人は見かけによらない
ボートレースに限らずギャンブルなんてものは当たったり外れたり、そして胴元が絶対に損をしないように出来ているのであって、買う側は一時的に浮き上がることはあっても、最終的には絶対にテラ銭のぶんだけマイナスになる。ということはつまり、運よく勝った瞬間が訪れた時点でやめること、そして二度と手を出さないこと……、これこそがギャンブルの必勝法ということになるが、先輩ほど聡明でなくても「要は無理」ということは判るはずだ。
というわけで、外目黒さんと先輩のお財布に想定外にも諭吉さんが三枚飛び込んでくることとなった直後の五レースは後輩くんとユノちゃんの予想がかすりもせずに外れて──そういうものだ、と慣れている外目黒さんは節度を持った外しかたをし、先輩は分かりやすく調子に乗って投資額を増やし、痛い目を見たことで冷静さを取り戻した。先輩は意外と熱くなってしまう部分もあるようだ──いよいよ後輩くん的にはここへ来た目的の残り半分、すなわち寿羅くんの今日二回目の出走である六レースがやって来た。外目黒さんとユノちゃんは持筑選手の二走目が最終十二レースにあるので、それまで帰らないそうである。
寿羅くんは、後輩くんに気付くだろうか。
先輩とユノちゃん、外目黒さんまで一緒になって、「手のひとつぐらい振ったらどうだね」「声も出さなきゃダメだよ」「なんなら踊るとか跳ねるとかして目立ったらいいんじゃないすかね」と自由に意見を述べる。やきもち焼きの先輩までそう煽るのだから、後輩くんとしても困惑しながら、そうしないわけにはいかなくなってしまった。
ので、
「……おーい……」
と寿羅くんに手を振る。大きく振るのは恥ずかしいので、柵の向こうにだらんと下げた手をぴらぴら動かすだけであるし、声はエンジン音に掻き消されてとても届くまい。
「気付いていたね」
「うん、気付いてた、見てたもん」
「見てましたねー」
そうかなぁ。
目の前を通り過ぎる一瞬だけのことであるし、レース前で集中しているところであろうし、余計なことをして心を掻き乱すような真似は慎むべきであるような気もしたが……。
しかし、ユノちゃんはこう言う。
「ぜったい小熊寿羅は後輩くんに気付いてたし、めちゃめちゃやる気出るよ。もう、これはマジで、ぜったいにね。選手ってそういうのすっごい見てるよ。だってほら、悪いことはいっぱい言われるわけじゃん」
最近ではマナーの悪いお客さんは減ってきているだろうし、例のウイルス禍以降、公共の場で大声を出すことじたい咎められがちである。それでも、声が出せないならば別なやりかた──特にSNSなど──でヤジという言葉が可愛いほどの罵声を飛ばす人はむしろ増えている。
顔の見えないところから向けられる無数の悪口に比べれば、わざわざやって来て、頑張れよと、……まあその声が具体的には届かないとしてもエールを送る人がいるというのは、選手にとって無形の力になる、とユノちゃんは言いたいのだろう。持筑選手だって「離れて暮らす娘のために」と気合いを入れ、不振を脱却することに成功した。ましてまだファンの少ない寿羅くんにとって、先輩である後輩くんが見に来てくれたことはどれほど大きいだろう、と。
頷けないわけでもない。いや、寧ろユノちゃんの言葉の通りであったらいいなと後輩くんも思う。アスリートとファンの、理想的な関係であろう。無論、無邪気な綺麗事である。寿羅くんが実力不足の駆け出しであるという厳然たる事実を無視することは出来ない。ユノちゃんもその辺りはリアリストである。
「いちから、にーさんの、にーさんごー、……ろく」
一着一番、二着に二番三番、三着には二番三番に加えて五番。最後に一応言い添えてくれたのは、彼女の優しさだろう。後輩くんも、寿羅くんが出るレースでなければそういう予想をしていたと思う。四番がそこそこ人気をしているが、ここでは四番よりも五番のほうが良さそうだという点も同意である。
