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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは判らない。
16/30

クセになりそう

 先輩は、優秀な人である。これは後輩くんの、なんとなくの感覚の話でしかないけれど、なんというか人間としてのレベルが後輩くんより二つか三つか上であるかに思われる。

 ゆえにこそ、先輩が見た目だけなら明らかに自分より歳下であっても、後輩くんは先輩のことを尊敬してやまないのである。

 明晰な頭脳、鋭い洞察眼。それらが探偵になってから研き込まれたものとは思えないのだ。先輩はきっと、もっとずっと若くて幼いころ──いまより若くて幼い先輩ってどんなだったのか、と想像すると途方もない気持ちになってしまいそうになるが──からずっと、これぐらいだったんじゃないだろうか。

 後輩くんの前を、先輩はひょいひょいと慣れた足取りで歩いた。

「君はいつ来たの? ……そう、では私のほうが二十分ほど早かったのだね。どこかで君と鉢合わせるだろうかと散歩をして、この場所のだいたいの構造を把握している途中で、外目黒さんたちを見付けたんだ。外目黒さんはとても目立つ、……色合い的に、こういう場所では特にね」

 ボートレース場は、行ったことのない人にも想像してもらいやすいと思うけれど、どこも横に広い。激戦の舞台である横長の水面の片岸に、スタンドや発券施設、更には飲食店や売店なども備えた建物を造っているのだから当然のことではある。レース場水面は自然の河川を用いたものから湖や港湾の一部分、あるいはプールというケースもあるけれど、おおむね片岸に施設をまとめた建物、という構造である。隅から隅まで把握しようと思ったら結構な距離を歩くことになりがちなので、何度か通ううちに多くの人が気に入りの場所を見付けて、そこに陣取るようになる。逆にあっちこっち歩き回っている人がいるとすれば、それはあまり来慣れていない人ということになる。

 まさに今日がボートレース場デビューとなる先輩がもの珍しさで歩き回るのも当然、しかし何かに付けてぼんやりしている後輩くんがいまだに全体像を飲み込めていないのに対して、先輩はもうすっかりどこに何があるのか把握しきっているようで、足取りには全く迷いがない。

 歩きながら先輩は言う。後輩くんがすぐに先輩を探しに行かなかったことを、咎めもしないで。

「それにしても驚いたよ。……ユノちゃん、彼女はボートレースの天才かもしれない。あの年齢で、……まだ小学六年生だと言うんだけどね、ボートレースが大好きで、大好きなものだから相馬眼ならぬ『相機眼』とでも呼ぶべきものが養われているのだろう、一レースも二レースも、いとも容易く舟券を当ててしまったんだ」

 あんな小さな女の子が舟券師なのか。いや、彼女自身が舟券を買うわけではあるまい。買っているのは外目黒さんだろう。ボートレース場にユノちゃんみたいなこどもだけで来るわけには行かないし、舟券も自力では買えない、一方で外目黒さんはきっと独力で舟券を当てるほどのスキルはないのだろう。だからユノちゃんをここへ連れてきて、彼女に予想をさせて、舟券を当てる。ユノちゃんはボートレースが好きなので見ているだけで楽しいし、自身の予想に基づいた舟券が当たったなら、きっと外目黒お姉ちゃんがごほうびをくれるのだ。あんまり健全ではない気もするけれど、従姉妹同士うまくやっているのだろう。

「……どうして、その、あの女の子はボートレースがそんなに好きになったんでしょう」

 先輩が触れて来ないので、後輩くんも取っ掛かりがない。先輩と将棋を指しているときと似た感覚に後輩くんは陥りそうになる。先輩の陣形が堅くて、向き合っているとどこから手を着けたらいいのか判らない気持ちにさせられてしまうことが後輩くんはときどきある。不用意に攻めようものなら待ってましたとばかりに手痛い反撃を食らうので、寧ろ後輩くんも先輩が仕掛けて来るのを待っているほうが得策。

