているみたいな煌きかたをしているのが少々気になったが。
「ひとまずは、年明け早々にでも、外目黒さんも汐崎くんに頼んであちらのサークルを回らせてもらおうと思っている。取材、あるいは調査だね。後輩くんにはいよいよ助手として働いてもらうことになりそうだ」
これまでのところはまだ、猪熊駅前の見回りに付いて行っているだけだから、ほとんど何の役にも立っていない。今後役に立てる可能性もあんまりないのだけれど、求められてお側にいる、という自覚だけは常に持っている後輩くんだった。
「では、後輩くん。……このお店は居心地がよくって、いつまででも長居ができてしまうけど、実のところ日曜日は午後四時で閉店なんだ。だからそろそろ出なければいけない。店長、……店長、店長ってば」
店長はまたこっくりこっくりと船を漕いでいた。この静かな喫茶店の居心地の良さは、お客さんのためのみならず店長さんのためにこそ整えられたものかも知れない。後輩くんが一人で入ることは多分ないだろう(ちらっと見えたメニューによれば、珈琲が一杯で八百円もする)けど、貴重な体験だった。
外に出ると、もうすっかり夕暮れの風情が空に漂い始めている。冬は時間が経つのはゆっくりだけど、夜が来るのが急過ぎて、いつもちょっと戸惑う。
「まだ夕方だけど、お腹が空いてきたのは私だけかな」
お昼が早かったし、もつ煮込みつくねハンバーグ丼はこってり味だけど盛りは普通だった。二十歳の後輩くんと、推定それよりちょっと上の先輩、つまりは若い胃袋はこの時間にもう既に、空虚さを感じ始めている。
先輩と並んで歩き始めた。先輩にはたぶんお馴染みの街、だけど後輩くんは初めて来た街。ビルが整列する通りと、艶やかな繁華街との隙間に、きゅっとまとまった感じに宅地がある。それも、やたらと高いマンションがあったかと思えばこじんまりとした一軒家が三つぐらい手を繋いで並んでいたり、思わずまじまじ見詰めたくなってしまうぐらい古い日本家屋があったり。時代の、時間の、マーブル模様が揃って冬の夕陽の描く長い影の中に沈んでいる。後輩くんは静まり返っているのに少し離れたところからはずっと高速道路を走る車の音が聴こえてくる、不思議な住宅街を先輩と一緒に歩いて、お喋りをする。
「君も知っての通り、私はなんでも食べるほうだ。必要に応じてね、……インスタントラーメンだって嫌いじゃない、今日のお昼の、もつ煮込みに大きなつくねを一緒に煮込んだのも美味しかったね。あと、一昨日の味噌ラーメンのお店はまた行きたいと思った。次は『メガ盛り炙りチャーシュー味噌バターラーメン』を頼むつもりだ」
小柄であるし、体重も間違いなく後輩くんより軽いのに、がっつりしたものをぺろりと食べられてしまうのだ。食べる量と体型とが比例していないのは、摂生しているからかそれとも体質か。いずれにしても羨ましい限りである。
「でもって私は、君も気付いているかも知れないけど、少々へそまがりなところもあってね。これまでの人生でクリスマスに鶏肉を食べたことがなかった」
「そうなんですか……?」
「物心ついてからは、たぶんね。だけど今日、その禁を破った」
昼の「もつ煮込みつくねハンバーグ丼」について言っているのだ。つくねも、確かに鶏肉と言えるかも知れないが。
「なのでもう大丈夫だ、来年にはまるまるとしたローストチキンだって食べられる。ただ、それでもね、私はへそまがりだから、焼き鳥とか照り焼きとか北京ダックとか、あるいは家で下拵えをして唐揚げを作るかも知れない」
そこまで拘るのはなかなかである。先輩をへそまがりだと思ったことはないけれど、曲がりやすいおへそであることはもう学習している。後輩くんは先輩にはいつでもご機嫌でいて欲しいと思っているので、自分のすることでおへそがぐるぐるにならないように、気を付けていかなければいけない。
先輩がいつでも、一緒にいてご機嫌でいられるような後輩くんであったなら、来年のクリスマスイヴにもこうして先輩の隣を歩くことが出来るかも知れないと思う。
途方もない願いだけど。
「『緑の兎』は、……了たちのお店は、今日は大変な賑わいなのだろうね。毎年クリスマスにはコスプレをして働くのだと言っていた。サンタクロースだとかトナカイだとか」
残念ながらパートナーに恵まれなかった人が集まって、でもそこで出会いがあることも期待されているだろうし、中寉さんや蒔田さんの顔を見ることが出来るなら、それだけでなかなかな一日であると言えそうだ。
「賑やかなのは、悪いことではない、人間というのは元気でいなければいけない。だけど私は、大勢いる中に放り込まれるのはあまり得意ではない」
意外だった。先輩は大人で、社交性に優れた人だと後輩くんは思っていたので。
「だから、へそまがりなのかな、人があまりいないところに選んで足を運びたがる。これからいくお店もそう。今日など空いていると思ってね、さっきメールで問い合わせたら、いつ来てもいいと言われたよ。むしろ、閑古鳥がぴいぴい鳴いているから早く来てほしいと」
住宅街の、細くて急な上り坂を超えたら、さっき降りたのとは違う地下鉄の駅の入り口が見えた。すっかり暮れ落ちた街はクリスマスの華やかさが一層引き立ち、いままで住宅街の薄暗くて狭い通りを右へ左へ辿ってきた後輩くんと先輩は、穴から顔を出したばかりのもぐらみたいに目をしばたかせる。右を見ても左を見てもクリスマス、咳をしてもくしゃみをしても、……そしてこれは本当にもう信じ難いことなのだが、通りを独りで歩いている人が一人もいないという異常事態、後輩くんは上京してはじめてのクリスマスであるから、こんな世界観は初めてである。
後輩くんの隣には、先輩がいる。
並んで歩いている二人は、何と見られるだろう? 何って、本当は先輩と後輩という間柄なのだけど。可愛らしい先輩と、平々凡々な後輩くんは、誰かの目に見られたときに、「何か」であることが出来ているだろうか? そんな願いを抱くには、後輩くんは少しよれたコートに、毛玉こそ付いていないけど来年のこの季節にはもう着ていない予定のセーター。先輩の隣を歩いていていいのかどうか、後輩くんは急に自信がなくなってきてしまった。とは言え後輩くんが部屋のおしいれをどれだけひっくり返したとしても、今日の先輩の隣に立つに相応しい服は一着もない。
せめて心ぐらいはと思うけれど……。
「ここだよ」
先輩が足を止めたのは、眩いばかりに輝きを放つビル。後輩くんでも耳にしたことがあるブランドの、服屋さんが一階に入っている。すごい。空気を吸うだけでお金を取られそうだ。
先輩は何の躊躇いもすたすたとビルに近付いていく。
「どうしたの。おいで、後輩くん」
やっぱり僕には先輩の隣を歩く資格がないんじゃないか……、これまで以上に強く、後輩くんはそんな気持ちを抱いたのだった。