「やっぱ小熊さんはしんどそ?」
外目黒さんが三階スタンドの青年を振り返る。撮れたか、と身振りで訊いてくれて、うん、と青年が大きく頷く。後輩くんとしては恐縮するほかない。
「勝負ごとだからね、百パー確実なことなんて一個もないよ」
ユノちゃんは女児ながら達観したような口調で言う。
「他の艇がF切るかも知れない」
F、とはフライングのこと。その時点で競走から除外される。
「転覆とか落水とかもあるかもしんないし、いきなり水の中から魚が飛んできて選手にぶつかることだってあるかもしんないし。実際あったし。だから、どうなるかわかんないよ。でも、他の選手には後輩くんみたいに応援しに来た人いないみたいだったけど、小熊寿羅にはいるんだもん」
彼女が力強くそう言う背景には、自身の、あの甲高くて力一杯の声援が持筑選手を支えているという自負もあるかもしれない。
しかし、それだけではない。
「……若手のさ、新人の、女子レーサーだって舟券になれたらカッコいいなって思った」
舟券になる、というのは、三着に入るという意味だ。うっかりものの後輩くんが言ったことをきっかけに、ユノちゃん自身が「レーサーになる」ということをぼんやり考え始めてしまったようだ。小熊寿羅の辿っていま至る場所に、やがて自分が居る……、ということを考えたとき、父に向かう憧憬とは違う、現実的かつ等身大の投影対象として、寿羅くんはいるのだ。
先輩は「ふむ……」と腕組みをして、……数秒。
「えっ」
と後輩くんに振り向いた。本日三回目の、先輩のイノセントな表情である。
「私視力だけじゃなくて聴力も問題が生じているのかな、……後輩くん、え、あの、いま、ユノちゃんは何と言ったのかな。小熊寿羅くんは、君の後輩というのは……」
えっ、と後輩くんのほうが訊き返してしまった。なんで、えっ、と。
「は、はい、あの……、そうですよ、小熊寿羅は女子です。将棋部で、女子サッカー部を兼部して……、えっ」
先輩は呆然と、もうとっくのとうに寿羅くんが引き上げた水面に顔を向ける。
「……女の子、だったのか……!」
「あれも女子ですよ」
外目黒さんがスタートの練習に出てきた五人の選手のうち、一番奥に陣取った選手を指差す。帆柱ヒロミ選手はベテランで、男子と伍して熱戦を繰り広げてきた烈女である。
「カッコいいんすよヒロミさん、あたしの推しの一人」
ボートレーサーに女子がいることは先輩もご存知だったはずである。男子オンリー・女子オンリーで選手を集めて開催を行うこともあれば、男女混合で行うこともあって、今回は混合戦なのだ。
先輩はまだしばらく水面に目をやって、理解に時間を費やした末に天を仰いで嘆息した。
「……私の観察眼、大丈夫かな……」
寿羅くんは昔から男の子みたいに髪を短くしていた。話しかたも体育会系のさばさばしたものであった。当時から「おとこんな」なんて酷いあだ名で呼ばれては、ジャンピングニードロップで報復する、なんてことをやっていたという噂を聞いたこともある。後輩くんも徒に自分の後輩の対外評価を下げるべきではないという判断から、そこまでのエピソードを先輩に語ることはしなかったし、ヘルメットとカポックに包まれてしまえば性徴なんてわかるまいから、先輩が勘違いをしてしまったとして、少しも不思議はないのだ。
「ボートレースは男子も女子も対等なんですよ。女子選手がトップになったこともありますし!」
外目黒さんが解説を加える。だからといって寿羅くんがこれからのレースで奇跡のような走りを見せるとも思わないけれど、後輩くんも、経験を積めば寿羅くんもきっと偉くなれるんだという希望を抱くことは出来る。
舟券の発売締め切りまで五分を切った。