 この場合は、あくまで先輩のペースに合わせるのがきっと最善。

「それについては、私が答えてしまうわけにはいかないんだ。……とはいえ、本人から訊くより先に君自身の力で答えに辿り着くことだって可能だろう。何せ、後輩くん、君は私の助手になったのだ。日々に頭の体操をして、ロジカルシンキングを習慣付けておくことが大事だよ」

 まだ「助手」としてしたことと言えば、駅前の見回りの手伝いだけである。そもそも先輩は優秀なので後輩くんみたいなうっかりものでぼんやりした「助手」なんていないほうが仕事も捗るのではあるまいか。

 はて。ユノちゃんがボートレース得意な理由。いきなりヒントを求めてしまいたくなったが、きっと先輩はそんなに甘くない。

「妥当な、……理由なんでしょうね? きっと。そんなにすっとんきょうではない……」

 先輩は頷く。

「さっきのレースで彼女はとても大きな声を上げていたのだけど、君もどこかのスタンドでそれを聴いていただろうか」

 聴こえていた。もちづきいぃいいいって、でっかい声で。そうだ、彼女は持筑選手の大ファンなのだ。まだ幼い女の子なのに珍しいなと思ったけれど。

「君がボートレースを始めたのはいつ?」

「寿羅くんがレーサーになってからです。だから、半年とちょっとですね、でも……」

「それほど詳しくはない、と」

「……来るのは、月一度あるかないかぐらいでしたし、父が来てからは一度も来てませんでした」

「ん、そうか。ではあんまりレーサーのエピソードとかは詳しくないのかな。いや、私なんて全く知識ゼロで来たのだけど、外目黒さんから聴かされてわりと有名な話なのだと思ってしまったのだが」

 持筑選手のエピソード。

 元いたフロアから一つ降りて、フードコートが前方に見える通路を進んでいるときだった。後輩くんははたと立ち止まって、……ごく素直に、驚きの表情を浮かべてしまったから、前方から歩いてくるおじさんも目を丸くしてこっちを見ていた。

「まさか、ユノちゃんは持筑選手の……?」

 先輩は直接法では答えなかった。

「答えは、本人から直接聴くのがいいだろうね。そろそろ次のレースの舟券の締め切り時刻だ。好きこそものの上手なれという、私の好きな言葉があるけれど、それを体現するところを一緒に見ようじゃないか」

 ちょうど、フードコートから串に刺さった赤モツやらスチロール皿に乗ったアジフライだとかを両手に持っている。外目黒さんもユノちゃんも、もちろん先輩から後輩くんが来ていることは知らされていたのだろう、そしてユノちゃんは推しの選手が勝つところを見ることが出来て、外目黒さんはそのおかげで舟券が当たって、どちらも上機嫌であろう、にこにこの笑顔で後輩くんに挨拶をしてくれた。

「やあどーもこんにちは後輩さん!」

「こんちは」

 これは多少なりとも後輩くんには救いだった。頭の中で考えていることはどうあれ、女子二人の目から見てさほどそれが滲み出てはいないということなのだろう。

「ユノちゃんは次のレースの舟券は買ったの?」

 先輩の訊く声と顔は、優しいお兄ちゃんのそれだ。先輩の性別って、わりと相対化されるのではないかという気がした。これなら外目黒さんもユノちゃんも、先輩のことを「大学生のお兄さん」と思うのではないか。

「次はケン」

「けん?」

 見、と書く。堅い結果が目に見えていて、舟券を当てたとしても旨みがない……、そんなレースは舟券を買わずにただ見るだけ。

「私など素人だから堅くても当たるなら買えばいいと思うのだけど。それこそ、他の舟券に分散させるのではなくて一点集中するとか」

 先輩は素朴な感想を口にする。後輩くんもまあ素人の域は出ないのだが、

「どんなに堅そうに見えても、外れるかもしれないでしょ? 転覆とか、落水とか、ボートはそういうことがあるから『絶対大丈夫』なんてレースはないから」

 ということは、ユノちゃんに言われるまでもなく判る。つまり、払うリスクに対してのリターンが大きいので割りに合わない。……大金を一度に費やすことができるほど大きな財布を持っているなら別の話だろうけど。