舟券は、受験のときみたいにマークシートを鉛筆で塗りつぶして購入する。外目黒さんはユノちゃんが言った通りの舟券を慣れた手つきで塗り潰していく。
後輩くんは、もう舟券は買わないつもりだった。予想はユノちゃんと同じ、一番から、二番三番、そして五番。それで問題なく当たるだろうと思ったし、当たったとしてもそれほど大きな額にはならない。後輩くんのお財布の事情でそんな言葉を用いることはまずないのだが、はした金を手にして空虚な気持ちになるぐらいなら、寿羅くんのこのレースでの無事故完走と今後の出世を祈って見届けるだけでいいと思っていた。寿羅くん的にも、勝てないことで自身の先輩のお財布に負担を掛けてしまうのは避けたいと思うはずであるし。
しかし、先輩は舟券を買うつもりなのだ。
「……後輩くん、ちょっといいかな。書きかたを教えて欲しい」
先輩の助手であり、先輩のことが大好きな後輩くんであるから、先輩に頼まれればなんでも素直にお手伝いをする。しかるに、先輩に「こういう舟券を買いたいのだが」と言われたときは、……このときばかりは、先輩は頭のいい人なのですからそんな無茶はなさるべきではありませんという意味の言葉が、ふるさとの赤州弁で迸りそうになった。赤州弁は普通に喋っていても喧嘩を吹っ掛けているみたいに聞こえることで有名である。
十二月、昼過ぎの空は相変わらず雲一つなく、水面上スタートラインに対して強く吹いていた向かい風も止まった。ボートレースにおいて向かい風は助走距離を取って仕掛ける外側コースの選手にとっては、高速からターンする際にグリップが効いて有利であると言われていて、後輩くんとユノちゃんが先程四レースで大きな的中を果たした際には、当然その風向と風速も計算に入っていた。つまり今度のレースで大外六号艇で出走する小熊寿羅選手にとっては有利な材料が消えてしまったことを意味する。
ファンファーレをバックに、小熊寿羅選手含む六人の選手が水面上に姿を現した。レース場に訪れたファン、あるいはインターネットで舟券を買い、画面を見つめているファンの興味は、一号艇から五号艇へグラデーションの模様。これがデビューからちょうど百走目のレースであり、過去九十九回走って一度も一着がない新人女子レーサーは、まだ買うべきではない選手と見なされている。前半レースもスタートのタイミングこそ合っていたが、最初のターンマークで内を突くのか外を回すのか迷いの一瞬を挟んでしまったせいで展開をなくし、六着で終わっている。
なお、後輩くんは参照していないが、専門紙によるとモーターは悪くない、特に直線の伸びは前操者の手にあったころよりパワーアップしているということだ。要するに、あとは乗り手の問題である……、ということが婉曲に言われているのであった。
小熊寿羅選手は、……肝心の選手はと言うと、先程のレースにおいては待機行動中になにかキョロキョロとして、首を傾げるような素振りもあり、集中力に欠いている様子であったが、この六レースでは終始俯き加減で、時折大きく深呼吸をし、背中を膨らませては萎ませる。高いレベルで集中していることが伺えた。淡い色の空から降り注ぐ陽射しを青と黒のヘルメットに受けて顔をあげると、おもむろに助走距離を取るべくボートを後方へ下げていく。その目が見据えるのは、大時計。
「後輩くん。……後輩くん」
水面際の柵にかじりつく後輩くんのコートの背中を、先輩がしっかり掴んでいる。そうしておかないと後輩くんが身を乗り出してそのまま水面に飛び込んでしまうように見えるのかもしれない。本日の気温は九度、水温は十四度。水の中のほうが多少は温かいということにはなるけれど。
後輩くんはまるで薄い氷に包まれたマグマだった。ちょっとでもひび割れたらたちまち熱いものが噴き出してしまう。