 なるほど、と先輩は呟く。後輩くんは、菓子パン一個でお腹が膨れるはずもなく、ユノちゃんと外目黒さんが女の子にしては旺盛な食欲に基づいて食べる揚げものの油の匂い、サックサクの咀嚼音に、お腹が鳴りそうである。まさか二人に「一口分けてください」なんてことを言えるはずもない……。

「ああ、後輩くん。悪いけどこれで適当に見繕って買って来てくれないかな」

 先輩がぺろんと五千円札を差し出した。宿木橋でもそうだったけど、先輩は割と平気で五千円札を差し出す人だ。

「え」

「二人が食べているのを見ていたら私もお腹が空いて来てしまった。そうだな、揚げものと、他に名物っぽいものがあったらそれも頼むよ。ああ、もちろん君のぶんもね、朝ごはんまだだろう?」

 ついさっき、菓子パンをもそもそしているところを見ていたのに、先輩はそんなことを言う。外目黒さんとユノちゃんの手前、後輩くんに恥をかかせまいとしてくれているのだ。

「で、でも、あの」

 お金、完全に、あの、おごり……。

「忘れたわけではないだろうね、後輩くん。君は私の助手であり、私は君の雇い主なんだ。君の栄養状態を管理するのは私の仕事の中に含まれているんだよ」

 ユノちゃんと外目黒さんが顔を見合わせて「パシリじゃん」「パシリだよねぇ」なんて言い合っている。

「パシリではない! ん、じゃあ、わかった、私も一緒に買いに行こう。それなら文句なかろうねお嬢さまがた」

 先輩が唇を尖らせて反論し、後輩くんを促して立ち上がる。こんなに愛おしい人が存在する世界なので、後輩くんはここ二ヶ月ほどしばしば、この世はわりと地獄なんだなと思うことがあっても、でも、この世界で生きて行きたいと願わずにはいられないのだ。

 二人ぶんの「朝ごはん」を買って戻ると、ユノちゃんが買わないと結論づけたレースは案の定いちばん堅いところで決まっていた。水面際のベンチで先輩と名物の「もつ煮込みつくねハンバーグ丼」の濃厚なあぶらの旨みと軟骨入りつくねの楽しい歯触りに舌鼓を打っているうちに、続くレースの展示が始まった。

 モーターは、抜けていい、というほどではないが、四号艇がパワフルだ。一号艇は腕のいい選手だが非力に映る。それでも有利なコースだし腕でなんとかするだろうと思われているようで、人気を集めているようだ。

 ユノちゃんは真剣な目で水面を見てからしばし、宙に指をひらひらさせる。少女なりに展開を予想しているのだろう。

「後輩くんだったらどうする?」

 先輩がもつ煮込みつくねハンバーグ丼に乗っていた煮玉子を最後に食べ終えて訊く。

「ユノはー?」

 外目黒さんがユノちゃんに訊いた。

「二人でいっせーのせで言いたまえよ」

 ユノちゃんは宙を躍らせていた手を止めた。

「せーの、よんごーごーよんの」

「いちにーろく」

 後輩くんとユノちゃんは、声を揃えて言って、顔を見合わせた。

 舟券とは、展開を読んで当てるものである。よんごーごーよんとは、一着二着は四番五番、もしくは五番四番の順で、三着には一番二番六番が入るという意味。後輩くんとユノちゃんはその数字だけで、お互いに全く同じ展開を予想していることを知るのだ。

「へえ。『後輩くん』もすごいじゃん」

 ユノちゃんは感心したように言ってくれた。先輩もまじまじと後輩くんの顔を見て、

「君には博才があったのか。……確かにな、将棋を指していてもたまにとんでもない勝負手を繰り出してくることがあるものな」

 と呟く。

 ユノちゃんが後輩くんに引っ付いて訊く。共通の言語を持つ同類だと認識されたらしい。

「ねー、後輩くんは何で立川がいいと思ったの? 伸び?」

 立川、というのがモーターの良さそうな四号艇の選手。まだ若いほうの部類である。さっきちらりと見た出走表によれば、今日が六日間開催の五日目で、これまで八走しているが、まだ一着は一度もない。つまり、存在としては地味だ。