だって、後輩くんは恐れていた。自分の存在しているがゆえに先輩が、大好きな大好きな先輩が、損をするようなことがあっては。後輩くんは後輩として、そして助手として、先輩の役に立つためにこそ存在しなければいけないのである。
「君がそんなに思い詰める必要はないんだよ」
先輩はあくまで温和な声で言ってくれる。
「ただ、了がかつて、とんでもない万舟券を当てたことがあったことを思い出したんだ。かれこれ二年前かな、上之原さんの影響でボートに手を出したあの子はすっかりハマってしまってね、例のウイルスのワクチンで熱を出して朦朧としているときさえも舟券を買っていたそうなんだ」
中寉さんもボートをやる人だとは知らなかった。王子様だし、ゲイバーで働いていて、あとバンドのボーカルもやっている、学生以外に色々やり過ぎな人である。
「そのとき了は、……まあ普段から何を考えているのか分かりづらい子ではあるけどね、熱のせいで輪をかけて、彼自身さえも自分が何をやっているのか把握できなくなってしまって……」
中寉さんはスマートフォンで舟券を買っているのだそうだ。ボート用の口座というものを作って、毎月のおこづかいをそこに入れて遊んでいる。ワクチンの副反応で数日寝込んでからの復活の日がお給料日であったものだから、銀行に行ってその月のぶんのおこづかいをボート口座に預け入れたのだけど、残高を見て、ATMの前で腰を抜かしたのだそうだ。身に覚えのない数字が、口座を満々とさせていたので。
「熱があるときにボートレースなんてするものではないという話だよね。あの子は万舟券を当てた。百円ずつ買って当てただけでもハッピーなのに、うっかり千円ずつ買ってしまっていたところが当たったというんだからね。七百倍だったそうだよ」
つまり、七十万円。あの飄々とした中寉さんが腰を抜かすところなんて想像できないけれど、額が額である。後輩くんなら卒倒するかもしれない。
さすがに先輩は千円ずつ賭けるなんて真似はしなかった。けれど。
スタートまで、まもなく十五秒を切る。後輩くんと先輩の後方で、外目黒さんとユノちゃんはひとごとながら固唾を呑んで見守っているところである。
「ほら、後輩くん」
先輩が後輩くんの氷に優しく指を当てて、ヒビを走らせる。
「じゅっ……」
たちまち噴き出す、マグマのごとき感情の奔流。
「ッらぁああああああああ!」
人は見掛けによらない、最近よく後輩くんはそう思う。それが、見掛けからは何一つ判らない人のことを好きになってしまったことと関係があるのかないのか、判然としないけれど、自分はこの凡庸な見た目の通りの人間であると後輩くんは定義していた。
外目黒さんもユノちゃんも三階スタンドでカメラを構えてくれているはずの青年──汐崎くんというのだそうだ──もびっくりしているはずだし、そもそも先輩も驚いているのではなかろうか。もっと言えば、激しい音と風と水飛沫をつんざいて届く後輩くんの声を聴いて、寿羅くんだってびっくりしているのではあるまいか。
「行けっ、行けっ、行くがじゃッ、せんなかことぁすらんでよが寿羅ぁ!」
赤州弁である。標準後に直せば「余計なことはお考えにならずともよろしいですよ」ぐらいの意味であるが、赤州弁で言うとまるで恫喝。タマの一個や二個なら躊躇いなくお取りいたしますよ、ぐらいの勢いで聴こえてしまう。後輩くんをはじめ赤州の人たちは自分たちの郷里の言葉があまり綺麗ではないことに自覚的だから、外で喋るときも声のヴォリュームはあまり大きくはしないし、同郷であると知っても県境を越えたら標準語で喋るようにするのであるが、いまの後輩くんはなりふり構っている余裕はないのだった。
一つ内の五号艇に対して四分の三艇身ほどリードして、しかも全速でスタートを決めた寿羅くんは、迷わず内方向へ切れ込んでいく。五号艇の鼻面を叩き、四号艇の行く先も押し潰し、三号艇に引っ掛かる。彼女は後輩くんの声に叩かれたお尻を艇の上で高くして、上体をほとんど艇の外へ出すように傾けることで遠心力に抗い、三号艇を先に行かせ、空いた内へ、ブイのすぐ際を回る二号艇と、その外を行く一号艇の、間を狙う。