「うん……、そう、あの、伸びがよくて、一つ内よりかはスタート行くだろうって。でも、そこまで腕があるわけじゃないから」

「まくったあとに、五の篠原が差して来る?」

「そう……。バックで並んで、二マークで先に行かれるかも知れないって」

 先輩と外目黒さんは顔を見合わせて、「何を言っているか君は判るの?」「二割ぐらいは」なんてやり取りをしている。

 ユノちゃんは、にぃーっと笑った。

 ボートレース好きの女児というのが、はたしてどれぐらいいるのだろう? 後輩くんがボートレースを知ったのはもう成人してからで、ユノちゃんぐらいのときにこういうスポーツがあることを知っていたかどうかも覚束ない。ただ何となく想像できるのは、学校で同級生とこういう話をすることはなかなか出来なかろう、ということ。従姉妹であり、またユノちゃんに向ける視線にとても優しいものが混じる外目黒さんはその限りにあらずだろうけど、周囲は扱いに苦慮することもあるかもしれない。

 だからユノちゃんは、自分と同じ目を持つ後輩くんにキラキラとした目を向けた。

「じゃー……、その、よんごーごーよんのいちにーろくを買いに行きますか先輩」

「私は外目黒さんの先輩ではないのだけど、そうしようか……」

 先輩と外目黒さんが連れ立って券売機のほうへ行く。ユノちゃんはもう後輩くんの腕に両手を回して離さない。後輩くんの人生でユノちゃんぐらいの女の子からこんなに熱烈なボディタッチを受けたことは一度もないので、あっけなく狼狽えてしまいそうになったけれど、小六の女の子相手にどぎまぎする二十歳というのもだいぶキモいと思われそうなので、努めて平静を装う。……ただ、後輩くんは先輩の、外目黒さんと去っていった背中を見て内心では青ざめているのだ。いくらなんでも小六女児に嫉妬はするまいとは思うけど……。

「後輩くんは、小熊寿羅の先輩なんでしょ」

「あ、うん……。あのさ、ユノちゃんは……」

 彼女は隠すそぶりも見せなかった。

「持筑のこども。持筑がお父さん」

 ユノちゃんのフルネームは「白坂柚乃」というのだそうだ。白坂はお母さんの姓で、五年前までは「持筑柚乃」だった。

「持筑が、怪我したり色々あって全然勝てなくなって。家族に迷惑かけるからって言って、離婚したの」

 ボートレーサーのプライベートな話は、ファンのもとにはなかなか届かない。ボートレースはギャンブルであるから、ファンとの交流は限定的であるべきだろうし、レーサーの側もわざわざそれを公表するようなことはない。

 それにしても、持筑選手のプロとしての姿勢に後輩くんは胸を衝かれる思いだった。ユノちゃんは後輩くんの目にもボーイッシュだけど可愛らしい女の子だと思う。そんな愛娘から距離を置いて、仕事一筋に生きようとするのは、何というストイックさであろう。

 そして確かに言えるのは、ユノちゃんがお父さんのことをずっとずっと、今でも心から大好きなのだということ。持筑選手のインタビューにあった、「どんなときでも自分を応援してくれる娘のために」という言葉を思い出して、後輩くんはうっかり涙ぐみそうになってしまった。あの大きな声は、激しいモーター音の嵐の中でもきっと届き、持筑選手のことを勇気づけていたに違いない。

「……持筑選手が出るときは、いつも来てるの?」

「んー、ほんとはいつも来たい。でも学校あるし、一人じゃ来れないから」

「じゃあ、いつも外目黒さんに連れて来てもらってるんだ?」

「うん。エリねーちゃんと、あと、先生、カテキョの先生」

 そこでユノちゃんは、ちょっと大人っぽい笑みを浮かべた。

「こんな趣味に付き合ってくれるなんて、二人とも優しいよねぇ」

 その言いかたがなんだか可愛くて、でもおかしくて、少し笑えた。ユノちゃん自身も「ボートレース好きの女子」である自分に、少しばかり違和感めいたものがあるらしい。しかし、ボートレースは今日ここまで見ていても判る通り、そしてコマーシャルなどでも言われていて知っている人も多いだろうけれど、年齢性別関係なく活躍できるスポーツである。なのにファンはおじさんばっかりだというのもおかしかろう。

 ふと、後輩くんはこんなことを訊いてみた。

「ユノちゃんは、将来レーサーになるの?」

 彼女は目を丸くして後輩くんを見上げる。先輩や中寉さんのように小さな成人と話すときは無意識のうちに少し背中を丸める自分に、後輩くんは初めて気付いた。

「あたしはー……、見て、予想するのが得意ってだけで、運動めちゃめちゃ出来るわけじゃないし……」

 ユノちゃんはここまで見せて来たさっぱり明るい顔からはちょっと趣の違う表情になる。ちょっと遠慮がちに、腰を引くような顔だ。

「小熊寿羅は、中学のときはサッカーをやってた。……上手かったと思うよ、僕はサッカーのこと全然詳しくないんだけど、素人目にすごいなって思うぐらい」

 はて、僕はこの女の子に何を言おうとしているんだろう? 後輩くんはいまいち飲み込めていないまま口にしていた。

「でも、その、……そんなに特別な子だったわけじゃなくて、……あの子は、高校入ってすぐ大怪我をしてね」

「ジンタイやっちゃったんでしょ? それでサッカー諦めなきゃいけなくなったって」

 この子のほうが詳しいまである。

「そう。だけど、そこから一から努力して、レーサーを目指し始めた。そのときのあの子は、いまのユノちゃんより四つか五つは歳上だよ」

 ボートレーサーは命懸けの職業、無責任にこんな小さな女の子に推めるような道ではない。けれども、あらゆる道を一歩も進まないうちに諦めてしまうことがいいとも思えない。

 ユノちゃんは「うーん……」と腕組みをして唸り、考え込む。お父さんの姿をずっとこうして追い掛けてきて抱いた情景が、水面とこちらを隔てる柵を越える日が来たとして、それがすなわち幸せであるとも限らないけれど、……二十歳の後輩くんからいざしらず、まだ十二歳のユノちゃんには無限に等しい可能性があるのだ。お父さんと同じ道を進む自分をイメージしたことは、ひょっとしたらこれが初めてだったのかもしれない。その夢が叶うかどうかはまた別の話ではあるけれど、夢に向かって道を進むために費やしたカロリーは決して彼女を裏切らない。父が駈けた水面に向けるユノちゃんの瞳には、試運転中の艇が散らした飛沫が映じて、キラキラと星のように輝いている。後輩くんがまだユノちゃんを知らなくて、遠くから眺めているだけであったとしても、思わず立ち止まって見とれてしまうような、美しく凛々しい横顔だった。

 と。

 後輩くんは右後ろ上方へ目を向けた。

 あの青年の望遠レンズが、依然としてそこにある。そのレンズが向かう先を見て、後輩くんは戦慄した。

 ユノちゃんを狙っている。

 外目黒さんならよくてユノちゃんはダメというのもおかしな話であるが、深刻度合いで言えば上のような気が、後輩くんはしたのだ。ユノちゃんは気付いていない、外目黒さんもきっと。

「ねえ……、ねえ、ユノちゃん、ユノちゃん。二階のあの人ってユノちゃんの知り合い?」

「ほえ?」

 世間の、大人の、害意に対して何の免疫もなさそうな顔でユノちゃんは振り返った。

「あの人って?」

「スタンドの、二階席のはじっこの」

 ユノが首を傾げる。

「誰もいないよ? え、誰かいたの?」

 びっくりして振り返ったが、確かに誰もいない。後輩くんに気付かれたことを察知してカメラを引いたのかもしれない。

 先輩と外目黒さんが戻ってきた。本当に「よんごーごーよんのいちにーろく」の舟券を持っている。

 基本的に後輩くんは慎重な人である。そして、あまり思いきった手段に出られるほど勇気のある人物ではない。

「おや後輩くん、どうしたのかな顔色が悪……、こ、後輩くんどうした、どうしたのかな、どうっ」

 のであるが、悲しい片恋の徒、あるいは卑劣な盗撮犯である青年が知り合ったばかりの婦女子二人を狙っているという事実を前にすれば、さすがになりふり構ってはいられない。

「お、落ち着きたまえ後輩くんここは公の場であってだな、私も色々と心の準備というものが」

 先輩もこんなに過激な行動に出る後輩くんを見るのは初めてであるから大いに慌ててあらぬことを口走った。後輩くんはユノちゃんと外目黒さんを置いて建物の中に入って、二階へ続く階段ホールまで連れて行ったところで、