「あっ、上手い……」
ユノちゃんが思わずといった感じに声を発した。前半のレースでの判断の遅さは嘘のように、積極果敢な仕掛け。光の強く降り注ぐバックストレッチに出たとき、寿羅くんは先に回った一号艇から二艇身離されてはいるものの、二番手に躍り出ている。
先輩が買ったのは、寿羅くんが一着から三着までに入ればあとはどんな組み合わせでも当たる舟券である。
暴挙、と言い換えてもいいのであるが、六十通り、百円ずつでも六千円。組み合わせの中には、中寉さんが得たような、十万円以上の払い戻しを受けられるものが含まれている。
当たりさえすれば、という話である。だから暴挙という表現をしたのだが、現状寿羅くんは、三着どころか二着もありうる位置を航走している。
とはいえ、だ。
寿羅くんのすぐ後ろには二号艇と三号艇が迫っている。一周目二つ目のターンを終えてホームストレッチに戻ってきたところではまだ二番手を守っているが、先程までより差が詰まって見えるのは気のせいではない。
ボートレースは逆転の起こりにくい競技ではある。しかし、それは走っている選手の技量が等しければという話であって、先を行く選手の腕を後続の選手の腕が大きく上回っていればその限りにあらず。特に一周二回のターンの巧拙はスタート直後に劣らぬほど着順に影響を及ぼす。
二周目に入って、最初のターン。
外から二号艇にプレッシャーを掛けられた寿羅くんが、僅かにそれに反応してしまった。二号艇に抜かされまいと外へ張って回ろうとしたものだから、ブイ際ぽっかり空いたところを三号艇に差されてしまう。向こう正面に入って三番手、すぐ後ろから二号艇が迫り、虎視眈々逆転浮上を狙っている。
現実は残酷だ。
ボートレース水鳥川の水面際からスタンドに満ちていた波乱の結果を恐れる空気が、徐々に安堵めいたものへ変わっていく。無理もない。六号艇小熊寿羅を絡めた舟券を買っている人が、先輩のほかどれほどいるものか。そうそう、これでいい、こうじゃなきゃね。後輩くんのお腹の底から力が抜け、声を出す気力が萎えそうになる。
が。
「後輩くん」
先輩の手のひらが、背中にある。
「もっとしっかり力を入れて応援してくれたまえ。負けてしまってはつまらない」
こんなの、不条理だ。ボートレースに限ったことではなく、ギャンブルは無理のない範囲で、そして自己責任で。いや、後輩くんより大きなお財布を持つ先輩にとっては、六千円なんて大したことはないのかもしれないけれど。
「寿羅ぁあなんがしゆうがこんじだらくもんがぁあ!」
なにをしていらっしゃるのですか、この××××は、というぐらいの意味である。じだらくもん、は漢字で書けば「自堕落者」になるだろうか、しかし意味としてはもう少し苛烈であって、赤州では冗談でもそんなことを人に向けて言ってはいけませんよ、という教育を幼稚園のうちに受けるのだ。
二周目二つ目のターン手前、寿羅くんの外を走っていた二号艇が意表を突いて内に進路を切り替え、小回りを狙う。外を回られることに意識が傾いていれば先ほどのように膨らんでしまうところであるが、寿羅くんは瞬時に反応してスロットルを握り込み、後輩くんの目の前を走り去ってラスト一周回に入るときには一艇身半のリードを設けていた。先頭は一号艇、二番手を走るは三号艇、その後方、三周目一つ目のターンではターンマークを外さぬよう、寿羅くんが丁寧に回る。
その外を、先ほどまでとは一変、自身の艇の描く引き波に寿羅くんを沈めんと二号艇が襲いかかる。
「うわあ……」
ユノちゃんが呟く声が聴こえた。
「ツケマイえっぐ……」
「ツケマイとは」
先輩がユノちゃんに振り返って訊いた。