「あの二人が盗撮されています」

 やっと核心の言葉を発した。先輩のまんまるになっていた目も、理知の光を取り戻す。

「……盗撮?」

「僕さっき三階のスタンドにいたんですけどそこからすごいこーんなレンズを付けたカメラを持った僕らと同じぐらいの青年がいて外目黒さんを隠し撮りしているのを見ました」

「後輩くんがそんなに早口で喋るところを見るのは初めてだ。……いいかい、落ち着きたまえ、深呼吸、……うん、吸って、吐いて。まず三階のスタンドというのは、入場口から進んですぐ右手にある階段上のスタンドでいいのかな」

 そうです、と後輩くんは深呼吸しつつ頷く。

「そこにいる人物が、外目黒さんを盗撮していると。……確かなのだろうね?」

「はい。でもって、今、同じ場所からユノちゃんを撮っていました」

「ユノちゃんを」

 ファンファーレの音が聴こえる、レースが始まるのだ。後輩くんも先輩も、六百円ぶんの舟券のゆくえよりも優先すべきものがあることをきちんと判っている。

 先輩は暫し考え込む。実況のアナウンスは階段ホールまで聴こえてくる。

 いま、待機行動中、各選手が助走距離を取っていくあたり。

「……後輩くん。その人物は、ただひたすら外目黒さんとユノちゃんを撮っていた? それとも選手の写真も撮っていたのかな」

 選手の写真を撮っている合間に、外目黒さんにレンズを向けていた、というイメージだ。

「カムフラージュかも知れません」

「……ふむ、確かに。ひたすらにあの二人を撮っていたらあからさまにおかしいが、水面にレンズを向けるように見せかけて彼女たちの写真を撮るぶんには、多少は怪しさを減らすことも出来るか。では」

 実況アナウンスがレースのスタート間近であることを告げる。

「インコースから、一番二番三番、ダッシュ四番五番六番……、スタートしましたぁ!」

 先輩は顔を上げて、いきなり一段抜かしで階段を駆け上がり始めた。

「急ぎたまえ、後輩くん。このレースが終わって次のレースの展示航走が終われば外目黒さんたちはまた建物の中に入ってしまう、そうしたら現場を押さえることは出来ないぞ!」

 いざ走ってみると、先輩はものすごく足が速いのだった。

 考えてみれば猪熊沼の畔で藤村菊地から後輩くんを護ってくれたときも、非力ではありながら俊敏さにおいてはかなりのものを発揮していた先輩である。一方で後輩くんはまあ体格相応の運動神経しかなくて、二階半の踊り場で早くも太腿がぴくぴく痙攣しはじめてしまったし、三階の通路に出たところでは足がもつれそうになってしまった。運動不足と、栄養不足に伴う体力の欠如は否めない。

「頑張りたまえ後輩くん、彼が君に気付かれたことを察知したら、なにせ出口の近くだ、逃亡されてしまうおそれもある」

 後輩くんのお尻に火が付く。探偵の助手って、知力においては探偵には及ばないけれど他の部分においては探偵を上回るものがあるべきだろう。後輩くんはひょっとすると、先輩より秀でているところなんて一個もないのに「助手」になってしまったのではあるまいかという気がする。それだと手助けをするどころか、足引っ張り係である。ユノちゃんに無責任な将来の道を提示しておいて、後輩くん自身は現状なにかになるための資本を一個も持っていないのだむった。

 暮れの寒い日なのに、変な汗のかきかたをしてしまって、……先輩が心配そうに振り返っている。どうやらあの青年は、まだそこにいるらしい。レースは終わったようだが、どんな結果になったのかは、後輩くんには判らない。後輩くんがよたよたひいひいと三階スタンド後ろの通路まで辿り着いたときにはもう、続く五レースの展示航走が始まっていた。ボートレースというのは比較的レースのテンポが速くて、展示を見て予想をして舟券を買ってレースを見て、……全部しっかりやっていたら一日があっという間に過ぎてしまうのである。

「彼で間違いないね?」

 先輩が真剣な顔で後輩くんに確かめる。青年は、ずっと変わらずあの席にいた。いま再び水面ではなく、水面際にカメラを向けているのが、レンズの向きから把握できる。

「……確かに後輩くんの言った通り、彼は外目黒さんたちを撮っているようだね。だが……、あれは盗撮と言うのかな」

 ご覧、と先輩が水面際を指差す。

 後輩くんの目は望遠レンズではない。それでも、外目黒さんとユノちゃんの表情を見分けることはできる。

 外目黒さんは青年に向かってぶんぶん手を振っている、ユノちゃんはぴょんぴょん飛び跳ねている。

 これは。

 どこからどう見ても知り合い。

 そして、どこからどう見ても仲良し。

 先輩が青年のもとへと降りていく。

「あの、失礼」

 突然話し掛けられた青年は、特に不快がる様子も見せずに振り返った。「はい」と訊き返す表情も、声の出しかたも穏和で、礼儀正しさが漂う。

「彼女たちは、あなたのお知り合いですか」

 先輩の問いかけに、青年ははっきりと頷いた。

「同じ大学の友人と、その従妹の女の子ですが……」

 ちゃんとした人、という印象でよかろう。日輪山ハイキング倶楽部の藤村菊地しかり、トミチューの有華しかり、態度の悪い人に対しては結構厳しい態度で向き合う、……きっと育ちがいいのだろうと勝手に後輩くんは想像しているのだが、そんな先輩から見ても青年の態度は百点満点であったものと思われる。

 先輩は振り返って、後輩くんに苦笑を浮かべる。青年も振り返って、後輩くんに向けて会釈した。後輩くんはもう今すぐ消えてなくなりたいぐらいの気持ちだった。先輩は青年に向けてあくまで穏やかに、

「左様でしたか。……いえ、とっても立派なカメラをお持ちだなと思って。ひょっとして、お写真がご趣味だったり?」

 とスマートに彼の興味を後輩くんから逸らしてくれた。

「あ、はい。……高校時代に写真部でした」

 先輩はとうに、そして後輩くんも、やっと全部を理解することができた。

 この青年は、外目黒さん・ユノちゃんに頼まれてここにいるのだ。

 ユノちゃんの大好きな持筑選手の、カッコいい写真を撮るために。後輩くんはカメラのことは詳しくないが、水面際よりもこのスタンドからのほうがいい写真が撮れるのだろう。でもって、……時々は、外目黒さんとユノちゃんの写真も撮っていたとして、少しも不思議はない。

 後輩くんは当初、この青年が外目黒さんに片恋をしているのではないかという邪推を働かせた。しかるに、大学の同級生で、わざわざその従妹のためにでかいカメラを担いでやって来ると考えれば、片恋どころか……、という気もしてくる。可愛いパートナーの可愛がっている従妹のためだからこそ、彼はここにいるのだ。

「では、……そんなあなたを見込んでひとつお願いがあるんですが」

 先輩は人懐っこい笑みを浮かべて言った。もともととても形のいいお顔を、先輩はしている。そこに甘い笑みを浮かべれば、誰しもが、多少無茶な頼みごとでも聞き入れたくなってしまうものではあるまいか。

「このあと、……ええと、六レースだったっけ後輩くん、……そう、六レースに出る、小熊寿羅選手の写真を撮っていただけないでしょうか。実は、私の後輩くんと縁のある人物でしてね。もちろんお礼はちゃんとさせていただきますが」

 青年は先輩の顔をじーっと見て、それから軽めに噴き出した。

「……ユノちゃんに、舟券当てさせてもらったんでしょう?」

 先輩はにこにこしたままリアクションはしないが、結構痛いところを突かれたのだろう、ぷすりと。この青年と縁のある少女経由で得たお金をこの青年に仕事を頼むために用いるのは、経済を回していることになるだろうか?