「いまみたいに、こう、外から押さえ付けて回んの。外のほうがスピード乗ってるから、内の艇がスピード落としてるときにやられちゃうと……」
ユノちゃんが言葉を失ったのは、絶望的な説明を繋げていくことに少女なりの抵抗を覚えたからではなかった。
後輩くんも声を失う。
完全に決まったかと思われたツケマイ、本来ならば大きく後退することを余儀なくされるはずの寿羅くんの艇は、ターンの出口、バックストレッチに入った時点では綺麗に二号艇と並走している。
「うへぇ、マジかよぉ……、あんなの出来る新人初めて見た……」
ユノちゃんが両手を挙げて、だらんと下ろす。場内のあちこちからもどよめきのようなものが起きている。ツケマイを仕掛けられてなお、それを堪え、仕掛けてきた艇以上の勢いで直線で足を伸ばしていく。こうなると、外で僅かに膨らんだ二号艇に比べて伸び足のよさが目立つ。
残すターンはあと一つ。
場内は寿羅くんに対してのものではない、なお猛追の手を緩めない二号艇への声援のほうがずっと大きな渦となって巻き起こっている。一番も三番もよく売れていて、続いて人気しているのが二号艇であった。
人々の期待を裏切って、寿羅くんは走っている。
「……行けッ……、行けッ、行けっ、寿羅っ、行け、行けっ行けっ行けぇっ」
わずかに後輩くんと、後輩くんの思いに託した先輩、それから義理で六号艇を買い目に入れたユノちゃんと外目黒さんだけが、伏兵の躍進を痛快な思いで心底から楽しむことが出来るのだった。
最終ターンマーク、再び外へ、スロットルを一杯に握って競り掛けてきた二号艇を牽制するように、寿羅くんは艇のお尻を外へ回し加減にしながらターンする。二号艇は弾かれるように大きく外へ流れた。寿羅くんは新人のそれとは思えない安定感のある乗艇姿勢で直線に向き直る。まず先頭で一号艇が、続いて三号艇が。
その後方、大きく水を開けられはしたものの、デビュー以来これがまだ三本目の三着で、寿羅くんがゴールした。ボートレースではレース中にオッズの案内がされることも少なくないが、この通り接戦・混戦の場合はゴールしてからそのアナウンスがされる。
一番三番六番は百九十一倍。外目黒さんとユノちゃんが抱き合って踊って喜んでいる。
後輩くんはもう声が出ない。普段大きな声を出すことなんて滅多にないものだから、喉のスタミナが切れてしまったのであろう。
三着でゴールした寿羅くんが引き上げていく。先輩後輩の仲であろうと、お金を賭けている側と賭けられている側、柵の向こうとこちら側で、おいそれとコミュニケーションを図れるものでもない。持筑選手とユノちゃんも父と娘ではあるが、持筑選手が手を振り返すことはしない、というか出来ない。
しかし後輩くんは、寿羅くんがヘルメットのシールドを上げて、僅かにこちらへ顔を向けて小さくぺこりと頭を下げるところを見た。引いてたんではないか……、後輩くんはいまさらのように心配になってしまった。寿羅くんの知っている後輩くんはあんなめちゃめちゃな大声を出すような人ではないので、……人は見掛けに寄らんちゃな、と思われてしまったのではあるまいか……。
ボートレースでは、勝った選手も負けた選手も「すみませんでした」という挨拶をするのだと、何かの記事で読んだことがあった。ひとたび事故が起きれば命の危険さえ伴う競技であるから、そうした穏やかな言葉のやりとりをするのであろう。勝った選手もキャッキャとはしゃぐことはなく、あくまで謙虚に、共にレースを作った選手への労いや感謝の気持ちを忘れずないということなのだろう。
寿羅くんの百回目の「すみませんでした」は、これまでのどの挨拶よりも充実感の伴うものであったはずだ。
「後輩くん、口を開けて」
先輩に言われて振り向くと、ひょいと口の中へ甘味が差し込まれる。
濃厚なミルクのキャンディだ。思いっきり甘やかされているような感覚だった。