 お行儀のいい青年はあくまで紳士的でいた。

「お礼なんていいですよ、趣味の一環ですから。……六レース六号艇の小熊選手ですね、お任せください。レースが終わったら外目黒にデータを送っておきますから」

「どうもありがとうございます」

 先輩はあくまでにこにこしたまま丁重に頭を下げて後輩くんのところへやって来て、

「……君って子は……、慎重派に見えて、意外と迂闊なのだな……。いや責めているわけではないし、私という探偵の弟子として正義を希求する心があるのはとてもいいことだと思うが……」

 後輩くんは恐縮するほかない。先輩は後輩くんの背中を手のひらでぽんぽんと慰めるように叩いて、

「それに、人が動けばカロリーが消費される」

 と言い添えた。穴があったら入りたいし、ないなら自分で掘りたいが、新しく掘るまでもなくいま自分で掘ったばかりである、墓穴を。

「そもそも、私がここへ来た目的は一つだけだったけど、一つの目的を携えて来た場所で二つ以上の成果を挙げることをしたっていい。……いまの彼も東英大生だよね」

 外目黒さんと同じ大学、ということは当然そうなる。価値観を疑われかねないことではあるが、「東英大生」と思うだけでさっきまで「許しがたき盗撮犯」と思っていた相手が、とても優秀な人物に見えてきてしまうのだから後輩くんはだいぶいい加減である。

「九隅大に通っているとなかなか東英大生とお近付きになる機会なんてないからね、人の縁というものは大事にしていればいつか救われる日が来るものさ。もっとも、それ目的で人と交わる感覚を私は持たないけどね」

 走ったせいで後輩くんのおでこにはうっすら汗が滲んでいるが、先輩の白皙はさらりとしたままだ。

 相変わらずこどもみたいに綺麗な肌をしている人だ。その口許には穏やかな笑みを浮かべ、視線は行く先をまっすぐ見据えて歩く。だからこの人は転ばない。

 先輩は唇に隙間を開けて、歩みを止めてから後輩くんへ振り向いた。

「そういえば、……先程のレースは結局当たったのかな」

 後輩くんは走ることで精一杯で実況や払戻金のアナウンスを把握する余裕はなかった。先輩が判らないのであれば、後輩くんはもっと判らない。しかし場内随所にあるモニターを見れば、レースの結果や払戻金を容易く知れることは、後輩くんのほうがよく知っている。

「ありました。えーと……、四レースの……、結果、……結果は……」

「……五番、四番、六番。……後輩くん、ねえ、あれは当たった人みんなにあの金額が払い戻されるという解釈で間違っていない?」

「……はい、あの、間違っていません」

「つまり、……ええと、ごめん、私は目がそんなにいいほうではないのだけど、眼鏡は似合わないと自覚しているのでまだ作っていないんだ」

「コンタクトレンズは」

「怖いので嫌だ。だってあれ、うっかり外さないで寝てしまったら眼球から剥がれなくなると聴いたことがある」

 先輩にも怖いと思うものがあったのか、というのは驚きである。

「だもので、その、桁数を正確に把握することが出来ないのだが、代わりによーく見てくれないか後輩くん、何桁ある」

「……五桁ありますね」

「そう。では、最初の位の数字は何。私には3に見えるけれど、合っている?」

「僕にも3に見えます」

 後輩くんは先輩の無防備きわまりない表情を見た。そういう顔は、決して頭がすごくいい人とは見えなくなる。いつも以上に幼くなってしまった先輩は、極端なぐらいに可愛い。

「あっ……、せ、先輩しっかりしてください!」

 たたらを踏んだ先輩を抱き留めてしまった。先輩は後輩くんの腕をしっかり掴んで、頬を上気させる。

「……こんなの、……いけないよ、後輩くん……、癖になってしまう……」

 震えた声でそんなことを言うのは、本当にやめて欲しいなと思った。こんなこどもみたいな顔なのに、聴かされる後輩くんはお腹の底に熱い石を落とされたみたいな気持ちになってしまった。

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